Neetel Inside 文芸新都
表紙

デッドフィッシュシンドローム
5:Drifter

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 やらずに後悔するよりは、やって失敗する方がいいという意見があるがそれには賛成できない。やって失敗するくらいなら何もやらないほうがいいと僕は思う。何もやらないことが僕にとっては成功だ。そう思わない人はいろいろやって失敗しまくったり、たまに成功したりすればいい。それこそきっと、僕のとは違う明るい未来への道だ。
 今日もまた失敗した。この前ひどい悪夢を見た僕は、なるべく回避しようといろいろ努力した。僕にとって夢とは退屈な日常を潤すスパイスだ。ドラッグに近いのかも知れない。そして悪夢とはつまりバッドトリップであり回避すべき事態だ。どうしたら悪夢を避けられるか分からないが、良さそうなのをいろいろ試してみた。落ち着ける匂いのアロマキャンドルを焚いた。薔薇の香りのするヤツだ。牛乳を温めて飲めばいいという説も聞くが、僕は牛乳を飲むと腹痛を起こす体質なのでやらなかった。そしてなるべく気持ちを落ち着けて、将来の不安をすべて頭の隅に追いやる。これが難しい。考えるのをやめようとすればするほど、どんどん湧き出してくる。最終的に、頭の中の誰かに悪口を連呼されながら眠りについた。
 悪夢だった。真っ暗な町で「ヤツら」に追いかけられる夢だ。
 ヤツらの皮膚はコールタールで覆われている。目はない。口もない。鼻もない。きっと僕が持ってる不安とか焦りとか哀しみとかそういったものの象徴だろう。つかまったら永遠に絶望しなきゃならないような、そんな恐ろしいヤツら。
 町は真っ暗で逃げ場はない。仲間はいない。すべてが僕の敵だという状況。ジェニーもいない。しかも僕はこれが夢だと気づいていないから、見ている間は迫真のリアリティを感じている。
 結局吐きそうになって飛び起きた。終盤は記憶していないが、きっとまたヤツらにつかまったんだろう。
 避けようとした悪夢を見てしまうとは。もう開き直って、逆に悪夢を積極的に見るしかないか。疲れそうだが、汗を大量にかくしもがくから、ダイエットになるかもしれない。もっともこれ以上痩せるとまずいので、僕にダイエットは必要ないが。


 久々に、来戸と話した。
「影介、前よりも顔色が悪くなったんじゃない」
「それは分かるものなのか?」
「分かるものだよ」来戸はコンクリートの床に座っている。「今にも死にそうだ。いや、もう死んでいるんじゃない? きっとそうだよ」
「変なことを言うなあ。死んでるとしたら何でこうして会話が出来る? 生きてるに決まってるよ。確かに死にそうな顔かもしれないが」
 話しながら僕は思った。こいつはこんな顔をしていたか。
 こんな暗い雰囲気だったか。目はこんなに大きかったか。こんなに覇気のない話し方をするヤツだったっけ。
「死んでない? そうだろうな。うん、あんたは死んでない」ケタケタと来戸は笑った。
「お前、誰だ?」僕はついに聞いた。「本当に来戸カオルか?」
「じゃなかったら、誰? 他の人間があたしの皮を被っているっていうわけ? それってちょっとおもしろい」
 妙な気分だ。靴を左右逆に履いてしまったような感じ。空が青いことに対する違和感の比じゃない。こいつは、来戸じゃない。僕は確信する。
「それよりちょっと見て欲しいものがあるんだけど」来戸カオルに似た誰かは言う。
「何だ」
 ヤツは僕の横をすり抜け浴室へ向かった。
 ドアを開けると、むっとする臭いが鼻を突く。倒れそうなほど甘ったるい。
「こうなっちゃったら、どうすればいいと思う?」
 見ると浴室の中は真っ赤だった。
 からっぽの浴槽の中でベーシストが死んでいる。
 血まみれだ。体中に黒い斑点があって――動いている。それは蟻だった。この甘い臭いといい、赤色は、血じゃなくてジャムなのか。まあ、死臭でも甘い香りでも同じことだが。どちらでも蟲はたかる。
「治した方がいいと思う? ねえ影介。どうしたらいい……?」
 来戸が別人の顔になっていた。
 ミチコだ。ミチコがベーシストを殺したんだ。
 じゃあ来戸カオルはどうしたんだ? 彼女も殺されたのか?
 僕も今から殺されるのだろうか。
 ミチコは無表情でこちらを見ていた。


 ……そういう悪趣味な夢から覚めるともう口の中はカラカラで、今すぐ死にたいひどい気分だ。例によってジェニーを抱きしめるが心の平安は来ない。ここのところ悪夢ばっかりだ。やってられるか、とヤケクソ気味にもう一度寝る。
 今度はもっとハッピーな夢が良いな、と僕は強く願う。
 その願いがかなったのかどうか分からないが、次に見た夢は悪夢ではなかった。
 全裸のミチコが出てきた。
 もちろん見たことなどない。妄想だ。
 白い肌に青白く血管が走り、アバラが浮き出ている。胸は少年のように平らだ。彼女は憂いを帯びた表情で僕を見る。
「また君はこんな夢を見てるんだね」
 ジェニーの声がした。僕の後ろに人間の姿で立っている。彼女も全裸ではないかと思って見たが、生憎服は着たままだった。
「どんな気持ち? 哀しい気持ち? それとも興奮しているの? 喜んでいるの?」
「分からない。僕はどんな感情を抱けばいいんだ?」
 ジェニーはため息をついた。
「自分がどんな考えを持ったらいいか――それを他人に聞くなんて。君はいっそ脳みそを他人に売り渡してしまった方がいいんじゃないかな? そんなのは自分自身が決めること。魚が進路を、海を見たこともないモグラに聞くことがないようにね。他人は君がどういう気持ちを抱くべきかなんて知ったことじゃないんだよ。そんなことも分からないから君はダメなんだ。このままいくと君の眼は腐って、神経を伝わって脳も腐ってしまう。いや。もう腐り果ててるのかな?」
 そうかもしれないな。
 僕が死ぬのを望んでいるあの腐った魚と、僕は同じなのかもしれない。
 もっと明るく楽しく生きてこその人生なんだろうな。それができない僕など布団の中で、茶色い汁と腐臭をまきちらして蛆虫にたかられ死んでいるべきだろう。起きたときそうなっていたら幸せだ。いや、ジェニーを汚す死に方はまずいか。あるいはベーシストみたいにジャムまみれになって死ぬのもなかなか良さそうだ。あんなに甘ったるい匂いの中でなら、きっといい夢を見ながら逝けるだろうから。

       

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