Neetel Inside 文芸新都
表紙

夏、過ぎ去ってから
第二十話『過程から結果へ:三島早紀』

見開き   最大化      




 武田クンが、倒れこんだわたしの傍へと歩いてくる。……動けない。まさかこの“学校”で怖いもの無しのわたしが恐怖で腰が抜けるだなんて、笑える話。しかも相手が武田クンだというのだから、もう笑う意外にどうしろってものよ。自然と自分の顔に浮かぶ不適な笑みを隠そうともせず、わたしは武田クンを真っ直ぐと見据える。彼はいつも以上に不機嫌そうな顔で、悲しそうに歪む眉だけが浮いているような。
 彼が手に持つ球体をどうにかすることが出来れば、わたしは助かるだろう。今、こうして冷たい床に寝そべっている暇があったら、すぐにでも立ち上がり、彼から“球”を奪うべきだ。……でも、怖い。どうしようもなく。抗いようのない、窓の外よりも暗いものが腹の底に溜まるように、わたしの体は意識に反して動き始めることを拒否し続けている。――急がなきゃ、早く立たなきゃ、彼に聞かなきゃ。……全ての歯車が空回っている、そんな中で、彼だけは普段と何も変わらない出で立ちであたしの目の前に辿り着いた。
「……ちょ、ちょっと待ってよ武田クン。最後まで聞かずに逃げちゃったわたしも悪いけど、でも、本当に“消す”だなんて」
「――やらなきゃいけないんだ。“ここ”や“みんな”をいつも通りに戻すためには、やらなきゃ」
 武田クンの手が震えている。眉が悲しそうに歪んでいる。でも、目だけは真っ直ぐにわたしを見据えている。
 本音を言えば、わけがわからないよ。学校はこんなことになっちゃってて、知らない人がいて、今度は武田クンがわたしと心ちゃんを消す? たった一日でそんなことを言われ、そんなことが起こったって、理解しきれるはずがないじゃない。わたしは怒ってもいい、ここからまた逃げ続けてもいいんだ。そうだ、いつもそうやって色々なことから目を逸らし続けてきたじゃないか。今こそ、全力でそれをやるべきなんだ。


『過程から結果へ:三島早紀』


 “これ”を渡されてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。球体を握り締めながら、言われたことを吟味する。それくらいの時間は許されるはずだ。
 毎回、好き勝手に現れて、好き勝手なことを言って、好き勝手に消える女。その度に俺は深く考えなければならなくなる。……そうだ、いつもそうやって何とかしてきたじゃないか。今回だって、最善にならなくとも最悪からは逃れられるはずだ。そのためにも先ず、考えなければ。
 女は俺に残った二人を消せと言った。それがまるで安全だと言うように。……安全なわけがない。消えると死ぬが同義かはわからないが、その場からいなくなるということは死ぬ同然なんじゃないのか。現実に干渉できなくなるというのは、世界にとっての個人の死だ。たとえ本人の意識だけが生きていたとしても、他にとっては明確に死を連想させることが出来る。俺個人の価値観で構わない、つまりあの女は俺に二人を“殺せ”と言っているんだ。それは考えなくてもわかる、最悪だ。絶対に回避しなければならない。
 そして正直に思ったことを言えば、あの女には敵意が無いんだ。この期に及んで状況を不利にさせるようなことを俺にさせるとは思えない。そう思えば、わけのわからない方法で二人を助けるという意味なのかもしれない。今までもわけがわからなかったんだ、それくらいのことはしでかすだろう。こう考えれば筋は通る。……一見いい感じに思える考えだが、それだと腑に落ちない点がある。それならば、何も起こっていない時にいきなり佐藤を消したのは何故なのか。さらに、何故それを俺にやらせるのか。佐藤を消したのは計画の為などと言っていたが、こんな状況になってしまえばそれも怪しいものだ。そもそも、間違いが無いように計画を立てるのだから。その佐藤を消した女がわざわざ俺にやらせるというのも、これがまたわけがわからない。手が離せないから代わりに頼んだ、なんて単純な理由しか思いつかない。
 だめだな、考えがまとまらない。結局のところ、俺が二人を消さなければ何も進まないように仕組まれている、そんな錯覚さえしてしまう。いや、錯覚じゃないのかもしれない。……とにかくだ。
 頭を左右に振り、床へ向けていた視線を上げて、依然として暗い廊下の先を見据える。……とにかく、二人のところへ行こう。そう思うが早く、俺の足は焦りを漏らしながら駆け始めていた。



 少々息を切らして、俺は二人がいる教室の前に到着した。息を整えながら、何をどう話すか考える。そうだ、俺が慌てても解決しない。ゆっくりと考えて、言葉を選び、それを話せばいいだろう。
 方針を固めた俺は、教室の扉に手をかけ、控えめな強さで開けた。
「……?」
 てっきり、二人はかたまって隅の方にでも座っていると思ったのだが、予想は外れ、二人の姿はおろか気配すらない。……こんな状況で、女二人だけで出歩くとは思えないな。
 慎重に教室を見渡しながら、中央へと進む。机にぶつかる音が妙に大きく聞こえ、振動の鼓動を速める。だめだ、いない。
「杉林さん? 三島?」
 だめもとで呼ぶも、やはり返事はない。……あの女、二人は無事だと言っていたのに、なんだよこれは。女が二人を安全な場所へ移動させたということも考えられるが、いきなり現れた奴についていくほど二人が間抜けとは思えない。ということは、“何か”があったということだ。
「……ほうほう」
「なっ?」
 考え込んでいると、不意に背後から男の声が聞こえ、反射的に声を漏らしながら振り返る。開けっ放しにしておいたはずの扉は閉められており、その扉の前には、誰かを彷彿とさせるローブ姿の人が立っていた。
「だれだよお前は」
「いやはや、なんとも新鮮なモンですねえ。私の姿を見て“だれだ”、だなんて。普通じゃ考えられないですよ」
 俺の問いにではなく、言葉自体に応えた男は、ゆらゆらと気持ち悪く左右に体を揺らしながら、じわじわと俺との距離を詰めている。……いつから居た? 音も無く入ってきた? いや、問題なのはコイツが何者か、だろう。しかし、答える気配はない。
 詰められる距離を警戒して、俺は教室の奥へと後ずさる。
「おやあ、逃げるのですか? 今この状況で? 退路も無く? どうやって? 私が何をしようかわかっているんですか?」
「わからないから、警戒しているんだよ。それが嫌なら、お前の素性と目的を話せ。何よりも、ここに二人の女の子が居たはずだ。彼女たちはどうした」
「なんともまあ私以上に質問が多い男の子ですねえ。どれか一つだけなら答えてあげなくもないですよお?」
 会話しながらも、相手は着実に俺を教室の隅へと誘導するように距離を縮める。この反応から見るに、あの女の知り合いという線は無さそうだ。コイツが飛び抜けた変態で、本当は俺の味方だという可能性も捨てきれないが、この男とあの女の組み合わせは、正直考えられない。ああ、これは勘だ。深く考えるまでもない、コイツが何をするかはどうであれ、俺が目的なのは明白。
「じゃあ、期待せずに聞くが、一つだけ。二人の女の子を見なかったか」
「見てないかもしれませんし、見たかもしれませんねえ。まあ、見たとしたら二人はもうこの世界にはいないでしょうがね!」
「くそったれ!」
 一気に距離を縮めに来た相手へ、柄にも無く口汚い言葉を吐き捨てる。
 なんとも変態的な動きだ。相手は天井スレスレまで飛び上がったかと思えば、着地点を俺に定めて落ちてきたのだから。俺は正面へヘッドスライディングをかまし、背後で重いものが落ちる音を聞くが早く、教室の扉へと駆けた。
「運動神経は皆無に等しいと聞いていましたが、なかなか、判断力の賜物と言うべきですか。さすがと言っておきましょう」
 耳に残る不快な声が、背後から聞こえてくる。俺はそれを無視して、教室の扉へと手をかけ、開いた――と、思った。
「な、なんで開かないんだよ!」
「やれやれ、君が逃げるとわかっていながら、私がこんなにゆっくりと動いていたのは何故だと思ったのですか? 馬鹿なのですか? 死ぬのですか!?」
 背後で力強く床を蹴る音がした。遅れて振り向くと、真っ白な“仮面”を被った顔が、すぐ鼻の先に居た。恐怖で体が硬直するのがわかってしまう。
「消去《デリート》ですよ、武田智和。君の存在は、正直、邪魔なんですよ」
 目の前の男が、ゆっくりと右手を上げる。手には、ああ、女に渡された物と同じ球体が握られている。なるほど、女の言っていたことは事実なんだな。あの球体で、人を消せる。……とんでもなくゆっくりと動く景色の中で、俺はそんなどうでもいいことを考えてしまった。もしかしたら最後の思考かもしれないというのに。走馬灯すら見えない、目の前の醜悪な空気を纏う男が、最後に見るものだなんて。わけのわからないこと尽くしだよ、くそったれ。
「――だが、私にとってはお前が邪魔だ」
 変化が起こった。ゆっくりとした景色は通常の速さに戻り、男の背後には、いつの間にか女が立っていた。男と同じように灰色のローブで体を包んだ、あの女が。
「……いやですねえ。ちゃんと閉じておいたはずなんですが。ちょっと、わけがわからないですよ?」
 速かった。目の前にいた男は一瞬の隙に俺から離れると、今度は女と対峙する。女はそれがわかっていたかのように、悠長にも俺の傍まで歩いてきた。
「さて、武田智和。わけがわからないのはよくわかっている、何も言うな。ここに二人が居ないのは私のミスだ、すまない。とにかく、二人を見つけ出して、早く消すんだ。時間は無い」
「俺の疑問全てに答えてくれるのはありがたいが、まだ消すことを納得したわけじゃない。いつも答えを聞かずに消えすぎだ。わけがわからない」
 悪態をつきながら、俺は尻餅をついていたことに気付き、立ち上がる。その際に、背にしていたはずの扉が開いていることに気付いた。……わけがわからない。考えることを止めたくなるな、これは。ズボンに付いた汚れを手で払いながら、溜め息をつく。
「私を前にして、随分と余裕が出ましたねえ、武田智和君。いいですよお、その斜に構えた感じ」
「……奴のことは気にするな。とにかく、武田智和、二人を消すんだ。幸いにも部外者は奴一人、しばらくは私が抑える。だが、すぐにでも増える可能性は捨てきれない、急ぐんだ」
「二人を消す消さないは置いといて、言われなくてもこの場からは逃げる。……いいか、今後、二度と俺をお前関係のごたごたに巻き込むな。お前の言う“葛藤”のなんとやらで俺は精一杯なんだ」
「約束しかねる」
 予想通りの女の答えを聞き、俺は状況に背を向けて、教室の外へと走り出した。背後で派手な音が聞こえるが、俺には関係ない。とにかく、二人を捜そう。そうしなければ、俺がどうしたらいいのかわからない。



「な、なんなのよお、これえ」
 主に精神的な意味で命からがらトイレに行ってきたわたしと心ちゃんは、元居た教室の扉が開かないことにより、立ち往生していた。しかたない、わたしだってまさか鍵の付いてない扉が開かなくなるなんて思いもしなかったもの。
 わたしは髪が乱れるのも気にせずに頭をガシガシと揉みくちゃにしていると、心ちゃんがわたしの服の袖を引っ張る。
「三島さん……その、隣の教室に行くのはどうでしょうか」
「隣は……どうでしょうね。わたしの勘で言わせてもらえば、この教室はなにかよくないことが起こってると思うの。この場所からは、離れたほうがいいと思う」
「それではいっそのこと、校舎の外に出てみるのは……」
「だめよ。それじゃあ武田クンと本堂君に心配させちゃうわ。……そうね、一番何も起こらない可能性が高い場所としては、男子トイレがいいと思うわ」
 わたしが“男子トイレ”という言葉を発してから十数秒、無表情だった心ちゃんの頬が少し赤くなる。……何を想像したのよ、この子は。
「あっ、あのね、別に変な意味で言ったわけじゃないのよ。そもそも、こんな状況で変な意味も何も無いわよ」
「その、どうして男子トイレなのですか?」
「この校舎に誰が居るかわからないのよ。女子トイレに隠れていたとして、もし誰かが居たとして、その人が変質者だったら、間違いなく女子トイレは狙われるわ。その点、男子トイレはそういう意味で安全。さらに、武田クンや本堂君がトイレに来れば、こっちから捜さなくてもいいという、そんなおいしいスポットなわけなの」
 心ちゃんが“へぁー”と言った風な顔でわたしを見ている。……扱いづらいけど、悪い子じゃないのよね、心ちゃん。
「と、とにかく、男子トイレに行きましょ」
 わたしと心ちゃんは開かない扉を背にして、男子トイレを目指す。
 正直心ちゃんの言うとおり、気が引けるのは確かだわ。わたしだって色んな意味で純潔を保っている乙女なわけで、男子トイレなんていう入っただけで妊娠しそうな場所に入ったことなんて――ああ、あったわね……はあ……。
 そう。何の因果かはわからないけど、わたしが男子トイレに入るのはこれで二度目。一度目は、そう、武田クンと初めてまともに会話した日だったっけ。あの頃は楽しかったな……。
「三島さん、顔が赤いです」
「えっ? あ、いや、これは別になんともないのよ。気にしないでね。気にしないでよ」
「何を想像したのかわかりませんけど、こんな時ですし、大丈夫ですよ」
 微笑みながら、心ちゃんはそんなことをあたしに言ってのけた。そう、心ちゃんなりにわたしのことを励ましてくれたんだと思う。うん、結構嬉しい。でも、励まし方が気に入らないわ。
「……まあ、うん。行きましょ」
 このやるせなさをどこへぶつければいいのよ、と。今度こそ男子トイレに向かおうと歩き始めた時、後ろの空気が急に変わった。そう、変わった。今まで無かったものが急に出たような、そんな感じ。
 たまらなくわたしは後ろを振り返ると、少し先の教室、その閉まっていた扉がなんてことはないと言った風に、開いていた。そして、入り口には武田クンの姿が見える。……それを見て、わたしは不意に脱力してしまった。武田クンがすぐ傍に居る。それだけで、安心した。
「その、三島さん」
「うん。開いてるわね。武田クンもいるわ」
 すぐに傍へ行って、とにかく話をしたかった。さっきまで感じてなかった寂しさが、急に胸の奥へ込み上げてくる。でも。
「心ちゃん、ちょっと待って」
 武田クン以外にも、人がいた。陰になって見えなかったけど、武田クンのすぐ目の前に誰かが居る。
『……いやですねえ。ちゃんと閉じておいたはずなんですが。ちょっと、わけがわからないですよ?』
 聞いたことの無い声。その声の主が、武田クンの目の前から一瞬にして姿を消した。……ありえない速さよ。文字通り、消えたわ。
 事の異常性に気付いたわたしは、声が聞こえるギリギリのところまで心ちゃんと一緒に身を潜める。……武田クンがいるってことは大丈夫なのかもしれない。でも、わたしの新聞部としての本分がそうさせるのか、“情報”を優先してしまう。
  続いて、今度は知らない女の人の声が廊下に響く。この際、誰が誰と言うのは置いといて、話の内容に耳を澄まそう。無駄じゃないはずよ。
『さて、武田智和。わけがわからないのはよくわかっている、何も言うな。ここに二人が居ないのは私のミスだ、すまない。とにかく、二人を見つけ出して、早く消すんだ。時間は無い』
 二人……。悪いけど、わたしもバカじゃないわ。その教室に居た二人というのは、つまりわたしと心ちゃんのこと。それはわかる。わからないのは……。
『俺の疑問全てに答えてくれるのはありがたいが、まだ消すことを納得したわけじゃない。いつも答えを聞かずに消えすぎだ。わけがわからない』
 消す。どういう意味なんだろう。そのままの意味で考えれば、日本語がおかしい。でも、よく映画とかで出てくる台詞よ、“アイツを消せ”といった、殺せと同義で使っているとしたら……。
 だめ、嫌なことしか予想できない。それこそ嫌な性分、少なくとも武田クンがわたし達をどうにかするなんて考えられない。
『私を前にして、随分と余裕が出ましたねえ、武田智和君。いいですよお、その斜に構えた感じ』
『……奴のことは気にするな。とにかく、武田智和、二人を消すんだ。幸いにも部外者は奴一人、しばらくは私が抑える。だが、すぐにでも増える可能性は捨てきれない、急ぐんだ』
 女の人が武田クンに命令口調で消せと言っている。わからない、そもそもの話をあたしは知らないから、この会話を聞く限りじゃここにいるのは危ないと感じちゃう。武田クンが危険なはずがないのに、でも、ああもう! やっぱりわからないわよ!
 むうううと唸るわたしを怪訝な表情で見つめてくる心ちゃんを意図的に無視しながら武田クンを見ていると、動きがあった。うん、多分、こっちに来る。
『二人を消す消さないは置いといて、言われなくてもこの場からは逃げる。……いいか、今後、二度と俺をお前関係のごたごたに巻き込むな。お前の言う“葛藤”のなんとやらで俺は精一杯なんだ』
『約束しかねる』
 女の人の一言。それが合図だと言わんばかりに、武田クンは教室を背に、今にも駆け出そうとしていた。
 ――まずいかもしれない。そう思った瞬間、わたしは心ちゃんの手を取って男子トイレへと駆け出していた。……わたしの勘は結構当たる。それも特に悪いほうへ当たる。……本当は逃げたくないけど、でも、逃げなきゃ。武田クンと話す妄想を振り捨てて、とにかく、わたしは男子トイレを目指す。
 走る。お腹にこびり付くような恐怖心が、もっと速くとわたしの足を急かす。心ちゃんには悪いけど、やっぱり怖い。逃げたい。ほら、後ろから足音がついてきてる。
 トイレのある区画に辿り着いたわたし達は、急いで男子トイレの一番奥の個室へ入り、息を潜めた。二人で入るにはちょっと狭いけど、ここは我慢しなきゃ。心ちゃんもわたしの言いたいことはわかったみたいで、無言でわたしの手を握ってくる。
 ――カツン。
 視界を遮らない暗さで満ちたトイレ。そこに、釘のような鋭さを持つ音がこだました。……革靴の音。たぶん、ううん、絶対に武田クンだ。そう、武田クンなんだ。武田クンなら、今、扉を開けて、何気ない顔で
挨拶をしても、“やっぱり三島だったか”なんて、言ってくれるんじゃないの。こうして、息を潜めているのがバカらしくなるほどの、予想に容易い展開。
 ガチャ。
 でも、わたしがそうして悩んでいる間に、個室の扉は無情にも武田クンの手によって、開けられてしまった。
「――――ど、どうも」
「……」
 今度は、閉めない。武田クンは安心したような、脱力するような、とにかく、そんな表情に変わった。



 教室から出た瞬間、左……階段側の方で複数の足音が聞こえた。三島と、杉林さんだろうか? いや、しかし、走っているというのがよくわからない。あの女が言っていたんだ、さすがにもう他の奴がここに来ているということは無いだろう。ああ、女のありえなさを信じるさ。じゃなきゃ、こんな状況で正気を保つことも難しいだろう。……それは置いといて、今は二人だ。生憎と校舎は足音が響く。辿っていけば、自ずとどこに行ったかがわかるはずだ。
 足音のするほうへ駆ける。近い、近いけど、同じくらいの速さで向こうも走っているのか、中々追いつけない。だが、そこまで広い校舎でもない。そろそろ――足音が止んだ。
 足音が止んだ地点まで行くと、そこはトイレがある区画だった。俺の正面には男子トイレと女子トイレ、二つの入り口がある。……ここは常識的に考えて、女子トイレの方に足を踏み入れるべきだろう。それこそ、なんで女子が男子トイレの方に行くんだという話になる。だが、今は常識的な話が出来る状況じゃない。三島のことだ、俺が言うのもなんだが、捻くれた考えでいつかのように男子トイレに入るはず。そう、いつかのように。まだ何も知らなくて、みんなとの付き合い方に悩んでいた頃。
 そう考えれば自然と、俺の足は男子トイレへと向かっていた。――カツン。学校指定の革靴は、こんなにもトイレで響くのか、と。妙なことを考えながら、トイレを見渡す。案の定、個室に居るようだ。俺は少し懐かしみながら、一番奥の個室へと進む。……あの時は中々心臓に悪い出会いだったけど、まあ、悪い奴じゃないんだよな。俺がそう思えるくらい、悪い奴じゃないんだ。
 個室の前に立ち、扉に手を伸ばす。そう、あの時も思った。なんでコイツは隠れてるのに、鍵を閉めてないんだろう、と。
 ガチャ。
「――――ど、どうも」
「……」
 そこには、あの時と同じように気まずそうな表情を浮かべながらのん気に挨拶をかます三島と、相変わらず表情の無い杉林さんの姿があった。





Next:>>第二十一話『表現すべき建前:三島早紀』

       

表紙

先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha