Neetel Inside 文芸新都
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今日から家族
静良のいる日々(仮)-3

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 自転車のギアを切り替えて、坂道を真っ直ぐ下れば、顔面の筋肉が皮膚を突き破ろうとでもしているんじゃないかというような痛みが走った。少々危険ではあったが、顔を下に向けて、風の当たる面積を最小限に止める。
 やがて坂が終わり、自転車がその自走の速度を緩め、風の運ぶものが痛みから冷気に変わる頃、大きく息を吸い込んで、吐く。
 たったそれだけの動作から生まれる、この清涼感は何だろうか?
 体の中の、熱を帯び、くすみ、粘度を得た二酸化炭素が体外に排出され、新たに、よく冷えた、透明の、さらさらとした酸素が体中に巡るこの快感。
 早朝を生きる者だけに許された特権だ。
 商店街は、まだ眠っていた。早朝ランナーや掃除人はちらほらと見受けられるものの、街が街として在るための必須条件である商店やデパートなどは、沈黙を守り続けている。
 これまで、いつも曲がっていた場所を通り過ぎた。これからは、もっと先の曲がり角を曲がる必要がある。
 新品の自転車は、相当に悪くない乗り心地だった。今はまだ、ギアを切り替えるのに力を要するのだが、時期に手に馴染むだろう。奮発して買った甲斐があったと言うものだ。
 すべてが、新しい朝である。
 この感覚が、僕は好きだった。何かに限定することもなく、新鮮な感覚が僕は好きである。
 新しい何かは、また次の新しい何かを運んでくれる。そうして運ばれてきた新しい何かは、また次の新しい何かを運んできて、そうしてその線は延々と続き、それが続く間、僕はこの新鮮な感覚を味わい続けることが出来る。
 この感覚は、相当に悪くない。きっと、賛同してくれる人はいるはずだ。
 とは言うものの。
 僕の身の回りには、僕の気分など知ったことかとばかりに、この悦の感覚に土足で踏み込んでくる戯け者が存在することもまた、違うことない事実であり、現実である。
「さもありなん! だから私は言ったのだ、『免許を取らないのか?』と。 スレイプニルよ、見るがいい。あれがお前の父であり、劣化的存在であり、お前が存在意義を奪った代物である、その名を自転車という。さぁその眼に焼き付けろ。お前はあれを蹴落として今の地位を得たのだ、そのことを努々忘れてはならない。──やや、友よ、何故そのようにくの字の姿勢で搭乗するのだ? むっ、こはまた奇怪なり。突然友の登場する原始的二輪車の速度が著しく上昇を始めたとな? はぁん、なるほどな。聞けスレイプニル、あれはお前に対する挑戦状だ。その挑戦、受けて立つ! さぁ我が愛車よ、存分にその勇ましい馬力を発揮するが良い!」

 紹介しよう。
 この、十秒の間に原稿用紙半枚半分の文章をドップラー効果で撒き散らし、実に厭らしい笑みを浮かべながら、愛車であるカブに跨り徐々に徐々に距離を詰めてくるあの変態。
 僕の……本当の、本当に認めたくないが。
 僕の友達の、豪流院である。

 せっかくの朝の空気を楽しんでいる時に邪魔をされたくないと加速させた僕の自転車に、まるで粘度を帯びたカレーのようにしつこく粘着質に、豪流院が搭乗するカブが横をついてきた。
「ふはっは! どうしたね旧鉄騎殿、ちとタイヤの空気が足りていないのではないか? そのような体たらくで我がスレイプニルに挑もうなどとは、少しばかり時期早々なのではないかね? しかしそれを恥じることは無い、何故ならそれが旧鉄騎殿に許された力の限界であり、その上に立つ存在こそが、このスレイプニルなのだから。だがしかし、引き際が肝心だと忠告しておこう。いい加減敗北を認めて、卑劣にもそのように滑稽な格好で拘束している我が友を解放しては如何か? ──むっ? 友よ、貴殿は何ゆえそのように滝のような汗を流しているのか?」
「なぁ……お前、本気なのか? それは本気で言ってるのか?」
「無論、冗談だ。所謂一つの厭味というやつだな」
 僕の汗に塗れた顔面を見るのがそんなに楽しいのか、顔にボンドのような笑顔を貼り付けながら、豪流院がカブのエンジンを切る。
「貴殿は貴殿で反省すべき点はあるのだ。たまたま私が通常の一時間ほど早く起床し、これも何かの縁とばかりに貴殿の家でブレックファストを吟味しようとカブを飛ばしていたら、これまた不可思議なことに、我が眼に真新しい自転車に跨った貴殿の背後が映ったではないか。友よ、よもや私を置いてけぼりにするつもりではなかったであろうな?」
「お前が早起きすることが、どうして僕の家の冷蔵庫荒らしに繋がるのかはさっぱり見えないがな。別に置いて行こうなんて思ってたわけじゃない、ただちょっと、家を早く出たい理由が出来ただけさ」
「──正義殿かね?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
 豪流院が、草臥れたトランペットのような唸り声を上げた。
「深くは聞くまい。それを細部までじっくり聞いて、私がそれに対して何かしらのアドバイスを送ったところで、それが貴殿の行動ルーティーンに変動を及ぼすことは無いのであろうさ。もしその必要があるのなら、私が根掘り葉掘り詮索するまでもなく、いの一番に貴殿の口から私に詳細を伝えるであろうからだ」
 頷かなかった。このケースにおいては、無言が肯定の意味になるからだ。

 ヘルメットを取ると、そのアシンメトリにまとめた豪流院の髪が、朝の風に吹かれて遠慮がちに舞った。
「高揚せんかね?」
「するな。良く似合っているじゃないか」
 制服のことだ。豪流院のような長身の男が身に着けるその制服は、悔しいが鏡に映った僕よりも遥かに凛として見える。更に豪流院は、バイク乗りの宿命とも言える凍てつく風に対する防備策として、制服の上から例のコートを羽織っているため、高等学校生徒というよりは、どこかの一流企業に勤めるやり手の若手会社員に見えなくもない。
「今が、正に高揚の絶頂期なのであろう。古今東西、望んだか望んでいなかったかは別にして、人が何かを始め、何かを成し遂げるということは、そのものが人間賛歌であると私は考える。持続は美徳ではない、進化こそが美徳なのだ。例えば、人が年明け早々、現実的なものから非現実的なものまでよりどり抱負なるものを抱くのは、それは人が、持続ではなく、進化を願っているからだ。そして私達は今、正に進化を成功した余韻が絶頂にある段階なのだろう。『行きたいと思った場所に行く』という目標が達成された、褒美の時間なのだ、今のこの時期はな」
 豪流院の言葉を右耳から左耳へとベルトコンベア式に輸送している間に、全力で自転車を走らせた弊害である汗はすっかり肌に吸い取られ、身体のクールダウンに一役駈ってくれた冷風は、今度は僕の脳髄までもを凍てつかせようとその身を凪ぐ。
「友達が欲しい。お前以外の友達も、沢山」
「私は貴殿が一人友であればそれで十分だ。だがしかし、情報交換の相手であり、共に何かを成し遂げんとする人材が欲しいという点に関しては同意である」
 そうとも。
 共に期末テストや学力試験の範囲に苦しめられたり、共に何か一つのことを成し遂げたり、共に商店街でアクセサリーショップを冷やかしたり、時には共に一つの部屋で朝まで布団に潜って語り明かしたり。
 そんな、そんな友達が欲しい。
 きっと、同じ穴のムジナばかりが集まるのだろう、そういう学校だ。もしかしたらワケあり人間や、僕と同じ境遇のような奴だっているのかもしれない。
 もしもそんな奴らがいたら、助け合いたい。互いの悩みや不安や憎悪を、分かち合い、消化したい。
 一人は、寂しい。
 二人でも、やはり寂しいものだ。豪流院がどう思っているのかは見えないが。
「こうも寒いと、いい加減二輪車に跨って走行するのは体に毒だ。どうだろう、このまま歩けるところまで歩く、というのは?」
「いいとも。春休みで体もなまってる、ならしには丁度良いかもしれない」

 僕は、僕の志を。
 豪流院は、豪流院の野望を。
 互いに抱いて、新しい学校への通学路を、互いの愛車を押しながら進んだ。

 今一度。
 今一度だけ、あらゆるところで散々使い古された、この雛形を使用しよう。

 僕はこの時。

 まさか、あんなことになるとは、思いもよらなかった。

       

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