Neetel Inside 文芸新都
表紙

今日から家族
今日から家族?-4

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 ──この時、まさかこんなことになろうとは、彼は思いもよらなかった──

 本然り、テレビ番組然り、こういう独白は少なくはない。それは一つの、雛形のようなものであると昨今は認識されている。
 日常を生きている主人公が、ある一種のターニングポイントを跨いだ時、取り巻く環境が一変し、非日常に身を置かれるようなシナリオの物語には、お誂えのようにこの文句が記載されている。
 それは別に、何も特別なことでは無い。どんな些細なことであれ、人は未来を見ることは出来ない。
 明日の献立。
 明後日の天候。
 来年の自分の動向。
 瑣末なことから人生そのものに至るまで、思いもよらないことは常に渦巻いている。思い通りに進むことが出来るのは、ごく少数に限られるのだ。
 出来事の支配者。
 或いはそれに順ずる存在が確認されている場合、その他にカテゴライズされるあらゆるものは、その支配者の望むように動いているのだ。意識的か無意識的かはさておき。
 僕は一人だけ、その「支配者」として識別されるであろう存在を、知っている。僕の身の回りに起きる「思いもよらぬこと」は、その実その支配者がすべてを左右しており、観点を違えて見れば、何てことは無いただの「思ったとおり」の出来事として映る。
 とはいえ、だ……。


                    ・


 未だ調子の優れぬ胃腸をさすりながら、僕は自宅の玄関の扉を開いた。
 今頃は、豪流院が自宅の洗濯機と水も滴る格闘戦を繰り広げているのだろう。アイツなら、洗濯機の修理くらい容易くこなせるのかもしれない。今度僕の家の電化製品に不備が現れたら、豪流院をこき使ってやろう。
 いつものように、ラジオ代わりのテレビの電源を入れた。いい加減老齢にも達しているのではないかと想定されるサングラスの男が司会進行を勤める番組が映し出された。この番組は、現在時刻を大まかに確かめるのにはうってつけだと、最近の僕は考えている。
 冷蔵庫を開ければ、飲みかけのミネラルウォーターが鎮座している。二口ほど咽喉に当てて、ペットボトルを持ったままソファに座り込んだ。


 我が家になったものだ。
 ここに住まうようになってから、どれほどの時間が経ったのだろうか? 母親が他界して間も置かずにここに住み始めたから、十年無いし八年以上の時は経っているはずだ。
 最初は、慣れなかった。
 背丈ほどに大きいテレビも、食物のマンションとでも比喩出来そうな冷蔵庫も、寝床として使っても何の不満も無いようなソファも、当時の僕の背丈では錠の開閉すらままならなかった大きな窓も、慣れるまでに相応の時間がかかった。
 母の匂いが、無かったからだ。
 母と共に暮らしていた頃にも、これらのような高級家具を利用していた。
 だが、それは「母のもの」であり、「僕のもの」ではなかった。だから、家具をまともに扱えなくても、テレビを見るだけで首が疲れても、自由に窓を開けることが出来なくても、気にしなかった。僕のものではないのだから、僕が自由に出来なくて当然だったからだ。

 ある日を境に、僕の身の回りから母の匂いが消えた。
 そしてそれら「自由に出来ない物達」は消え失せ、新しい「自由に出来ない物達」が、僕を包んだ。
 信じられないことだった。これら自由に出来ない物達が、自分の物だと父は言ったのだ。
 泣き喚いても良かった。母さんの匂いがついた家具が欲しいと駄々を捏ねても良かった。父は、僕が駄々を捏ねることを叱る人間ではなかった。
 当然だ。聞いていないのだから。
 聞いていないのだから、怒る必要が無い。届いていないのだから、怒る理由が無い。
 だから僕も、駄々を捏ねることはしなかった。言った所で無駄なのだと、幼年であるにも関わらず理解していたのだ。それだけは、自分でも中々に達観した子だと苦渋の思いを抱く次第なのだが。
 ただ、泣いた。
 当時の僕にはまだ、人知れず泣くことが許されていた。


 数年の時を経てようやく僕の体に馴染んだソファで脱力していた僕は、ふと意識を取り戻した。
 何かが、物思いに耽っていた僕の意識を掴んだのだ。何に掴まれたのかを、僕は把握出来ないでいた。

 ──キンコーン──

「──豪流院か?」
 洗濯機の修理とは、それほどまでに早く終わるものなのだろうか? 豪流院の家から僕の家までは、カブを飛ばしても十分はかかるはずだ。僕と別れた時点を始点とするならば、始点から今まで、まだ三十分ほどしか時間は経っていない。

 それは、来客を告げるベルだった。僕の意識を引きずり出したのは、この音だろう。
 珍しいことだ。
 あまり自慢出来ることではないが、豪流院以外に友と呼べる人間に心当たりの無い僕の自宅を訪れる人間など、予測出来ない。現に来客用のベルの音だって、久方振りに耳にしたのだ。
 セールスマンは、ここまでは来れない。ここにたどり着く前に、正面玄関の認証ロックを突破出来ないからだ。
 豪流院である線も──おそらくは薄い。事前連絡を入れるほど気の利いた人間ではないが、幾らなんでもさっきの今だ、よもやわざわざこちらまでカブを走らせるようなことはするまい。
 テレビを、監視カメラと連結しているチャンネルに合わせた。考えるまでもなく、この目で確認すればいいのだ。
「どなたですか?」
《お休みの所失礼する。ここは芥統也殿の住まいか?》

 ──女?
 テレビには、我が家の玄関の前に佇むスーツ姿の誰かを映し出していた。姿だけでは確証足る判別は出来なかったが、スピーカーから聞こえる肉声は、確かに女性のそれである。
 初めて見る容姿だった。確証にまでは至らないが、ここ最近対面した人間ではない。
「私が芥統也ですが、ご用件は?」
《芥財閥殿の指示により、本日はこちらへ参った。出来れば直接話をしたいので、御開錠願えないだろうか?》
 ──。

「当方はそのような指示は受け取っていない、お引取り願う」
 僕はそう伝え、モニタのリモコンに手を伸ばした。
「はいはい今出ますよ」と開ける方がおかしい。「芥財閥」という名前を出す以上、芥統也が芥財閥総帥の子息だと理解した上で、ここを訪れたのだろう。
 安易な行動は、危険だ。
 芥財閥の息のかかった人間が芥統也に用事がある時は、それなりの手続きを踏む必要がある。
 一つは、僕に事前確認をしておくこと。
 僕が管理しているメールボックスに、専用回線を使用して、早くて五日以内、遅くても二日以内に、こちらに客人が来ることを告げるメールが送信されるのだ。
 メールには、客人がモニタの前でする合言葉とも言える挙動が一部始終綴られている。そして当日、僕がモニタ越しに客人の挙動を確認し、合致すれば招き入れる、という寸法である。
 大体はこっちのケースなのだが、何らかの事情でこちらの方法が取れなくなった時の為に、予備判別方法も存在する。
 モニタの前で、合言葉を言わせるのだ。
 尤もこちらは固定された合言葉であるため、流出すれば何の意味も持たない方法であり、従ってあまり使用されることはない。
 ──七年前、そのどちらも横着した僕は、結果誘拐グループに拉致された。

《掴めぬ短剣を使ってはならない。掴めぬ短剣が指し示す先に力は無い。掴める短剣を握れ。掴める短剣を屠れ》

「──えっ?」
《御財閥から、玄関先でこれを唱えろと指示された。洒落た合言葉だ、出展は『マクベス』のワンシーンだろうか?》
 ──合言葉、だった。出展まで合っている。
 父は、マクベスを「愚か者だ」と罵っていた。掴めない短剣の導きに従い、なるがままに行動を起こしたマクベスは、結果として反乱に殺されることになる。
 掴めない短剣という具体性の無いものを頼りにしたからだと、父は言った。具体性のある力を持てと、父は言った。
 それは、合言葉でもあり、僕に対する父の教訓でもある。
《さて、私は御財閥の支持通りにした。これで開錠が認められないならば、私はおとなしく帰還し、次の支持を待つが?》
「──いや、その必要は無い。今開ける」
《有難う》
 モニタの電源を消し、待ちわびた餌の時間を迎えた白熊のようにソファから起き上がって、僕は玄関へ歩を進めた。
 どうあれ、チェックは通ったのだ、開けなければなるまい。


                    ・


「学生だと聞いている。学校はどうしたのだ? 今日は平日のはずだが」
「春休みだよ、それくらい知ってるだろ? 知ってるからここへ来たんじゃないのか?」
「ああ、そのような時期か」
 年上であるような印象を受けた。
 スーツを着衣していることも勿論要因の一つなのだが、それより何より、最大の要因は女性の容姿にあった。
 ポニーテイルにまとめた赤髪が、日の光を受け艶やかに輝いていた。凛とした、生気溢るる顔つきは、無表情も相まって中性的な印象を受ける。僕よりも少しばかり低いものの、女性としては十分に長身と言えるそのスタイルは、スーツのラインから見るに、相当なスレンダーであることを彷彿とさせた。
 美人の範疇に入るだろう。彼女を見て不美人だと判定する者は、いないと思う。
 そして、何より……
「目が、青い」
「ああ、気にしないでくれ。確かに純血ではないが、幼少より日本で過ごしてきた。日本語に不備は無い」
 そちらの心配はしていないのだが、とりあえず頷いておいた。父が言語不備の人間をこちらによこす可能性など低いし、仮にそのような人材がこちらに派遣されたとしても、それに対応出来る程度の英語力はあるつもりだ。
 ハーフ。
 その青い目は、その女性の外観年齢を大幅に上げているように見えた。
「本来ならもう少し早くこちらへ来れたのだが、いかんせん土地勘に乏しい状態だった。申し訳ない」
「いや、気にしないでもいい。僕もさっきまで外出していた」
「そうか、それなら良かった。──で、だが」
 指で鼻先を撫でながら、女性が事も無げに言い放った。
「ここでいつまでも立ち話に勤しむわけにも行かない。中に入れて貰えないだろうか?」
「──何?」
 露骨に眉を顰める。
「ここじゃ駄目なのか? 聞かれて困るような内容なら、こんな処置は取らないはずだが」
「眉を顰められても困るな。私は御財閥の支持通りに動いているだけなのだが」
 会話が、繋がっていない。
 何か、予感がした。嫌な予感でも、不吉な予感でもない。
 ──「疲れる何か」が起きる予感だ。
「確認の必要があるな。芥統也、君は何かしらの指示を受けているのではないのか?」
「寝耳に水だ。僕はお前が何者で、どこから来て、何をしに来たのかも解っていない」
「無用心だな。ならば何故こんな風にやすやすと玄関を開いたのだ? 感心出来ないぞ」
「お前が合言葉を言ったからだろう」
 現に、信用する基準はそこだけなのだ。もしもこの女性が合言葉を言わなかったならば、僕は何の躊躇いも無くモニタの電源を切って、ソファに抱かれて惰眠を貪っていただろう。

 女性が手に持っているものに気付いたのは、その一連の会話を終えた後だった。
 キャリーバッグ。
「ならば私から説明させて貰おう」
 ファッションの一環として使用されているような、小型のキャリーバッグではない。本格的な、旅行に赴く際に使用するような大型のアルミ製キャリーバッグだ。
「自己紹介からする必要があるな。何も報告を受けていないのなら、私のこともまだ信用に値していないのだろう」
 中身は、詰まっている印象を受ける。衣服だろうか? 少なくとも、この家から何かを持ち出す為に用意されたものではなく、この家に何かを運び込む為に用意されたものなのだろう。
「怪しい者ではない。私の名前は静良(せいら)」
 キャリーバッグは、短期、或いは長期に渡っての滞在に備える為に作られたものだ。そしてそれを握っている女が、今ここで、僕に自己紹介をしている。
 自己紹介が必要になるような存在だ、ということだ。
「御財閥の指示により、こちらへ参った」
 それが理に適っているかどうかは、問題ではない。今ここで起きている事実からの推測が必要だ。
 だがしかし……いくらなんでも、そんな馬鹿な。

「今日から君の家族になる者だ」

 仕事に怠惰感を覚えたセールスマンでも、もう少し愛想良く振舞うのではないかというよな仏頂面で、真新しいスーツ姿の女性が名乗った。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha