15th.Match game3 《背中ごしの想い》

 窓の施錠を終わらせる頃には、室内の生徒たちの姿は見事に消えうせていた。
 空気読解力が半端ではない。ひとりが帰宅準備を始めるや、皆示し合わせるかのようにガサゴソ机の上を綺麗にして去っていった。室内のほうぼうに散っていても、彼らは常に音で状況を視ている。静かな部屋に混じる“帰り”の空気を、あるいはページを捲りながら、あるいはペンを走らせながらでも感じられる。これはもはや達人芸と言ってもいいだろう。と同時に、前回自分がこの場でグースカ寝過ごして迷惑を掛けたのが今更ながら本当に悪いことだったと思えて、図らずも再び自責の念に駆られた。
「でも、過ぎたるもなんとやらだ。うん……うん? 使い方違ったかな?」
 ま、いいや。 
 カウンター前まで戻ってきた俺はテーブルの一角を陣取る大きな招き猫に目をやった。
 やはり今日も虚ろな目をしている。と言うかいつ見ても虚ろなんだけども。
 招き猫のクセにずいぶんと幸薄そうな表情だと思う。他の人にどう映っているのか聞いたことがないので判りかねるが、左足を上げる彼(彼女?)が俺にはなんとも物憂げに見える。ひょっとして、来る日も来る日も閑散としたこの室内状況を前にしてあらぬ責任を感じているんじゃないだろうか。そうだ、きっと己の無力さを嘆いているに相違ない。
 でもこれは時代の流れであって何もお前1匹のせいじゃないんだ、ここはひとつお気を確かに持ってだな……などと、心底意味を成さない考察だと自覚しながらしかし、敢えてかような邪推に興じつつ本来の目的にそって視線を顔からおなかへすいと下げると、鈴の代わりに首に掛けられた本型の時計は下校を報せるチャイムが鳴る6時が5分前を指すところであった。
 程好い時間だ。鍵閉めれば、チャイム鳴るなりなんとやら。字余りネタ足らず。良句だな。
「返却分の本、あとどれくらいですかー? 手伝いましょうかー?」
 少し離れた本棚の裏に今日返された本の山を戻しに向かったまま、中々顔を出さない先輩に向かって声をかける。しかし予想に反して返答は芳しいものだった。
「終ーわりっと!」
 今日一番の大きな声とともに、先輩は棚からぴょんと跳ねながら姿を現した。
 そしてぴたっと着地のポーズ。両手をさっと広げて膝を曲げ、ややかがんだ格好で。
「あっ……んむ!」
 テルマークですねお茶目です。
 その軽く跳びながらの登場を両の瞳に収められたのは、間違いなくラッキーであろう。いつもの大人っぽい先輩からはまるでイメージ出来ない光景。間違いなく満点の姿勢だ。そしてまばたきしなかった俺の目グッジョブ。
「じゃあ帰ろっか。」
「え? あ、はい! お、俺鞄取って来ます。先輩はドアで待ってて下さい!」
「はーい。あ、キーも忘れないようにねー」
「わかりました!」
 急ごう。先輩を駅まで送り届けて家に帰って、それからすぐメイの散歩に行かなきゃいけない。希さんが連れて行ってくれているといいんだけど、もしそうでなかったら今頃あいつ、トイレを我慢しすぎて気が変になっているかもしれない。迫りくる尿意と便意の荒波を乗り越えるのがどれだけしんどいか、先刻身をもって感じたばかりだ。とにかく、急がなきゃ。
 資料室の明かりを消してドアを開け、カウンターを出てすぐ右へ。彼女の待つ出入り口へと歩みを進めた。そうして先輩に鞄を渡し、最後に部屋全体を真っ暗にしてから部屋を出て、後ろ手で扉を閉めた。完璧だ。オールフィニッシュ。
「じゃ、鍵かけますね」
「お願いします」
 先輩からゴーサインを貰い、振り返って鍵を差込み反時計回りに90度。シンと静まり返った廊下にロックの掛かった音が響いた。
 おうちへ帰ろう、シチューが出るかわかんないけど。
「後はこれを職員室まで持っていくだけですよね――」
「ストップ!」
 その時が、来た。青天の霹靂にして、我が人生における最初のディープ・インパクト。
 キーを渡そうとして振り返ろうとするのを、先輩の両手が制した。その言葉に疑問を感じる時間もないまま、ぎゅっと肩をつかまれてドアに体を押し付けられる。何だこりゃあ!?
「ごばっ! ちょ、わ――!」
「じっとして!!」
 あまりの出来事に一瞬何が起こっているのかわからなくなってしまった。俺の後ろで、先輩はどんな顔をしているのだろうか。今、先輩は何を思っているのだろうか。これから俺は、どうなってしまうのだろうか。メイが……あれ、メイが何だったっけ? 
 疑問ばかりが頭をよぎるが、全く思考回路が働かず処理が追いついていかない。すべてが曖昧で不透明のまま、くるくると回っている。はっきりしていることといえば、この瞬間も沈黙という事実だけがここに在るということだけで。
 10秒、20秒……。互いの息遣いだけが、夜の帳を下ろしたばかりの校舎に流れていく。力強くつかむ先輩の手は、しかし微かに震えているようだった。しばらくしてほんの少し落ち着きを取り戻した俺は、ドアに額をくっつけたままひとまず今のありのままの気持ちを言葉にしてみることに決めた。
「先輩、少し痛いです……」 
「うん、だろうね。ごめん、でももうちょっと待って。今勇気を補充してるとこだから」
「はい? あの――」
「しーっ!」
 これは黙るしかない。そして静寂。ええと、勇気って一体どういうことなんでしょう。
 言葉の意味を把握しかねていると、程無くして両の肩にかかっていた指圧がふっと解けた。息をすることさえ間々ならない状態から抜け出し、深いため息が自然とこぼれ出る。続けて大きく深呼吸すると、ガチガチに強張っている体にゆっくりと心地よい開放感が染み渡っていった。まるで血液まで循環を抑制されていたみたいだ。
 ただそれもほんの一時の夢幻状態に過ぎなかった。再び俺の体を襲う触感。
 弛緩し始めていた全身がまた否応無くガチガチに凝り固まっていく。背中を所在無げにくるくると回り廻っているのは、人差し指だろうか。恵姉以外の異性にこの距離感を経験したことの無かった俺にとって、現在の状況はどうにも刺激が強すぎる。これは久しぶりに鼻血でも出るんじゃなかろうか。いや、出るね。もうドバドバとね。
 ああ、もう考えるだけ無駄だしどうにでもしてくれ。来いよベネット、違った、先輩!
 とまあこうして俺が消化不良的自暴自棄的な結論へと落ち入りそうな所で、沈黙を保っていた先輩はまーた突拍子もない一言を口にするのだった!
「よし! 渡瀬くんに問題!」
「……問題?」
 とりあえず、首を捻らずにはいられない。
「うん、私がこれから背中に書くことに答えてね。素直に『はい』か『うん』でね」
 そう言うが早いが、先輩は右腕をゆっくり動かし始める。
 あー、ナルホドね。とりあえず俺にはこれから出される出題に対してノーと言える権利というものがないんですねわかります。それから今のセリフに何かしら突っ込む暇すらもないと。ふぃー参ったぜ。
 出題される事柄をカタカナかひらがなか漢字か、はたまた外国語なぞを使用するのか訊きそびれたことを軽く後悔しつつ、俺は瞳を閉じてゆっくり背中に全神経を集中させた。
 指の運びはかなりゆっくりで、俺の背中を一杯に使って書いていく。そして3画という少ない画数に割と時間をかけて1文字目を書き終えたところで、先輩の指が背を離れた。
「はい。わかった?」
「多分。ひらがなですよね?」
「うん。でもまだ言わないでね。ふうーっ……じゃあ続き行くよ」
「どうぞ」
 確証は持てないけど、今のは多分『あ』で間違いないだろう。
 俺は先輩が続けて書かれようとしている未知なるメッセージに対し、とりあえず脳内をひらがな狙撃モードに変換した。多分誰がどう見てもヘンテコな体勢のまま。
 いい加減ドアに密着したままの額が痛くなってきている上に、背中を動き回る指がかなりくすぐったい。最早下校時刻を完全に過ぎてすっかり暗くなってしまったというのに、こんな場所で俺たちってばホント、何やっちゃってんだろうね。
 俺が色々な感覚を我慢しながら自問している間にも、2文字目3文字目と先輩は言葉を背中に綴っていった。俺の予想通り、背中を通して次々平仮名たちが脳裏に浮かびあがっていく。そのまま4文字目まで実にスムーズな流れで背中を先輩の小さな指が動いていった。
 5文字目の事だった。不意にぱたりと手の動きが止まる。背中の中心から右上、右肩甲骨あたりに置かれた右手人差し指(推測)が止まったまま動かない。
「先輩?」
「うん。書くから」
 少し躊躇っているようだった先輩が徐に綴りだした5文字目は、どうやら漢字らしい。急な言語ツールの変更に1度では把握しきれず、2度、3度と繰り返して書いてもらう。
 そうして漸くその言葉を理解したその瞬間――。
「えっ!?」
 勝手に声が出た。先輩は黙ったまま。俺の頭は一気に沸点を越え真っ白になってしまった。
 同時に、それから先を書かずとも後に続く言葉がもう見えてしまっている。ああ。瞬解だ。
 どうしよう。俺、めちゃくちゃドキドキしてるんですけど。え、ちょ、マジか。マジでか。
 どうにも混乱が治まらない。治まるはずもない。喉は渇き心臓は暴れ、額から脇から背中から汗が吹き出す。そんな中を、先輩は黙って俺の背中に残りの言葉を書き続ける。
 上手く呼吸ができない。喉の奥辺りに何かとんでもない物体が詰まっているみたいな妙な息苦しさを感じる。俺は明らかに平静を失ってしまっていた。まさかの展開だった。今まで15年生きてきた中で多分一番動揺していると言ってもいい。何せ今の俺、試合中より緊張してるもの。
 
 『あなたを好きになりました――――』
 
 汗ばむ背中に書かれた指文字。それが、俺が生まれて初めて貰う告白だった。
「はい、おしまい」
 最後に背中をトンと押して先輩の手は離れた。振り返ると、意外にも先輩は冷静な顔つきだった。驚いて目一杯慌てていたのが俺だけだったかと思うと、少し恥ずかしくなる。
「わかった? 私の出した問題」
「はい。問題っていうか、告白っていうやつですよね」
「うん。まあ、そんなところかな」
 そう言って、先輩は左手に下げていた鞄を両手で抱きかかえるようにして持ち替えた。
「ずっと左手に持ったままだったから疲れちゃった。あー、すっきりした」
 そう言うと、先輩は鞄へ下ろしていた視線をこちらに向け、少しだけ笑った。
「ふふ、驚いた?」
「はい。そりゃあ驚くでしょ、だってまるで予測できなかったんですから。ましてや好きだなんて言うなんて絶対想像できませんでしたし。だって俺ですよ? 下級生だし、大体俺なんかよりイケメンなんて他にごろごろしてるじゃないですか」
「だって……しょうがないじゃん。いいなって思っちゃったんだもの」
「いいな、って……」
 いいななんて言われると、もう駄目だ。顔が真っ赤になってしまって駄目だ。でも、訊かなきゃいけない。言わなきゃいけない。
「俺まだ先輩の事好きかどうかわからないし、知り合って日も浅いです。だから考える時間とか……その、今すぐには……」
「ふうん。なんか渡瀬くん、女の子みたーい」
 しどろもどろになった俺を見て、先輩はそう言うと笑いだしてしまった。正直自分で言いながら女みたいだとは思ったけど、流石にそうやってずばっと斬られると堪える。あーなんか俺ってば、ちょっと死にたくなってきたぞ。
「でも私だってそれは同じよ。まだ渡瀬くんのほんの一部分しか見てないだろうしさ。でも、もっと近くで色んな渡瀬くんを知ってみたいって思ったから。それで今よりもっと好きになりたいって思ったの」
「先輩……」
 まっすぐ俺の目を見て話す先輩は、凛としていてとても綺麗だった。どこでどういう風に俺を好いてくれたのか、やっぱりどうにも謎だ。だけど、俺もこの気持ちにまっすぐぶつからなきゃいけない、そう強く思った。
「わかりました。気持ちの整理がついたら、また図書室に来ます」
「うん、待ってる。あーそうそう、返事は『はい』か『うん』でよろしく!」
「え? あ、さっきの――!」
「職員室行こう! 先生に怒られるよ! 走れ!」
 出題前に言われたセリフの意味に漸く気づいたその時、先輩が俺の右手へ腕を伸ばした。驚く間もなく鍵を奪われる。そうしてまるで競争するかのようにこちらを振り向きながら廊下を駆けていく先輩を見ている内に、もうどうしようもなく笑えてきて、俺は返事とともに勢いよく地面を蹴り飛ばしたのだった。
  
「ただいまー……」
「ワンワンワンwンワン!!! ワンアンw!!! ナンワンンワンwナンッ!!!」
「うわっ」
 家に帰りついた途端、リビングから玄関へ勢いよく走ってきたメイに散々吠えられてしまった。しばらく呆気に取られていると、少し前に失念した不安要素にはたと気づく。俺の周りを忙しなくうろつくこの様子は……うーむ、かなり我慢しているっぽいぞ。すまないメイ、俺今日はちょっと色々ありすぎたんだよ。
「希さーん、まだメイ連れてってないですよねーっ?」
「ごめーん功ちゃーん!」
 開口一番謝った希さんの声と一緒に、キッチンの方からまな板を叩く小気味の良い音が聞こえてくる。そういや確か今日は夕方まで家を留守にするって言っていたな。散歩にまで手が回るはずもない。俺としたことが何たる無礼な物言い!
「遅くなってごめんなさい! じゃあいってきまーす!」
「いってらっしゃーい! まだゴハン掛かりそうだから帰ったら先にお風呂済ませてねー!」
「あーい!」
 申し訳無さそうなトーンで送り出してくれた希さんに、いやはやこれは随分と悪いことをしたなと反省しつつ、俺はリードを着けてすっかり出撃態勢の整った相棒と家を飛び出した。するとそこには先刻俺をたいそうこき遣って下さったお方がひとり。
「お帰り副会長。ずいぶんと遅うございましたことで」
「まーね。おかげで1人とぼとぼと帰ってきましたよ。いてらー下級生」
「ほーい」
 プラプラと右手を振りながら恵姉はドアへと向かう。その背中にもう一言二言くらい話をぶつけてもよかったのだが、恵姉に一瞥すらもくれずにリードを引っ張りまくるメイの、どうにも差し迫った体内状況を案じて俺は長話を控えた。
 恵姉のやつ、見た感じえらくお疲れモードだったな。後でちょいとちょっかいでも出しに行ってやろうかね。韓国バナシでも何でも聞いてやろうか。
 それと今日の事も話しておきたいし。