Neetel Inside 文芸新都
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Sweet Spot!
13th.Match game5 《It's wonderful feeling.》

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 膝を曲げて腰を落とし、前傾姿勢になってファーストサーブを待つ。
 いくばくかの間があった後、淡いグレーのユニフォームを雑に纏った向井の右手から、これまでのラリーによってやや芝の緑色に染まった白球が放たれた。白球は厚い雲の透き間から射し込む日の光によって暗くも明るくもある空の中をゆっくりと舞いあがり、やがて漆黒のフレームに染められた1本シャフトのラケットに誘い込まれ――――。
 午後4時を15分ほどまわったころ、最後のゲームは始まった。互いに最後の力を振り絞っての争いは想像通り拮抗した展開となり、再び向井のサービスを迎えた今、スコアは4-4と全くのイーブンになっていた。
 ひとつのプレーに会場全体が大きくどよめく。スコアが動くたびに悲鳴のような歓声がコート全体を覆い、4人に向かって拍手やら激励やらため息やらが押し寄せてくる。俺たち4人はただただそれを受け入れ、必死にプレーし続ける。
 全く勝利の行く先がわからないじりじりとした展開。双方のベンチも周囲の観客も固唾を呑んで見守る中、サーブ順を一回りし終えた向井が2度目のサーブを打った。
「オオラァァ!」
 振り抜きとともに吠えるような大声を出しながらのインパクト。途端、けたたましい爆音が響いた。引き締まった体から繰り出されたボールには圧倒的な加速がつけられ、俺へ鋭く牙を剥く。
 進行方向はセンター。球速から考えて、得意のフォア側へ回り込むのは厳しい――!
 瞬時に体からアラートシグナルが脳へと送りつけられる。
「――チッ!」
 正面に構えていた体を反転させて半身になり、右肩を相手コートに向けてバックハンドの体勢に構える。ボールはあっという間にネットを越えてサービスエリアに侵入し、モスグリーンの人工芝に突き刺さった。
 スイングを体が勝手に開始する。跳ね返ってくるボールに合わせて後方にキリと張った右腕を、前方へ体重移動しながら振り出す。そのまま腰の捻りを加えて体を再び正面に向かってスピンさせ、ラケットを一緒に連れてくるイメージでボールを捉えて弾き返した。
 パァンと高い音を残し、ボールは対角で構える向井の方へ飛んでいく。俺のレシーブが背中に当たらないようにネット前で素早くしゃがみこんだ宮奥さんの頭上をボールは通過し、ネットを越えた。
「来いやぁ!」
 球筋を確認し、細かく左右にステップを踏みながら宮奥さんが威嚇の声を向井へ浴びせる。意識を少しでも自分に向けさせ、ショットの精度を落とす狙いだ。しかも宮奥さんは向井のショットスピードを予測し、バックボレー側にストレート打ちをされてもぎりぎり対応できるであろうスペースを空けて、コートやや中央よりの絶妙なポイントにポジショニングしている。
 視界に先輩の影がチラついたのか、向井の返球は大きく俺の右側にそれてサイドラインを割った。主審が高らかにコールする。
「アウト! 4-5!」
「くっそがああっ!」「なんでー?」
 隣のコートへと逸れたボールを取りに向かっている俺の背中越しに、悔しさを滲ませる相手団の叫びが届いてくる。それを聞いて、俺は思わず嬉しくなってしまうのを抑えられなかったのだった。相手に悪いのでニヤニヤ笑うのは自重しておいたけど。
 でもやっぱ先輩はすごいわ。誰が見ても向井が単にミスしただけに見えてるだろうし。
 完璧な位置取り。いやらし過ぎる間合い。
 素人眼には判りづらいであろうこういう所に、宮奥さんの類まれなセンスを感じてしまう。 先輩は試合中に相手との間合いを読み取る能力が、ずば抜けて優れている。対戦相手からすれば、試合が進むにつれて返球しづらくなっていく事に思わず首を傾げてしまうのだ。
 本当、頼りになる180センチ様です、宮奥さん。
 ボールを拾って向かいのベンチに目をやると、みんなが飛び上がって喜びを表現している。「そのままいけー!」とか、「ナイスボール!」とか、もう色んな声でごっちゃ混ぜだ。
 コートに戻ってボールを相手コートに軽く打ち出し、そうして宮奥さんと軽くハイタッチする。ハイタッチはポイントを取った際に必ず行う通過儀礼みたいなものだ。
 しかしどうしたものか、俺は先輩に喜ぶでもなくなぜか不思議そうな顔をされてしまった。
「……。」
「……。この妙な沈黙は何でしょうか?」
「あ、いや……あんまり嬉しそうじゃないなと思ってさ。こういう時、渡瀬なら野獣みたく吼えて喜びを表現しそうなモンなのに、って。」
「野獣って先輩……。」
 こりゃ失礼とばかりに自分の頭をポンと叩いて舌を出す先輩。この期に及んでひょうきんっていうかお茶目って言うか……。
 まあ確かに叫んで気持ちを解放したい衝動には駆られていたんだけれども。
 でも、でもぐっと抑えた。抑えなきゃ駄目だと思った。
「喜びを表すのは最後まで取っておこうと思います。まだ終わってないですから。」
 ここで気持ちを解けば、舞い上がったままもう残りのプレーに集中できないだろう……と、理由なくそういう確信めいたものを感じてしまったから。先輩たちと一緒にプレーする最後の大会を、そんな瑣末なことで終わらせるわけにはいかない。
「ふーん。確かにそりゃそうだけど。なんだ、ずいぶん落ち着いてるじゃないか。」
 ぐしゃぐしゃに汗まみれであろう俺の顔を覗き込みながら、先輩が不敵に表情を緩める。
「なんだか慣れました。もう誰でも来いって感じですよ。」
「ほぉー、言うね言うね。今の渡瀬にはみーんな食われちまいそうだ。おお怖っ!」
 首をすくめておどけてみせて、俺の肩をぽんぽんと軽快に叩くと、先輩は自分のポジションに歩いて戻っていく。
 何気なくその様子を眺めていると、不意にある特別な感覚に包まれている事を自覚した。
 あーこりゃキタわ、この感覚。ここでキタか。うわー、ものっそいひっさしぶりだな。
 揺るぎない勝ち。どうあっても負けない自分。慢心でも、不遜でもないこの妙な気分。
 

 俺の意識は勝負がつく最後の瞬間までふわりと宙に浮かんでいたままだった。
 体と心がふっと分かれ、何かに取りつかれたようにボールを追いかける自分を、どこか客観的に見ているもう一人の自分。
 どこに打てばポイントを獲れるか体が勝手にわかっていたし、その事に何の迷いやためらいもなしに受け入れる自分。そして、思うままに狙ったコースへ打ち分けられる自分。
 周りの景色がぼやけて視野が狭まる代わりにコートだけが無限に広がって見え、相手コートの空いているスペースがぐっと大きく瞳に飛び込んでくる。
 世界から音が聞こえなくなり、自分の息遣いだけが聞こえて――――。

 適度な疲労・深い集中・相手の力量・拮抗した試合状況…………幾つかの状況が重なって初めて、その感覚はこの身に起こる。言わば絶対的な力を手にできる夢のようなひととき。言葉に表せない世界の感覚。
 そう何度もこれまでに経験したことのないこの現象を、俺は「ゾーン」とよんでいる。よくオリンピックのメダリストなんかが言う、世界がスローモーションに感じたりする、あの感覚……だと思う。
 起こそうと思っても起きるものではない、気がつくとそうなっているという不思議な現象。
 思い通りに行き過ぎて軽く気持ちが悪い程の、不思議な高揚感が俺を包んでいたのだった。


 整列が終わってベンチに腰を下ろした瞬間、安堵感と一緒にとんでもない疲労の波がどっと押し寄せてきた。のどがカラカラで張り付きそうだ。早く補給しなきゃ死ぬ。死んじゃう。
「ごめん、マネージャー。麦茶をもらってもいいかな。」
「は、はいっ!」
 俺の出したあまりのしゃがれ声に驚いたのか、マネージャーはあわててキーパーから麦茶を注いで差し出してくれた。コップを受け取るとひんやりとした心地よさが右手に伝わって、少し飲むのをためらってしまう。
 しばしの間まったりしてから、くいっと一口含む。続けてもう一口、二口……。
 途端にぱあっと口の中に幸せが染み渡っていく。冷たいのどごし。気分爽快嗚呼爽快!
「う、うめぇ……。」
 本気で美味しかった。試合中も沢山飲んだはずなのに、味わいがまるで違う。何てこった。
「おいしいですか?」
「うん。ありえない旨さ。なんだこりゃ……?」
「フフ、お疲れ様。すっごくカッコよかったよ!」
 おかわりの分を注ぎながら、マネージャーがにっこりと微笑んでいる。
「…………。」
 うっわぁー……。今のは超絶馬鹿すぎるだろ、俺のメルヘン脳みそよお。
 何の味付けがどうのこうのとか、そういう顔から火が出そうな台詞をこのピンク脳が提示してきたことは、ここだけの秘密にしておくことにしよう。

       

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Neetsha