Neetel Inside 文芸新都
表紙

春〜Spring〜
春〜Spring〜

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オレが彼女と出逢ったのは、病院だった。

見えなくなった目の定期診断を受けにいった帰りだった。
冬の終わり、もうすぐ春が来る頃。
あの日は薄く雲が出ているだけの晴れた日だった。

病院の正面入り口を出て最寄り駅へ向かおうと歩き出したとき、ふと目に入った。
車イスに乗って絵を描いている少女が見えた。
足にギブスがついている。
ぼーっと見つめていると、彼女は絵を描き終えたのか大きく伸びをした。
ふと振り返った彼女と目が合った。やばいと思って目を逸らそうとしたが、先に話しかけられてしまった。
「ねぇ、この絵見てくれませんか?」

これが、オレと彩花の出逢いだった。

            φ

「なぁ光城、ここにあったボトル知らねぇか?」
「知らねぇよ。そこらへんにでも落ちてんじゃねぇの?」
放課後の教室から少年2人の声が聞こえる。
後から話した少年はつまらなさそうに外を見つめている。
「光城、お前どうすんの?これから」
「1年も先のことなんてわかんねぇよ。こんなもん何の役にも立たねぇ」
光城が座っている机の隣にはびっしりEと書かれた紙が置いてあった。
そしてその隣にもほとんど同じような紙があった。
「あ~あ……マジで就職しようかなぁ……」
「仕事なんてやってられるか。俺は大学に行く」
「この成績で行けるのかよ」
「こんなもん役に立たねぇ」
静寂が訪れた。2人とも外を見つめたまま動かない。
「帰るか?」
「……おう」


夕暮れの街道沿いの道を少年が駅へ向かって並んで歩く。
街は仕事を終えて飲みに出たり帰宅を急いだりしているビジネスマンで混み合っていた。
ふと光城と誰かの肩がぶつかった。
光城が振り向くと、ぶつかった相手と目が合った。
しかし、右目に眼帯をしている相手の男は一瞥したあと何も言わずにくるりと背中を向けた。
光城はよくわからない苛立ちを覚え、拳を握り締め追いかけようとした。
「あの野郎、謝りもしないのか」
「待て待て、行くな光城。眼帯してたろ?よく見えないんだって」
「でもあの態度がムカつくんだよ」
「何イラついてんだよ」
「うるせぇ!」
ちっ、と吐き捨てると光城はポケットに手を突っ込んで駅の方向へ歩き出した。

            φ

オレはあれから何度か彩花と会った。
自ら進んでではなく、彩花に頼まれて仕方なく。
彩花はよくしゃべった。オレは人と話すのが苦手だから自然と聞き手に回ることになった。
人と話すなんて自分からはまずやらないことだったから会話はすごくぎこちなかった。
けど、彩花と話していても不思議と嫌にはならなかった。
彩花は学校で陸上をやっているらしい。走るのがたまらなく好きだと言っていた。
いつの間にか笑いあえるくらい親しくなっていた。
何もかも初めてで、不思議で、分からないことばかりで。


オレは車イスを押して彩花の学校の近くにある公園へ行った。
暖かな日差しが降り注ぎ、眠くなりそうな空気が漂う。
近くの学校から運動部の声がかすかに聞こえる。
公園の真ん中にある大きな池に架かる橋の上で2人佇む。
「こうしていると幸せな気分になるね。ふわふわしてて、とっても気持ちいい」
「そ、そうだね」
ぎこちない答えに彼女はくすっ、と笑った。
「涼介くんってすごくシャイだよね。そんなに緊張しなくてもいいのに。私のほうが年下なんだから」
「……そ、そうかな。オレは普通のつもりなんだけど……」
「普通じゃなーい」
そう言われてオレは返す言葉を見つけられなかった。
確かに自分が普通じゃないことは分かっていたけど、彩花とは一般的にいう『普通』で接していたつもりだった。
湖畔を高校生が数人走っていた。

無言で立ち尽くしていると、彩花が口を開いた。
「絵を描きたい」
オレは車イスの後ろのポケットにしまっておいたスケッチブックと鉛筆を渡した。
彩花が絵を描いている間はすることがないので、とりあえず欄干にでももたれかかっておくか。
すると彩花はオレにこう言った。
「そうだ、涼介くんモデルになってよ。そこの欄干にもたれかかって、それで横を向いて」
「え……?モデル?」
「そう。涼介くんカッコいいから映えると思うんだ」


病院へ彩花を送っていって、病室の夕日が差し込む部屋で2人きりになる。
さっき彩花が書いた絵は壁に飾った。オレがカッコよすぎる気がするのだが。
下らないことを考えてぼーっとしていると彩花に聞かれた。
「ねぇ、涼介くんって全然しゃべんないんだね」
当たり前だ。今まで人としゃべったっていいことなんてない。
右目が見えないからというだけで、いわれの無い差別を受けてきた。そうでなければ欲しくもない同情だった。
こんな過去を歩んできて、いくら今優しくしてくれているからといって、気軽に話せるわけがない。
オレがこうして彩花と会っているのだって自分から進んでではない。彩花に頼まれたからだ。
そんなオレと会話しようったって無理だろう。
「もっと話したいな。涼介くんってどんな人なのか知りたいもん」
「そうなのか?でもオレ話すのあんまり好きじゃないし。話すことも無いし」
「……そう」
これっきり彼女は俯いて黙ってしまった。
素っ気無く言ったオレが悪かったのだが、このときのオレはそんなこと全く気が付いていなかった。
とはいうものの話さなくていい空気は楽だった。

日は完全に沈み病室に電灯の灯りが点く。
そろそろ帰りたいと思っていたら、病室のドアが突然開いた。
「あーやーか!お見舞いに来たよ!」
急な来客だったが、オレには帰る口実ができる好機だった。
そこでオレは、
「オレそろそろ帰る。また連絡してくれたら来る」
そう言って足早に病室から出て行った。

            φ

光城は一人で出かけていた。
日が沈んで少し寒くなってきたが、家に帰る気なんてさらさら無くて街をぶらついていた。
家でのんびりしていると決まって少し前に返ってきたEだらけの模試結果について親にどやされる。
そんな家が嫌になって、光城は毎日朝から日が変わる頃まで家に帰らなかった。
朝から歩き回って疲れたので公園の花壇のレンガの上に座って休んだ。
「まだ6時かよ。暇だ、どっかネットカフェで時間潰すか」
光城は立ち上がった。そして歩き出す。

「痛っ!」
誰かと肩がぶつかった。女性だった。
「すいません、よそ見してました。すいません」
「あ、いえ、いいですよ」
すぐに謝られたので特別苛立ちも覚えなかった。
それにしても今日はよく誰かと肩がぶつかるな、と考えていたら
「痛って……」
またぶつかった。今日は厄日なのだろうか。
振り返ると相手は男だった。
しかも、右目に眼帯をしている。
「……てめぇ、この前の!」
「すまん、考え事をしていた」
とても素っ気無く謝罪の意が込められているのかかなり微妙な謝罪を受けて光城は激しく苛立った。
「どこまでも人を馬鹿にしやがって……。ちょっと来いよ」
光城は涼介を睨みつけながら言った。

さっき休んでいた公園まで戻ってきた。
幸いにも人は誰もいない。しかも暗い。
ウサ晴らしにはもってこいなシチュエーション。
「てめぇ2度もぶつかってくるとはいい度胸してんな」
「……別にわざとじゃない。たまたまだ」
「へぇ、冗談がうまいよな。馬鹿にしてんじゃねぇよ」
「……謝っただろ?もう帰らせてくれ」
「てめぇのそういう態度がムカつくんだよ!目がどうなってんのか知らねぇが調子こいてんじゃねぇぞ!」
光城は涼介に殴りかかった。

            φ

「ごめん彩花。まさか人来てるなんて思わなくて」
ありすはしきりに謝っている。彩花は俯いたまま。
彩花がずっと俯いたままで取り合ってくれないので、ありすは埒が明かないと思い気になっていたことを聞いた。
「この壁の絵……彩花が描いたんだよね?この男の人って……さっきの人?」
「……うん」
ものすごく落ち込んでいつもの明るさはどこかへ行ってしまった声で彩花は答えた。
けれど、ありすは思い切って聞いてみる。
「さっきさ、池の公園でロードワークしてたときさ、彩花が見えたんだよね」
「え?ありすって短距離でしょ?」
「そうだよ。でも最近ちょっと調子が出ないから気分転換に長距離の練習に入れてもらってるの」
「ふーん……」
「それでね、彩花が男の人といるのが見えて。あの人って彩花の彼氏?」
いつもの彩花なら顔を赤くして否定するような状況になるので、少しは元気づけられるかも。と思ってありすは聞いてみた。
しかし、彩花の反応は
「違う。この人はそんなんじゃないよ……」
とにかく暗いのでありすは耐えられなくなって、ジュース買ってくると言って病室を出た。


「あ~あ……彩花に何があったんだろう。どうやって話しかければいいのかな……」
呟きながら考えて、自販機の前で首をひねる。
正直その姿はどう見てもジュースを迷っているようにしか見えなかった。
そしてありすはジュースを買うことさえ忘れて考え込む。
体をひねったり首をかしげたり、いろいろな体制で考えていたので傍からは変な子に見えていた。
「あんたここで何してんの?」
いきなり話しかけられてありすは激しく驚いた。振り向くと若い看護婦が立っていた。
「えっ!?ああ、えーっと……友達にジュースを買ってるところです」
「そんなに悩むの?その友達はそんなにわがままなの?」
「え?」
どうやらありすは考えてるうちに5分ほどその場に固まっていたようだ。
「他のこと考えてたんでしょ?そんなに悩み悶えるということは恋の悩み?」
からかっているのか、とても楽しそうに看護婦は聞いてくる。
ありすにはこれ以上考えてもわかりそうになかったので、思い切って看護婦に相談してみた。
「あのですね……実は…………」


「ほう、そういうわけか。最近あの眼帯の患者さんがよく来るのは。それはまさしく恋だね。彩花ちゃんもなかなか渋いとこに目をつけたねぇ」
なるほどそういうことか。彩花はあの男の人に好意を抱いているけど、何かの理由でうまくいってないってわけだ。
それなら、私が協力する!!



病室に戻ってドアを開けると、彩花はぼーっと外を眺めていた。
「遅かったね」
「ごめん、ちょっと何買うか悩んじゃって」
半分本当で半分嘘の答えをしつつパイプいすに座る。
彩花に買ってきたジュースを手渡し、自分のを飲む。
そして少し飲んで彩花に話しかけた。
「あのさ彩花、単刀直入に聞くけど、あの男の人のこと好き?」
「え……?」
「さっきここにいた人。好きなんでしょ?」
「えっと……まぁ……うん……」
「やっぱそうなんだ。何かあったの?」
「……なんだか話してくれないんだ。一緒にいてくれるから、話せると思ったんだけど……。『オレ話すのあんまり好きじゃないし。話すことも無いし』って言われちゃった」
「そっか……。でもさ、前向きに考えようよ」
ありすは彩花にいろいろとアドバイスをした。
彩花は少し目を丸くして驚いた様子で聞いていた。
最後には二人で笑っていた。

「じゃあ、私帰るから。彩花も頑張りなよ」
「ん、わかった。気をつけてね」

            φ

吹っ飛ばされた。口の中に血の味が広がった。
もう何分経ったのだろうか。痛みを忘れるくらい殴られた。
指一つ動かせない。ぼーっとしてきた。意識が飛びそうだ。
相手も疲れたのか肩で息をしている。拳打の威力の落ちてきた。
今も殴るのに間ができてきている。
疲れた。
また相手の拳が上がった。
            φ

「ちょっと遅くなっちゃったな。バスの時間が近いよ」
ありすは病院を出て小走りで駅前のバス停へ向かった。
彩花の病院で少し長居しすぎたようで、このままだと親から雷だ。
駅前までは数百メートル。陸上部のありすなら余裕の距離だ。
だが今は急いでいるので距離はできるだけ短いほうがいい。
「こっちの公園を突っ切っていけば近道だ。走ればバスに余裕で間に合うかな」
そう言ってありすは公園へ入った。

暗い公園はあまり通りたくないのだが、時間に余裕がないので仕方ない。
走っていると並木の間から人が見えた。
よく見ると2人で、しかも一方は倒れている。
なにやらただならぬ空気を感じたありすは立ち止まり、じっと様子を見た。
すると、立っている人物は倒れているもう一方の人物を殴り始めた。
やばいっ!と感じたありすはとにかく止めに入る。
「ちょっと!何してんのよ!」
そう叫んでありすは殴りかかる男の前に立ちはだかった。
怒り狂っている男は鋭い睨みをありすに向けて、
「邪魔だ!どけ!でないとてめぇもぶっ飛ばすぞ!」
「や、やってみなさいよ!」
少したじろぎながらも気丈に言い返す。
その気丈さが癇に障ったのか光城は声を荒げた。
「なんだとてめぇ!」
光城が殴ろうと手を上げ、ありすが目をつぶった瞬間……。

「お前ら、何してんだ!」
現れたのはランニングウェアを着た2人の男と都合よく警察官もいた。
逃げ出そうとした光城を2人の男が捕らえた。
そして私は殴られていた男のほうに体を向けた。そして気づく。
「あ……あなたは彩花の部屋にいた……」
殴られてまぶたが腫れ上がり左目もほとんど見えにくくなった涼介は弱々しい声で返答した。
「さっき……部屋……来た子だ……ね……?」
涼介の口が切れてうまくしゃべれないことを察したありすは手のひらを涼介に突き出して言った。
「しゃべんなくていいよ。まず病院へ行こうよ。ケガの手当てをしなきゃ。立てる?」
そう言ってありすは手を差し出した。
だが感覚が麻痺するほど殴られた涼介は立ち上がることができなかった。
ありすは肩を貸して涼介を立たせた。高校生の女の子に大人の涼介の体はずっしりと重かった。
警察官はありすの肩を借りて立った涼介を見て少し絶句した。
なにしろ涼介は殴られてボロボロだったのだから。そして
「きゅ、救急車を呼ぶから待っててくれ」
と言った。しかしありすはこう答えた。
「すぐそこが救急病院だから私が連れて行きます」
「そ、そうか。それでは私はこの少年を交番まで連行するので……」
「わかりました」
正直、手伝えよ!といった状況だが、ありすは自分で涼介を病院まで連れて行った。
途中、ひどい有り様の涼介を連れているので道行く人々に奇異の目で見られたが、ありすはそんなことは気にしなかった。



がちゃというドアを開ける音が聞こえて、ありすは顔を上げた。
診察室から看護婦に車いすを押された涼介が出てきた。
「お連れの方ですね?軽症ですけど目のことを考えて一応1日だけ入院ということになります」
「あ……そうですか」
「あれ?お連れ様ではないですか?」
「いえ、連れてきたのは私ですけど、彼とは初対面です。と、とにかく部屋まではついていきます」
とりあえず病室までついていって2人になるのを待った。

そして、看護婦は出て行き、病室に2人になった。
ありすはおずおずと話しかける。

            φ

口が切れてまともに話せないがかえってそれは楽だ。
仕方なく会話することもしないで済む。オレにとっては好都合だった。
「あ、あのさ、少し聞くけど、本当のところ彩花のことどう思ってるの?」
「え?どういう……っ!」
いきなりありすにそう聞かれてオレは咄嗟に口を開いてしまった。
しっかり口の傷に障ったようで激痛が走った。
痛みに顔をしかめて口を押さえた。傷が少し開いたようでわずかに血の味がした。
オレの様子を見てありすはエナメルからルーズリーフと筆箱を取り出して、筆談のようなことができるようにした。
さっきの質問の答えを要求しているのだろう。
けど……どうって言われてもなぁ、普通の女の子じゃないのか?おかしいとこあるか?
とりあえず『わからない』と書いてみた。
するとありすは驚いた顔を見せて、
「……!どうして!?」
いや、どうしてと言われても……。思ったことを書いただけなのに。
『君が何を言いたいのかがわからない』
今度はこう書いてみた。
するとありすはため息をついて首を垂れた。
「はぁ……そういうことね。私も鈍いけどあなたは私よりもっと鈍いね……」
『どういうこと?』
「どうもこうも……あれだけ一緒にいて気づかないわけ?彩花の気持ち」
『は?』
「は?じゃなくて、わかれよ」
『いったい何のことで?』
「……本当に鈍いね。彩花はね、あなたのことが好きなの!」
「えっ?はぁ!?……痛っ!」
またしても口の傷に響いた。オレには学習能力が不足しているのか。
傷に痛みを感じながら、オレは自分に呆れた。
それにしても驚いた。まさか彩花はオレのことが、好き……。
全く初めてのことなので、気持ちは戸惑い以外の何物でもなかった。
『好き』という気持ちが何か、オレはほとんど知らなかった。
今まで自分が持ったことがないし、当然他人から持たれたこともない。
だから、どういう反応をしたらいいのかもわからなかった。

            φ

彩花はとても目覚めのよい朝を迎えた。
まぶしい朝日よりも早く目を覚まし、最上階の廊下の窓を開けて朝日が昇るのを眺めた。
さわやかな風に吹かれて彩花の心も晴れ渡っていた。
なびく髪を軽く押さえながら、
「今日言おう。涼介くんに好きだ、って」
5分ほど寒さの和らぎ始めた3月初旬の風を胸いっぱいに吸い込み深呼吸をする。
今日は何もかもうまくいきそうないい気分になって彩花は自分の病室の階へと降りていった。

今日はあまりおいしくない朝食もなかなかの味に感じられ、彩花を勇気づけた。
ドキドキが止まらない。そんな気持ちを鎮めるかもように彩花は静かに本を読んで午前中を過ごした。
今日涼介が大学を終えてここに来るのは5時の予定だった。
それまで彩花は落ち着かない時間を過ごした。

            φ

今日は特に何も無い一日で、松葉杖をつきながらだが大学の講義は全て受け約束の5時に彩花の病室へ行った。
夕暮れの日差しが差し込む部屋に入ると彩花は笑顔で迎えたが、オレの松葉杖と顔中のガーゼや包帯を見て驚いた。
一応おおまかな説明をした。ありすが助けたことは言わなかったが。
彩花の心配そうな顔はあまり見たくなかったので、大丈夫だと言った。……あまりそうでもないけど。
そんなふうに時間は過ぎていく。日も沈んで部屋が暗くなり始めた。
そろそろ帰る時間になってきた。ちゃんと飯も作らないといけないし、あまり遅くなりたくなかった。
「オレ、そろそろ帰るわ」
「え?もう?」
「ごめん。夕飯の準備とかあるし、それに松葉杖だと歩くのも遅いし」
「そうなんだ……」
「ん?どうかした?」
「あ、いや……」
「そう?じゃあ帰るよ」
彩花は何か言いたそうな感じがしたが、オレにはわからないので部屋から出ようとした。
暗くなる部屋の電気をつけてあげようとスイッチに手を伸ばしたとき、彩花の声が聞こえた。
「涼介くん」
彩花の呼びかけに反応してオレは振り返った。彩花の顔は逆光でほとんど見えない。
「あのね、私……あの……あの……涼介くんが……涼介くんのことが……好き……」
「………………」
どう返答していいものかわからず、張り詰めた沈黙が流れた。
「……私じゃダメ、かな……?」
ダメじゃなかった。けど、どうやって接すればいいのか全くわからない。
それ以前に自分は彩花をどう思っているのかもわからなかった。
そう考えると答えはひとつになった。
「オレは今までひとりで生きてきたんだ。目が見えないからそれを差別されてきたし、人と接することなんて面倒でしかなかった。だから今も君とどう接していけばいいかわからない。それに自分が君をどう思っているのかもわからないんだ」
「やっぱり、ダメなんだね……」
「………………」
「私が早とちりしてたんだよね。一緒にいてくれるからって……そんなことないよね……」
最後のほうは涙声だった。少し自分が嫌になった。
彩花は俯いてそれっきり何も言わなかった。再び沈黙が流れた。時々彩花のすすり泣きが聞こえる。
オレは彩花を見つめていたが、ふと夕飯のことを思い出し彩花に告げた。
「オレ、帰るよ」
「……うん」

            φ

あれから2週間。オレは試験が忙しくて彩花に会いに行っていなかった。
あの告白への明確な返事はまだ持っていなかった。
けど、なんだか彩花に会いに行けることが嬉しかった。心は多少浮ついていた。
だが、この時点ではまだこれが恋だとは気づいていなかった。オレはどこまでも鈍い男だった。
いつもよりにこやかな雰囲気で少し笑顔で、病室のドアを開けた。
けれど、そこには誰もいなかった。ただ布団がないベッドがあるだけだった。私物も全てなくなっていた。
「え……彩花……?」
オレは呆然と立ち尽くした。
夕日が差し込む部屋から廊下へオレの影が伸びていた。
「そこの眼帯の患者さん、彩花ちゃんなら退院したよ。3日前にね」
オレは突然若い看護婦に話しかけられた。活発そうな人だった。
「……どういうことですか?」
「そのまんまよ。骨折だったからね、ひどいほうだったけど若いからそんなに長く入院することはないよ」
「あ……そうなんですか……」
「連絡受けてないの?」
「いえ、こんなことは聞いていません」
「あんた連絡先とか知らないの?」
「知らないです……」
そういえばそうだった。連絡はいつも彩花からだった。オレから連絡したことは一度もなかった。
だから連絡先も聞いていない。オレの携帯の数少ないメモリーには入っていなかった。
そもそも彩花のことをオレはよく知らなかった。
知っていることと言えば学校と陸上をやっていることと絵が好きなことくらい……。
なんだか微妙に寂しかった。もっと彩花のことを知っていればよかった。
今になって自分が彩花に冷たく接していたことに気づき後悔した。
オレは看護婦さんに礼を言って病院を後にした。
            φ

「どうもすみませんでした。あの時は何かイライラしてて……。本当に申し訳ありません」
光城はひたすら陳謝し続ける。光城の前には戸惑いながら応対するオレとありすの姿があった。
オレは殴られていたときの光城の様子と今の様子にかなりのギャップを感じていた。
「そんなに謝らなくてもいいですよ。ケガもひどくなかったわけだし……」
「いや、でも……」
「これだけ謝ってもらったら何かこっちが悪い気がしますよ」
光城は本当は悪い奴じゃないんだ。オレは珍しくそう感じた。
今までは自分を好いてくれる人さえ信じることができなかったのに、光城の謝罪は本物だと感じられた。
オレも変わりはじめたのだった。

オレと光城は和解した。
根はマジメな光城だったからオレとも打ち解けられた。
これが初めて会ったときのようなタイプの人間であったなら和解なんて絶対できなかっただろう。
けど、ありすはどうやら違うみたいでどうにも光城を許す気はないようだ。
オレが動けなくなってからも殴りつけたのが卑怯だと思っているらしい。
だから打ち解けたオレと光城が雑談している間にもありすはそっぽを向いていた。
10分ほどの会話を終えたのちオレはありすと帰途に着いた。

「そんなに嫌なのか?」
「絶対嫌。なんか生理的に受け付けない。なんかムカつくのよね」
「悪い奴じゃないと思うけど……」
「もしそうだとしても会いたくないね。私には百害あって一利なしよ」
ありすは光城のことが心底嫌いらしい。ありすと光城は絶対に友達にはなれないだろう。
そんなことを思いながら、昼下がりの街を並んで帰った。

            φ

5月中旬。
インターハイ予選。陸上女子3000メートル。
彩花は8番の番号をつけてスタートラインに立っていた。周りを見渡せば強豪が揃う。
彩花は退院したあと懸命なリハビリで驚異的な回復力を見せ、3月下旬には練習に復帰していた。
そのあともハードな練習を続けなんとか最後のインターハイ予選に間に合わせたのだった。
過去に県大会に3度出場した実力を持っているが、ラストでのケガでのブランクは大きかった。
だがそのブランクを感じさせない走りを見せるだけの練習は積んできた。
今こそ、自分の力を発揮するとき―――――――

            φ

オレは右目が見えないので走るとよく転んだ。
だが今はそんなことを気にせずに大急ぎで走っていた。
途中人にはぶつからなかったが、歩道のポールに足を強打したり、段差に気づかずに転んだりと結構痛い思いはした。
少し服が汚れたが、なんとか競技場に到着した。
午前11時。ありすに教えてもらった時間より1時間も遅れてしまった。
「参ったなぁ……。確かもう始まっちゃう時間だよな……」
オレはスタンドへ走った。

            φ

2000メートルまでは最高のペースで走れていた。
あまり強くない選手をしっかりと振り切り、強豪2人と3人でトップ争いを演じていた。
だが、2000メートルを過ぎた辺りからオーバーペースの反動がきた。足が重くなったのだ。
彩花はトップ集団で併走していたが、徐々に取り残されかけてきていた。
苦しい表情になっているのは彩花だけで、残りの2人はまだ涼しい顔をしている。
2人がスパートをかけてきた。彩花は3メートルほどの差をつけられた。
だがそこから彩花は粘った。残り200メートル付近で5メートル近くに開いていた差を一気に縮め、2メートルほどにした。
タイムで言うなら1秒未満の差。逆転も大いに可能な距離。残りは100メートル。
しかし前を行く2人も相当な実力だった。そう簡単に追い越されるわけもなく、熾烈なデッドヒートへ突入した。

残り70メートル。
まだ差は変わらない。
残り60メートル。
2人のうち片方が一歩先に出た。
残り50メートル。
彩花が外側から追い上げるが届かない。
残り40メートル。
3人とも全力疾走。スピードはほぼ同じ。
残り30メートル。
彩花は耳にした、誰かの声を。

            φ

オレは階段につまづきながらもなんとかスタンドにたどり着いた。
階段の出口はスタンド中段にあり、オレは急いでスタンドを降りて最前列へ向かった。
ちょうどトラック競技の最中で歓声が大きくなってきたので、ファイナルラップであることがわかった。
オレはスタンドを降りながら走る選手を見ていると、目当ての選手が走っているのが見えた。
最後のストレートに入ったところで目当ての8番をつけた選手はわずかに遅れていた。
全員がラストスパートでスピードを上げた。
しかし、なかなか8番の選手は前に出られない。
オレはレースものこりわずかになったところでようやくゴール付近のスタンド最前列に到着した。
そして、今までの人生で出したことの無い程大きな声で叫んだ。

「彩花!!!あと少しだ!負けんなぁぁぁ!!!」

            φ

残り30メートル。
前との差はほとんどない。あと少し。だが追い越せない。
彩花はあきらめかけていた。
けど、そこに……。

「彩花!!!あと少しだ!負けんなぁぁぁ!!!」

声が聞こえた。だがその方向へ顔を向ける余裕などない。
とにかく最後の力を振り絞った。

残り20メートル。
2人のうちの後ろを走っている方を捕らえた。
残り10メートル。
トップと並んだ。
5メートル。
3メートル。
1メートル――――――


勝った。彩花は最後の1メートルでトップをかわし1番最初にゴールテープを切った。
タイムは自己新を更新し、県大会への切符も同時に手にした。
走り終わるとゴールで待っていた仲間の体に倒れこんだ。
激しいデッドヒートのおかげで彩花の心臓は破裂しそうなくらい鼓動を早めていた。
疲れて苦しいのと勝って嬉しいのとで彩花の目からは涙があふれていた。

「あーやーかーっ」
息が落ち着いてきたころ、後ろから彩花を呼ぶ親友の声が聞こえた。
その親友、吉原ありすは満面の笑みで駆け寄ってくる。
「ありす……!」
「すごいよ彩花!おめでとう」
「うん。ありがとう」
「それでね、彩花のためにサプライズを用意したんだ。ちょっとこっちに来て」
「……サプライズ?」

            φ

「少し聞いてほしいんだけど……」
昼下がりの街中を歩きながらオレはありすに話しかけた。
自分の初めての気持ちをどうすればいいのか教えてほしかった。
「いいよ」
「オレ、今自分が持っている気持ちが何なのかよくわからないんだ。あいつ……彩花に会えなくなってなんだか気分が沈んでしまっていて……。会いに行くときは何か浮かれていて。これが『好き』ってことなのだろうか……」
春風がオレたちの間を吹きぬけていく。
心地よい日差しを受けながら歩いていく。
「そうなのかもしれないね。明確に『好き』とわからなくても、会うだけで嬉しかったり一緒にいる時間が幸せだったり。そういうことを感じるのはその人に恋心があるってことなんじゃないのかな。それが小さくてもだんだん大きくなっていって、いつかそれが胸を締め付けるくらいになったときに伝えればいいの。あなたはこの気持ちが始めてだからそんなに急ぐ必要はないよ。私は応援してるし、いつでも相談に乗るから」
「恋って難しいんだな。わかりそうでわからないものだと思う」
「そうね。無理しなくていいの。まずは自分がどう思っているのかを、よく考えること」
「そうか。じっくりやってみるよ」
「うん、頑張って」
そうしてオレたちは別々の帰路についた。
ありすの言う『好き』を理解するにはオレには時間が必要だった。
だからオレは1ヶ月半かけてじっくり自分を見つめたのだった。




ありすが彩花をスタンド下まで連れてきた。
スタンドの高さはおよそ1.5メートルほど。わずかにオレのほうが高い位置にいる。
オレの心臓の鼓動が少し早くなった。

彩花はスタンドを見上げると驚いた表情でつぶやいた。
「涼介くん……」
「久しぶりだね。また会えてよかった」
「………………」
「……彩花。オレ、君のことが好きだ。誰よりも、君のことが好きだ」
「……私もだよ、涼介くん」
たったこれだけのやり取りなのに、オレの心はどこまでも透き通り心地よい風が体の中を通り抜けた。
オレは自分を受け入れてくれる子と出会えたのだ。それは生まれて初めての、最高の幸せだった。
そして彼女を絶対に離しはしない。
            φ

5年後。

オレはとある建物の中にいる。
鏡で自分のネクタイを直しつつ、いろいろなことを思い返している。
「いろいろあったなぁ……。全てついこの前にあったみたいな感じだな」
病院で出逢ったこと。殴られたこと。説教されたこと。絶望したこと。そしてあの日のこと。
全て遠い過去のことなのに、つい最近のことのように思い返される。
あれから、オレは変わった。

大学を1年留年した。
単位が足りなかったからじゃない。自分から志願したんだ。
オレは今就いている仕事をするために必要な資格を取るために、教授に頼み込んで相当数の講義をこなし、わずか2年でその資格を取得することができた。……実際不正な気もするのだが。
けれど、その資格を取り今の仕事に就こうと思ったのは本気だった。
その資格とは、教員資格だ。
というわけで、今のオレは小学校で教師をしている。
昔のオレでは考えられなかったことだ。まさか自分が積極的に人と交流する仕事を選ぶとは思わなかった。
けれどこの道を選んだのは正解だった気がする。
たくさんの子供たちと接することによって、より自分をいい方向へ変えることができたからだ。
これも全て彼女のおかげだな。

ところで、その彼女がまだ現れない。参ったな、もうすぐ開始なのに。
すると、オレの後ろのドアが開いた。
そこから現れたのは純白のウェディングドレスに身を包んだ彩花だった。
オレは思わず、うわぁと感嘆の声を漏らした。
「……綺麗だよ、彩花。今までで一番」
「ありがとう。涼介くんのタキシードも似合ってるよ」
「そうか?なんだか照れくさいな」
「私も」
二人で笑いあう。どこまでもふわふわした雰囲気だ。
数秒見つめ合って、また笑う。とてもとても幸せだ。
「そろそろ時間だね、行こうか」
「うん」
しっかりと手を取り合って、オレたちは前のドアを開けて式場へ入っていった。




「なんか、疲れたな」
「そうだね。でも楽しかったよ」
結婚式も終わり、オレたちはホテルに荷物を置いてからホテルの近くにある河原へ来ていた。
ここは何年もの間、彩花がスケッチスポットにしてきたところだ。よくデートもした、思い出の場所。
土手に座り込み2人寄り添って佇む。

「お~い、涼介」
オレを呼ぶ声がして振り向くと、そこには光城とありすがいた。
ありすのおなかは大きくふくらんでいる。新しい命が宿っているのだ。
2人はオレたちより3ヶ月ほど早く結婚した。いわゆる『できちゃった婚』ってやつ。
ありすはあれほど光城を拒絶していたのになぜ結婚を……って思ってありすに直接聞いてみたのだが、
「よくわかんない。けど彼は私を幸せにしてくれる何かを持っている気がするの」
とかなんとか言ってた。正直、ヨクワカラン。
けれど、こいつらならずっと幸せにやっていけそうな気がする。
もちろん、オレたちだってそうするさ。

少し話をしたあと、彼らは一緒に暮らす家へ帰っていった。
夕暮れの光を浴びて、オレと彩花は二人きりになった。
彩花は穏やかな顔をして微笑んでいる。そして、オレに向かって言う。
「いろいろあったよね。つらいことも楽しいことも」
「そうだな。いろいろあった」
「これからは?」
「もちろんいろいろあるよ。まだまだオレたちはスタートラインに立ったばかりなんだから」
「そうだね。いろいろありそうだけど、何よりも私を幸せにしてね」
「わかってる」
そうしてオレたちは見つめあう。彩花の潤んだ瞳がかわいらしい。
夕焼けのオレンジ色の光を浴びながら、そっとキスをした。

「ずっと、一緒だ」





fin.

       

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Neetsha