Neetel Inside 文芸新都
表紙

要するに触手の話なんだよ
最終話『要するに触手の話だったんだよ』

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 私と言う存在はなんなのだろうか。生き物であることは間違いない。自身の内臓器官などわかるはずもないが、多分、他の動物と同じで心臓が動き、血液が循環しているに違いない。ならば動物だろうか。……生き物、動物なら名称があるはずだが、私はそれを知らない。もちろん自分で捜しもしたし、結に捜してもらったこともあった。しかしながら、それらは全て徒労に終わったのだが。……と、ここまで考えておいて言うのもなんだが、私は自分が何者であるかなんて知らなくてもいいとも思う。知ったところで、私は変わらない。俗じみた話、私は目先の刹那的な愉しみがあればそれでいいのだろう。結と語らい、陽子さんの愚痴を聞き流し、プラスチックで出来た自分の寝床で寝る。たまには食事を作ることに挑戦してもいい、結の学校についていくことも楽しいさ。……そうして生きていけるだけでいい。
 しかし、ここはどこなのだろうか。今になって気付くが、私は真っ暗な地面が“無い”場所に放り出されていた。どこか懐かしいこの暗さだが、腕は動かせず、声も出せず、何も見えず、音は聞こえず、何も感じない。俯瞰的に、暗い場所に浮いているということだけがわかる。とても不安な気持ちとは裏腹に、奥底では安心を覚えるような、不思議な場所だ。そんなわけで、何も出来ないのなら考えるしかない。……なるほど、結局は同じことか。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。陽が見えない以上、時間の経過が把握できない。ずっと長いこと考えている気がする。……そうだな、この暗さは懐かしい。私が私と思い始めた頃、私はこんな暗さの中にいた。しかし、いつしか私は光が差していることに気付いたのだ。とても小さな穴から差し込むそれに、私は必死に腕を伸ばし続けた。動かないと思っていた腕は何時しか伸び縮みするようになり、光の向こうからは楽しそうな鳥の鳴き声。嗅覚をくすぐるのは、甘く蕩けるような花の匂い。そして、私は壷の中から出たのだ。
 とても長い、それとも一瞬か。依然として時間がわからない。……時間。壷から出た私は、時間と言う概念を知ってから数えたとしても、250年もの間生き続けてきた。声を発することが出来ることに気付き、人というものに出会い、目と耳で言葉を覚え、自我を確信出来るようになった。長い時間だ、それを考えれば今の時間など些細なものなのかもしれない。全ては比較、比べることで自我はようやく価値を判別し、結果としての知識を得る。だからこそ、私は自分と同じである存在を捜し求めていたのかもしれない。それは今の愉しみを続かせるために。
 混沌とした意識と戯れながら、私はある“変化”に気付く。針の先のように細い点、光だと辛うじて認識出来るそれが、真っ黒な空間の中に生まれていた。光だ。そう思った私の行動は一つで、いつの間にか動かせるようになった腕を光へ伸ばす。私の腕は伸びるのだ、あの遠くか細い光まで届くはずだ。呼吸をする、耳を澄まして、地面を感じ、力強く、私は光へ腕を伸ばした。

『要するに触手の話だったんだよ』 

 光を掴んだ感触が腕に伝わった瞬間、意識が覚醒した。……私は眠っていたのか? 急に目覚めたことで、人工の光がいやに視覚を刺激する。それを避けるように視界を狭めながら、私は周りを見渡した。部屋の中、自分が使っている寝床。別段変わりの無い、いつもの風景。
 頭の中が混濁としたまま、凝り固まった腕を伸び縮みさせ……ふと、気付く。床についている腕が数本あるのだが、どう動かしてみても感触が伝わってこない。強めに床へ押し付けるも、変わらず感触が無い。……どうしたことだ、これは。
 私が現状を把握出来ずに混乱していると、雑音と共に軽い足音が聞こえてきた。音のする方を見れば、黒い靄がかかった人間の姿があった。……そうだ、はっきりと姿を捉えることが出来ない。おぼろげな輪郭線は把握出来るものの、細かな部分が“染み”のように潰れている。
 誰なのか確認出来ず、私は警戒しつつ身を縮ませていると、やってきた人間が手らしき部分から何かを落とし、声を発した。
「……触手、■ん?」
「その声は結なのか」
 依然として混ざる雑音を無視して、私は声の主……結に応えた。瞬間、結らしき人間があっという間に私の体を抱き抱えてしまった。いきなりのことで驚きながら、私は腕を伸ばしつつ離れるように論す。
「ま、待つんだ、結なのだろう。どうしたというんだ」
「だって……触手さん……ずっと眠ってたから…■」
「結、泣いているのか?」
 ぽたぽたと腕を濡らすものを見て、私は体の力を抜いた。完全には把握出来ないが、どうやら私は結を悲しませるような事をしてしまったらしい。
 しばらくの間、結は私のことを離そうとはしなかった。その間、私は結の頭を撫で続けながら、自身の体の異変を考える。耳に混ざる雑音、視界に滲む黒い染み、感触が伝わってこない腕。まるで五感の全てに“がた”が来ているような。不便ではあるが生きていくには困らないだろう、そのちょっとした異変も、何か、嫌なものの前触れのようで、私は内心、恐怖する。
 そんな嫌なことを考えていると、私の体を捕まえていた腕の力が緩み、結の温もりが離れた。
「……すまない」
「別にっ、触手さんが謝るようなことじゃないよ。でも、わたし、心配してたから、だから。触手さん、目が覚めて、本当に良かった」
 落ち着いた結に話を聞けば、私は三ヶ月もの間、死んだように眠り続けていたという。私にとっては昨日の出来事、つまり、陽子さんの“りはびり”を見に結と病院へ行った日に気を失ってから、ゆうに三ヶ月も経っていたことに驚愕した。
 最初は、すぐに目が覚めると思っていたらしい。私のような生物がそうそう居るとは思えない、動物病院に連れて行くわけにもいかず、私の寝床に寝かせておいたそうだ。そして三日が経った時、私の体に起きている異変に、結が気付いたらしい。
「触手さん、ずっと前に言ってたでしょ、体が乾かないように、あの、ぬるぬるした液が勝手に出てくるんだ、って。でもね、私が見た時、触手さんの体、凄く乾いてた」
 普段、私の体からは、乾燥し過ぎないように粘液が分泌されている。しかし、気を失ってからはそれが無かったと。それで、結は毎日、私の体に水を与えてくれていたそうだ。
「今日も水をかけてあげようと思って、コップに入れて持ってきたんだけど、触手さんが動いてたから、驚いて落としちゃったの」
 そして、今に至る。
 私は結の話を聞いて考える。何度も考え、同じ結論に至った事だ。私は未だに自分と同じ生物を見たことがない。無論、結と一緒に調べることもしたが、見つからなかった。それはつまり、私が病気になっても、怪我をしても、死期が来たとしても、わからないということだ。200年あまりを生きている身として考えれば、今、私の体に起こっている異変は“寿命”が来たのだと考えれば、納得がいく。考えてみれば、私はとうに死んでいたのかもしれない。あの暗闇の中、か細い意識が残っていただけの身だ。粘液が分泌されていないのも、つまりはそういうこと。結が居なければ、私は死を迎えていただろう。……私は、今も死に掛けているのだ。
「触手さん? どうしたの、どこか痛い?」
「いや、そういうわけではない。到って元気だ。結が毎日水を与えてくれていたお陰だ。ありがとう」
 どういたしまして、と。結が照れるように身じろぎする。よくよく目を凝らして結を見れば、三ヶ月の間に少し大人びたように思える。髪が少し伸びているし、何よりも“よく話す”。以前のようにたどたどしい喋りではなく、ごく自然な会話だ。これはいい傾向なのだろうと、私は心の内にあったわだかまりが消えたような気がして、安心する。
「そういえば、陽子さんはどうなったのだ? 今は居ないようだが」
「お姉ちゃんはもう退院したよ。触手さ■が目を覚ました時には元気な姿でいなくちゃ、とか言って張り切ってたもん」
「そうか。それはよかった」
 嬉しそうに話す結を見て、思う。私がここに初めて来た頃、結を見て不憫だと思っていた頃が懐かしく感じる。あの頃は、なにがなんでもこの家族に幸せになってもらいたいと思い、様々なことを思案していた。そうしたことを思い出しながら、今目の前にいる結を見ると、心があたたかくなる。私の力とは到底言えたものではないが、それでも、私が“こうであって欲しい”と思った通りになったのことは、素直に嬉しく思う。
 そう、遣り残したことなんて、無いのだ。



 夜の帳が下りてしばらく経った頃。私がプラスチック製の寝床で結に水を与えられている時、玄関のほうで物音が鳴った。止むことの無い雑音が混じるものの、誰かが入ってきたのだということは辛うじて感じる。結もその音に気付いたのだろう、お姉ちゃんが帰ってきたよ、と私に一言残し、軽快な足音と共に玄関へ向かっていった。
 ほんの少しの間の後、先程の軽快な足音とは真逆の騒がしい足音がこちらへ向かってきた。音がする方を見れば、人が物凄い勢いで走ってくる光景。よく見えないが、間違いなく陽子さんだと把握する。
「触手さああああん!■」
「お、お姉ちゃんったら、飛びついたら触手さんが潰れちゃうよ」
 陽子さんが私の寝床へ飛びかかろうとした瞬間、急停止した。遅れて、陽子さんの後ろから結の困ったような声が聞こえてくる。
「おかえり、陽子さん」
 私は心の内で精一杯の笑顔を浮かべながら、挨拶をした。動きを止められて不満がっていた陽子さんが黙り、今度は静かに私のほうへ近付いてくる。
「ただいま、触手さん」
 そう言いながら、陽子さんは私の体を優しく撫ぜてくれた。今、陽子さんはとてもいい笑顔を浮かべているのだろう。だが、狙い済ましたかのように、顔の周りが黒く滲んでいる。……不便は無いと思っていたが、“ある”ものが“ない”のは、こんなにも悲しいのかと、私は陽子さんに応える声が震えないようにしながら、そう思う。
 しばらく、私が眠っている間に何があったのかを話してくれた陽子さん。いつの間にかこの場を離れていた結の声が、リビングのほうから聞こえてきた。どうやら晩御飯が出来たらしい。
「と、続きは食卓で話しましょうかね。触手さん、体の調子が悪いみたいけど、ご飯は食べれる?」
「わからないが、消化器官に異常は無いようだ。食べられるだろう」
「じゃ、行■ましょうか」
「む、うむ」
 問答無用で陽子さんが私を抱き抱え、リビングまで歩き始めた。そういえば、結に抱かれたことはあったが、陽子さんに抱かれたのは初めてかもしれない。……最初に来た頃は私の出す粘液を見て、あからさまに嫌な顔をしていた。ただ単に今は粘液が分泌されていないだけかもしれないが、嬉しく思う。嬉しさを通り越して、若干の恥ずかしさも感じるが。
「あ、お姉ちゃん、このお皿並べてくれる?」
「ちょっと待ってねー」
 よいしょ、と。掛け声を漏らして、陽子さんは私を椅子の上に置く。
「触手さんは病み上がりだしね、自分の席で待っててちょうだいな。もうすぐ準備出来るからね」
「ああ、ありがとう」
 自分の席、という言葉に喜んだことを悟られないよう、私はなるべく平静を装って応えた。
 いつの間にか、自分の席というものが出来るくらい、私はこの場所に長く居ついていたらしい。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、少なくとも、私にとっては嬉しいことなのだろう。目が覚めてから、終始あたたかな気持ちを感じているのが証拠だ。
 私がそうこう考えているうちに、机の上には色とりどりの料理が並べられていた。スクランブルエッグ、ポテトサラダ、味噌汁、トマトが飾られたレタスとキュウリを和えたもの、さらに鶏肉を揚げたものが視覚を刺激する。
 普段よりも量が多く感じる並べられた料理を見て驚いていると、結と陽子さんが台所から戻ってきた。そのまま自分の席に着く。
「それじゃ、触手さんの目が覚めたことをお祝いするという意味で■今日は庶民的なご馳走だわね」
「わたしが作ったのに庶民的とか、お姉ちゃん、食べたくないの?」
「そんなことはないわよ。むしろ、あたしが一番食べるつもりでいたわ」
 そう言って、陽子さんは手に持っていた瓶を鈍い音と共に机へ乗せる。なるほど、酒か。隣に座っている結は、困ったような怒っているような、複雑な表情を浮かべている。陽子さんが飲みすぎることを心配しているのだろう。
「お姉ちゃん、お酒ばっかり飲んでると、病院のおじさんに嫌われちゃうかもしれないよ」
「病院のおじさん、ああ、昨日……いや、三ヶ月前に見たあの男か」
「うん、聞いてよ触手さん。お姉ちゃんったらね、足が治ったのに“まだ痛い”なんて嘘ついて、おじさんに会いにいこうとしてたんだよ」
「そ、そんなこともあったわねー。というか、ちょっと、何勝手に言ってんのよ。それに今はちゃんと“普通”に会ってるわよ!」
「普通、ねー」
「普通か」
 しまった、と。そんな言葉を呟きながら、陽子さんは掌で自分の額を叩き、見るからに腹いせで結に抱きつく。抱きつかれた結は“やめて”と言いつつも、嬉しそうに笑っている。
 ……ああ、いい家族だ、と。淡白な言葉だが、そんなことを、心から思った。



 ――雪が降っている。もう何百と見てきたこの自然現象も、今となっては感慨深い。すっかり裸となった木には、葉の代わりに雪が積もっている。そんな光景から視線をずらせば、結が寒そうに白い息を吐きながら森の奥を見つめていた。
「すまない、結。寒いのなら、また日を改めてもいいのだが」
「いいよ。わたしと触手さんが初めて会った場所だ■ん。行きたくないわけがないよ」
「ありがとう」
 目が覚めてから、今日で一週間が経つ。依然として治る気配の無い体の異状は、むしろ酷くなっていた。既に腕のほとんどが動かず、視覚も聴覚も不便の一言では済ませられなくなるほど、異常を来たしている。
 昨日、私は結に一つの頼みごとをした。私と結が初めて会った、あの小屋に連れて行って欲しいと。理由は話さなかった。頼んでいるにもかかわらず理由を話そうとしない私を、特に責めるわけでもなく、結は気持ちのいい返事をしてくれた。
 理由は、そう、“帰りたくなった”としか言いようがない。着実に悪化していく体に抗おうとも思った。だが、もう私がやれることなんて無いのだ。結は明るくなった。陽子さんとも楽しく会話している。聞けば、学校でも友達が一人出来たそうだ。そう、全て私が望んでいたこと。その全てが叶ったのだ、それ以上、私は何も望むまい。……死は確実に来る。これは動物としての本能に近いのかもしれない。死ぬのならばどこでもいいとも思えるが、私は、最近になって無性に“帰りたい”という衝動を感じていた。帰巣本能とでも言うのだろうか。私が外を“意識”した頃に入っていた壷。あそこへ帰りたいと、どうしても抜け出したかった壷だというのに、ここに来てそんな気持ちが芽生えたのだ。
 暖かい鞄に揺られながら思う。私は、結達に酷いことをしているのだろう。死期が近付いていることを執拗に隠し、今日、私は何も言わずに“消えよう”としているのだから。
「着いたよ、触手さん」
 結の言葉を聞いて、私は鞄から体を乗り出す。目の前には雪が積もり白く染められた木造の小屋が建っていた。……私が生きてきた時間から考えれば、三、四ヶ月など塵のような時間だろうに、ここまで懐かしいと思えるのはやはり、ここが私の生まれた場所だからだろうか。
 私は無言のまま鞄から降りると、そのまま小屋へ向かう。
「しょ、触手さん、冷たいから、入り■いならわたしが連れてくよ」
「大丈夫だ、私は寒さに強いんだよ。それに、ちょうど水分も足りなくなっていた頃だったのでな、ちょうどいい」
 そう言って結の制止を聞かず、私は進む。
 今言ったことは嘘ではない。事実、私の体は乾いているし、ほとんどの腕が何も感じないので、雪の上でも苦ではない。だが、大丈夫という言葉は嘘だろう。こうして、自分の力で歩けていることが驚きだ。
 這うように進み、やっと小屋の扉の前まで辿り着く。後ろから雪を踏みしめる音が聞こえ、振り向こうと思った時、後ろから伸びてきた手が扉を開けた。
「ほんとに、大丈夫?」
「あ、ああ」
 今、完全に結の手以外のものが見えていなかった。私は動揺を悟られないようにすぐさま応え、小屋の中に入る。
「ちょっと暗いね。まだお昼なのに。っと」
 ここには電気などという便利なものは来ていない。明かりがない小屋に途惑いながら、結は傍にあった椅子に腰掛ける。私はすぐには落ち着こうとせず、うろうろと小屋を這い回っていた。
 雨漏りは、していないらしい。一応、小屋の状態を良く保つために、修理まがいのことはしていたが、しばらく来なくても大丈夫だったようだ。もう戻ってこないとさえ思ったこの場所に戻ってきて、変わりがない様子に安心するとは。私も中々に俗じみたものだな。
「……すごいね、まだ金木犀の香りが残っ■る」
「そうだ、な。ここの傍では毎年金木犀の花が咲く。もともと密閉された小屋ではないのだ、香りが染み付いているのだろう」
「ふーん……」
 私は、既に嗅覚の機能は働いていなかった。数日前のことだ、食事の際に何を食べても味を感じなかったと同時に、匂いまでもがわからなくなっていた。……限界だと思い始めたのは、その時だ。
 狭まっている視界の中、小屋の中を這っていると、ようやく目当ての壷を見つけることができた。私が出た時のまま、横に穴が開いている。正確には、私の成長に耐えられなかった壷に“ひび”が入り、そのひびに私が力を加えた所為で出来たものなのだが。……中を見るが、何も入っていない。それはそうだ、どのような経緯かはわからないが、元より私しか入っていなかったのだから。壷には蓋がしてあり、蓋の上には大きな石が置かれていた。とてもじゃないが、私では到底持ち上げられない重さの石が。それらを見る限り、“どうして”私が壷に入っていたのか、その理由が垣間見れる気がする。深くは考えないようにしていることだ。
 私は目当てのものを見つけたので、結の傍まで戻る。大丈夫じゃない体を床に寝かせると、思いのほかに気持ちが良かった。眠気を伴なう気持ちよさ。気を許せばすぐにでも眠ってしまいそうで、私はそれを紛らわすために、結に話しかける。
「今日はありがとう、結。もう寒いだろう、先に帰るか?」
「……な、なんで? 触手さん、一人じゃ帰れないじゃん。触手さ■がちゃんと鞄に入ってくれたら、わたしは帰るよ」
「結……」
 小屋の中が暗いだけではない。既に視界のほとんどが黒く滲んでいる。そんな中で、結は椅子から立ち上がる気配を感じた。
 ……多分、結は薄々気付いているのだろう。私が帰らない、と。それはそうだろう、私は結とそれなりに長く過ごした。結がやりたいことを私が少しわかるように、結もまた、私がやりたいことをわかっているに違いない。自惚れかとも思うが、現に、結の態度が先程から明らかにおかしい。
「その、結、私は――」
「帰ろうよ、触手さん。もう寒いし、無理■たらまた眠っちゃうかもしれないよ。ほ■、鞄の中、寒くないようにって思って、カイロを入れておいたから。ちゃんと代えのも持ってきたし、帰りも暖かいよ。だか■、帰ろうよ……」
「聞いてくれ、結」
「やだ、よ」
 立っていた結が、椅子に座る。木の軋む音が小屋に響いた。
 雑音交じりの否定の言葉を聞いて、私は黙り込む。
「だって、触手さん、だってさ、やっとわたし、心から楽しいって思■るようになってきたんだよ? 全部、触手さんがいてくれたから。これから、触手さんがいてくれたら、もっと楽しくなる、そう思って■のに、なんで、なんでぇ」
「……ありがとう」
「お礼を言うのはわた■のほうだよ■…。ねえ、触手さん、もしか■て、触手さんは、ずっと楽しくなかったの? もう、いやにな■たの?」
 結の声色が、段々と濡れたものになっていく。多分、結は今、泣いている。声に雑音が混じろうとも、視界に顔が映らなくとも、わかってしまう。……私に目があれば、同じく、涙というものを流しているのだろうか。こんなにも胸を締め付ける、悲しいという感情。この小屋に居続ければ、決して味わうことはなかっただろうそれを、私は否定しない。これは、同時に私が結のことをとても好きだということだから。
「私は、結、私はね、結にとても感謝している。私は結に笑って欲しいと、最初に会った時、思ったのだ。そして、それは叶えられた。私のお陰だと言うが、私も、結、君に色々なものを貰ったのだ」
「触手、■ん。やだぁ、そんな“おわかれ”みたいなこ■、今言わな■でよぉ」
 ぐっ、と。体が何かに圧迫され、宙に浮く感覚。そうか、結に抱かれているのか。……ああ、結はかいろというもので鞄を暖めていたらしいが、なあに、結に抱かれているほうが、もっと暖かいじゃないか。
「わたし、わ■しね、初■て触手さ■と会った時から、なんと■くお父さんみたいって、思っ■たんだ。お姉■ゃんもね、わた■と同じこと、思■てたんだよ。だからね、触手さんがいやじゃな■ったら、ずっと、いてほしい■て、言おうと、思って■のにぃ」
「ああ……それは、幸せそうだ。だが、済まない。私はもう、寿命が来たようだ。さすがに他の生物と比べれば、長寿というには生き過ぎたからね」
「ひ■ぅ」
 結が泣いている。あえて、私が“死ぬ”という言葉を避けていたのだろう、結は私の言葉を聞いて、本格的に泣き始めてしまった。不思議と体に落ちてくる液体、暖かな涙だけは、感触として伝わってきている。
 私もそれにつられて、胸が張り裂けそうな感覚に悩まされる。芯の通った悲しみという棒が、胸を貫くような。だが、涙は流れない。それも今に限ればよかったのかもしれない。私まで涙を流しながら泣いていたら、話をするどころではなかっただろう。
 気持ちを落ち着かせた私は、同じように少し落ち着きを取り戻した結に語りかける。
「結、私が死ぬということは、逃れられようのない現実なのだ。犬や猫でも、寿命が来れば死んでしまう。私は、来るのが少し遅かっただけなのだ。お願いだ、私を“帰らせて”くれないだろうか」
 そう言って、私は最後に残った動く腕を、小屋の奥にある壷に向ける。結は見てくれているのだろうか、そんな心配もしたが、ゆったりとした浮遊感があり、私を持ち上げたのだと安心する。
 ゆっくりと動いている感じがする。壷までそう長い距離ではない。結にしてみれば、ほんの十数歩だろう。だが、まだ着かない。そして、急に止まる感覚。
「■■■■■■」
 その内、結が口を開いた。とうとう雑音しか聞こえなくなったようだな。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「ああ」
 動き出す感覚。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」 
「そうだな」
 再度、止まる感覚。次に浮遊感。どうやら、私の意図していたことをわかってくれたらしい。暖かな結から離れ、閉塞的な場所に置かれる。……壷の中だ。
 そう、死ぬならば、生まれた場所で死にたい。人間ではない私が、人間らしく意識を持ってしまった為に、結には酷なことを頼んでしまった。心残りは無いと思っていたが、今、心残りが出来てしまった。出来れば、腕で結の頭を撫ぜながら謝りたい。だが、先程まで動いていた最後の一本も、動かなくなったようだ。もう、自分では動けない。
 “帰りたい”という気持ちが満たされた所為だろうか、確固とした意識が薄れてゆく。そうか、もう考えることも出来なくなるのか。……では、どうせ最後だ、我が侭ついでにもう一つ、我が侭を言おう。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「ああ、結、体を撫ぜて、くれないか」
「■■■■■■」
「ありがとう」
 既に結の声は聞き取れなかった。私自身も、うまく言葉を話せているかわからない。だが、私のお願い通りに、体はあたたかなものに包まれていた。
 ――ああ、あたたかいな。



「触手さん」
 ぐったりとした触手に、結が話しかける。目からはさっきから止まることなく涙が流れているが、それを堪えるように、気丈に声を絞り出す。
「わたし、もっと友達作るね。触手さんがいなくなっても大丈夫なくらい、たくさん作るよ。お姉ちゃんとだって、触手さんがいなくなった分、もっとお話して、仲良くする」
「ああ」
 くぐもったような声。結の手から伝わってくるのは冷たさだけで、わかってしまう。触手はもう死ぬのだと、その事実が、冷たさとなって伝わってきているのだから。
「あのプラスチックの箱、捨てるのはいやだから、動物を飼えるようにお姉ちゃんに頼むよ。わたしね、ねこが好きなんだ。だから、ねこさんがいれば、触手さんがいなくなっても変わらないよ」 
「そうだな」
 床を軋ませながら、結は泣きながら話し続ける。触手さんは自分にとって、本当にお父さんのような存在だった。同じ人間がしてくれなかったことを、触手さんはやってくれた。わたしの話を聞いてくれるという、それだけのこと。それだけでも、自分にとって、それがどんなに大切で嬉しかったことかは、今の自分を見ればわかる。
 だから、せめて、安心させてあげたい。わたしはもう一人でも大丈夫だって、最初に会った時から心配してくれていた触手さんに、最後まで心配させるわけにはいかない、と。
「だからね、触手さん、私は大丈夫だから、頑張るから、うっ、頑張るから」
 結は壷の前まで来ると、最後に一度強く抱きしめ、壷の穴に触手をそっと置いた。端から見れば、それは乾ききったピンク色のグロテスクなものが転がっているだけに見えるだろう。だが、結にとってそれはかけがえのないもので、だからこそ、流れる涙は止められなかった。
 結が触手を黙ってみていると、一瞬、痙攣するように動いた。何か喋ろうとしているようだが、上手く聞き取れない。いや、触手が上手く喋られていないのだろう。結はたまらず、触手の体を撫でる。優しく、包み込むように。
「うん、うんっ」
 何を言っているのかはわからない。けれども、結は応えるように何度も頷いて、触手の体を撫で続けた。
 そうして撫で続けているうちに、結は手に伝わってくる鼓動が段々と弱まってきたことに気付く。さっきまで冷たかった触手が、さらに冷たくなったような気がして、何度も何度も撫でる。しかし、段々と薄れる鼓動は、ぴたりと、あまりにもあっけなく止まってしまった。
「うっ、うぅ……触手さん……やだよぉ、死んじゃ、やだよぉ」
 もう、自分の声は届くことは無い。そう思った瞬間、結の口から悲しみの言葉が溢れ始めた。一緒に出会いの場所を訪ねただけなのに、今はもう、一人。
 三ヶ月前、触手さんが気を失ってから、何度も死んでしまったのかと思った。でも、ちゃんと水を上げれば触手につやが戻ったし、時々動きもしていた。だから、一週間前、触手さんが喋ってくれて、本当に嬉しかった。死ななかったんだ、って。でも、何日か経つうちに気付いた。以前よりも触手さんに元気が無いということに。話をすればするほど、どこか体の調子が悪いんだと気付いてしまう。
 そして、今日。触手さんの声は、あまりにも弱々しかった。さすがに“そうなんじゃないのか”という考えも浮かんでくる。そう、触手さんは、やっぱり死んでしまうのではないか、という。
「ひっく、うくっ、うぇぇ、触手さん……」
 予想は当たった。こうやって撫で続けても、触手さんはもう何も言わない。腕を触ったら、“さっ、さわっ、うひぃ”なんて、いつもの触手さんと違って可愛らしい声が聞こえたけど、今は何も言わない。触手さんは、死んだんだ。
 結が一人で泣き続け、十数分。ようやく落ち着いた結は、涙を上着で強引に拭い、立ち上がる。そのまま何度か振り返りつつも、結は、小屋から出て行った。



 ある所に、普通の触手が生きていました。
 ホースくらいの太さで赤みを帯びた触手。表面に付着しているぬるぬるとした液体が、聞き様によっては卑猥な音を出しています。そんな触手が現代の、とある町のマンション、二人の人間が暮らしている一室で、暖かな笑いに囲まれながら生きていました。
 もちろん前述したとおり、触手は生きています。生きているということは、ある程度成長もします。――そして、寿命もあります。生き物である以上、絶対に寿命は存在するのです。生きる永久機関がごとく不死なことがあるわけもなく。
 ある所に、普通の触手が寿命を迎えました。




       

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