Neetel Inside 文芸新都
表紙

要するに触手の話なんだよ
第三話『君が悩んで私は悲しみ』

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 私が茅山家に住み着いてから、既に十四日が経過した。私自身、様々な現代の事柄に戸惑いを感じつつも、徐々に慣れつつある。結は初めからだが、陽子さんも私という存在に慣れてくれたようで、最近は気兼ねなく会話することも多い。
 確かに現状は上手くいっているように思える。幸せすら感じるほどだ。しかし、私は結への恩返しを諦めきれていなかった。依然として陽子さんとの間に会話と呼べるものは少ないし、何度かついて行った学校でもなんら変わることがなく。……もしかしたら、と。私が不憫だと感じているだけで、結自身は別段気にもしていないのかもしれない。それが当たり前で、実際は幸せなのかもしれない、と、そんなことを考えてしまう時がある。それらを考えると、私は結のことを何もわかっていないのだと気付かされる。そんな私は何も出来ないと知りつつも、今日もまた学校について行こうと思う。それが最善だと信じて。


『君が悩んで私は悲しみ』


 早朝。朦朧としている意識を覚醒させながら、乾燥してしまった体を粘液が分泌されている腕で丁寧に撫ぜる。そのまま絡まってしまっている腕をほどき、完全に目が覚めたことを確認する。体の方はまだ眠気が取れていないようで、若干動きが鈍い。……と、食欲をそそる匂いが嗅覚を刺激した。時計を見てみると、六時三十分。なるほど、結がもう起きているのか。私は腕を伸び縮みさせながら、プラスチックの寝床から這い出る。なるべく床を汚さないよう気をつけて腕を動かしながら、結が居ると思われる台所へ向かう。
 台所に辿り着くと、案の定結がエプロンを付けて朝食を作っていた。台座に乗っている辺りが微笑ましく感じる。私に気付いたのか、結が振り返ったので、挨拶を言う。
「おはよう、結。今日も朝食を作ってくれて助かる」
「おはよう触手さん。別に気にしなくていいよ、料理はわたしが好きだからやってるだけなんだから」
 結はそう言って微笑むと、背を向けて作業を再開する。対して、手持ち無沙汰になってしまった私は、とりあえず食器を机に並べることにした。腕を限界まで伸ばし、わりと高い所に位置する棚から食器を取り出す。見たところ作られている料理は“すくらんぶるえっぐ”――日本語にすれば混ぜた卵だと陽子さんが教えてくれた――らしい。“目玉焼き”と違い、海の向こうの人が考える名称は真っ当なものなのだと感じながら、白くて平べったい皿を三つ取り出す。私の腕は非常に滑りやすいので、かなり気を使う作業だ。
「あー、無理しなくていいよ。わたしがやるから」
「む、そ、そうか」
 なにやら慌てて結が私を止める。私が腕を縮ませたのを確認すると結はこちらに台座を両手に抱えて来て、てきぱきと食器を全て用意してしまった。……再び手持ち無沙汰になってしまった私は、そこまで信用出来ないのかと一人落ち込む。結はもちろん悪気があったわけではないのだろう、微笑みながら“もうちょっとだからね”、などと私の頭を撫でながら言い、台所での作業に戻る。することがなくなってしまったので、仕方が無いから七時を回った時計を見て、私は陽子さんを起こすことにした。普段は七時三十分に家を出ているので、もうそろそろ用意を始めなければ間に合わないだろう。私は結に一瞥すると、陽子さんの部屋に向かった。
 木製の扉。金属の取っ手に腕をかけて下に動かし、扉を開ける。そのまま目に入ってくる光景に、私は目を背けたくなる衝動を覚える。今までに数回しか目にしたことがないのだが、陽子さんの部屋はいやに目に悪い色で構成されている。薄い桃色の物が大部分を占めているのだ。自然の中にはあまり見られない色のせいなのか、私の視覚には少々刺激が強い。
 布と綿で出来ている作り物に触らないように――動物を象った物で、触ったら怒られると結に教えてもらった――布団へ近付き、陽子さんの名を呼ぶ。何度か掛け布団の上から揺するも、反応は無い。これも結から教えてもらったのだが、陽子さんは“低血圧”とやらで朝早くに起きることが苦手らしい。なにかの病気なのかと思ったのだが、そうではないとのこと。私は先程よりも強く揺らしながら、少し厳しめな声で陽子さんの名を呼ぶ。
「う、うん……お父さん……」
 ……またか。陽子さんは寝返りを打ちながら、眠たそうな声で寝言を漏らす。私はお父さんと呼ばれたことにより、またも不思議な感情が湧きあがるのを感じていた。これはなんなのだろうか。あたたかな気持ちと似ている感じなのだが、どうにもくすぐったい。嫌かと言われればそうではなく、どちらかと言えば心地よい響き。と、いつまでも呆けていると結がせっかく作った朝食が冷めてしまうかもしれないので、半ば強攻策、陽子さんが頭から被っている掛け布団を無理矢理下に降ろした。
「ちょ、さむっ! 誰よお、もう」
「気持ちよさそうに寝ているところ申し訳ないのだが、そろそろ起きないとまずいのではないのだろうか」
「なんだ、触手さんか……って、もうこんな時間!」
 この部屋と同じような薄い桃色の寝巻きを着ている陽子さんが、枕元にある時計を手に取り、非常に焦った表情を見せる。そのまま私に対し挨拶を言うと、“着替えるから出て行って”と部屋から追い出されてしまった。私は部屋から出て行く際に少々呆れ気味に“深夜での深酒は止しておいたほうがいい”と言い残し、返事を待たずに扉を閉めた。すぐに扉の向こうから“わかってるわよー”と間延びした声が返ってきて、私は心の内で笑いながら台所の方へと戻った。
 戻ってみると、ちょうど結が皿に料理の盛り付けをしているところだった。私はそんな結の姿を見ながら、既に定位置となっている“私の席”に座る。手伝おうとも思ったのだが、なんせ先程のように止められては立つ瀬がなくなるというものなので、無言でてきぱきとした結の動きを見つめ続ける。こうして見ると、普段のゆっくりとした口調と違い、好きなことに関しては積極的に動いているようだ。興味が無いことには普段の口調のまま、やる気のなさそうに動いているようだが。少しでも結のことを理解できるよう、細かな部分も観察していたい。そう思って見ていると、なにやら結の動きが止まる。手に持っていた平たい鍋を流し台に置き、少し恥ずかしそうな表情で私の方に振り返った。
「その、見てておもしろい?」
「面白いとかではなく、単に見ていたかっただけだ。気に障ったのならすまない」
「そういうわけじゃないんだけど……見られるのって、恥ずかしいんだね」
「そう、なのだろうか」
 そもそも、どこに目があるのかわからない私に“見る”という言葉が正しいのかどうかはわからない。ただ、この間も思ったように視線というものは存在しているようで、結にはそれが恥ずかしかったようだ。私は結から目をそらして、机の上に並べられた食欲を刺激する朝食を見つめる。
「べつに触手さんに見られるのが嫌ってわけじゃないんだよ?」
「……ただ、その、羞恥心というのはあまり感じたくはないものだと私は解釈しているので、それを結が感じているというのなら、私は見ることをやめておく」
「触手さんって難しい言葉、いっぱい知ってるんだね」
 本当に気にはしていなかったようで、何故か私の語彙を褒める結。しかしながら褒められるのは初めてなので、私は歳に似合わず照れてしまう。そんな私を見て、結が笑いながら朝食の準備を再開した。



「いつも通り、結の作ったご飯は美味しいわねえ」
 時間が差し迫っているというのに、陽子さんはゆっくりとした食事をしていた。私は気になって時間を指摘しようと思ったが、さすがに口煩いだろうと踏みとどまる。
 陽子さんは料理を口にするたびに結のことを褒めるのだが、これもいつも通り、結は興味が無さそうに相槌を打つだけだ。そんな光景を見慣れたもの。私が慣れてしまったのだ、陽子さんにとってはこの反応が当たり前なのだろう、別に気分を害した様子もなく、微笑んでいる。
「おっと、ゆっくりしてる場合じゃないわね」
 言うが早く、陽子さんは皿に盛られていたすくらんぶるえっぐを一気に掻っ込み、同時に白米も平らげ、お茶の入ったコップを空にした。一連の流れるような動作を見て、私は感心してしまう。“ごちそうさま”と一言残し、陽子さんは鞄を肩にかけて慌しく玄関へ向かう。結は興味がなさそうにもそもそと朝食を食っているが、見送りが一人もいないのは寂しいので、私は椅子から降りて陽子さんの後を追う。急いでいるようなので、私は陽子さんの背中に向かって簡潔に言い放つ。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「やあねえ。私はれっきとした大人なんですから、その言葉は結に言ってやってちょうだい」
 右手で招くような動作をしながら笑う陽子さん。確かにそうだと、陽子さんに釣られて私も笑ってしまう。そのまま今日も結が通う学校へとついて行く節を伝え、“どうだったか教えてね”と言いながら陽子さんは行ってしまった。急に寂しい空気となった玄関を後にして、食卓に戻る。
「見送りはしなくてよかったのか?」
「うん」
 あまりにも陽子さんに対しての反応が淡白すぎるので、私は結に対して聞いてみるも、やはり返ってきたのは淡白な返事。……まあ、そう簡単に変わることではないだろう。これが茅山家の日常なのだと、私は強引に自分を納得させて席に戻る。無言の食卓というのはあまり食が進むものではないが、それこそ無いもの強請りだと、すっかり冷めてしまったすくらんぶるえっぐを摂取する。
「……そういえば、触手さんの口ってどこにあるの?」
 珍しく、結が興味ありげに私の食事する様を観察していた。確かに何本もの腕が“のたくって”いるようにしか見えないので、その辺りは疑問に思うのだろう。私は完全に摂取し終えたことを確認すると、腕をほどいて結に向き直る。
「私も自分の体を完全に理解しているというわけではないのだが、どうやら胴体となる場所には無く、この腕にあるようだ」
 そう言いながら、私はゆらゆらと桃色の腕を結の目の前で揺らして見せる。結は興味津々と言った風に、目を輝かせながら右へ左へと揺れる触手に合わせて首を振る。興味を持たれるのは嬉しいのだが、その、結は普段このような顔をしないためか、何をされるのかわからないという恐怖感に襲われる。……まあ結のことだ、そんな突拍子もないことはしないだろう。そう思ったのも束の間、結はまるで獲物を捕らえる猫科の動物が如く、素早く私の腕を両手で掴んだ。
「うへっ、あ」
「ご、ごめんなさい。痛かったの?」
「い、いやはっ、痛くはない、ぞうっ。だがそ、の、やっぱり離してえっ、くれ」
「わかった……」
 名残惜しそうに私の腕から手を離した結は、なにかを言いたげな目でこちらを見る。とりあえず私は平常心に戻るため、深く呼吸。よくよく考えれば、私は他の者に腕を触らせたことがなかったのだ。まさかここまで敏感なものだとは、普段使う分には困っていなかったため、思いもよらなかった。情けない声を出してしまったと、今になって後悔する。
 私が平常心を取り戻す頃には、既に結は学校へ行く支度を整えていた。私も今日はついて行くことを思い出し、台所からビニール袋を一つ拝借。そのまま再度腕を握られないかと少し警戒しながら、結の後についてゆく。腕のことは既に結の頭の中に無いようで、私は安心して自分からビニール袋に入った。
「じゃあ、鞄に入っててね。また少し我慢してもらうけど」
「ああ、問題なぁっ、いっ」
「……ふふっ」
 鞄に入れると言って持ち上げられた瞬間、またもくすぐったいような痛いような気持ちがいいような感覚が全身を襲う。思いっきり腕が掴まれていることを確認すると、私は恨みがましい目――の、つもりだ――で結のことを見る。見るからに“悪戯しました”といった顔で、結は聞くからに反省していない口調で“ごめんね”の一言。
 私は少しばかり機嫌が悪くなった。……が、無口になった私を見かねてか、お詫びに今日の夕食は私の好物である“ぽてとさらだ”を作ってくれると言うので、許そうと思う。



 昼。太陽が真上に来て、少し冷える風が吹く中、私と結は屋上に来ていた。“朝食の残りと簡単なものしか無いけど”と言われて渡された弁当は、謙虚な言葉に反して美味い。結は私が美味いと言うたびに目を細めて笑ってくれる。わざわざ私の分まで用意してくれた結には、感謝の言葉しか見当たらない。
 久しぶりに屋外で食事をした気がする。すでにあの青臭い空気の記憶が薄れかかっている辺り、私も薄情と言うかなんと言うのか。それでもこの場所、屋上の空気は中々に綺麗だ。外に居るのだと実感させてくれる。結はそんなこの場所が好きなようで、昼はいつもここで食べているようだ。無言ながらも穏やかな空気を纏っている結は、ひつじ雲が広がる空の向こうを見つめていた。不意に何を考えているのか気になってしまい、私は声をかける。
「何を考えているんだ?」
「……ん。お父さんとお母さんのこと」
 少し表情が陰るも、感情を表に出そうとしない結。私は陽子さんに本当のことを教えてもらったが、結の中では、未だに自分を捨てていった者としての思いが強いのだろう。抑えているのは、たぶん怒りだ。
 私は空になった弁当の蓋を閉めて、結の方に体を向ける。
「やっぱり、両親と会いたいのか?」
「そういうわけじゃない。会ったって、いまさらだし」
「そういうものなのだろうか。……結はなんで両親がいなくなってしまったのか覚えているのか?」
「よくおぼえてない」
 簡潔なやり取り。まるで私が問い詰めているように聞こえるので、少し黙る。
 受け応えの最中も、そして今も、結は呆けたように遠くを見つめているだけだ。まだ十三歳である結には、早すぎる表情。私は多くの子供を見てきたというわけではないが、この年齢ならばもう少し笑っていてもおかしくないと思う。結の普段は、まるで何事にも興味が失せたような、壮齢を思わせる静けさ。
 箸が途中で止まってしまっている結の弁当に視線を下ろし、再度上げる。結のこんな姿を見るのは苦痛だ。自分を捨てたという虚像が結をこんな風にしていると言うのならば、私は今すぐにでも真実をこの口で伝えたい。……でも、それは私が踏み込めるところではない。それを伝えられるのは陽子さん、彼女にしかその資格はない。彼女の苦しみもまた深いのだろう。……考えれば考えるほど、心が痛くなる家族。当事者でも何でもないのに、私は胸が熱くなる。息が苦しい。声が震えそうだ。
「お父さん達、今頃なにしてるんだろう」
 そう言って、結は弁当の残りを食べだす。
 私には目がない。口もない。耳もない。どこから視界を確保しているのかわからないし、どこから喋っているのかもわからない。音が聞こえる原因も謎だ。……でも、今はそれに感謝したい。私に目があれば、涙で濡れていたことだろう。口があれば、嗚咽の声を漏らしていただろう。耳があれば、真っ赤になった恥ずかしいそれを見せ付けていたに違いない。
 無表情で美味しいはずの弁当を食べ続ける結を見ながら、私はこの少女の冷えた心をあたたかなものにしたいと、再度思う。……今夜辺り、陽子さんに相談してみよう。そろそろ真実を話してみないか、と。
 お互い、思うところがあるのを感じていたのだろう。私も結も互いに何を言うわけでもなく、自然な形で屋上を後にした。



 がちゃん、と。鞄越しだからだろう、くぐもった音を鳴らしながら金属製の扉が閉まる。外で遊び子供たちの喧騒や、空を舞う鳥達の声も、これによりぱったりと止んでしまう。静かな玄関。……昼の休みに話して以来、私と結は言葉を交わすことがなかった。別に険悪な雰囲気というわけでもなく、ただ、“そんな気分”だったとしか言いようがないのだが。
 急にとすんと硬いものが鞄の下に生まれる。結が鞄を下ろしたのだと気付いた瞬間、人工の光が鞄の中を照らす。上を見れば、普段通り何を考えているのかわからない結の顔があった。無言のままビニール袋ごと持ち上げられた私は、丁寧に床に置かれる。
「ありがとう」
「……いいよ。じゃあわたし、手洗ってくるから」
 声を出すことを躊躇われる空気だったが、私は意を決して一言のお礼を言った。結は会話するつもりはなかったのだろう、少しの間が空いた後に、応えてくれた。そのまま洗面所へ向かう結を見ながら、私はビニール袋から這い出る。今日は粘液が多めに分泌されたようなので、それをこぼさないようにそうっと持ち上げて、台所にあるプラスチック用のゴミ箱に入れた。……ふと、電気の付いていない“りびんぐ”に、点滅している光源があることに気付く。一体なんの光なのか気になり、私は近付いて確認するために腕を伸ばし、少し高い台の上にある機械を覗き込む。
《留守録――二件》
 ぼうっと光っている板に、そう書かれていた。これは人間たちが使っている機械だった覚えがある。確か、遠くに居る人間と会話が出来るというものだ。……と、それは結に教えてもらったのでわかるのだが、この“留守録”というのはなんなのだろうか。何やら光る突起物が大量に付いており、複雑なものだということは私にもわかる。無闇にそれらを押して台所の調理機械のように熱されては困ると警戒し、私は結が来るのを待つことにした。
 それから数分もしない内に、結が軽い足音を立てながらりびんぐにやってきた。
「結、なにやらこの機械が忙しなく光っているのだが、これはどういう状態なのだ」
 私が呼んでいることに気付いた結がこちらに向かってくる。“ちょっとごめんね”と私を持ち上げて横にずらした結は、別段難しい顔をするわけでもなく納得したようで、私に向き直る。
「留守録が二件あるってだけだよ。留守録っていうのは、わたし達がこの家を留守にしていた時に録音されたメッセージのこと」
「録……音……めっせーじ……」
「わかりやすく言うなら、声の置手紙みたいな感じ」
 珍しく結が困った顔をしながら、私にわかりやすいようにと説明してくれている。しかしながら、説明自体に私の知らない言葉が含まれているため、とてつもなく難しく聞こえてしまう。私は申し訳なく思いながらも、少し得意気な顔に変わった結の話を聞きながら頷く。私に表情というものがあれば、今こそ愛想笑いという笑い方をしていただろう。
「ありがとう、結。もう十分にわかったから、その、なんだ、“めっせーず”とやらを聞いたほうがいいんじゃないのか?」
「“メッセージ”だからね。……たぶん、何かのセールスだと思うんだけど」
 と、またも私の知らない言葉を言いながら、結は赤く点滅していた突起物を軽く指で押した。直後、甲高い音が部屋に響く。何事かと部屋を見渡すが、別に何かが起きたわけではなかった。きょろきょろしていた自分が結に見られてなかったことを確認して、軽く溜め息。ぴー、という音が何秒か続いた後、機械から人間の声が鳴り始めた。
『録、音、二件。十、二時、三十、一分。一件、再生、します。――――あ、もしもし結、あたしだけど。今日はちょっと仕事で遅くなっちゃいそうだから、あたしの分の晩御飯はいらないからね。触手さんと二人っきりになっちゃうから、戸締りはちゃんとしておくように。触手さんも、結がちゃんといい子にしてるかどうか見ててくださいね』
 急に陽子さんの声が聞こえて驚いたが、これがさっき結の言っていた“声の置手紙”なのだと納得する。なるほど、これは便利だ。……ちらりと結の顔をみると、少し不機嫌な表情を浮かべていた。多分、“ちゃんといい子にしてるか”、の部分が引っかかったのだろう。陽子さんも結が毎日いい子に留守番していることをわかっているはずなので、たぶんこれは陽子さんなりの冗談に違いない。私は結に“冗談だと思うぞ”となだめる。
 陽子さんの声が聞こえなくなり、また少し無機質な人間の声が鳴り始めた。
『十、六時、七、分。一件、再生、します。――――こちら、茅山陽子さんのご自宅でよろしいでしょうか? もし合っているのならば、至急読谷山中央病院までご連絡ください」
 ぴー、と。静かなりびんぐにまたも甲高い音が響き、それ以降、機械から音が流れることはなかった。……数十秒くらいだろうか。私と結、二人して沈黙していた。次いで、“病院”という言葉が気になった私は、黙っている結に向かって話しかける。
「結、今の声が病院と言っていたが、それと陽子さんは何の関係があるんだ?」
「……」
「結?」
 私は何度か結に呼びかけるが、依然としてもう光ることを止めた機械に向かいながら、結は沈黙を守っている。……なんだ。私は不安が胸に生まれるのを感じながら、結を呼びながら肩を腕で揺さぶる。それからさらに、数十秒。結はまるで何も無かったかのように表情を変えないまま、ゆっくちとこちらに首を曲げる。
「なに?」
「……なに、ではないだろう。様子が変だぞ、結。今機械から聞こえた声は、どういう意味なんだ、と聞いている」
「たぶん、お姉ちゃんが病院に運ばれたんだと思う」
「病院というのは……」
「怪我をしたり病気になったりしたら行くところ。家に連絡が来たってことは、どっちにしろひどい状態なのかもしれない」
 なんて、淡々と言い切ってしまう結。
 おかしい。何故そんなにも冷静でいられるのだ。私だけ驚愕し、心配していることを否定されたような気がして、少しばかりの怒りを覚えると同時に悲しくなる。結は私がそんなことを思っているとは露知らず、机を囲むようにして配置してある椅子に背を向けて座ってしまった。私はつられるように結の正面に位置する椅子に乗ると、焦る気持ちを抑えながら話しかける。
「連絡しなくてもいいのか」
「……そうだね」
「もしかしたら陽子さんがひどい状態になっているのかもしれないのだろう? なのに、なぜ何もしないんだ」
 言ってから、少し棘を含んだ物言いだったと後悔する。しかし、結は怖いくらいにその無表情を変えることなく、“うん”と繰り返すばかりだ。堪えられなくなった私は、腕を力強く机に打ちつけた。……予想に反して、“ぽん”という可愛らしい音しか出なかったが、それでも、結は初めて“私を見て”くれた。
「連絡……しなくちゃ、ね」
「ああ」
「……怒った?」
「少しだが」
 私の顔色をうかがう結に、“早く連絡したほうがいい”と促す。少し怯えた表情を浮かべながら席を立ち、先程の機械に向かう結。幼い子相手に感情を出しすぎたことで、私は後悔の念に心が潰れそうになった。……そうだ、柔らかな物腰でいることに努めているからこそ私は許容されている。ここで怒りの感情を露にしてしまったら、ただの“化け物”ではないか。それは自分を卑下する目的であっても、あまり使いたくない言葉だ。そんな言葉が、一瞬でも結の脳裏に浮かんだとしたら……私は、自分からここを出て行くだろう。
 淡々とした言葉の流れが聞こえる。“はい、はい”と連続して結の口から出る言葉は、なにを肯定して出た言葉なのか。なんにせよ、私に出来ることはない。だというのに、私は筋違いの怒りを結にぶつけてしまった。ここは結が嫌がってでも、心配は無いと言ってやるべきだったはずだ。ただ、それだけを言ってやればいいだけなのに……駄目だ、結が冷静なのに、私が動揺してどうする。先程机を叩いた腕で、もっと強く自分の胴体を叩く。これまた予想に反して、痛かった。……少し落ち着いた。
 結がこちらに戻ってくる姿を捉え、私は声をかける。
「結、その、悪かった。私が怒っていたのは、その」
「いいよ、気にしてない。それにわたしも、ごめんね。なんかわからなくなって、ぼーっとしてたから」
「……ありがとう」
 少しの間を置いて、私はお礼の言葉を漏らす。他人に許してもらうという、心がくすぐったくなるような空気が流れる中、私は頭を切り替えて結に聞く。先程の連絡で何かわかったのか、その“病院”に行かなくてもいいのか、など。
「お姉ちゃん、車に撥ねられちゃったんだって。命に別状はないらしいんだけど、足の骨を折っちゃって。来れるなら、手続きなんかがあるから来てほしいって」
「そうか。なら、今すぐにでも行かなければならないだろう」
「……うん」
「どうした?」
 結が今日何度目になるのかわからない、暗い声を出す。先程とは違い、表情は少しばかり暗い。
 何かを考えたのか、それとも単に面倒なだけなのか、私には結がわからない。けど、それならば聞けばいい。答えてくれなければそれでいい。……私にはそれしか出来ないが、“それ”をすることで何かが好転するのなら構わずやるだけだ。
「教えて、触手さん。わたし、どうすればいいんだろう。こういう時、どうしたらいいかわからないよ」
 つー、と。結の頬に一筋の涙が落ちる。本人は意図していなかったものなのだろう、はっと気付いた結はごしごしと手で目を擦る。私は傍にあったちり紙の箱を結の前に差し出しながら、言われた言葉を吟味する。たぶん、これが初めて。初めて私は、結の激しい感情を目の当たりにした。それは“わからない”という単純な動機だろうけど、これは進歩なのだと自然と納得する。わからなくて感情が揺れるのは、つまり、わかりたいということ。家族である陽子さんに対しても興味がないの一点張りだった結が、今涙を流しながらどうしたらいいかを聞いてきている。
 涙を拭き終わった結を見据えて、私は結の問いに答える。
「わからなくていい。感情というものは、本来、その場の状況に応じて自然に表現されるものだ。だから、“どうする”ではなく、“こうなった”でいいんだ。簡単に言ってしまえば、勝手に心が決めてくれるだろう。……私が偉そうに言ったところで、説得力はないのだがな」
「ううん。ありがと、触手さん。ちょっとだけど、わかった気がする」
「そうか」
「わたし病院に行ってくるよ」
 そう言って結は何かを振り切るように、力強く椅子から立ち上がった。心なしか、結の表情が少し明るくなったように感じる。私は溜め息を一つ漏らし、緊張でカチカチに硬くなっていた腕をほぐすように揺らす。……自分で言っていたが、偉そうなことを言ってしまった。たった三世帯の家族しか見ていない私が、まるで人間の感情というものを全て理解しているような物言いで。さらに、私のような“触手”が説教ときた。ここは自虐的な冗談で言う笑い所だろう。
 ゆらゆらと揺れている腕の向こうには、台所で“おみまいの品”を用意している結の姿。真っ赤な林檎を紙袋に入れている。怪我をしたばかりなのに食べられるのだろうか、なんていう野暮な質問は胸の内にしまい、微笑ましいと感じるその光景を見つめる。……私はついて行かないほうがいいだろう。ここからは結次第、私に出来るのは助言になっているのかもわからないことを言ってやるだけだ。
「ねえ、触手さんは」
「私は家で留守番していよう。腕に自信はないが、晩御飯を用意しておこうと思う」
「わかった。……一人で大丈夫?」
「何度か一人で留守番していたから心配はないさ。だから結は、陽子さんに会った時のことでもゆっくり考えればいい」
「……そうだね」
 林檎を紙袋に入れ終わったのだろう、結は台所から姿を現して、玄関に向かう。私も椅子から降りて玄関に向かう。少し急いだ感じで靴を履く結の背中に向かい、私は声をかける。“いってらっしゃい”、と。結は動きを止めることは無かったが、背を向けたまま、少し恥ずかしそうな声で“行ってきます”と応えてくれた。……別に意味があるやり取りをしたわけではない。ただの挨拶。だが、いつもとは違った“あたたかさ”を、私は感じることが出来た。
 靴を履き終わり、立ち上がる結。そのまま振り返ることなく金属製の扉を開けて、行ってしまった。
 私はしばらくその場に留まっていたが、嬉しさを感じずにはいられず、腕を伸び縮みさせる。少しばかり上機嫌で、美味しい晩御飯が作れるよう祈りながら台所に向かった。



 つづく

       

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Neetsha