第一話『あまのいわと』

 日本には天岩戸という伝説がある。太陽を司る神『天照大神』が重い岩の扉に閉じこもり、世界から太陽が消えてしまうというお話だ。
 太陽がなければ作物は育たない。困った他の神々達は天照大神を外に出すため、岩戸の前で盛大にお祭りを始めたそうだ。その音を聞いた天照大神は、祭囃子が気になり、遂に岩戸を開いて姿を表した……らしい。
「こんなに簡単にいったら苦労しないっての」
 僕は読み途中の本を無造作に放り投げた。本は机の上を滑り落ち、派手な音を立てて床に転がる。数学の藤間がこちらを睨んだ気がしたが、目を逸らして知らないふりをしたのでお咎めなしだった。
「おいおい勘弁してくれよ……」
 前の席に座る清田昭(きよたあきら)が小さく舌打ちした。自分が被害を被ることに極度の拒否反応を起こす清田にとって、とばっちりを受ける可能性があった今の行為は許しがたいものがあったのだろう。流石はノーリスクノーリターン男。クラスで嫌われるのも頷ける。
 僕は右手を顔の前に掲げて小声で謝ると、藤間が黒板の方を向いている隙に本を拾い鞄に入れた。ついでに机の上に出していた教科書類も全て仕舞っておく。まだ授業の時間は半分程度余っていたが、読者時間分を取り戻すことは出来そうにないしやる気も起きなかった。そうして机の上に何も無くなると、残りの時間を怠惰に過ごすのもいいだろうと思ってしまう。僕は頬杖をついて、何の気無しに誰もいない隣の席を見つめた。
 みんなのものよりほんの少しだけ日に焼けた、人の使った形跡がない机。表面は誰かが毎日拭き上げているらしく埃一つ付いていない。いつでも準備万端といった面持ちで、自分の出番を今か今かと待ち侘びながら太陽光を反射している姿は、どことなく哀愁を漂わせているようにも見て取れた。
「鹿島由美(かじまゆみ)、か」
 自然と彼女の名前が口をついて出た。机の主となるはずの人物の名である。本来ならば僕らと同じ部屋で苦楽を共にするクラスメイトなのだが、彼女の姿を見たことがある人間はこの教室に誰一人としていなかった。
 僕を除いて。
「……太陽を司るなんて仰々しい奴じゃないよなぁ」
 僕は鹿島の姿を思い描きながら、依然進展しない状況を憂いため息をついた。






 耳に不快感を覚えるブザーの音で我に返る。時計を見上げると午後3時を指していた。放課後の始まりだ。
「さて、帰るか」
 部活に所属していない生徒にとっては、帰宅する時刻である。かくいう僕もその一人。数学の藤間が教室を出ると同時に鞄を持ち上げ、僕は隣の教室に向かった。

 扉から次々出てくる生徒たちを掻き分け、教室を覗き込む。
「たいせー、帰るぞ」
 下校メイトの松本大成(まつもとたいせい)は、いつもと同じように名古屋巻きの女と話していた。遠目に見ても分かるほど盛り上がっており、二人とも僕の声には気付かなかったようだ。
「たいせー、帰るぞ!」
 少し大きめの声で呼ぶと、やっとこちらに気付いた大成が鞄を持って向かってきた。毎朝30分かけてセットしている自慢の髪形は、この時間になっても今だ健在だ。
「待たせたな。帰ろうぜ」
「ねぇー松本ぉ、なんでいつもこの人と一緒に帰ってるの?」
 なぜか名古屋巻きの女もついてきた。長く伸びた爪で大成のツンツン頭を叩いている。近くで見ると黒目のはっきりした瞳と長い睫毛が印象的だった。
「幼なじみなんだよ。家も近いから一緒に帰ってこいって親に言われてるんだ」
 頭を触られるのが嫌なのか、彼女の手を振りほどきながら大成が答えた。いつも遠目に見るだけだったが、こうして近くで見ると二人の仲の良さがよくわかる。
「ふぅん?」
 名古屋巻きの女はよく分かっていないようだった。
「なんかそれウケるね」
 何がだ。全くウケる要素はない。一々鼻に掛かる喋り方をする奴だ。初対面ながらにして、僕はこの女とは馬が合わないと確信した。
「いいから帰ろうぜ」
 また話し始められても面倒なので、僕は帰宅を促すことにした。
「おう」
「あ、じゃあうちも一緒に帰る」
 僕らが廊下を歩き出すと、大成の半歩後ろに彼女がついてきた。大成に嫌がる様子はない。
「悪いな、真人(まなと)。一緒に帰っていいか?」
「別に」
 彼女が帰宅するのを僕が止める権利はない。それに、僕から彼女に話し掛けるつもりは毛頭なかったので、どっちでも良かった。特に知り合う必要のある仲でもないし、向こうとしても大成と会話したいだけだろう。
 大成はもう一度だけ悪いな、と僕に謝ると、名古屋巻きの女に僕を紹介しだした。
「こいつは竹中(たけなか)真人。まぁなにかと有名人だと思うから知ってると思うけど」
「よろしくぅ。うちらなにげに話すの初めてだよね」
 彼女はへらへらしながら握手を求めてきた。別に何気でもなんでもなく、普通に会話するのは初めてだ。
「よろしくお願いします」
 相手の好意を断るのは不義理なので、こちらも手を差し延べる。別に義理なんて感じる必要はないんだけど、なんとなく。
「敬語とかウケる~」
 ニコニコしながら手をぶんぶん振り回された。初対面だというのに馴れ馴れしい人だ。
「んで、こっちが清水由香里(しみずゆかり)な」
 今度は僕が彼女を紹介された。
「清水でも由香里でも好きな方で呼んで」
 屈託のない笑顔を僕に向ける、名古屋巻きの女改め清水由香里さん。どうしてここまで脳天気に明るくなれるのか疑問だ。全く逆のベクトルに生きている人間なんだな、と妙な感心があった。
「よろしく。清水さん」
「よろしくぅ」
 言葉と同時に、清水さんはまたもや右手を差し出してきた。
 これまた反古にするのもアレなので、握り返しておく。
「あはは、また握手してるー、ウケる~!」
 全く何がウケるのかがわからない。そもそもウケるもなにも自分から手を差し出してきたのだ。清水さんの笑いのツボが理解できない。理解不能だ。
「真人、気にすんな。こいつの笑いのツボは人とズレてるんだよ」
 あ、理解可能。
「そんなことよりいいのかよ由香里。お前いつも他のグループと帰ってるじゃん」
「いいのー。今日は松本と帰りたい気分だったし、竹中くんともお近づきになりたかったし」
 そう言って微笑むと、清水さんは少し小走りをして大成の隣に並ぶ。三人並んで歩くには窮屈な廊下なので、なんとなく気を使って半歩下がることにした。
「そういえばそろそろ学祭だねー。うちのクラスどうする?」
 清水さんが大成に話し掛ける。身長差のせいか、清水さんは見上げるような態勢になっていた。
「そうか、もうそんな時期だな。企画は明後日のホームルームで決めるんじゃないか?」
「そうだけどー、松本個人としては何したいの?」
「んー……俺はなんでもいいかな。みんなで楽しくやれれば。真人は何したい?」
 大成は首だけで僕の方を振り向いた。
「え、僕?」
 学祭ではクラス毎に出し物を行うことになっている。原則としてクラス対抗という形式を取っているため、二つのクラスが合同で企画を行うことが出来ない。だから僕の意見なんて聞かれないだろうと思っていただけに焦った。
「僕は……そんなに忙しくないのがいいかな。マンガ喫茶とか」
「マンキツとかウケる~」
 またもや清水さんのツボに入ってしまったらしい。バシバシと大成の背中を叩きながらオクターブ高い声で笑っている。
「何がウケるのかわかんねぇよ」
 大成も呆れ気味に突っ込んでいた。
 ようやく清水さんが笑い終わる頃には、校門を出て最初の分かれ道に差し掛かっていた。
「じゃあ僕こっちだから」
「あれ、今日ってあの日だったっけ?」
 大成は今日が何の日か忘れていたらしい。
「あれー、松本と竹中くんって帰り道同じじゃなかったの~?」
 清水さんは状況が把握できないらしく、頬を膨らませて首を傾げた。
「真人は毎週水曜日にCD屋寄って帰るんだよ。そのまま行かなくちゃいけないところがあるらしいから、水曜日だけはこの道で分かれるの」
「ふぅん」
 清水さんは理解しているのかしていないのかよく分からない、曖昧な表情だった。そもそも僕の行方などに興味はないのだろう。
「じゃあ、そういうことだから」
 僕は軽く手を振ると、赤に替わりかけの信号を走って渡った。
「竹中くーん、また話そうね~!」
 後ろから清水さんの声が聞こえたので振り返ると、思いっきり両手を振っていた。
 僕はぎこちなく笑顔を作って、少しだけまた手を振ると、CDショップに向かって歩き出した。