Neetel Inside ニートノベル
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 手を引かれていた時間は、10秒足らずという非常に短い時間だった。
 駆け足で電車に飛び乗り、アナウンスと共にドアが閉まる頃、右手に伝わる感触は既に無く、俺達は”いつもの距離”に戻っていた。
 秋川は、男女に頓着が無い、サバサバとしたタイプに見える。登下校時、池脇とのコントじみた掛け合いを眺める機会が多いし、ズビシっと池脇の後頭部にツッコミを入れる姿を何度も見ている。入学から2ヶ月が経つ頃には俺との会話も日常的になった。毎日のように池脇が俺に声をかけてくるもんだから、会話の輪の中に俺の居場所もすぐに出来上がったのだ。
 だから今回手を取られた事だって、秋川にしてみれば何の他意も無い、それこそ普段通りの行動なんだろうとは思うが、俺は軽くうろたえてしてしまった。
 だってそうだろ。快活で話し易く、均整の取れたプロポーションまで完備して、それでいていたずらっぽい笑顔の似合う15歳。言葉にしてみると、これはけっこう完璧超人じゃないか。すごいな秋川。

 乗り込んだ電車の中には乗客がぽつぽつと見える程度、ラッシュアワーまであと1時間というところだろうか。夏に比べて薄くなりつつある空の青が、西の方だけゆっくりと茜色に染まり始めている。
 走り出した電車によって慣性の法則を体感しつつ隣にいる秋川を見ると、背中を向けて、窓の外を流れる景色に目をやっている。

 さっきの話はどういう意味だったのだろう。会わせたい人とは誰の事なのか。そしてどこに行くのかすら聞いていなかった事を思い出したので、思いつく限りを聞いてみる事にした。

「切符の金額で隣駅に降りるのは想像つくんだけど、どこに行くつもりなんだ?」
 秋川は、背中越しにちょっとだけこちらを向いて答えた。
「あー……、ちょっと待って。……ずるいよ陽介君」
 頬を少し膨らませた顔で批難の声をあげる秋川。その頬が少し赤く色づいているように見えるのは気のせいだろうか。
「ずるい?」
「そうだよ、ずるいよー。今ね、私の顔、あんまり見せたくないけど見えてるでしょ?」
「ああ……、うん」
「手、繋ぐの、実はすっごい恥ずかしかったりするんだからね? あーもう、暑い暑い」
両手を胸の前に上げてパタパタと振りながら、それでも後ろを向いたまま秋川は答えると、そこからまた会話が止まってしまった。

 秋川の性格なら、男子生徒の手を取ってどりゃーっと繋ぐ事なんて日常的にあっておかしくない気もするのだが、これは俺の思い違いってやつなのだろうか。
 止まった会話の流れを再度掴み取ること叶わず、俺は秋川に続いて流れる景色を傍観する事にした。神様。俺はダメな奴です。

 ケータイのコールが留守電アナウンスに変わるほどの時間が流れた後、秋川がこちらに向き直り、やっと口を開いた。
「ふうっ! 終わり終わりっ! この空気終わり!」
 目の前にある空気の壁を一掃するかのようにパタパタと両手を振り続ける秋川。周りの乗客数人が瞬間的にこちらに注目したが、それも一瞬の内に収まった。
 助け舟を出していただいた訳で、この舟を逃したら海の藻屑コースだ。さっきまでの沈黙を繰り返さないよう、いつもの自分を装って言葉を選ぶ。

「オーケーオーケー。とりあえずさっきの事は置いておこう。んで、急激に流れを変えるけど、どこに行くんだ?」
 振り続けていた手を止めた秋川が、ふくれっ面で見上げている。ええええ。何でだ。
「それはそれでちょっとだけ嫌だなぁ。……でもでも! そうだね、とりあえず置いておいてもらいましょうっ。それでね、目的地なんだけど、西宮駅を降りてすぐにある、私も入った事の無いお店なんだよ」
 不満気な顔もどこへやら、瞬間的にコロコロと表情が変わり、笑顔が戻った秋川は、いつもよりちょっと早口でまくし立てるように話し、そして一拍置いた後、今度は神妙な面持ちでゆっくりと言った。

「……そこでね、陽介君を待っている人がいるんだよ。1週間前から。……ううん、正確には、私と同じ、15年前から、かな」

……1週間?
……15年前?
……私と同じ?

 話しの前後を聞き逃したのだろうか。おふざけモードにスイッチが切り替わっているのだとしたら、その切り替わりの瞬間はどこにあった?
 真剣な表情を崩さない秋川を見て、一段とわからなくなった。何を言っているのだろうか。混乱した頭の糸の修正前に、秋川は言葉を続けた。
「会ってもらいたいから今日は一緒に来てもらったけど、多分私が誘わなくても陽介君は電車に乗ったハズ。そうならないと、陽介君と私達と、そしてあの人達との時間が繋がらないから」

 続けられた言葉の意味もわからない。漫画だったら頭の上に?マークがポッコリと浮かび上がっているような顔しか出来ない。電車に乗ったハズ? 今日の俺には特段予定など無かった。それこそ秋川にこうして誘われるまでは。

「ごめん、全然意味わからない事言ってるよね。立場が逆だったら私もそんな顔してると思う」
 悲しみの色が滲んだ顔で秋川は続ける。こんな顔は見たことがない。
「でも、今の私をわかってもらうためには、どうしてもあの人達のチカラが必要なの。さっきも言ったけど、本当は会わせたくない。私にとって、彼らは多分敵になるから。それでも、私には陽介君に現状を信じてもらう手段が無いの。彼らにはそれが出来るから……」

 今までの付き合いで、秋川がこんな不思議な話をした事は無い。どんなふざけた話の中でもだ。こんなに真剣な声で顔を曇らせた秋川を見たことも無い。話しの中身は全く見えないが、それはこれから聞いてみればわかる事だ。ならば俺はどうするべきか。簡単な話だ。この顔を早く笑顔に戻してあげるべきだ。
「ちょっと待った。そんな悲しそうな顔しないでくれよ。よくわからんが、俺がその”誰か”に会えば問題は解決するんだな? だったら喜んでそうさせてもらうからさ、そんな顔するなよ」
 努めて明るく答えた。
「……ありがとう」
 瞳に涙が見える。しかし浮かんでいる顔は柔らかで、それがいつもの秋川である事を如実に表していた。
「でもね、これから起こる事は、私達にもどうしようも無いし、多分陽介君、すごく混乱すると思う。それでも私は側にいるから。だから……、ごめんね」
「とりあえず、まずは話してくれないか? その会わせたい人って誰なんだ? そして俺は何をすれば良い?」
「それを私が説明しても、きっと信じてもらえないんだよ……。それと、私の会わせたい人と陽介君が会うのはきっと明日になると思う」
 駅への到着を告げるアナウンスが車内に響き、減速が始まった。もうすぐ電車は止まるというのに、何故その誰かに会うのが明日になるというのだろうか。
「え? だってもう駅に着くだろ?」

 俺が言葉を発した瞬間だった。
 背筋に冷たいナイフを複数当てられたような感触が俺の体を駆け抜けた。
 何だこれは? 何が起こった?
 走り続けて離れない異様な気配の元を探ろうと、俺は車内を見渡すと、電車の乗客全てが俺に視線を注いでいた。しかしその目は、明らかに人のそれではない。生きている色味を帯びていない。真っ黒な瞳の中に、光が一切感じられない。

「着きませんよ」
「着きませんよ」
「着きませんよ」
「着きませんよ」

 向けられた無表情の首達が、口々に同じ言葉を吐き出す。

「すみません」
「すみません」
「すみません」

 ズレていた同じ言葉達が、見る見るうちに合唱のように重なり始める。 

「うまく同期が」
「うまく同期が」

「取れませんでした。ああ、これで大丈夫。ピッタリ合いましたね」

 俺と秋川以外の乗客の声がひとつに重なり合った。同じ言葉を同じタイミングで繰り出す、さっきまで人々……だったはずのモノ達。示し合わせたように一語一句揃った、声の群れだ。 
 咄嗟に秋川を庇うように両手を広げてみたものの、360度を覆う異様なモノ達に対してあまりに無防備な状態だ。何が起こっている。何が。

 声の群れの中、吊革に捕まっていた中年風のスーツ姿がこちらに歩み出た。銀縁の眼鏡と高身長以外、取り立てて特徴の無い細身の男だ。光の無い瞳を除いて。
「この体を本体とします。そう警戒しないで下さい。……と言っても、こんな状況じゃ無理がありますよね。すみません。この時代の、ここに集まる人々の可能性を調整するためには、少しばかり人数が必要だったのです。今消しますので……」

 男が目を瞑った瞬間、周りにいたハズの、ヒトのようなモノ達が、まるでテレビのチャンネルを変えた瞬間のように、一瞬にして消え失せた。今まであったはずの、人々が放出する熱気のようなものも一切感じ取れない。まるで深い森の中のように、人以外の沢山の生物が隠れて息づいている気配が感じ取れる。何だこれは。これは現実か? そしてこの”気配を感じ取っている自分の感覚”は何だ? 秋川は? 秋川も一緒に消えてしまったのか?

 急いで振り返ると、秋川は消える事無くそこにいた。俺の背中越しにスーツ姿を見据えている。
 何かが起こっているが、何が起こっているのか全くわからない。ただ、背中に残る悪寒だけは本物で、そしてこの悪寒を生み出している張本人は、間違いなく目の前にいるスーツ姿だ。目を離しているわけにも行かない。あらためてスーツ姿を見据える。

「電車も既に必要ありませんね。そしてこの場は私に譲ってもらうことにしましょう。いいですね?」 

 声の矛先は俺を飛び越えて、背中越しにいる秋川へと向けられている。いや、これは声ではない。空気の振動を経て届いているものではない。……これは、なんだ? 何故俺にそんな事がわかる? ”俺に向けられていない事”を、何故こうも感覚的に感じ取ることが出来る!?

 刹那、先ほどまで無くなっていたように感じた秋川の気配が嘘のように大きくなり、電車内を覆い尽くす勢いで広がった。
 ……だから、”何故俺にそんな事がわかる”んだっ!?

「……今日中に説明を終えて、陽介君をしっかり家に帰してくださいね」
「もちろん。私が彼に危害を加えるつもりが無いことも、そしてそれが出来ない事も、あなたは判りきっているでしょう? そして彼をお返しするのが今日中にと言うことであれば、その質問自体がナンセンスである事までは、あなたも理解出来るようになったでしょう?」
「……あなた達のおかげで、ですね。わかっています」

 後ろを振り向いて秋川を見る事が出来なかった。振り向いてはいけないという”感覚”が車内を支配している。これは秋川の意思だ。これは……意思の色だ。
「ごめんね陽介君……。説明は彼がしてくれるから。危害は絶対に加えられないから安心して」
 振り返ることが出来ないまま、秋川の声……では無い。これはもう声では無い。思いがそのまま届いているとしか説明のしようが無い。でも、何故俺にそんな事がわかる?
 混乱した頭のまま、車内に渦巻いている”意識の場”とでも言うべきものから、秋川の思いにのみ集中する。

――これから伝えられることは、陽介君にとっても、彼らにとっても、そして私達にとっても、とても大切な事……。だから聞いて。……私は大丈夫。明日になればまた会えるから。その時あらためて今日の約束を。会わせたい人がいるの。多分あなたは、私じゃなくて……。ううん、何でもない。まずは全てを知って……。そして……、あなたの答えを……――

 そこまで感じたところで、急速に秋川の気配は収束し、消えてしまった。意識の枷がなくなったので後ろを振り返ると、秋川もその場から消えてしまっていた。
 すぐさま視線を前方に戻し、スーツ姿の男を睨みつける。男は顔に微笑を浮かべて、左の手のひらをバスガイドのように水平に持ち上げると、今度は”言葉”を俺に向けた。

「意識をダイレクトに掴むのは、非常に疲労します。この後、あなたには”その受動部”を不本意ながら酷使していただく事になりますので、今は言葉でコミュニケーションする事にしましょうか。くつろげる空間に移動しましょう」

 言うや否や、先ほどの、乗客達が消えた瞬間と似た感覚が俺を襲った。まばたきすら間に合わない極小の時の流れの中、車内の景色が、コーヒーに入れたクリームをかき混ぜたような形に捻じ曲がり、その中心から新たな景色が生まれ、攪拌されるように、俺はそれに飲み込まれていった。

       

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