Neetel Inside ニートノベル
表紙

HIGH JUMP
0日目

見開き   最大化      


 何がどうしてこんな事になった。

 深夜、有史人類史上最高に絡まったと言っても過言ではない思考を自室に持ち帰った俺は、ため息と共にベッドへ身を放り投げた。脳がどのくらい天才じみた瞬発力を発揮すれば現状を理解できるのか教えてもらいたい。アインシュタインさーん。ホーキングさーん。ちょっと俺と立場を入れ替えてはもらえませんか。若干本気でお願いしたい。

 4度目のため息の後、やっとの事で自分の体を動かす命令を思い出して枕元の目覚し時計に目をやると、長針と短針が真上を向いて重なり合っている。
 怒涛の急展開を見せた今日の終了と、新しい1日始まりのお知らせ。つまり、「俺がここにいる時間が残り1週間」となった……らしい。

 自分でも、何がなんだかわからない。そりゃあそうだ。いきなり”あんなもん”に巻き込まれたと思いきや、その”あんなもん”の当事者が俺でした。ホラこれが証拠ですスゴイデショ?さぁあと1週間、悔いのないように生きてね。というようなニュアンスの言葉を投げつけられ、そしてそれが非常に現実味を帯びていて拒絶出来そうにないっていうんだから。
 総理大臣とか、そういった偉いっぽい人はテレビの中に住んでると思ってて差し支えないだろ常識的に考えて。実物を見る機会が訪れる事なんぞこれから何回総理が変わったって一生あり得ないハズだと思ってた。いやいやそれよりも何よりも、今現在俺が置かれている状況の異常さは何だ。どうしたらこんな事を信じられる。というかそもそも…ああもう!

 混乱と共に脈拍が早まり、数時間前からハイスピードBPMで安定してしまっている。一向に平常時の体を取り戻せない。うつ伏せになって触れているベッドに共鳴して届く心音からも、自分が今、どのような精神状態にあるのかを如実に物語り過ぎていて泣けてくる。

 腕立て伏せよろしく体を持ち上げた反動を利用して小さく飛び上がり、空中で膝を曲げつつベッドの上に正座する。その後、多少なりとも効果があるようにと小さく祈りながら、深呼吸を繰り返す。鼻から吸われ、口から吐き出される空気の音だけが部屋に流れた。

 何度目かの二酸化炭素放出で、落ち着いた振りぐらいは出来るようになった頃合いを見計い、制服のネクタイを外しながら、もう昨日となった1日を思い返す。

 この世界とお別れをする事が確定した非常に理不尽な1日は、これからそんな事が起こるなんて一切想像出来ないような、いつも通りの、それはそれはフツー極まりない始まり方だった。


 「いってきます」

 誰もいない玄関に出発の挨拶を告げ、ドアの鍵を閉めて歩き出す。
 高校入学から半年が経過し、夏休みという夢のような休日ループも遠い記憶の彼方に追いやられた10月の空気はまだまだ夏の匂いを帯びていて、地域によってはそろそろ始まる木々の紅葉もこの辺りは随分と遅くなりそうな気配だ。中学まで住んでいた地元では、このぐらいの時期になると一部の木々が色づき始めていたので、1月ほど季節がズレているような不思議な感覚を受けながら、見慣れた通学路を進む。

 4月から1ヶ月使って行った学校までの最短ルート探索は功を奏せず、当たり前と言うべきか、借りたアパートを斡旋してくれた不動産屋が教えてくれた、学校まで延々と続く一本道が通学に最適だった。まっすぐ10分ほど歩くだけなので面白みは無いのだが、右折左折のどこに面白みを感じられるのかと自問自答したところで瞬時にして不満はほぼ無くなった。

 残りのちょっとした不満は、この高校は自転車通学が許可制で、学校から半径1キロ以内に住む生徒の自転車通学が禁止されている事だ。去年の春から施行されたらしいが、全校生徒数500人にも満たないのに自転車置き場が足りないっていうのは学校としてどうかと思う。加えて半径1キロ以内の生徒の自転車通学を禁止したら、今度は自転車置き場に余りが出てると言うんだから、もうちょっと考えて欲しいものだ。

 自宅前にある交差点がちょうど境界線で、道を挟んでギリギリ徒歩通学を強いられている俺としては、この状況を理不尽に思うのは当然だろう。
 律儀に徒歩で通学する俺を誰か褒めてくれないものか。そんで最終的には学校までの動く歩道をプレゼントしてくれると嬉しい。

 とにもかくにも続く高校生活。毎日のように歩き続けるのも体には良いのかも知れない。高校入学と共に紆余曲折を経て帰宅部に在籍することになり、ちょっと腐りつつも「帰宅部になると下校後にこんなに時間って余るものだったのか」なんて感動しつつ、おかげで毎日の通学以外に体を動かすことが非常に少なくなった俺にとって、登下校は体育の授業を除いた唯一の有酸素運動になりつつある。運動としては時間が短いので、効果の程はあまり期待できないにしても、だ。

 中学では陸上部に在籍し、走り高跳びなんぞをやっていたのだが、背の順では前から5番目以内を常時キープしていた俺である。自分の身長+10センチを跳ぶ事が出来ても――まだ体の成長時期に個人差がある中学時代にも関わらず――基本的に走り高跳びをやっている奴は一概に高身長だったので、俺の記録が大会で表彰される事は無かった。

 それでも俺は、あの種目が好きだった。歩幅に合わせた助走距離を設定して、自分の決めたリズムで、跳ねるような走りを目的の跳躍ポイントを見据えて細かく刻むように進めて行き、助走で稼いだ力を踏み切り足に溜め込んで一気に上方向に解き放つ。バーを越えるために背面で飛び上がると、視界に一面の空が映る。おそらくコンマ数秒。時間にしてはそんなものなのだろうが、その一瞬の為に、俺は何度も何度も跳び続け、疲れるとマットにゴロンと寝転んでまた空を見上げたものだった。
 あの一瞬の空と、マットの上から見る永続的な空は、同じ筈なのに明らかに色が違っていたように思えた。その違いが、一体何によるものかを知りたかったから、だからあれだけ走り高跳びに夢中になれたのかもしれない。

 なんて、ちょっと感傷的な気分が比較的簡単に、そして大いに味わえる、ある意味お得な競技だったので、高校に入学しても続ける気でいたのだ。

 腐ったのは入学直後、職員室に赴き、陸上部顧問の先生に入部届を手渡した時だ。
 入室直後に手近に見えた、何の教科を教えているのかすらまだわからない先生に、陸上部顧問の所在を確認したところ、職員室の奥でボサボサの白髪を軽く掻き毟りながら机に向かって熱心に物書きをしている初老の男性教師へと促された。

 事前にクラス全員に配られ、記入を済ませておいた入部届を手渡すと、男性教師は椅子に座ったまま訝しげな表情で話し始めた。
「君は……なんの種目をやりたいと思っているの?」
 入部届には希望する種目名までしっかりと記載してあったので、俺は不思議に思って聞き返した。
「走り高跳びですけど? 中学でもやってたんで、続けたいと思いまして」
「君……身長はいくつ?」
「160センチです」
「そう……。わかっていると思うが、君には向いてないよ。何か別の種目に変更しなさい。マラソンなんかはどうかね?」
 頭を掻きながら教師は続けて言った。
「とにかく……、走り高跳びを希望するなら君を陸上部に入部させるわけにはいかないな……。少し考えてきなさい」

 入部拒否に俺はかなり驚いた。でも、当然の反応だったのかも知れない。
 当時の俺の身体的特徴からすると、選ぶ競技を間違えていると言われても何も言い返せない。この高校は部活動に力を入れていると聞いていたし、陸上部の成績もかなり良いようだったから、ひょっとしたらそんな事になるんじゃないかなーなんて、ちょっと思っていた。軽くね。

 それにしてもこうもまさかこうもバッサリ切り捨てられるとは思っていなかった。不満と怒りが混在した表情を隠す事は出来なかったけれど、文句を言わずに引き下がった当時の自分を思い返すと不思議な気持ちになる。中学までの熱意はどこへやら。俺の高跳びに対する信念めいたものってのは心の芯に存在してたんじゃないのかね、と。大人の対応を身に付けたなんてのはあり得ないと自覚しているので、数日間、心に穴が空いたようにふわふわとした気分になったものだった。

 加えて俺にとっても陸上部顧問教師にとっても誤算だったのが、40日の夏期休暇を経た俺の身長が10センチほど伸びたことだろうか。だからと言って好成績が収められるようになったかと言われればそれはまた微妙なところなのだが、少なくともこの成長期がもう少しだけ早く訪れていたら、俺の高校生活はもうちょっと真面目なものになっていたのだろうと思う。熱心にひとつの事に打ち込む事は素晴らしいと思うし、その機会を逃したのは痛手だ。高跳びの他に執心できるものをまだ見つけられていない俺は、流れる日々を淡々と、大した起伏も無く過ごしていた。

 学校までの道のりに見える信号は3つ。いつも通り2つ目の信号に捕まり、赤く光る歩行者用信号を見つめていると、聞きなれた声が背後から届いた。

「お、陽介。おはゆーす」
「ゆるい挨拶だな。あ、池脇、今日も髪型が相当独創的な感じになってるぞ。前衛芸術か?」

 顔全体を使って眠気が表されている池脇を通学路で目にする機会は多い。高校からの付き合いだが、こいつが学校に到着までの残り5分を有効に使って「自称モテヘアー」まで持っていく頑張り具合は評価に値する。
 要するに起きるのが遅くて家で髪のセットが出来ないという事らしいのだが、ならギリギリまで頑張ってセットして学校までダッシュすれば良いんじゃないか。
「今日も俺のモテ計画がここから始まるわけだよ。5分後、お前は生まれ変わったモテヘアーを目撃する事になる!」
 ブレザーの内ポケットからヘアワックスを取り出し、男にしては少々長め、他校と比べて若干緩い我が校の校則をもってしても違反スレスレな髪を、手早く器用にセットし始める池脇を横目で眺めるのはなかなか面白いものだ。立てた髪を細かくねじっては離し、鏡も無いのにうまい事整えていく。
 が、しかし。髪型でモテるんだったら俺も頑張りたいが、いかんせんこいつの「自称モテヘアー」が校内で女生徒の心をガッチリ掴んだ瞬間を目撃した機会は皆無だ。
「毎朝ご苦労さん。そんでそのモテヘアー様は何で毎朝俺に声かけるんですか。この通学路にはたくさんの女性が歩いてるじゃないか」

 信号待ちをしているこの交差点の先から、通学生徒の数が増加する。こちらから歩いていくと、学校のすぐ先に駅も存在するので、男女年齢層問わず、様々な人で通りが埋め尽くされる。スーツ姿のサラリーマンの中に、同じくスーツを身に纏う妙齢の女性や、恐らく女子大生であろう私服姿が目に付く。
「男同士の友情も大切にするからな、俺は。ホラ、今日もきっと下駄箱にはラブレターが入ってたりするんだろうけど、そんで陽介の下駄箱には何も入ってないだろうけど、それでも俺達友達だからな! 友情は壊れないからな!」
「お前の下駄箱に入ってたのって、食べかけのアンパンぐらいしか見た事ないけどな。あとゼリー」
 あれは面白かった。
「思い出させるなよ……。アンパンはともかくゼリーは効いたぜ……。何で上履きの中に。つま先に伝わったあの言いようの無い感触……」

 眠気満載の顔から生気まで吸い取られ、完成前のモテヘアーを携えた池脇が、地面を見つめて動かなくなった。ゼリーは昨日の出来事で、大いに笑わせてもらったんだが、池脇も多分犯人が誰だかわかっているんだろう。信号が青に変わる前に、絶賛石化進行中の池脇をこっちの世界に呼び戻してやる事にする。
「秋川だろうな。きっと」
「だよな! 何なんだアイツは! あれか! 俺に惚れてるのか? そうか! ならしょうがない! お茶目なイタズラってやつか!」
 息を吹き返したかと思いきや、自説を自身満々に説きはじめた池脇の目には光が戻っていた。
「そうか、あれは愛情の裏返しってやつかー」
棒読みで返してやったのに、リアクションが無いまま池脇の暴走特急はレールを越えて突っ走っていく。

「きっとあれはラブレターを入れようとしたのにあまりの恥ずかしさに耐え切れなくなって、混乱してゼリーを入れちゃったんだな!」
 恥ずかしさに手紙を入れる事が叶わず、代わりにプラスチックのケースからゼリーを取り出して上履きの奥底に入れる奥ゆかしい女生徒、という新ジャンルが出来上がりつつあった。ねーよ。
 俺がツッコミを入れようとしたその時。

「私、好きな人の上履きにゼリーを入れる趣味は無いんだけどなー」

 またもや背後から響く声に俺と池脇は振り返る。
 肩より下に届く栗色の髪が、道路を横切る車が作り出した風にそよいでいる。両手を腰に当て、肩幅まで開いた両足の付け根近くで、短めのスカートが髪の流れと同方向に揺れていた。
 池脇と同じ中学出身である事もあり、俺とも話すようになった隣のクラスの委員長だ。
 クラス委員というと、今までの学校生活からは大人しそうなイメージを思い浮かべるが、秋川は全く逆のタイプだ。立ち振る舞いからも雰囲気からも活発さを感じさせられるし、水泳部に所属し、県大会で準優勝をしたとかで表彰されていた。種目は高飛び込みだという。すらりと伸びた肢体が煌びやかに水面に吸い込まれていく様は、さぞ絵になるだろう。

 それはそれとして、本日の秋川はいつも通り笑顔ではあるのだが、声に静かな怒りが含まれている気がするのは気のせいだろうか。

「お、秋川! お前なー、いくら俺の気を引きたいからって上履きゼリーは斬新過ぎるだろ?」
「あれは天誅! あんた、貸したノートどうしたのよ? 宿題写したらソッコーで返しなさいよ! 昨日返してくれなかったから大変だったんだからね?」
 ……あ。それは俺のせいだ。池脇から又借りして宿題を写させてもらって、返すのをすっかり忘れていた。ゼリー事件に大笑いしておいてなんだが、池脇にも秋川にも、ここは素直に謝っておくことにする。
「2人ともスマン。それ、俺だ。秋川のノート、俺が持ってる。池脇に借りたまますっかり忘れてた」
 頭を垂れておく。
「お前が犯人か! お前が忘れた頃に上履きにコーヒーゼリー入れてやるからな!もちろんクリームたっぷりかけてからだからな!」
「ちょっ、ゼリー入れたのは私でしょ? やるなら私に仕返ししなさいよ!」
「秋川は俺と付き合う事で許してやることにする。さあこのモテヘアーについて来い!」
 言うや否や、毛先をねじり回す池脇。
「ゴメン、それは流石に無理」
「ひでえ! ひでえよ! 流石にって何だよ! 陽介からも何か言ってやってくれよ! 喜んでコーヒー履くよ、とかさぁ!」

 池脇は一体どこに怒ってるんだ。両手で派手なジェスチャーをしてるが、その動きがどこに掛かっているのか全く読めない。
「とにかく今回のゼリー事件は俺が悪い。池脇、ゼリー奢るから許して。今度は左足に入れてやるから」
「いらねーよ!」
 池脇はこんなもんで良いので――気心が知れてるからって事だ、念のため――今度は秋川に向き直り、言葉を続ける。
「秋川も、俺のせいでごめんな。お詫びに学食おごるから……っていうのはどう?」
 ゼリーと学食じゃあ金額に幅があり過ぎると喚く池脇を無視しつつ秋川の返答を待っていると、ちょっと変わった提案を受けた。

「うーん……、じゃあさ、今日の放課後、ちょっと付き合ってよ。いい?」
 後ろ手に回した鞄をプラプラと動かしながら、秋川は下から覗き込むようにして俺を見上げている。
「把握した。こればっかりは俺が悪かったので何か奢らせてくれ」
「やったね! じゃあ放課後、教室に迎えに来てね! 待ってるから~」
 話し終える同時に信号が青に変わり、秋川は笑顔で横断歩道を走り抜けていった。

「……おい陽介。これってデートの誘いじゃないのか?」
「いや違うだろ。俺が一方的に搾取される約束を取り付けられたんだろ」
「それにしても秋川がねえ……。珍しいこともあったもんだな」
「まあとりあえず俺のせいで迷惑かけたしな。ってあれ? 今ノート渡せば良かった」
「あ、また信号変わる! 急げ陽介!」

 点滅し始めた青信号に急かされながら、ダッシュで横断歩道を渡りきると、あとは押しボタンの信号1つで学校にたどり着く。
 こうして始まったフツー極まりない1日の始まりは、考えてみるとほんのちょっとだけいつもと違っていたのかもしれない。でもそれにしたって、日常の延長線上に存在するのはやはり日常の筈で、
俺は、その当たり前がこれからも続いていくのだという根拠の無い確信を持ったまま、学校へと歩を進めた。
 

     

 いつの時代の、どの世代にとっても、授業ってのは退屈なものだ。これは俺だけじゃなく、誰もがそう思っているハズだ。そうあって欲しい。
 黒板に書かれては消される知恵の塊をノートに書き写す時間も残りわずか。6時間目終了まで10分を切った。

 淡々と知識を貯めこむ作業の先に何が待つのかと疑問に思うが、ある教師に言わせると、勉強とは日本人に唯一与えられた、万人に平等な競争機会らしい。今のうちに教科書の内容を人より沢山詰め込んでおけば、将来的に資金面で優位に立てる可能性が飛躍的に高まる。

 果てしないビジネスライクなご意見だが、俺の琴線には触れなかった。
 人として社会生活を営むためにはもちろん金が必要だ。だが、それを余分に持つ事に今のところ執着が沸かない。かと言って、物質的な充足以外の何かを俺が持ち合わせているのかと聞かれてしまうと、答えに窮してしまうのだが。

 自分自身、もう少し物欲あれば、と思う事がある。高校に来て部活動を奪われた俺の次なる欲望の矛先、あるいは比較的安易に目指せる目標物。これらを持ち合わせないまま日々を繰り返すってのは、実は結構切ない。
 数日先でも構わない。見つめる先に何かが無いと、人は動こうとしないものだな、と、シャーペンを指先で回転させながら教師の次なる板書を待つ。明確な目標が無いので、自身の不安定な足場をなんとかして安定させようと、授業の内容だけは一通り把握出来るよう努めている。今は得るものが無いと思っていても、考えがそのうち変わったりしたら役に立つかも知れないしな。フットワークは軽いに越したことは無い。

 隣の席では3時間目から休み時間以外覚醒していない池脇が机に突っ伏していた。視線を夢の中に向けたまま、いつの間にか授業が通り過ぎるなんて羨ましいようなそうでもないような。こいつの潔さにはある意味憧れる。あ、ビクってなった。ざまぁ。




 SHRを終え、机の中に突っ込んであった教科書群を無造作に引っ張り出して鞄に詰め込んでいると、授業中にエネルギーを充電し続けた池脇が弾む声で話しかけてきた。

「陽介さん陽介さん、今日は頼むよ」
「何をだよ」
「秋川だよ、秋川雫」
 俺のお財布軽量化祭りの件についてか。秋川に何を奢らされるんだろうか。学食よりは値が張るんだろう。飯と言っても今は中途半端な時間だし、秋川が小食で慎ましやかなものしか食さないタイプの女性である事を祈らせて欲しい。あのビジネスライクな教師の言った言葉は正論かも知れない。世の中、金は余分にあっ たほうが良いと今は痛感する。

「池脇、お前も来るか?」
 秋川とはクラスが違う事もあり、登下校中以外あまり話した記憶がない。彼女のほうから打ち解けやすい空気を作ってくれるおかげで今まで会話に苦労した事は無いが、池脇も一緒にいたほうが間違いなく話が弾む。少なくとも秋川に退屈な思いをさせずに済む可能性が高まる。そんでもってついでに財布の負担が1/2になったりしないだろうか。
「ばっ! バカかお前は!」
バカではあるが、お前にだけは言われたくない気がしないでもない。

「俺がいたら秋川がお前に相談出来ないだろうが!」
「は? 何をだよ。全然意味がわからないんだが」
「つまりだ!」
 両手を振り下げて机を叩き、クラスメイトの半数に届くであろうボリュームで池脇は声を張り上げた。
「秋川考案、俺への告白大作戦だろ! 陽介、きっとお前は明日の5時に俺を体育館裏に呼び出して欲しいとか、そういう感じのお願いをされるハズだ!」
「あー、なるほど。小銭はポケットに入れとくなよ? ジャンプさせられたらバレるからな」
 心配になったので対処法を教えておくことにした。
「カツアゲじゃねーよ! 愛! ラブ!」
「ユー」
「お前が俺に惚れてるのかよ! 違うよ! もっとノーマルな恋愛だよ!」

 どうやら池脇は授業中睡眠のおかげで過充電になり、通常比1.1倍の面倒くさいキャラが完成しているようだ。
「わーかったわかった。明日の呼び出しについては頼まれようが頼まれまいが伝えてやるから」
「いや頼まれろよ! 何で頼まれてないのに伝えるんだよ! 待ちぼうけだろ!」

 今にも暴徒と化しそうな赤ら顔まで作ってわめき散らす池脇に注目する十数人のクラスメイト。  
 ああ、この場合、被害者は秋川だな。こいつのマイクパフォーマンスによって、ときめきメモリ合うつもりもない池脇との噂が飛び交ってしまうのではないかと一瞬心配になったが、もともと池脇はこんな性格だってのをここにいる奴らは既に知っている。
 コイツの頭の中は恋愛の実が常に大豊作だ。髪の毛引っ張ってるだけで棚ボタ的に恋が始まると本気で思ってそうだからな。俺の心配は杞憂に終わるんだろう。
 池脇と付き合ってるといつまで経っても教室から出られそうになかったので、「俺の嫁」だの、「ミラクルラブストーリー」だのと矢継ぎ早に繰り出される池脇の珍妙なセリフを生返事の連発によって回避しつつ、足早に隣のクラスへと向かった。



 果たして、秋川雫はそこにいた。
 隣のクラスではあるのだが、1年3組と書かれたプレートを一応確認してから引き戸をがらりと開けると、終業直後の安堵感が教室中に広まっていた。教師の重圧から開放された生徒が思い思いに言葉を発し、教室を包む喧騒が電車の騒音レベルまで達しているその中で、秋川は姿勢正しく椅子に腰掛けたままでいる。背もたれに体を預けておらず、横から見ると均整の取れた上半身が綺麗なS字を描いていて、思わず見惚れてしまう。

「秋川様。お迎えにあがりました」
 秋川の席まで歩み寄り、中世紳士のよくやるアレのように形式ばった礼を試みると、やわらかな笑顔がこちらに向けられた。
「来たね陽介君っ。さーて今日は華麗にエスコートしてもらうわよ~。なんてね」
 勢い良く椅子から立ち上がり、横方向に1回転しながら素早く鞄を掴み、いたずらっぽく笑う秋川。

「エスコートって言われてもな……。今日はもう秋川の好きな所に付き合うよ」
「ホント? コース料理で2万円……」
「すいません訂正させてください。今日は秋川の好きな”軽食”を! 俺も食べたいんだぜ!」
「あははっ、じゃあそのくらいで勘弁してあげましょうっ。まずは駅に行きましょ」
 ひらりと身を翻し、右手を高々と上げて「れっつごー」などと言いながら俺の横を通り過ぎる秋川。遅れをとらぬよう、半歩下がって続く事にした。



 校門を後にして数分。駅のホームにあるプラスチックのベンチに腰掛け、俺達は電車を待つ事になった。

「陽介君は一人暮らしなんだよね?」
 電車が来るまでの10分の間に、いくばくか理解し合う事が出来そうだ。
「ああ。両親は……、多分今はハワイかな」
「ハワイ? なんで?」
 椅子に座ったまま前傾姿勢になってこちらを見上げる秋川の目を見て質問に答えようとすると、その左後方にスカートからすらりと伸びる足が見えて。そこに完全注目しそうになるのは不可抗力ってやつだ。
 何とか自制して質問の答えを再考し始める。
「自営で小さな旅行代理店やってるんだよ。一応の経営者の癖にツアーコンダクターみたいな仕事が好きでさ、1年の半分以上はどっかの国に行ってるよ」
「ほえー、凄いねぇ。世界中を飛び回ってるんだ?」
「どうだろうな。格安ツアーがメインだから、ハワイに行ってるのは珍しいかな。グアムとかサイパンとか、日本から近い国が多いよ」
「ハワイって日本から何時間だっけ? 8時間くらい?」
 ジェット気流云々で、行きと帰りの飛行時間が違うと聞いた気がする。
「そんなもんだろうな。海外なんて一度も行ったこと無いけど」
「そっかー。良いなぁ海外。私も行ってみたい」

 10分間を有効に使って、俺達は今まで知らなかったお互いの一面を垣間見た。俺は一人暮らしのメリット・デメリット、陸上部に在籍していた中学時代の話なんかをメインに話し、秋川からは水泳部の練習や、好きなアーティスト、休日の過ごし方なんかを教えてもらった。休日は家族に料理を振舞うのが通例らしく、料理には自信があると胸を張っていた。

 ホームにアナウンスが響き渡り、目的の電車がホームに滑り込んでくる。走行音で聴覚の大部分が塞がれ始めた頃、椅子から跳ねるように立ち上がった秋川が、目と鼻の先にまで顔を近づけてこう言った。

「今日はね、宿題の件がなくても陽介君を連れ出すつもりだったの。本当は会わせたくないんだけど……、会って欲しい人がいるんだ」

 真剣な表情、真剣な声色、そして瞳には少し陰りが見えた、ような気がした。
 刹那、それらのニュアンスがまるで俺の錯覚だったかのように、秋川は向日葵の如き笑顔をたたえていた。

「行こっ」

 右手を捕まれ、体を椅子から引き離される。同時に電車のドアが開いた。
 繋いだ右手はそのままに、秋川と俺はホームを後にした。






 


     

 手を引かれていた時間は、10秒足らずという非常に短い時間だった。
 駆け足で電車に飛び乗り、アナウンスと共にドアが閉まる頃、右手に伝わる感触は既に無く、俺達は”いつもの距離”に戻っていた。
 秋川は、男女に頓着が無い、サバサバとしたタイプに見える。登下校時、池脇とのコントじみた掛け合いを眺める機会が多いし、ズビシっと池脇の後頭部にツッコミを入れる姿を何度も見ている。入学から2ヶ月が経つ頃には俺との会話も日常的になった。毎日のように池脇が俺に声をかけてくるもんだから、会話の輪の中に俺の居場所もすぐに出来上がったのだ。
 だから今回手を取られた事だって、秋川にしてみれば何の他意も無い、それこそ普段通りの行動なんだろうとは思うが、俺は軽くうろたえてしてしまった。
 だってそうだろ。快活で話し易く、均整の取れたプロポーションまで完備して、それでいていたずらっぽい笑顔の似合う15歳。言葉にしてみると、これはけっこう完璧超人じゃないか。すごいな秋川。

 乗り込んだ電車の中には乗客がぽつぽつと見える程度、ラッシュアワーまであと1時間というところだろうか。夏に比べて薄くなりつつある空の青が、西の方だけゆっくりと茜色に染まり始めている。
 走り出した電車によって慣性の法則を体感しつつ隣にいる秋川を見ると、背中を向けて、窓の外を流れる景色に目をやっている。

 さっきの話はどういう意味だったのだろう。会わせたい人とは誰の事なのか。そしてどこに行くのかすら聞いていなかった事を思い出したので、思いつく限りを聞いてみる事にした。

「切符の金額で隣駅に降りるのは想像つくんだけど、どこに行くつもりなんだ?」
 秋川は、背中越しにちょっとだけこちらを向いて答えた。
「あー……、ちょっと待って。……ずるいよ陽介君」
 頬を少し膨らませた顔で批難の声をあげる秋川。その頬が少し赤く色づいているように見えるのは気のせいだろうか。
「ずるい?」
「そうだよ、ずるいよー。今ね、私の顔、あんまり見せたくないけど見えてるでしょ?」
「ああ……、うん」
「手、繋ぐの、実はすっごい恥ずかしかったりするんだからね? あーもう、暑い暑い」
両手を胸の前に上げてパタパタと振りながら、それでも後ろを向いたまま秋川は答えると、そこからまた会話が止まってしまった。

 秋川の性格なら、男子生徒の手を取ってどりゃーっと繋ぐ事なんて日常的にあっておかしくない気もするのだが、これは俺の思い違いってやつなのだろうか。
 止まった会話の流れを再度掴み取ること叶わず、俺は秋川に続いて流れる景色を傍観する事にした。神様。俺はダメな奴です。

 ケータイのコールが留守電アナウンスに変わるほどの時間が流れた後、秋川がこちらに向き直り、やっと口を開いた。
「ふうっ! 終わり終わりっ! この空気終わり!」
 目の前にある空気の壁を一掃するかのようにパタパタと両手を振り続ける秋川。周りの乗客数人が瞬間的にこちらに注目したが、それも一瞬の内に収まった。
 助け舟を出していただいた訳で、この舟を逃したら海の藻屑コースだ。さっきまでの沈黙を繰り返さないよう、いつもの自分を装って言葉を選ぶ。

「オーケーオーケー。とりあえずさっきの事は置いておこう。んで、急激に流れを変えるけど、どこに行くんだ?」
 振り続けていた手を止めた秋川が、ふくれっ面で見上げている。ええええ。何でだ。
「それはそれでちょっとだけ嫌だなぁ。……でもでも! そうだね、とりあえず置いておいてもらいましょうっ。それでね、目的地なんだけど、西宮駅を降りてすぐにある、私も入った事の無いお店なんだよ」
 不満気な顔もどこへやら、瞬間的にコロコロと表情が変わり、笑顔が戻った秋川は、いつもよりちょっと早口でまくし立てるように話し、そして一拍置いた後、今度は神妙な面持ちでゆっくりと言った。

「……そこでね、陽介君を待っている人がいるんだよ。1週間前から。……ううん、正確には、私と同じ、15年前から、かな」

……1週間?
……15年前?
……私と同じ?

 話しの前後を聞き逃したのだろうか。おふざけモードにスイッチが切り替わっているのだとしたら、その切り替わりの瞬間はどこにあった?
 真剣な表情を崩さない秋川を見て、一段とわからなくなった。何を言っているのだろうか。混乱した頭の糸の修正前に、秋川は言葉を続けた。
「会ってもらいたいから今日は一緒に来てもらったけど、多分私が誘わなくても陽介君は電車に乗ったハズ。そうならないと、陽介君と私達と、そしてあの人達との時間が繋がらないから」

 続けられた言葉の意味もわからない。漫画だったら頭の上に?マークがポッコリと浮かび上がっているような顔しか出来ない。電車に乗ったハズ? 今日の俺には特段予定など無かった。それこそ秋川にこうして誘われるまでは。

「ごめん、全然意味わからない事言ってるよね。立場が逆だったら私もそんな顔してると思う」
 悲しみの色が滲んだ顔で秋川は続ける。こんな顔は見たことがない。
「でも、今の私をわかってもらうためには、どうしてもあの人達のチカラが必要なの。さっきも言ったけど、本当は会わせたくない。私にとって、彼らは多分敵になるから。それでも、私には陽介君に現状を信じてもらう手段が無いの。彼らにはそれが出来るから……」

 今までの付き合いで、秋川がこんな不思議な話をした事は無い。どんなふざけた話の中でもだ。こんなに真剣な声で顔を曇らせた秋川を見たことも無い。話しの中身は全く見えないが、それはこれから聞いてみればわかる事だ。ならば俺はどうするべきか。簡単な話だ。この顔を早く笑顔に戻してあげるべきだ。
「ちょっと待った。そんな悲しそうな顔しないでくれよ。よくわからんが、俺がその”誰か”に会えば問題は解決するんだな? だったら喜んでそうさせてもらうからさ、そんな顔するなよ」
 努めて明るく答えた。
「……ありがとう」
 瞳に涙が見える。しかし浮かんでいる顔は柔らかで、それがいつもの秋川である事を如実に表していた。
「でもね、これから起こる事は、私達にもどうしようも無いし、多分陽介君、すごく混乱すると思う。それでも私は側にいるから。だから……、ごめんね」
「とりあえず、まずは話してくれないか? その会わせたい人って誰なんだ? そして俺は何をすれば良い?」
「それを私が説明しても、きっと信じてもらえないんだよ……。それと、私の会わせたい人と陽介君が会うのはきっと明日になると思う」
 駅への到着を告げるアナウンスが車内に響き、減速が始まった。もうすぐ電車は止まるというのに、何故その誰かに会うのが明日になるというのだろうか。
「え? だってもう駅に着くだろ?」

 俺が言葉を発した瞬間だった。
 背筋に冷たいナイフを複数当てられたような感触が俺の体を駆け抜けた。
 何だこれは? 何が起こった?
 走り続けて離れない異様な気配の元を探ろうと、俺は車内を見渡すと、電車の乗客全てが俺に視線を注いでいた。しかしその目は、明らかに人のそれではない。生きている色味を帯びていない。真っ黒な瞳の中に、光が一切感じられない。

「着きませんよ」
「着きませんよ」
「着きませんよ」
「着きませんよ」

 向けられた無表情の首達が、口々に同じ言葉を吐き出す。

「すみません」
「すみません」
「すみません」

 ズレていた同じ言葉達が、見る見るうちに合唱のように重なり始める。 

「うまく同期が」
「うまく同期が」

「取れませんでした。ああ、これで大丈夫。ピッタリ合いましたね」

 俺と秋川以外の乗客の声がひとつに重なり合った。同じ言葉を同じタイミングで繰り出す、さっきまで人々……だったはずのモノ達。示し合わせたように一語一句揃った、声の群れだ。 
 咄嗟に秋川を庇うように両手を広げてみたものの、360度を覆う異様なモノ達に対してあまりに無防備な状態だ。何が起こっている。何が。

 声の群れの中、吊革に捕まっていた中年風のスーツ姿がこちらに歩み出た。銀縁の眼鏡と高身長以外、取り立てて特徴の無い細身の男だ。光の無い瞳を除いて。
「この体を本体とします。そう警戒しないで下さい。……と言っても、こんな状況じゃ無理がありますよね。すみません。この時代の、ここに集まる人々の可能性を調整するためには、少しばかり人数が必要だったのです。今消しますので……」

 男が目を瞑った瞬間、周りにいたハズの、ヒトのようなモノ達が、まるでテレビのチャンネルを変えた瞬間のように、一瞬にして消え失せた。今まであったはずの、人々が放出する熱気のようなものも一切感じ取れない。まるで深い森の中のように、人以外の沢山の生物が隠れて息づいている気配が感じ取れる。何だこれは。これは現実か? そしてこの”気配を感じ取っている自分の感覚”は何だ? 秋川は? 秋川も一緒に消えてしまったのか?

 急いで振り返ると、秋川は消える事無くそこにいた。俺の背中越しにスーツ姿を見据えている。
 何かが起こっているが、何が起こっているのか全くわからない。ただ、背中に残る悪寒だけは本物で、そしてこの悪寒を生み出している張本人は、間違いなく目の前にいるスーツ姿だ。目を離しているわけにも行かない。あらためてスーツ姿を見据える。

「電車も既に必要ありませんね。そしてこの場は私に譲ってもらうことにしましょう。いいですね?」 

 声の矛先は俺を飛び越えて、背中越しにいる秋川へと向けられている。いや、これは声ではない。空気の振動を経て届いているものではない。……これは、なんだ? 何故俺にそんな事がわかる? ”俺に向けられていない事”を、何故こうも感覚的に感じ取ることが出来る!?

 刹那、先ほどまで無くなっていたように感じた秋川の気配が嘘のように大きくなり、電車内を覆い尽くす勢いで広がった。
 ……だから、”何故俺にそんな事がわかる”んだっ!?

「……今日中に説明を終えて、陽介君をしっかり家に帰してくださいね」
「もちろん。私が彼に危害を加えるつもりが無いことも、そしてそれが出来ない事も、あなたは判りきっているでしょう? そして彼をお返しするのが今日中にと言うことであれば、その質問自体がナンセンスである事までは、あなたも理解出来るようになったでしょう?」
「……あなた達のおかげで、ですね。わかっています」

 後ろを振り向いて秋川を見る事が出来なかった。振り向いてはいけないという”感覚”が車内を支配している。これは秋川の意思だ。これは……意思の色だ。
「ごめんね陽介君……。説明は彼がしてくれるから。危害は絶対に加えられないから安心して」
 振り返ることが出来ないまま、秋川の声……では無い。これはもう声では無い。思いがそのまま届いているとしか説明のしようが無い。でも、何故俺にそんな事がわかる?
 混乱した頭のまま、車内に渦巻いている”意識の場”とでも言うべきものから、秋川の思いにのみ集中する。

――これから伝えられることは、陽介君にとっても、彼らにとっても、そして私達にとっても、とても大切な事……。だから聞いて。……私は大丈夫。明日になればまた会えるから。その時あらためて今日の約束を。会わせたい人がいるの。多分あなたは、私じゃなくて……。ううん、何でもない。まずは全てを知って……。そして……、あなたの答えを……――

 そこまで感じたところで、急速に秋川の気配は収束し、消えてしまった。意識の枷がなくなったので後ろを振り返ると、秋川もその場から消えてしまっていた。
 すぐさま視線を前方に戻し、スーツ姿の男を睨みつける。男は顔に微笑を浮かべて、左の手のひらをバスガイドのように水平に持ち上げると、今度は”言葉”を俺に向けた。

「意識をダイレクトに掴むのは、非常に疲労します。この後、あなたには”その受動部”を不本意ながら酷使していただく事になりますので、今は言葉でコミュニケーションする事にしましょうか。くつろげる空間に移動しましょう」

 言うや否や、先ほどの、乗客達が消えた瞬間と似た感覚が俺を襲った。まばたきすら間に合わない極小の時の流れの中、車内の景色が、コーヒーに入れたクリームをかき混ぜたような形に捻じ曲がり、その中心から新たな景色が生まれ、攪拌されるように、俺はそれに飲み込まれていった。

       

表紙

Lpx(ry 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha