くちづけ

 大国屋の旦那長兵衛は、女遊びも一切せぬ真面目な男だという評判だった。先立たれた妻との間にも子はなく、番頭の一人を養子として店の切り盛りをさせていたため、商売敵の中には長兵衛のことを種無しとあざけるものもあったが、そのぶん商売が上手であるのは誰しもが認めるところであった。
 しかし実は長兵衛には、誰も知らぬ秘密の趣味があった。美人画の収集である。高名な絵師の作品を自らの足で買い付けては、たったひとり自室でゆっくりとその白い肌を愛でる。本物の女などわずらわしいだけ、口答えをせず物を欲しがらず、そして決して年をとらずいつまでも美しい絵の中の女こそが、長兵衛の愛妾だった。毎朝仕事に出る前にこの美女にくちづけすると、長兵衛の心中はえもいわれぬ幸せな気持ちで満ち溢れ、よりいっそう商売に精を出すことができるのだった。

 あるとき、長兵衛は原因不明の病に倒れた。前々から体が重く胃腸が弱っていることは感じていたのだが、それを年のせいだと放っておいたのがいけなかった。医者にみせてもさじを投げられ、容態はみるみるうちに悪化し、ついに起き上がることもできぬようになった。血の気のうせたどす黒い顔は、易者でなくともはっきりと死相が見て取れるほどであった。
 鏡を見て己の死期を悟った長兵衛は、自分ひとりのときを見計らい、重たい体を引きずって自室の隠し書棚をあけた。そこには、店の者も知らぬ彼だけのための美人画の数々が収められていた。長兵衛死ぬ前にせめて、彼女たちに別れのくちづけを、と考えたのである。しかしその美人画を取り出した長兵衛は愕然とした。真っ白だった彼女たちの美しい肌が、不気味にどす黒く変色していたのだ。まるで、鏡に映った長兵衛と同じように。長兵衛は絶望し、その夜のうちに息絶えた。

 長兵衛の喪があけたころ、大国屋にひとりの画商が呼ばれた。
「ここにある美人画を引き取ってくれないか。お代は結構だから」
 大国屋を継いだ長兵衛の養子、彦太郎は、ひと抱えほどもある包みを指して言った。画商は少し怪訝な顔をした。
「ただで、でございますか。いや、それは願ってもないことですが・・・・・・何か訳がおありのようで、まずは品をみせていただけますか」
 彦太郎は少し悩んだが、くれぐれもこのことは内密に、と念を押してから包みをあけた。中には例の、顔が黒く変色した美人画が入っていた。
「・・・・・・どうだい、気味が悪いだろう。まるで死人の顔だ。焼き捨てようかとも思ったけれども、義父が大切にしていたものだし、なにより祟られそうだ。もはや売り物にもならんだろうが、あなたなら何かいい処理の仕方を知っているだろう。なんなら私のほうが手数料を出してもいい、どうにか引き取ってもらないかね」
 画商はしばらく黙って絵を見ていたが、顔を上げると笑って言った。
「ご心配には及びませんよ。これは祟りだとかそんな悪いもんじゃありません」
「ほう、どういうことだい?」
 彦太郎の顔はぱっと明るくなった。実のところ、この絵が家にあるだけで義父の死に顔が目に浮かび、夜も寝られぬ思いをしていたのだ。
「こうした絵の女の肌には、鉛を溶かした顔料を使っています。時間がたつと、それがこのように黒ずんでしまうことがあるんですよ」
「そんなに古い絵というわけでもなさそうだけどね」
 なおも少し不安げな彦太郎に、画商は続けて言った。
「新しいものでも、水気が多いとこうなることもあります。まあとにかく、これなら色を塗り替えれば売り物にもできますし、ただでもらうなんて恐れ多い。しかるべき値段で買い取らせていただきますよ」
 その言葉をきいて、彦太郎はやっと安心した。
「そうかい、悪いね。ならば茶でも飲んでいきなさい」
 へい、いただきます、と画商は出された茶をすすり、画商は彦太郎と世間話をした。茶も茶菓子も上等なもの。ただでもらえた絵に金を払った分、この新しい旦那の信用を買えたようであることに画商は満足した。

「ところで旦那、鉛の顔料といえば、ご存知ですか。芸者や役者なんかがつかう白粉も、この鉛の顔料を使っておるのです。しかし鉛というのは人間の体には毒でして、使いすぎたり口に入れたりして体を壊す者もおるそうです。中毒した者は体が鉛のように重くなり、臓器が弱り・・・・・・最期には、血の気がうせて顔がどす黒くなるそうです。ちょうどあの絵のように」