Neetel Inside 文芸新都
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ガラスの檻
2003年9月 将範

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2、2003年9月、将範

 部活を終えた小島将範は学校からの帰り道を1人歩いていた。夏休みが終わって10日以上が過ぎていたが、暑さが和らぐ気配はまったくない。じっとりとした蒸し暑い空気が夕暮れ時の町を覆っているために、時折すれ違う会社帰りのサラリーマンや、買い物を終えた主婦などは一様に不快な表情を浮かべていた。
 そんな中、ともすれば笑いを押さえる事ができないほど将範は上機嫌だった。その理由については、将範の入学当初まで話が遡る。

 今年の春に中学生になった将範は陸上部に入り、今日までずっと基礎体力をつけるためのメニューをこなしてきた。顧問の方針であるのか、1年生はトラックを走ることすら許されなかった。グラウンドの片隅でランニング、筋トレ、60mダッシュ。毎日その繰り返しだった。
 100mのタイムを計ったのは入部時の1度きり。延々と繰り返される基礎体力作りに嫌気が差し、部活を辞めていった者も少なからずいた。夏休みの間も同様の練習に明け暮れ、1年生部員の苛立ちは最高潮に達していた。
 そんな頃合を見計らったのか、今日の部活で100mのタイムを計ることになった。顧問からそう聞くと、部員たちの表情が一様にほころんだ。全員の顔が見える位置にいた顧問は、同じ表情をした部員たちを満足そうに見回した。
 1年生部員たちは、これまで立つことの許されなかったスタートラインに1人ずつ並んだ。ピストルの音がする度に、1人、また1人と順番にスタートを切っていく。100mを走り切った部員は、ゴールラインの脇でストップウオッチを持っている顧問から自分のタイムを聞き、誰もが笑顔になった。今日までの練習が無駄ではなかった証拠に、1年生部員全員が入部当初の記録を上回っていた。中には1秒以上、タイムを縮める者もいた。
 部活が終わった後の部室では、これまでの努力が報われた喜びを誰もが興奮気味に友人と語り合っていた。部員たちは日に焼けた腕の黒さと、シャツに隠れて白いままの部分を比べたり、中には、パンツ一丁になって、ボディービルダーのようにポーズを取ったりしながら、はしゃいでいる者もいた。
 将範もいつになく興奮していた。その興奮は友人と別れて1人になっても収まらなかった。自分が強くなったという実感は将範に大きな喜びと自信を与えていた。

 いつもより早足で歩いていると、クシャという何かを踏んだ音がした。後ろを振り返ってみると、潰れた蝉の死骸が転がっていた。あたりを見回すと、ひっくり返った状態で死んでいる蝉がそこかしこに落ちている。暑さは変わらなくても、少しずつ季節は移り変わっているようだった。

 学校から20分ほど歩くと、小さなアパートが見えてくる。築20年は経っているであろう、古ぼけた2階建ての建物。だいぶ薄暗くなってきた中に、常夜灯の明かりがぼんやりと浮かんでいた。
 この1階の角部屋、104号室が将範の家だった。将範は家の前まで来ると、薄汚れたアパートのドアを開けた。部屋の中から米の炊けるよい匂いがしてきた。部屋に入ってすぐのところにある台所で夕食を作っていた母が将範の方を振り返る。母の顔は年齢のわりに皺が目立っていた。

「ただいま」
「おかえり」

 母は笑顔でひとこと言って夕食作りに戻る。朝9時から夕方4時まで事務のパートに出て、家族の夕食を作った後、8時から11時まで近くのコンビニへアルバイトに行く。3ヶ月ほど前から、母はそんな生活を送っていた。
 将範が小学校を卒業する直前に、父がふらりと家を出たまま連絡が取れなくなった。以前から家を空けがちだったが、それはせいぜい1週間や2週間のことで、これほど長い間、帰ってこないのは初めてだった。もともと蓄えがある方ではなかったため、3人の子供を食べさせていくには母が働くしかなかった。
 将範はそんな母に、新聞配達でもやろうかと言ったことがあったが、お前がそんな心配をしなくてもいいと強く言われて以来、お金のことには触れないようにしている。それでも、土日に働くことも多くなった母を見ていると、やはり自分も何かしなくてはいけないと思うことが多くなった。

 将範は奥の部屋に入って、壁際にある小さな箪笥からTシャツとスウェットのズボンを出して着替えた。その部屋では小学5年生の妹と、1つ下で4年生の弟が寝転がって漫画を読んでいる。この104号室は1Kで、部屋はこの1室しかない。ある程度の広さがあるとは言え、家族5人が過ごすのは厳しかった。父が家を空けていると、広くていいなと小さい頃の将範はよく思っていた。
 将範は壁に立てかけてある折りたたみテーブルの足を伸ばし、部屋の中央に置いた。

「ほら、夕めしの準備するぞ」
「は~い」

 将範がそう言うと、妹の由貴はすぐに漫画を置いて立ち上がった。

「お兄ちゃん、手洗った?」
「いや、まだ洗ってない」
「だめだよ、帰ってきたら手を洗ってうがいしないと」
「はいはい」
「『はい』は1回」
「はいは・・・・・・、はい」

 妹の由貴はうん、と頷いて台所へ行く。おそらくこの家で自分がいちばんしっかりしていると思っているのだろう。将範は苦笑いを浮かべて、洗面所で手を洗ってきた。部屋に戻ると、弟の達也がまだ漫画を読み続けていた。

「達也も手伝いなさい」

 手馴れた手つきで茶碗と箸を並べていく由貴が達也に言ったが、いいところを読んでいるのか、達也は聞こえないふりをしていた。将範は達也からさっと漫画を取り上げると、その漫画で達也の頭をバンと叩いた。

「手伝えっての」
「・・・・・・」

 達也はぶすっとした顔で立ち上がり、のろのろと台所へ向かった。

「もうお味噌汁もできるから、ごはんよそっちゃって」
「わかった」

 母の声に答えて、将範は茶碗にご飯を盛っていった。その間に由貴と達也は麦茶や漬物などを冷蔵庫から出してテーブルに並べていく。

「これ、持ってくよ」

 将範は皿に盛られている野菜炒めを台所から持っていった。最後に出来たての味噌汁を母がお椀につぎ、由貴と達也がそろそろと自分の場所に持っていった。将範と母もその後に続く。

「それじゃ、いただきます」
「いただきます」

 それぞれが自分の場所に座って、夕食になった。湯気を上げているおかずやご飯に箸が伸びる。この時までは普段と変わらない日常の風景だった。

     


 ガン!ガン!ガン!ガン!

 突然、アパートのドアを力任せに叩く音がした。将範たちは驚いて一斉にドアの方を見た。しばらく間を空けて、また同じようにドアを叩く音がする。母は困惑した顔で玄関に向かい、細くドアを開けた。

「おう、いたか」

 ドアの前で煙草を咥えて立っていたのは父だった。薄い色のサングラスを掛け、派手なシャツを着ている。趣味の悪いシャツにはじっとりと汗が染み出ていた。
 家を出る前に比べて、少し太ったように母は感じた。父は暑さが堪えるのか、手に持った紙切れで汗の流れる顔をしきりに扇いでいる。微かな風に吹かれて、咥えた煙草の煙が揺らいでいた。
 やって来たのが父だと分かり、母がドアを大きく開くと、父の斜め後ろに見知らぬ女性が立っているのが見えた。歳は30前後だろうか。濃い化粧をして不機嫌そうに母から視線を逸らしている。

「おい、入れねえだろ」

 状況が飲み込めずに棒立ちで女性を見ていた母に向かって、父は苛立ちの混じったピリピリした声で言った。些細なことで感情が爆発する父に何度も怒鳴られ、何度も殴られてきた母は、いつしか父の機嫌を損ねることを極端に恐れるようになっていた。母は慌てて脇に身体を寄せた。
 父がずかずかと部屋に上がり、父の後ろに立っていた女性も当然のようにその後に続いた。
 箸を持ったまま成り行きを見つめていた将範たちの前に父はどっかりと座った。将範たちは久しく感じていなかった緊張感に襲われていた。過去に建築現場で働いていた父は余計な脂肪がついたとは言え、いまだに筋肉質の身体をしている。将範も由貴も達也も、理不尽な理由で力任せに殴られたことが何度もあり、その時の恐怖は身体に染み付いているままだった。

「おい、灰皿持ってこい」

 いまにも灰が落ちそうになっている煙草を持ったまま、父は将範に言った。将範は腹立たしく思いながらも、しばらく使われていなかった灰皿を台所から持ってくるために立ち上がった。
 部屋の入り口を塞ぐように、父とやってきた見知らぬ女性は座っていた。寄ってもらえますか、と将範が言うと、女性は不思議そうな顔で将範を見て、それから鈍い動作でほんの少しだけ横にずれた。気持ちの悪い女だと将範は思った。
 将範が父の前に灰皿を置くと、父は最後の一口を大きく吸って煙を吐き出し、ほとんどフィルターだけになっている煙草を灰皿で揉み消した。
 玄関の鍵を閉め、2人の靴を揃えてから母は部屋に戻ってきた。あいかわらず女性が入り口を塞ぐように座っているために、母はなかば女性をまたぐようにして部屋に入り、父の横に座った。
 既に父はこの家で異質な存在になっていた。もう戻ってこない人間。いない方が普通である存在。まるで、迷惑な客が無理矢理上がりこんできたかのような戸惑いを将範たちは感じていた。

「辛気くせぇ奴らだな、まったく」

 そんな雰囲気を感じ取ったのか、父は舌打ちをして言い、テーブルに並んでいる漬物を無造作に手で掴んで口に入れた。

「まぁ、いいや。用が済んだらすぐ帰るからよ」
「・・・・・・帰る?」

 ボリボリと漬物をかじりながら言った父の言葉に母が反応した。帰るとはどういうことなのか?まがりなりにも、ここが父の家ではないのか?

「あの、帰るってどういう・・・・・・」
「これにサインしてくれや」

 父は母の問い掛けを遮って言うと、手に持っていた紙を母に渡した。それは離婚届だった。母は驚いて父の顔を見つめた。

「俺、こいつと結婚すんだよ。
 ガキができちまってさ」

 まるで自慢話をするように父は言った。

「あんたたち、少し外に出ててくれる?
 お母さん、お父さんと話があるから」

 あまりのことに母はどうしていいか分からず、子供たちを外に出そうとするだけで精一杯だった。だが、父はそんな母の行動を許さなかった。

「話すことなんてねぇだろ。
 ごちゃごちゃ言わずにてめぇの名前書いて、
 判子押しゃあいいんだよ」

 父は爆発寸前のピンと張り詰めた声で言った。部屋の空気がビリビリと震えているように思える。父が家にいる時、将範たちはいつもこの空気に怯えていた。

「こっちも暇じゃねぇんだよ。無駄な時間取らせんな」
「無駄って何ですか!大事なことでしょう!
 子供たちのことはどうするんですか!」

 震える声で母が怒鳴る。将範は母が怒鳴るのを初めて聞いた。その声は将範の胸に突き刺さった。自分たちがいるから、母はこんな最低な男でも一緒にいなくてはいけないのだろうかと思った。

「そんなのは母親が考えることだろ。俺には関係ねぇ」

 将範は父の言動に怒りが湧き上がってきた。心臓がドキドキして、息が荒くなる。何故、自分たちがこんな思いをしなくてはいけないのか。勝手なことをして、母に苦労ばかりかけて、挙句の果てに紙切れ1枚で何もかも放り出そうとしている。
 将範の頭に、部室での光景が浮かんだ。父が出て行く前とは比較にならないほど強くなった自分を思い出す。もう自分は子供ではない。これからは自分が母を支えていく。お前なんかいらない。

「あなたは子供が大事じゃないんですか!」
「うるせえぇっっ!!」

 父は叫び声と共にテーブルを母に向かって引っ繰り返した。まだ熱いままの味噌汁が母とその横にいた由貴にかかる。達也が大きな声で泣き出した。由貴もそれに続くようにして泣き出す。母は床に転がった台拭きを素早く手に取って、由貴の腿にかかった味噌汁を拭いていた。母の頭には湯気を上げる白米がひとかたまり乗っていた。

「なんだそりゃあ!俺へのあてつけか!コラァ!!」

 母の様子が癇に障ったのか、父は母の髪を掴んで床に投げ飛ばした。それを見て、将範の中で何かが切れた。

「てめぇ!いい加減にしろよ!」

 将範は父に向かって叫んだ。

「ああ?!」

 父が容赦のない目で睨みつけてくる。将範は一瞬、怯んだ。

「親に向かって生意気なクチきくんじゃねえっ!」
「て、てめえなんか親じゃねえ!さっさと出てけ!」

 父は将範を殴りつけようと近づいてきた。その父の頬を将範は思い切り殴った。殴られた勢いで父の右足が一歩後ろによろめく。将範は自分の手に返ってきた反動の少なさを意外に感じた。
 殴られた父は恐ろしい目で将範を再び睨みつけた。先ほどまでの目つきとは明らかに違っている。それは子供に向けられるような視線ではなかった。
 将範を恐怖が襲った。心のどこかで父だと思っていた。だが、目の前にいる男は自分を息子とは思っていないことがはっきりと感じられた。
 父の身体が動いたと思った瞬間、将範の視界が歪み、壁に頭を思い切りぶつけていた。壁にぶつけた方とは逆のこめかみがガンガンと痛む。
 何が起こったか分からないうちに、将範は髪を掴まれ、壁に顔を打ちつけられた。鼻の奥で蝉の死骸を踏み潰した時のような乾いた音がして、暖かいものが鼻から流れ出す。経験したことのない痛みに目を開けることもできない将範の顔を父は2度、3度と壁に叩きつけた。

「あなた!やめてください!やめてください!」

 しがみつく母を振り払って、父は将範を床に転がす。手で顔を抑えている将範の腹に父は踵で蹴りを入れた。顔に手を当てたまま将範は身を丸くする。父は将範の脇腹を執拗に蹴り続けていた。

「お願いです!なんでもしますからやめてください!
 サインでもなんでもしますから!」

 母が泣き叫びながら、再び父にしがみついた。

「じゃあ、さっさと書けよ」

 父は冷たくそう言い放った。母は引き出しからボールペンと印鑑を出してきて、床の上で自分の名前を書いた。フローリングの継ぎ目でボールペンが離婚届を2度、突き破った。由貴と達也の泣き声の中で、母は印鑑を押した。父はその離婚届をひったくるように取った。

「最初っから素直に書いときゃ、
 こんなことにならなかったのによ。
 将範も可哀想だな」

 将範は床に丸くなって呻いていた。母は父の言葉に背を向けて、将範の側に寄り添っていた。そんな様子が気に入らなかったのか、父は再び将範に近づくと、将範の髪を掴んで頭を持ち上げた。将範は顔を歪めてウェ、ウェ、という嗚咽と共に涙を流していた。

「あなた!もうやめてください!
 言うとおりにしたじゃないですか!」

 父は母の声を無視して将範に言った。

「おい、ごめんなさいって言えよ」

 将範は薄笑いを浮かべている父の顔を涙越しに見た。悔しくて悔しくて堪らないが、痛みで涙を止めることがどうしてもできない。だが、父に謝ることだけは死んでも嫌だった。
 父は将範の鼻柱を空いている手でつまんだ。

「あああああああああっ!」
「ほら、早く言わねぇと鼻、治んなくなっちまうぞ」
「ウァ・・・・・・ごめ・・・・・・ヒッ・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」

 父は掴んでいた将範の髪を離した。床に倒れこんだ将範は堰を切ったように激しく泣き出した。将範、将範、と呼ぶ母の声、由貴と達也の泣き声、そして赤ん坊のように激しく泣く自分の声がどこか遠くから聞こえるように将範は感じていた。
 母が将範の頭を膝に抱えるようにして、後頭部のあたりを撫でていた。うっすらと目を開けた将範が見たのは部屋を出ていく父の後姿と表情の無い顔でこちらを見ている名前も知らない女の目だった。

       

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