Neetel Inside 文芸新都
表紙

ひとりなふたり
5.意志

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 姉の読んでいた本を盗み読みしてから、二週間――。
 あれからの僕らの生活は、波の少ない、ほとんど一定のものだった。今までとのちょっとした違いといえば、僕たちの学校では文化祭が迫り、お祭りムードが満ちてきたことだ。うちの学校の文化祭は6月にあるのだが、これがどうしても腑に落ちない。なんでわざわざ梅雨真っ最中に行事をしなきゃならんのですか、と思う。もちろん、学校行事といえば嫌でも参加せざるを得ないので、僕もその文化祭に参加することにはなるのだが、うちのクラスは模擬店で焼きそばを売るだけなので、当日になるまでそれほど準備は必要なく、材料についてなんかは文化祭の実行委員に任せきりだった。行事にあまり意欲的でない僕にとってこれはラッキーで、こうして、いつもと同じように、学校帰りに夕食の買い物をして帰ってくることができるわけだ。

 今日の帰り道、ボヤいていたのは東堂だった。
「いいな、ゆう達のクラスは」
 彼女は羨ましそうな眼差しを、僕と倉木に向けていた。
「何がよ?」
「文化祭。準備が楽でさ」
「ああ、そゆことね」
 納得した感じで、倉木が言う。
「うちのクラスなんかさー、演劇やるのよ? 素人の猿芝居見せるのが恥ずかしくないのか、って感じ」
 なかなかの毒舌でクラスメイトの演技力を斬る東堂。
「そりゃ、準備も大変だな」
 僕が相槌を打つ。
「おかげで、遊びに行く約束も延び延びだし」
「ああ、それは三井も部活で都合悪いし、しょうがないんじゃ」
 東堂は、倉木が提案した遊びに行く約束についてを持ち出した。
 あれから二週間が経っていたが、具体的な予定は何も立っておらず、全員の都合が合う日を探している状態だった。
「どうせ三井が部活の日は遊びに行けないんだから、休日もマネージャーの仕事したら?」
 僕がサボりっぱなしの状態をつついてやると、東堂は意外な反応をした。
「ん、うん。最近はこれでも結構出てる」
「あれ、意外」、「そうなの?」と僕と倉木の声が重なる。
「やることなくて、暇だしね」
 そんなことより、と半ば無理やりその話題を終わらせて、東堂が続けた。
「ともって、お姉さんいるんだってね」
 余談だけど、こうやって下の名前で呼び捨てられるのには未だに抵抗感が残る。だけどそれはこの東堂のこと、僕からのクレームなんて一切受け付けず、「呼びやすいからいいの」とのことでこの呼び方に落ち着いた。呼ぶ方は落ち着いたのかもしれないが、呼ばれる僕はちっとも落ち着かない。
「――誰から聞いたの?」
 また面倒なことになりそうだ、と思った。
 東堂は黙って、倉木を指した。
 なるほど、ま、そうだろうな、と勝手に納得した僕は、いるよ、と簡単に受け応えた。必要以上のことを伝えるつもりはまったくない、最低限の返答だった。
「へえ、どんな人?」
 やっぱりこいつも興味を持ってしまったようで、僕はどう答えようか迷ったが、突っぱねた。
「兄弟がいることくらい、珍しくないだろ? 2人はいないの?」
「ま、そうだけどね。私はいない」
「私は兄さんが1人」
 へえ、倉木には兄さんがいるのか。
 こうして僕は、姉のことを話すことなく、この話題を交わしきった――と思ったのだが……。
「でもなんかともって、シスコンっぽい」
 何を言い出すかと思えば……。この話題は続けたくない。そんな思いで、僕は少し意地の悪いセリフを吐いた。今になってみれば、軽薄なセリフだったと思う。
「シスコンなんかじゃない、けど……。両親がいないし、姉と2人きりで暮らしてるから」
 僕がそういうと、2人は反応に困ったようで、さすがの東堂も「変なこと言ってゴメン」なんてしおらしく謝ってきた。
 気にしてないよ、と僕は言ったものの、こんなことのために、両親がいないことを話題として利用してしまったことに、胸がチクリとした。
 そういえば、倉木が静かだ。反応しづらいのはわかるが――。と思って倉木の方を見ると、何か困惑したような仕草だった。
「どうかした?」
 気になったので問いかけてみる。
「いや――なんていうか、前に光谷くんがお姉さんと2人暮らしって聞いた時、そこまで頭が回ってなくて――」
 ああ、倉木も気にしてるのか――。そんなことなら、大丈夫だよ、とフォローを入れようとしたその時、倉木が僕の予想を逸脱したセリフを言った。
「――私と、一緒だな、って。それに――」
 そこで倉木は、言葉を切ってしまったが――。
 ――私と、一緒?
 倉木も、親がいない、ってことなのか。
「それは――」
 僕がこの日一番困ったことは、ここでなんと言うべきなのか、ということだった。
 ――そして結局、僕は何も言ってやれないまま、2人と別れてきたのだった。

 倉木についての新事実に多少の心の揺れ動きを残しつつも、僕はスーパーでの買い出しを終えて帰ってきた。
 お馴染みの狭い部屋には、ソファーに寝転んで、この前とは打って変わって、薄めの本をくつろぎつつ読んでいる姉の姿があった。
「ただいま」
「おかえり」

 僕のここ最近の生活は、さっきも言ったように安定したものだったが、姉は姉で、昼間はいつもと同じように講義を受けたりバイトに出たりして、夜になれば読書に勤しむ日々だ。姉に訪れた少しの変化といえば、以前よりも読書量が飛躍的に増えたこと、そして、以前は小説しか読まなかったのに、今では様々な本を読むようになったということだ。特に、最近は心理学関係の本を読み漁っている。
 何が彼女をそこまで駆り立てているのかはよくわからない。ただ、僕には、姉が本から溢れ出てくる何かを、スポンジのように吸収し続けているように見えた。
 そして僕は、そのスポンジが漏らす雫の中身を、日々の中で少しずつ、感じ取っていた。感じ取ってはいたが、触れるのが怖かったり恥ずかしかったりで、特にリアクションを取るようなことは避けていたのだが――。

「最近、忙しい?」
「え?」
 突然、呼びかける声もなく問われて、間抜けな声で返す僕。
「い、いや……、文化祭が近いけど……。忙しくないよ。準備とかは、僕がする必要ないから」
 姉が、僕の普段の生活について探りを入れてきた。こんなこと、ほとんどなかったのに。
「じゃあ、何か他に大切なこと、できた?」
「……?」
 ここまで踏み込んだ質問、まったくされたことがない。姉の意図するところが読めない。僕は焦った。焦って、こんなときに冷や汗が本当に顔を伝うことがあるのだとしたら、その代りに疑問符が顔を伝うくらい、僕の顔には疑問符が浮かんでいたに違いない。
「なんでそんなこと聞くの?」
「最近、とも、変わった」
 変わった――。僕が、変わった。姉はそう言った。
「前にも言ったけど、高校で新しく友達できてさ――。楽しく、なってきたんだよね」
 自分でもこんなことは意識していなかったが、こんな言葉が口をついて出た。これはきっと、僕の、無意識が吐き出した本音なんだろう。
 そんな無意識が、僕が感じている楽しさをじわじわと僕の外へと滲み出させ、それを姉が感じ取ったに違いない。
「楽し……そうね」
 相変わらず姉は無表情だったが、なぜか、苦しんでいるような印象も受けた。
 ――ここしかない。このタイミングしか。
「姉さんこそ、どうしたの? 最近、いつもと様子が違う」
 これを、聞きたかった。二週間の間できずにいたこの質問を、姉が作ったきっかけを利用して仕掛けた。
「……」
 姉が、少しの沈黙の後、表情筋を固めたままで口を開いた。
「――どこが?」
 ……どこが、って……。肩すかしを食った気分だ。
「なんか、たくさん本読んでるし、心理学とか、今まで興味のなかったものまで――」
 僕が、質問の内容を補足してやる。
「……興味がなかったわけじゃ、ない」
 静かな、否定の声を聞いた。
「ともがなんか変わってきたから、私もそろそろ、と思った」
 僕は我が耳を疑った。
 ――そんな意志が、まだ、姉の心の中に?
 そんなもの、とっくに捨ててきていると思っていた。
 まさか、僕が変わってきたことで、姉まで変わろうとするなんて。さっきまで僕自身が変わってきていることにさえ気づいていなかった鈍感な僕が、姉の発する微弱な意志を、これまえ感じ取れなかったというのは不思議じゃない。
 ――不思議じゃないけど、悔しい。
 もっと早く、なんとかしてやれたんじゃないか。そんな思いが、脳を、心を、血管を、駆け巡った。
 僕は、具体案を打ち出した。
「――病院、行ってみる?」
「いい」
 その具体案はどうやら速攻で否決されたようだった。
「でも、他にどうやって――」
「自力で、取り戻したいの」
「自力で?」
 まるで恐ろしい話を聞いたかのように、僕は動揺して、目を見開いていた。

 きっと、愛しの娘が、独立したい、と言ってきたときの父親の心境って、こんな感じなんだ――。
 彼女に対する期待を持ち、彼女がひとりで生きていこうとする意志を感じ取り――。そして、自分もいずれはひとりで生きていかなければならなくなる。
 あの日考えた事実を、姉から突きつけられているような気がした。その切っ先は鋭く研ぎ澄まされていて、僕を身動きできなくするのに十分だった。

 ずっと大切に守って、守って、守り抜いて――、僕も変わり始めている、姉から離れ始めて、友達と青春を過ごそうとしているこのときに、姉は自身の意志を表面化させた。
 ああ、姉は、こんなにも、こんなにも強い意志を、心に宿していたのか――。

 ――彼女が、感情を捨てた、その日から。

       

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