Neetel Inside 文芸新都
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九月九日(SAT)午前零時二十分〜九月九日(SAT)午前一時十五分

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九月九日(SAT)午前零時二十分


 脇腹の痛みが、思考を冷静にさせてくれた。
 俺は窓から飛び降り(その際腰を強く打ったものの、幸い大きな痛みは感じられないので大丈夫
だろう)、逃げる「フリ」をした。いや、逃げるんだが。
 都子は、すぐに家を出て、俺の落ちた庭に来た。そして、俺がいないと早とちりすると、家の外
に向かって走り出して行った。
 俺は、縁の下に隠れていたのに。
 都子の気配――纏わりつくような殺意――が消え、俺はそこから這いでて、再び家に入った。
 グズグズはしてられない。
 戻ってきたら――今度こそヤバい。
 殺される。
 いや、あるいは。
 殺してしまうことに、なるかもしれない。
 そんな血みどろの兄妹は、対岸の火事として、見ているだけならいいかもしれないよ。
 でも、当事者にはなりたくない。
 絶対に。
 脇腹に、応急処置を施す時間もない。
 必要なのは、金だ。
 五万円――修学旅行、渡された金。
 ああ。
 明日は、修学旅行だったな。
 忘れてた。
 居間に吊るしておいた制服。金は、ズボンのポケットに入れたままだった。
 それを取り、急いで玄関へ――
「…どうしたの? あんた」
 ――母親。
「なんでもないよ。ちょっと出掛けてくる」
「ふうん、そう」
「ああ」
 母親、俺の目を見ている。
 なんだか知らないが、俺も彼女の目を見ていた。
 それが数秒。ハッとした。
「じゃあ、行くから」
「うん、いてらっしゃい」
 何故だろう。
 何故だか分からない。
 分からないが、今、物凄く寂しくなった気がする。
 心の、底の方が。
「知らないうちに、いい男になってるね」
 小さく背中で、母親の呟きを聞いていた。
 そうでもないよ。と言いたかったが言えなかった。
 もう、走り出していたから。


九月九日(SAT)午前零時四十八分


 絶望的な状況なときほど、足は自然とポジティブな方へ向くものだ。
 麻子は、父親と二人暮らしだ。
 幼い頃に両親が別れ、父親が親権を勝ち取ったのだと、そう聞いた。
 麻子自身は、割とどっちでも良かったというか、状況がよく飲み込めてなかったらしい。
 丁度、今の俺みたく。
 夜の零時過ぎに恐縮だが、俺だって余裕がない。
 大分血が出ていて、目がチカチカしてきたんだよ。
 フラつくし。
 走らなきゃ良かったな――そう思いながら、倒れこむようにしてアパートの呼び鈴を押す。
 父親が深夜まで働いているということも聞いていたから、出てくるのは麻子だろう。
 そう、思っていた。
 ドアが、開いて――

「久し振り、お兄ちゃん」

 ――なんで。
 思わず、その場にへたりこんだ。
 なんでだ。
 お前がいるの、なんでよ。
 麻子は――?
「刺しちゃった」
 明るい声で。
 人殺しはそう言った。
 そうだ、人殺し。
 人殺しめ。
 今まで感じたことのないような感情が、沸々と湧き上がってくるのを、俺は感じていた。
「なぜ殺した」
「殺してはいないよ」
 そう、これは――
「冗談だよ。刃の柄でね、首の裏を殴って気絶させただけ。アニメみたいにはいかなくて、何度
も殴ったけど、死んではいないよ」
 ――今、都子の中にあるのと同じ種類の物。
 それは、肉体を衝き動かす力に満ちていた。
 立ち上がり、都子の胸倉を掴みながら、俺は麻子の部屋に入り込んだ。そのまま壁に都子を叩き
つけ、放り投げるように。
 都子に俺は言った。
「消えろ。消えなきゃ、お前、ただじゃ済まさねぇぞ」
 都子は一転、泣き出した。
 それで、感情がさらに昂る。
「お前に泣く資格はない。いいから黙って消えてくれ。そして、暫く顔見せんな。ぶん殴りたくな
る」
「あたしは……ただ……お兄ちゃんと……」
「消えろ」
 感情が声に篭もる。
 俺の本気は、都子にも伝わったようだ。
 あいつは出て行った。


九月九日(SAT)午前一時十五分


 ベッドで、麻子が倒れていた。
 俺は頬を数回叩き、無理矢理起こしてやった。
「あ……かず、や……?」
 良かった、本当に。
 俺は、たまらず抱き締めた。
 強く、強く。
 命を、確めるように。
 力なく、恥ずかしそうに笑う麻子から、心地いい暖かさを感じた。

「あいつ、なんでここを知ってたんだ」
 脇腹に消毒液をかけ、傷口をガーゼで包み、包帯で巻いてもらいながら、ふと思った。
「俺が最後にここに来た時には、まだあいつはお前の存在を知らなかったはずだ。俺をつけて、こ
こを知ったというのは、あり得ない」
「あたし……そうだ、あたし……誰かに、つけられてた気がする」
「え」
 初耳だった。
「言わなかったけど――正確には、言う暇がなかったんだけど」
「…都子か?」
「多分……昨日――ううん、もう一昨日か。一昨日の夕方、気配を感じて振り返ったら、中学生く
らいの女の子が一瞬見えたの。もしかしたら、その子が、都子ちゃんだったのかも」
 一昨日……もう日付変わってるから、木曜か。木曜の……夕方。
 木曜、か。俺は何をしていたっけ。少なくとも、麻子と一緒ではなかった。そして今重要なのは、
その事実だけだ。
 俺が一緒にいれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
 それとも、何も――
 ――俺が最善の行動をとってさえいれば、こんな凄惨な事態を引き起こさずに済んだのだろうか。
 だとしたら、その「最善」とはなんだったのだろう。
 素直に、都子を抱いていればよかった?
 そうすれば、麻子が狂気に曝されることもなかっただろう。
 ――しかし。
 そんなことは……俺には。
 ――暖かい。
 麻子が、胸に飛び込んできた。
 条件反射みたいに、俺はそれを抱き締める。
 感情が――怒りが、解れていく。
 やっぱり、麻子は落ち着く。
「好きだ、世界で一番」
「うん」
「妹が、本当にゴメン」
「ううん。それより……」
 麻子の手が、熱を発している出っ張りを優しく撫でてくれた。そして軽くつまんで、言った。
「凄く、硬くなってる……これ、もしかしたら、今までで一番硬くて、大きいかも」
 恥ずかしい。
 恥ずかしいけど、俺、この状況で物凄く欲情してます。
「生命の危険を感じたときほど、種を残そうと性欲が高まるらしい。つまり――」
「分かった。まだ、赤ちゃんは駄目、だけど……この前も中出しされちゃったし、いいよ、き
て?」
 麻子だって、生命の危機に瀕していたのだ。
 俺と、同じだった。
 二人とも、痛みなんて気にならなかった。
 行為に没頭さえしていれば、世界は限りなく狭まる気がした。
 
 そのせいで、麻子の部屋の窓、その外。
 歪みを生じさせている、悲しい存在。
 それが窓の外、張り付いていることに。気付けなかったのだろうか。

 それに気付いた時には、全てが、もうどうしようもなくなっていたのだ。

 今、冷静に振り返れば――

       

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