Neetel Inside 文芸新都
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 自由とは対価が必要なものなのか?
 少なくとも俺にはそうで、俺にとっての対価とは、外にでる為に支払った俺自身のイノチ。
 こんなことってあるのか……
 女の歩調にあわせて、規則正しくおとずれる振動。
 過ぎゆく時間だけが、今この袋の中にある。
 その間、俺は来ない未来を思い、落胆に落胆を重ねた。
 落ちて落ちて尚、暗くて狭い谷のどん底で見つけたのは、怒り。
 怒りだ。
 身を焼いてやまない、人間たちへの憎悪だった。
 確かに、脂ぎった、一日の大半を動物性タンパクの摂取に費やすような肉マダムに命を奪われるよりかは、この見るからにみすぼらしい30負け犬女にたまの贅沢として食われる方がどちらかといえば気分は良いか、なんて事を考えていた。
 しかし、当然だが、それが理不尽に命を奪われる怒りを沈める理由となる訳ではない!
 一矢報いてやるんだ……
 人間どもに……
 ふつふつと俺が、怨恨の念を煮詰めている間も、この30女はそこかしこでの買い物を続けている様子だった。
 声だけとはいえ、外からは「チキン」、「赤飯」などといった、恐らく今買っているのであろうものの名前が聞き取れた。
 「ケーキ……は……」というため息にも似た呟きも聞こえたが、これは思うに所持金の問題で変えなかったのだろうか。
 やがて、女は足を止めた。
 遂に、俺が死を迎える場所へとたどり着いたのだろう。
 つまりは、この女の家へと。
 偶然、袋のたわみから見えた女の家は平屋で、ありふれた……と呼ぶには少々グレードの低い物だった。
 穴を補修した痕のある屋根だったり、下の方で穴のあいている壁だったり、そういった欠陥が幾重にも積み重なって、全体的に朽ちた雰囲気を形作っていた。
 それはこの女と全く同じように、日々の苦労をその身にしたためていた。
 とはいえ人が住むにはギリギリで困らなさそうでもあった。
 それにしても、今日は、なにか特別な祝い事でもあるのだろうか。
 俺の記憶が正しければ今日は正月でもイースターでもない。
 ならば、先の献立から考えることで、解答は簡単に一つへと収束する。
 誕生日。
 俺は、俺に歯があったなら歯軋りをして悔しがっていただろう!!!
 なぜ、産まれることすら叶わなかった有精卵のこの俺が苦もなく産まれてこれた奴らの誕生日をのほほんと祝う事が出来る!? 俺自身の誕生と引き替えにだ!!
 誕生、誕生誕生!!
 うおおおおおお!!!!
 怒りで殻が砕けそうだった。
 そんな中で俺ができることといえば、一刻も早く腐った卵になって腹の中で暴れて、俺の産まれる権利を奪うお前等人間に一矢報いてやる、
 なんて出来もしない妄想を広げることだけだった。
 女がドアを開けて、玄関先に入る。
 袋の揺れがはたと止まる。
 機能的な作りのゲタ箱、その上には丸い鏡がかけられていた。ドアにほど近いゲタ箱側の床にはちょこんと小さな傘立てが置かれている。そこには二本、傘が立てかけられていた。
 片方は普通の大人用傘、もう片方は小さなピンク色の水玉の可愛らしい傘だった。
 「おかえりー」
 家の中から、高く幼い、俺にとって意外な声が聞こえた。
 そのあまりに飾り気のない風貌からすっかり負け犬女と決めつけていたがどうやら撤回が必要らしい。
 「今日は早かったんだね、未亜」
 「うん、今日は掃除とか、なかったから」
 「そう。すぐご飯の支度するから、待っててね」
 幸せそうな一家のやり取り。
 女は、ガラスのショーケースの中を眺めていたみすぼらしいあの雰囲気からうってかわって、笑顔が似合う母親になっていた。
 それに応じるようにパアッと可愛らしい笑顔を広げる、未亜と呼ばれた少女。
 やり取りを聞きながら俺は台所に運びこまれ、袋から取り出され、流しの横のステンレスに置かれた。
 未亜と呼ばれた少女は、母親と同じく飾り気のない格好をしていた。
 台所にいる人間二人、母親と少女。
 父親の姿は見えない。
 「ねぇママ、今日のごはんなに?」
 未亜ちゃんは母親の腕を掴んで、ぷらぷらと揺らしている。
 「んー?今日はねー、ほうれん草のおひたしと……」
 家計が苦しいのであろう事が見て取れる家庭にあっても、未亜ちゃんのあいくるしくも眩しい笑顔と、溌剌とした仕草から、この子が愛情という面において何一つとして不足のない生活を送っていることはすぐに分かった。
 そうか、俺はこの子の誕生日に喰われるんだな……。
 有精卵の俺ですら、未亜ちゃんの笑顔にはひとつ癒されるものがあった。
 いくら憎い憎い人間であっても彼女自身に罪はない、と一瞬絆されそうになってしまう。
 愛情に満たされた者は、俺のような愛に飢えた者にも、その溢れる愛を分けつつも、お互いを幸福にすることができる、というのか。――ふざけるな。
 その愛は誰から受けた?
 そうだ、お前の母親だろう!?
 そうさ、何よりも強いハズの母の慈愛からだろぉっ!!
 ……しかし俺はっ、俺は自分の母親の顔さえ……知らない……っ!!!
 うおおおおォォォオ!!
 もし俺に目があったならば、こんこんと溢れる涙が俺の顔をぐしゃぐしゃにし、ひとつの泉ができて新たな地図に書き加えられる程までに、無念の雫を流しただろう。
 だけど…だけど俺には涙を流す目さえ、未だ作られていないのだ。
 俺が何故愛に飢える事になった?
 俺が生まれるのを阻むのは誰だ?
 一体、誰のせいだ。
 お前ら人間のせいだ。
 お前ら人間のせいだ。
 お前らのせいだ。


 ――暗く寒い冷蔵庫の中で、遠く微かに聞こえた。
 声、小さな女の子の声。
 まだ幼い、毎日が、そして一つ一つの今が輝いて見えている、そんな年頃の子供の声。
 それに続く、母親の声。
 親子の会話は、狭い6畳の茶の間で、それでもなお、幸せそうな弾みを帯びていた。
 「ねぇママ、ママ、明日なんの日か覚えてる?」
 「もぅ。未亜ったら。それ5回目よ」
 「じゃあ、じゃあ、明日は」
 声が遮られる。
 「わかってますわかってます。ママどーんとスペシャルメニュー用意したんだから。明日は朝からフ・ル・コ・ー・ス☆」
 「ほんと!わーい!!」
 ……はは、俺はそのフルコースに並ぶわけだ。
 めんどり小屋に産まれ落ちて、はや16時間。
 まだあの頃は、至る所蜘蛛の巣だらけの簡素な木組みの天井、それだけでも視界が、世界があった。
 世界の中に俺がいた証拠があった。
 今の俺を包むのは冷蔵庫の中の、只の暗闇。
 自分自身の白い殻さえ、闇に埋(うず)もれて見ることもできない。
 いまや世界もクソもない、感じるのはチルドの、ただ異常なまでの寒さ。
 ただただ、ただただそれだけ。
 ただただ、ただただそれだけ。
 自由で、尚且つ確実に存在するのは、考えている俺の頭だけ。
 だから俺は考え、そして感じていた。
 俺の命を奪わんとするこの親子への憎悪、恨み、妬み、そして……憐憫……憐憫?
 何だろう、羨ましさ、妬ましさの影から顔を出す、この小さな感情は。

 ――未亜ちゃんのお父さんは……?
 ――未亜ちゃんの前にないときの母親の憔悴しきった顔の理由は?
 ――母親の「ケーキ……は……」という呟きの意味は?

 いや、俺には……関係ないことだ。
 この親子は、人間は、俺の命を創り、そして奪おうとしている……それだけで十分だ……。
 十分だ……。
 十分なんだ……。
 自分にそう言い聞かせる声が大きくて、俺は冷蔵庫の闇の中からクスクスと、下卑た笑い声がしていたことに、全く気づかなかった。

       

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Neetsha