Neetel Inside 文芸新都
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「サンデー・モーニング」が終わると、凛里は床に置いていた
ペットボトルを手に取り、水を飲んだ。
その間に観客側から「凛里ー!」という女性の声が飛んだ。
「何か喋ってーっ!」おそらくバンドのファンだろう。
凛里はその言葉を聞くと、ペットボトルから口を離し、
かーっと頬を赤く染めながら困ったような表情を浮かべた。
どうやらMCというものには馴れていないらしい。
少し俯きがちになり、「ええと…」と何か話すべきなのかどうか
考えあぐねているようだった。
その姿を見て僕は「ああ、17歳の女の子だな」と思った。
可愛らしいところもあるじゃないか。

しばらくして彼女は顔を上げ、静かな口調で「クリスタルという曲をやります。
オリジナルです」と言った。そしてキーボードを弾き始めた。

暗澹たるトーン。それは茫然とした樹海や、尽きることなく連綿と
連なる黒い雲を思わせた。まるで狂気に触れたショパンのような音色だった。
その鋭利な演奏に、会場中が飲み込まれていく。

依然としてドラム、ベースは演奏に加わらず、凛里がソロを弾きつづけていた。
もう2分近くは経っただろうか。この曲はインスト?
そう思った刹那、変化の時が訪れる。

光が射したようだった。 
それまでとは一転して天国へと続く階段を上っていくような高揚感。
ここにきて、ドラムとベースも凛里のキーボードと共に
何かを祝福するようにその音を鳴らす。
そしてこの眩い光景の中、凛里が歌を唄いはじめた。
一音一音を愛でるように。空に羽ばたく鳥のように。
自由への飛翔、僕の脳裏をそんな言葉がよぎった。
目を閉じて麗らかに歌を紡ぐ彼女はまるで女神のようだった。
演奏が佳境に達したところで、凛里がふいに立ち上がり、ステージの中央へと駆け寄った。
素早く赤いエレキギターのストラップを首にかけ、次なる音を鳴らしはじめる。

それは、爆発するような歓喜だった。
凛里のギターが七色の光を放ち、会場中を照らし出す。
ドラムとベースもそれに呼応してよりいっそうダイナミックな演奏へとシフトしていった。
―何て素晴らしいのだろう。
凛里の歌が聴こえる。
ジョン・レノン、ルー・リード、カート・コバーン、ボノ…といった、
偉大なるロックンロール・ヒーローの名を、彼女は溢れんばかりの愛で
唄い上げていた。
彼女にとってロックンロールとは、これほどまでに美しく崇高なものなのだ。
僕は、凛里の音楽に出遭えて本当に幸せだ。

何度も何度も、彼女はギターをかき鳴らした。
この瞬間に想いをすべて刻みつけようとするかのように。
その姿を見れば、きっと世界中の誰もが彼女を好きになるだろう。

曲がフィナーレを迎える。
観客側からこれまでで最高の歓声が上がり、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
もちろん僕も腫れ上がるぐらい手をたたいていた。
本当に最高だったよ、凛里。

「ありがとうございます。次が最後の曲です。チボ・マットで『ブルートレイン』」
感動覚めやらぬ中、彼女たちは最後の曲に突入する。
怒号の如き重低音が鳴り響いた。
それはまるで地獄の奥底から沸きあがってくる業火のような演奏だった。
ずっしりとしたビートとリフ…あまりのカッコ良さに、
僕は射精時と比較しても決して引けをとらないほどの興奮を覚えた。

「Don’t leave on me, stay on your side…」
凛里が出だしの一節を唄いはじめると、会場中から一斉にわーっ!という歓声が上がった。
もはやこの中で彼女に魅せられていない人などいなかった。
ゾクゾクするようなその歌声に僕は心酔した。
多分これから先も、何度だってこんな風に彼女の声に聴き惚れることだろう。

じわじわとこちらに迫ってくるような張り詰めた演奏は、サビで一気に爆発した。
音、音、音。凄まじい音の奔流がすべてをかっさらっていく。
その激しい演奏にいてもたってもいられなくなったのか、ダイブする人まで現れ、
僕は(というか周りの人全員だけど)もみくちゃにされ、息が切れ切れになってしまった。
並のグランジ、エモ系バンドなど足元にも及ばない圧巻の演奏だ。
本物のヘヴィーさとは何かということを彼女たちは教えてくれる。

「Brue train, brue train, blue train, blue train…!」
けたたましい轟音ノイズを撒き散らしながら曲が収束していく。
凛里のギターがキイイイインと最後の音を奏で、やがて鳴り止んだ。

「どうもありがとうございました」凛里が恭しく頭を下げ、
残り二人のメンバーも彼女に続いて礼をした。
わああああ、と観客たちが熱狂的な声でそれに応える。
みんな汗ぐっしょりになりながら腕を振り上げ、
今目の前で素晴らしい演奏を聴かせてくれた三人を賞賛した。

その大きな拍手と歓声は一向に収まる気配をみせず、もう一分半近くは続いていた。
最後の演奏を終えた凛里たちは機材の片付けに入ろうとしたのだけど、
それを阻むかのような熱烈な観客の声に、手を止めてしばしその場に立ち尽くしていた。
「アンコール!」誰かがそう叫んだ。
「そうだ、アンコール!」続いて別の場所からも声が聞こえた。
すると、直ぐにあちらこちらから同様に声が上がり、
あっという間に会場中が凛里たちを求めるアンコールで埋め尽くされた。
これにはスタッフも驚きの表情を浮かべていた。
それはそうだろう。僕は今までこのくらいの規模の対バンイベントで
こんな風にアンコールが起こっているのを見たことがなかった。
まさに異例中の異例の出来事だといえるだろう。
時間の都合もあるのでスタッフは止めに入ろうとしたのだけど、
みんなのあまりもの熱気に気圧され、仕方なくアンコールを認めることにしたようだった。

凛里たちははじめ呆然としていたが、やがて自分たちが置かれている状況を把握すると、
笑顔を見せ、三人でステージの中央に集まった。
しばらくの間何の曲をやろうかという相談をしていたようだったが、
ふと凛里が、二人に向かって何かを訴えかけはじめた。
ベーシストとドラマーは彼女の言葉を聞くと、互いに顔を見合わせ、頷いた。
そして、元いた位置へと戻っていった。

鳴り止まぬアンコールの中、ステージの中央に据えられたスタンドマイクに向かって、
凛里がゆっくりと歩を進める。その表情は気品に満ちていた。
吸い込まれそうになるようなまっすぐな瞳、その眼差しは、
僕の心の奥底に眠る、何かかけがえのないものをそっと優しく揺り動かした。

彼女はスタンドマイクの前に立つと、エレキギターを床に下ろし、
まるで何かの音に耳を澄ますかのように目を閉じた。
静謐な時が流れる。観客たちは声援を送るのを止め、
凛里がステージの中央でじっと佇むその姿を、固唾を飲んで見守っていた。

やがて、その瞬間はやってきた。



いつも いつも 思ってた

サルビアの花を あなたの 部屋の 中に

投げ入れたくて



早川義夫の『サルビアの花』を、凛里はアカペラで唄っていた。
それはこの世のものとは思えないくらい美しく、僕の魂を震わせた。
本当に、一体どうしてこんな風に唄えるのだろう?
僕は体中の力を抜いて、その場に倒れこんでしまいたくなった。
いつまでもいつまでも、彼女の歌を聴いていたいと思った。





泣きながら 君のあとを 追いかけて

花ふぶき 舞う道を

ころげながら ころげながら

走りつづけたのさ



あまりにも甘美な余韻を残し、凛里が歌を唄い終えた。
僕は拍手と歓声の中、ぼんやりと彼女を見つめていた。
弱冠17歳の少女の音楽に、僕は完全に魅せられたのだった。

       

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