Neetel Inside 文芸新都
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◆1

 その晩かおる子はずいぶん酔っていた。
 で、なにか面白いことはないの、と繰り返していた。
 おれもずいぶん酔っていたので、にやにや笑いながらかおる子の体をまさぐったりしたのだが、それじゃつまらないのと言って頬を叩かれたのだった。
 かおる子は不満げに唇を突き出して、おれの部屋を物色した。
 しばらく動き回ったあと、彼女は本棚の上に置いてあった黒の油性マジックを発見した。そしてグロスたっぷりの唇をニマリと曲げて、こちらに戻ってきた。
 ホットパンツを履いたかおる子は、やわらかい太ももで、おれの上にのしかかる。
 そして、さあ観念しなさい、と言う。ピンク色の唇はずいぶん嬉しそうだ。おお、恐ろしい小悪魔の笑顔。おれはにやにや笑いのまま、降参のポーズをとり、なされるがままにする。
 鼻先にマジックが近づいてきて、独特のきついにおいが嗅覚を刺激する。
 かおる子はおれの額にマジックで何かを描き、くすくすと笑いながら手鏡を寄越した。そこに映っているのは、皮膚の上にマジックで描かれた第三の『眼』だった。
「三ツ目が通る!」と彼女が笑う。それは何かの漫画のタイトルのはずだ。手塚治だっけ。おれは読んだことがないけれど、タイトルはなんとなく覚えている。
 いたずらに仕返しするべく、おれは腹の上に乗ったかおる子に襲い掛かる。
 おれたちはひとしきりじゃれ合い、やがて疲れて、ソファの上で寄り添いながら、ぼんやりとまどろむ。
 その晩、おれはおそまつな眼を額につけたまま、眠りについたのだった。

 朝。
 かおる子より先に、目が覚めた。
 酒の残った体が重く、頭の奥がじんじんと痺れている。二日酔いだった。
 顔でも洗ってすっきりしようと、かおる子を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、洗面所に行った。
 そしておれは見た。
 鏡に映った自分の額に、ぬらぬらと輝く、みっつめの眼球があるのを。
「おい──おおい、何だこりゃあ」
 前髪をかきあげて、鏡に接近する。第三の眼球は、眉間の丁度上にあった。昨日の晩、かおる子が落書きを施したあたりだ。それは普通の眼に比べ、まぶたがない所為か飛び出しているように見えた。つまり頭蓋骨のラインから、半球状に盛り上がっている。白目の部分がやたら黄色っぽく、表面がゼラチン質の物体に覆われていた。だからぬらぬらと光って見える。
 おれは幻覚でも見ているのかと思い、もともとあった二つの目ではげしく瞬きした。頭も振ってみた。水道を全開にし、顔に冷水をぶつけてみた。しかし額には堂々と第三の目が居座っている。なら夢か? それともおれは酔いっぱなしで、現実と妄想を混ぜこぜにしているのか? ただの落書きである三ツ目の現実と、酒のもたらす変な世界とを。
 しばらく洗面台の前で考えた。が、途中で混乱が極まり、訳がわからなくなったおれは絶叫した。
 かおる子が起きてくる。
「なんなの、叫んじゃったりして」
「眼が!」
「はあ、眼が、なに──ああ、ひどい、なにそれ」
「眼だよ!」
 彼女はひどく驚いた顔で、おれの額を指差している。ということは、額の眼は幻でないのだ。おれたちがそろってクスリでもキメていなければ。クスリは、どうだっただろう。昨日の夜は酒しか飲んでないはずだ。
「どうしちゃったの、その目玉」
「どうしたもなにも──起きたら生えてたんだよ。生えてた? 出てきた? わからないけど」
「やだなあ、なんかにゅるにゅるしてるっぽい。気持ち悪いよ」
「おれだって汚い色してるから嫌だよ。これどうしよう?」
「え、やだ。わからないからお医者行ってきて」
「かおるの落書きの所為かもしれない」
「変なこと言わないでよ。私マジシャンじゃないし、外科手術もできないし」
 かおる子はさっさと居間に戻り、時計を見て「まだ7時だから、8時まで待ちなよ」と言ってパンを焼き、珈琲を入れた。朝食主義者のかおる子はおれが二日酔いでも容赦なく飯を食わせる女だ。他人の事件は他人事で済ませ、自分のルール内なら世話はしてくれる。よく言えば自立していて、悪く言えば押し付けがましい上に薄情だ。でもかおる子のやわらかい太ももと、アーモンド形のかわいい瞳は、何とも代えられないのでしょうがない。
 おれがもそもそとパンを喰らっていると、かおる子が額を隠すためのガーゼやらテープやらいつぞや買ったターバンの布なんかを用意してくれた。病院にいくための用意だ。
「できものとかの類かなあ、それ」
「どうだろう……焼いてつぶすとかだったら怖いな」
「変なのでちゃったね。正一君、可哀想」
「可哀想だね、おれ」
 食事を終えてから、保険証を出してきて、気づいた。どこに罹ればいいのかよく判らない。
「外科じゃない?」とかおる子が言った。判った、そうしよう。
 病院に予約の電話を掛ける。運よく午前中の予約が取れた。
 歯を磨き、服を着替え、それから眼をどう隠すか悩む。ターバンは額を圧迫しそうなので遠慮するべきだろう。バンドエイドのでかいやつも、はがす時が恐ろしい。とにかく刺激は少ないほうがいいだろう。ガーゼを貼るしかない。眼球がむき出しの状態なので、触れた瞬間に気が狂うような激痛がくるのではないかとおそるおそるガーゼをかぶせたが、予想に反してなんの痛みもなかった。目玉を覆っているゼラチン質の何かに保護されているのかもしれない。
「じゃあ、行って来ます」
「気をつけてね」
 おれは玄関でかおる子にキスをして、家を出た。

 病院に向かうバスを待つあいだ、不意に思った。こういうのは救急で行ったってかまわないんだろうかと。
 でもどうやって救急車を呼ぶんだろう? 額に眼が出てきましたので助けてください。たぶんこれではキチガイ扱いだろう。なにか怪しいものでラリっているとか、妄想型の精神病だとかを疑われるに違いない。
 病院で説明するのも骨が折れそうだ、と考えたところで、バスがやってきた。おれは乗り口で整理券を引き抜くと、一人掛けの席に腰を下ろした。バスのなかには、おれの他に年寄りが3人乗っているだけだった。
 全員、背中が曲がっていて、杖を右腕に下げている。まるで同じ型の人形が、違う洋服を着せられて座っているみたいだった。なんとなく、異国にある木彫りの人形館を思い出す。
 ──ブザーが鳴り、後方のドアが閉まった。足元でバスのでかいエンジンが唸り、車体がゆっくりと道路の流れに漕ぎ出し、いつもどおりのルートを走り出す。目的地まで30分はかかる。その間、おれは医者への口上をどうするか考えることにした。

       

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Neetsha