Neetel Inside 文芸新都
表紙

キエルツンデレイド
彩 その2

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 雨の日の通夜はしめやかに執り行われ、遺族のすすり泣く声が響く中、私は傘を差して立っていた。
 翔平を弔うためにやってきたクラスメイト達は、今帰っていく。
 皆、言いようもない、信じられないというような顔をしていた。
 十代という若さを持っていても、このような不幸があるのだと、強く実感しているのだろう。
 私はそれを、ずっと車の中から見ていた。
 隣では秋乃さんが唇に指を置き、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 私はぼんやりと、翔平とデートする予定だったあの日のことを思い出していた。
 
「……ただいま」
 信じていた翔平のまさかの裏切りに遭い、私はこれ以上ないというほど不機嫌な声を家の玄関で呟いた。
 腫らした目を鏡で見て、なんて災難な日だろうと思っていると、秋乃さんが飛び出してきた。
 彼女の表情を見て、そんなに今の私の顔は酷いのか、と思った。
「大変です! 彩さん!」
「どうしたの……そんな顔して」
「酒井くんが……酒井くんが」
 狼狽しきった様子の秋乃さんの口から、私が忘れたいと今さっき思っていた名前が出てきたことに驚く。
「翔平? あいつが、どうかしたの?」
 自分から誘っておいて、約束をほっぽかすなんて。
 死んじゃえばいいのに……あんなヤツ。
「酒井くんが……亡くなったそうです」

「嘘よ……嘘」
 車を降りて、秋乃さんに手を引かれて病院の中へ行く途中、私はずっと際限なしに強くなる胸の鼓動を抑えるために呟いていた。
 頭の中で耳鳴りと共に響くのは、車の中で秋乃さんから聞かされた事故のこと。
 彼女とのデートの待ち合わせ場所である駅に向かう途中で、酔っ払いの居眠り運転のトラックが歩道に突っ込み、それに巻き込まれた男子高校生。
「イヤ……翔平……!」
 翔平は急いで最寄の病院に搬送されたが、その時にはもう、意識はなかったらしい。
「そんな……嘘よ……」
 静かな病院に響く、私たちの足音。
 絶望的な予感――歩くことも、呼吸も、すべてが苦しい。
 救急車のサイレンなんて、私には聴こえなかったのに。
 そんなことって。
 すっぽかされたと思って翔平のことを恨んで、見当違いの誤解をしていた私。
「すいません……酒井翔平くんは……」
 秋乃さんは息を切らしながら、病院の受付に尋ねた。
 それを受けて、静かな口調で場所を説明する看護婦。
 口調は静かだったけれど、顔をしかめていた。
 普通の病棟から離れた、とても静かで、不気味な場所へ、私は案内された。
「ここです……彩お嬢さん」
 見るだけで中は、なぜか冷たいに違いないと思った。
 その静かな一室に、私はおそるおそる足を踏み入れた。

 静寂――心臓を凍てつかせるほどの……。
 線香の香り。
 白に包まれた、狭い部屋。
 入ってすぐに、近い。
 台の上に横たわる人――動かない。
 震える指先で顔を隠していた薄布をはがすと、そこには見慣れた――本当に今日、会いたかった人。
「翔平……」
 もう死後の処置を終え、翔平は霊安室にいた。
 暗く、静かな部屋。本当に、人がいてはいけないような。
 私は、秋乃さんの服の裾を掴んで、翔平が眠っているその傍らに立った。
 霊安室に横たわる翔平は、きれいな顔をしている。
 私の好きだった間抜けな顔。すこし笑ってるみたいに見える。
「翔平……起きてよ」
 手を伸ばして、体に触れようとした私を、秋乃さんが掴んで止めた。
 彼女は、翔平の事故の詳細を先に聞いているはずだった。
「彩お嬢様」
「秋乃さん……翔平が、起きないよ。こんなのって……」
 私の瞳から、血のように熱い涙がとめどなく流れる。
 鼻に水が溜まり、喉がひゅーひゅーと震えて音を出す。
 顔がぐしゃぐしゃになり、自分のいつもの顔がどうだったか、思い出せない。
 両足で立つこともできなくなり、私はその場に崩れた。
「お嬢様……!」
 足元に置かれた小さな箱の中の、きちんと畳まれた翔平の服と荷物。
 ボロボロの携帯電話。私とお揃いのストラップが、汚れてる。
 翔平は、本当に死んでいるのだ。
 
 しばらくしてから、翔平の家族たちがいる待合室へ私たちは行った。
 そこでは、離れた場所で医者と、おそらくは葬儀屋であろう人物と話す翔平の父親。
 そして翔平の小さな兄弟たちを抱きしめて泣いている、母親の姿があった。
 医者と葬儀屋が頭を下げてその場から離れると、翔平のお父さんは立ち尽くしていた私に気がついた。
「ああ……翔平の……」
「この度は、急な不幸で……」
 秋乃さんが、私に代わって大人の応対をする。
 父親も、それに淡々と返す。
 あまりに自然で、現実味がない――地に足がついていないような、浮遊感。
 私は大人たちを見て、この場所に自分だけが場違いなような、そんな気分を覚えた。
「家内にも、挨拶を……」
 そう言って、お父さんは自分の家族のところへ歩み寄った。
 その足取りがふらついて見えたが、もしかしたらただの私の錯覚だったかもしれない。
 今も、私の頭の中はぐらぐらと揺れているためだ。

「ほら、神上(カミジョウ)さんのところの……翔平の」
 お父さんがそう言うと、妻のおばさんが深々と頭を下げた。
 泣きじゃくる子供たちも、その無垢な瞳を私に向けてからそれに倣う。
 私も頭を下げた。
 はっきり言って何を言えばいいのか……なにもわからなかった。
 そう思っていると、翔平のお母さんは私に近づき、手をぐっと掴んだ。
「まことに申し訳ありません! ごめんなさい! 私のところの翔平が……翔平が……!」
「おばさま……」
 大きな手で、震えながら、ずっと頭を下げて上を向こうとしない。
 そのうち、嗚咽の声が聞こえた。
「うあああ……うあああ……」
 お母さんは、私の手をとって、すがるように泣きつく。
 私はそれを、呆然として見る。
 その様子を見ていると、さっきまでは当然だったはずのことが、疑問になり否定されそうになる。
 なぜ、この人は今私に謝っているのだろう?
 なぜ、こんなに泣いているのだろう?
 私以外の誰かが、翔平の死に涙すること。
 家族だから、大事だったから。
 当たり前のことを、けれど確認しなければそれが普通でない異常事態だと思ってしまう。
 この人は、今誰の代わりに泣いているのだろう?
 翔平の母親の取り乱す姿に、唐突に浮かんだ考え。
 私は、不思議なぐらいに冷めた眼でそれを見ている。
 彼女の私を掴む手は熱いのに、それすら私の感覚を閉じさせる。
 秋乃さんが、私の肩に手をやった。
 その手もやはり、温かい。
 私だけが、冷たい……何も、感じないぐらいに。
 熱くも冷たくもない涙が、私の頬を静かに流れていた。

 翔平の葬式までの間、私はずっと学校も休み、部屋で何をするでもなく過ごした。
 秋乃さんが世話を焼いてくれなかったら、私も死んでしまっていたかもしれない。
 だが、別にそれでもよかった。
 もしそうなっていても、私には今以上の悲しみなんて訪れそうにない。
 今は、生きることがとても稀薄だから。
 訃報を受け弔問に訪れた会葬者が、夜の闇に散らばっていく。
 着こなしの悪い喪服を着た、私の同級生たちだ。
 私は自分の顔を見られたくないから入れ違いになるように早く訪れ、その後はずっと秋乃さんが運転する私の家の高級車の中で、じっと黒と白の葬式会場を見ていた。
 翔平と仲の良かった山根と深西が閉式の後も最後まで残っていたが、遺族達と何かを話して帰っていった。
 誰もいなくなったことで、深夜らしい暗く重い静けさがあたりに舞い降りた。
 また、私は車から外に出て、夜伽に入った翔平の眠る場所へ近づいた。

「ああ……神上さん」
 翔平の父親が、私の姿を認めて、弱々しい声をかけた。
 人のことを言えないがほんの数日会わないうちに、頬がこけ顔色も悪くなっていた。
 まだ小学生である翔平の兄弟たちは、家の中で眠っているのだろう。
 私は頭を下げ、もう一度花に包まれた翔平の姿を見ようと、棺へ近づいた。
「翔平……」
 どういう風に言葉をかければいいのか……私はもう幾度も、動かなくなった翔平の顔を見ているのに、その度に何も言えなくなってしまう。
 別れの言葉、感謝の言葉、懺悔の言葉。そのどれもが、喉につかえて出てこなくなる。
「もう、いいんだよ」
 翔平の顔を覗き込む私に、視線はどこへ向けているのか、翔平のお父さんが声をかけた。 
「もう、あんたも帰りなさい。これ以上は、あんたが体を壊してしまうよ……そんなのは、うちの翔平も望んじゃいないから」
 線香の火を絶やさぬようにするため、線香を足した。
 その火の付いた先を、ぞっとするぐらいに暗い眼で見ている。
「明日の朝の告別式にも、出なくていいよ。身内だけでやるから」
「邪魔ですか、私」
「邪魔と言うわけじゃない……ただ、最後は家族だけで送ってやりたいと思う。そういう責任が、あるから」
 静かに言ったその言葉は、私にはとても重かった。
 本音でもあったろうが、やはり私を気遣っているものも含まれていると思われた。
「はい、わかりました……」
「うん……すみません」
 耳を刺すような沈黙と、遠くで聴こえた犬の遠吠え。
 体に染み付く線香の臭いを嗅いで、私の意識はふらふらとした。
 定まらない足元でなんとか外に出ると私はえづいたが、酸っぱい臭いが口の中に広がっただけで何も出やしなかった。
 もしかしたら私がくらくらした理由は、家族という嫌いな言葉のせいであったかもしれない。
 
「お嬢さん……」
 あの日、私に翔平のことを知らせた秋乃さんが、ハンカチで口元を抑える心配して見ている。
「秋乃さん。その呼び方、今はやめて」
「すいません……彩さん」
 私が言った言葉に、秋乃さんはその端整な顔の眉間に、大きく皺を寄せた。
 痛みに耐えるようなその顔も、今の私には辛かった。
「大丈夫よ、秋乃さん」
 目の方へハンカチをやると、擦れて痛んだ。
 私の両目の端が、肌が荒れて腫れている。
 涙で何度も濡れ、その後に乾燥するというサイクルを繰り返したからだ。
 その上、そんなになってもまだ、私の心には何の芽吹きもない。
 嵐か火事の後のように、すべてが薙ぎ倒されていて混沌としている。
「……何か、できることがあったらなんでも言ってください」
「ありがとう。でも、大丈夫。もう、涙も出ないから」
 自分でも、虚勢すら張れていないとわかっていた。
 涙が涸れても、けして悲しみが癒えるわけではない。
 いや、むしろ時間が過ぎるにつれ、翔平がこの世界にもういないという事実が私の中で大きくなる。
 私は翔平が死んだことを知ったあの日から、ずっとただ体が生きているだけのものだ。
「翔平のお父さんが、告別式には出なくていいって」
「……そうですか」
「私のことなんか、気にしなくていいのに」
「しょうがありません」
「死んじゃった」
 私は呟いた。
「あの日、待ち合わせに来なかった翔平に何度も『死んじゃえ』って思ってたら、本当に死んじゃった」
 翔平が何を考えてたのかがわからない。
 私に会いたいと、翔平も思ってくれていただろうか。
「死んで、せいせいするわ……あんなヤツ」
「お嬢さま!」
 秋乃さんが私のほうへ、涙を溜めたままで強い視線を向ける。
 彼女の手が開かれ、私のほうへ伸びる。
 怯え、私は縮こまった。
 叩かれるかと思ったけれど、そうじゃなかった。
「そんなことをおっしゃらないでください……」
 強く、痛いくらいに強く抱きしめられた。
 秋乃さんが私を心配しているのがわかる。
 それは温かい。けれど、今私が本当に欲しいものじゃない。
「秋乃さん……言ったじゃない。お嬢さまって、呼ばないでって」

       

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