Neetel Inside 文芸新都
表紙

キエルツンデレイド
彩 その3

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 私は翔平の葬式の後、それまで張り詰めていた糸が切れてしまったかのように倒れてしまった。
 丸一日眠り、その後も風邪をこじらせ、三日間ずっと寝たままだった。
 それでもすこし体調が戻り、久しぶりに動く気になると、私は翔平の家に電話した。

「今日は、翔平の家に行ってくるわ」
 台所にいる秋乃さんに言い、私は靴を履く。
 彼女はすこし驚いた様子だが、いつものように玄関まで出てくる。
「お嬢様。私も……」
「いい。一人でいく」
 ご一緒しますと言おうとしたのを遮って、私はすぐに背を向けた。
 彼女はずっと私の理解者だ。
 だけど私は、彼女の優しさに甘えることはできない。
「そんなに遠くないし。散歩がてらね」
「ですが」
 遠慮がちな声を出した秋乃さんは、私の体調よりも、私が彼の家に行くことを危惧しているのだろう。
「いいのよ、秋乃さん。どうせもう、神上グループは力を失くすわ。私が何をしょうと、もういいの」
 私は日本有数の企業コンツェルンである神上家の娘。
 翔平は、〝村〟と呼ばれる被差別階層だった、旧部落の血を引いている。
 世間体を気にすれば、白昼に堂々と訪れるべきではない。
 そして、それはつまり、私と翔平との関係にもいえることだ。
 私と翔平の付き合いは、本来なら〝あってはならない〟タブー。
 けれどそんなことはもう、どうでもよかった。
 どうせ、神上グループは、私の父の代で誰かに実権を譲らざるを得なくなる。
「翔平のもの、整理するのを手伝いにいくだけだから」
 踏ん切りをつけるために。そのためにも。

「……いってらっしゃいませ」
 きっ、と強い眼をして秋乃さんが言った。
 彼女が自分の気持ちを自制したことがわかる。
 彼女の、その強さがすこし、羨ましい。
「いってくるわ」
 朝は晴れていたはずなのに今はどんよりと雲が空を暗くしていたが、私は雨に強いウインドブレーカーを上に羽織っただけで、傘は持って出なかった。
 遠くのほうで小さく雷が鳴ったようだが、それでも。
 
「おばさま」
「あら……!」
 翔平の家を訪れると、家事にいそしむ翔平の母親が私を迎えた。
 もうぱっと見ただけでは普通の生活をしているようだ。 
「翔平の、部屋を見に来ました」
「ええ……まだ、なにも片付けていないから。さ、上がっていって」
 彼女は、翔平が事故に遭ったあの晩とはうって変わって、柔和な表情で私を家の中に導いた。
「あの……大丈夫ですか」
「やり切れるもんじゃないけど、しょうがないからね。忘れることはできないけど、それでもやらなくちゃならないことはたくさんあるから」
 そう言って、洗濯物の入っていないカゴを手にする。
 ベランダに出て、まっすぐに立って手を伸ばし、洗濯物を片付けていく。
 その姿が、なぜか自分とは違って強く見えて、私は自分の弱い心を憎んだ。
 その強さがどこからくるのか、できれば教えてほしい。
 私の心はまだ、あの日デートに来ない翔平を待ったままで止まっている気がする。

 付き合い出したのは半年前からだけど、その前にも、翔平は生きている。
 交わった時間はとても短く、あまりに知らない部分が多い。
 すこしでもその隙間を埋めるように、一つずつ、私は翔平のものを見ていった。
「なにか、持って帰りたいものがあれば言ってね……全部捨てるのも、あれだから」
 洗濯物を取り込み終わったおばさんが優しい調子で私に声をかけた。
「はい。ありがとうございます」
「しばらくの間、部屋はこのままにしておくけど、それもいつまでもそうしていられないし」
 大事にしてくれる人がいたら、譲るつもりである、と。
 もう、その持ち主はいないのだから。
 私も概ね同意だが、やはりその事実は重い。
 すべて片付けてしまっても、私には何かが残ってしまう気がする。
 前を向くために、何をすればいいのだろう――。
「それじゃ、あたしは下にいるから……狭くて汚いけど、ゆっくりしていって」 
 パタンと木製の扉が閉められ、私は翔平の部屋で一人になった。

「こんな部屋で、よく生活できたわね……あんたってば」
 言われてみれば確かに狭いし汚い。が、比べるのが私の部屋であるし、なにより私は一般的な高校男子の部屋というものが想像もできない。
 しばらくすると、狭いと思うのはその自分のせいであるし、汚いと思うのも、色が焼けた畳のせいかもしれなかった。
 少なくとも、たまにテレビに出てくる名もないようなお笑い芸人の部屋なんかと比べては、雲泥の差だった。
 徐々に認識を変えていき、結果、その部屋は「一般の男子校生の部屋にしてはキレイ」だと思うことにした。
 
 その翔平の部屋は私の部屋よりも、俗っぽいというか、色々な物が見えるところに乱雑に置かれている。
 音楽CD、ハンガーにかけられた制服、積み上げられた本。
 私のストラップのものと同じマスコットが、机の上に置かれていた。
 自分の部屋との、あまりの違いにつぶさに驚く。
 けれど、なぜか自分の部屋より何倍も落ち着く気がした。
 暖かい生活の雰囲気を感じれるからだろうか、それともやはり、翔平の住んでいた部屋だから、という事実のためだろうか。
「ふうん……マンガもゲーム機も、何もないわね」
 意外だが、翔平の家のことを思うと、それもしかたがない。
 その代わりに、本棚には小学生の頃からの教科書が並んでいる。
 年下の兄弟を持ち、お世辞にも裕福でない生活をしていた翔平は、何を考えて生きていたのだろうか。
 周りと自分を比べて、鬱憤などが溜まるようなことはなかったのか。
 けれど私の問いには、本棚に並ぶ本が答えた。
 そこに並ぶタイトルは、「かさ地蔵」や「わらしべ長者」など、貧乏でも正直で心優しい登場人物が、最後にハッピーエンドを迎える話ばかり。
 絵本だけでなく、小説もそうだ。「銀河鉄道の夜」、「がばいばあちゃん」……他にも、色々。
 偏っているわけではないが、そういった本が多かった。
 もちろん、家族の好みもあるだろうが、こういったものに触れてきて、翔平は育ったのだろう。

 机の上に置かれたノートを開いてみる。
 落書き一つせず真面目にノートをとっているのが翔平らしい。
 そこに、一枚の紙切れが挟まっていた。
「なにこれ……ノートの切れ端?」
 そこには翔平の文字と、ガサツで汚い別の人物による文字が交互に並んでいる。
 誰かと筆談をした跡であるようだ。
 
 ――翔平の隣には、確か……。
 翔平と仲の良い深西が座っていたはず。
 帰宅部の翔平と、別々の運動部に所属する深西と山根。
 どうやって知り合ったかも知れないが、彼らはクラスの中で一つのグループをつくっていた。

『作戦通りにいったか?』
 汚い文字で一番上に書かれている。
『デートは誘えた』
 翔平の文字。
『そうか。そういえばあいつとどこまでいった?』
 ……下品な。
『まだ、なにも』
 …………。
『やっぱな。あの鉄壁を破るのはセガールでもムリ』
『それ言いすぎ』
『いまだにあいつがお前の前でデレるとか信じらんね』
 紙の裏に、話は続く。
『本当に、僕のこと好きなのかな?』
 翔平の書いた文字に、どきんとした。
『さあなあ。あーゆーのが結構、遊んでるからな』
 ……深西め。女にモテない柔道部のくせに。
『アヤに限ってそんなことない』
『ムキになるなよ翔平く~んm9(^Д^)好かれてるってわかるんだろ?』
『素直じゃないけど、たまに態度に出るから』
『よくそんなのと付き合えるわ。仏かお前w』
『アヤはすこし不器用なんだよ』
 ちょっとの間隔。その下に、書き足したように続く文字。
『僕には正直に笑ってくれるよ』
 
 その後も私は、翔平の部屋を眺めて回った。
 すこし後ろめたさを感じつつも、手を伸ばしていった。
 テレビの下には並べられたビデオテープ。
 題名は、お笑い番組のものばかり。
 幾つかは、私の部屋にあるDVDと題名が同じ。
 私がお笑い番組を見るのが好きと言ったから、きっと翔平は話を合わそうとしていたんだと思う。
「もう見れないわよ……バカ」
 自分でもわかっているが、あまり笑顔を見せない私に、翔平は気を遣っていてくれたのだろう。
 話を合わせるために、こんなところで努力をしていたのかもしれない。
「バカね。私がお笑い番組を見てたのは、ただなんとなくよ」
 ただなんとなくそうしてただけ。だけど、二人で話をすることは楽しかった。
 それよりも、二人きりでいる時間をもっと大切にしていたかった。
 翔平と、いつもの制服じゃなく、外で会うことを。
 ――退屈そうにしてても、私はずっと、心の中で笑ってたんだよ?
 それを、どうしても表には出せなかった。
 いつか、もっと素直になって、二人でずっと笑い合えたらって思ってたのに。
 もっと早くに素直になれたら。
 翔平の優しさ、不器用なところ、全部認めていたから。
 イライラしているように見えたのだって、全部、裏返しだった。
 いつか、ちゃんと全部好きだって、言うつもりだった。
「……もう」
 言いそびれたまま、機会は永遠に失われてしまった。

 ちゃんと顔を見て言わせてよ、翔平。
 そして、あなたの口からも好きだって伝えてほしい。
 あなたの遺した優しさが今となっては……痛い。

 思春期の男の子の部屋なのに、いかがわしい本がないのが翔平らしいと思ったし、またそれにホッとした。
 アルバムの中の翔平の姿、いくつかのノートに綴られた文字、飾られた写真……。
 なんでもないけれど、どれも、翔平が生きていた証。
「もし、翔平の代わりに私が死んでたら……私の部屋を見て、あんたはどう思った?」
 私の好きだった、翔平がいた部屋。
 もう二度と、持ち主が帰ってこない荷物たち。
 その四角い部屋の中は、おもちゃ箱のように映る。
 翔平が、どんな気持ちで、どんな視点でいつもそこにいたのか、私は想像した。
 優しい顔をした、気弱だけれど、たまに予想もできない突飛な行動をする男の子。
 だけど彼は、もういない。
 どこか、遠くに連れ去られてしまった。
「何も、持っていかないから」
 翔平の持ち物の、なんでもない何かでさえ持ち帰ったとしたら、それだけで私はいつまでも引きずりそうだから。
 私が好きだった男の子の部屋。
 今はもう、何もかえってこない部屋。
 確かにその部屋からは、翔平の臭いがした。

 帰り道、やはりすこし無理がたたったか、私は熱っぽくなってしまって曖昧な状態になってしまった。
 さらに運の悪いことに雨が降り出し、走ることができない私は、なす術なく水滴を体で受けていた。
 洋服に水が滲み、とても不快な気分にさせる。家までの距離は遠く、果てしないように感じられる。
 首筋や裾から流れ込んでくる雨。止む気配は一向になく、それどころか音を強めている。
 早く帰らなきゃ、と私は思った。 
 それでも頭は熱く、意識はぐらぐらと取り留めなく、まるで洗濯機の中のように回っている。
「神上さん?」
 名前を呼ばれ、肩を揺らして私はその方を向いた。
 傘を差し、携帯電話をポケットに入れながら、眼鏡をかけた大人びた雰囲気の女子高生が歩んでくる。
「やっぱり。神上さん、今酒井くんのお家に行ってきたの?」
「生田さん……」
 私のクラスの学級委員で生徒会会長もやっている生田さんだった。
 身長も私と同じくらい高く、制服を着ていてもぱっと見ただけでは学生には見えない。
 クラスの女子の中では、私と似た雰囲気ではあるが、あっちはよく周りから慕われる、まさに優等生といった印象だ。
 そんな彼女とまともな会話をこれまでにした覚えは……ない。
「体がズブ濡れじゃない! 大丈夫?」
「うん……」
 耳鳴りがキィーン、キィーンと聞き慣れない音で頭を貫く。
 自分が何を話しているのかも、よくわからない。
 ただ、どこかに翔平がいる気がする。
 とても近くにいて、何かを私に囁いてるんだけど、私にはその声を聞く資格がないような。
「私の家、すぐそこだから……よかったら、泊まっていく?」

 生田さんの家に上がり、しばらくなんでもない談笑をしていたが、私は突然激しい眩暈を起こした。
 ぐにゃりと視界が歪み、どれも形として見ることができない。
 混ざり合ってカオスになり、私は自分の手すら、そうとして認識できない。
 全体的に暗いような、たまにチカチカするような。
 そしてそれはそのうち、何も考えられないぐらいにひどくなった。

 体が熱い。熱がひかない。
 そういえば、まだ今月は来てなかった。
 狂っている。
 体も心も。
 でも、もう、どうでもいい。
「翔平なの……?」
 くすんだり捻じ曲がったりする視界。
 渦を巻いたり、遠くになったり近づいたり。
 そんな中、自分に近づく人影らしいものがあった。
 ぼやけて輪郭が定かでない。
 ただ、笑っているように見えた。
「翔平……!」
 返事はないが、私のことをにこやかに見ている。
 夢でもいい。
 私はあなたに、たくさん伝えないといけないことがある。
 そのどれから言葉にしようかと思っていた次の瞬間、翔平だと思っていたそれは厳めしい顔をした壮年の男性の姿になった。
 そして閻魔羅刹のように、私を睨みつけてくる。
 その男性にも、私は見覚えがあった――私の父親だ。
 母と離婚し、私を家に一人にして閉じ込め続けた――憎みもした、実の父。
 まともな話をした覚えもないのに、炎のように猛り狂って私へとにじみ寄る。
 その手を伸ばしてきて、私の髪を掴む。
 体をまさぐられた。
 びくん、と私は震えた。
 手が離れたので私は膝を抱え込み、謝り続けた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……許して……お父さん」
 記憶が奔流する。
 いつか、自分にもっと構ってほしくて父親にしがみつき、叱られた時のこと。
 顔を真っ赤にして怒鳴りつけられた時の、その顔。
 瞳を開けたらそこにまだその顔が浮かんでいる気がして、私はずっと眼をつむっていた。
「助けて……助けて、翔平……」
 祈るように呟いた。今はもう私を助けてくれない彼に。
 あの優しい男の子の手に触れたい。
 そっと私を包んでくれた、あの手に。
 私は縮こまり、震えながら哀願した。
 どうにもならないと知っていても、そうするしかなかった。
 やがて、意識を失った。

 朝、目が覚めると私は見知らぬベッドに裸で寝ていた。

       

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Neetsha