Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 そこは、光の一切入ってこない暗闇であった。本来光が差し込んでくるべき窓は全て板を打ちつけられ、扉も今は完全に閉ざされていた。
 今は、二人の間に存在しているランプが、唯一の光と呼べる存在であった。
「お前の体は光に弱いんだ…それに、人間は恐いぞ? すぐに人を食してしまう…」
「はい…」
「だから私が守っているんだよ…。さあ、いつもどおり寝る前の儀式をしてから、散歩へ行こう…」
 男の指先が、するりと千夏の肌理細かく滑らかな白い肌をなぞってゆく。指が動く度に千夏は恥と極小の快楽に身をふるると震わせる。その反応に悦びを感じたのか、男は大きな口を横ににやりと開くと、自らの顔を彼女の二つの膨らみに押しつける。
「…気持ち良いのかい? 千夏?」
「気持ち…いいです…お父様…」
 無意識のうちに両の眼から流れ出る生暖かい液体を指でゆっくりと拭い取りながら、千夏は答える。毎夜の夜の挨拶の時、決まって出るこの涙の意味が、千夏にはわからない。この涙が流れ出るたびに、心がずきりと痛み、そしてどこかにぽっかりと空いた穴が何かを求めて体中を蠢くのだ。
「お前は本当に従順な子だね…千夏」
 父と呼ばれた男の右の手が、千夏の秘部に触れる。
 ふるり。
 下の方から痺れるようにやってくる快感に、千夏は身を震わせる。
「はい、私は…」
 千夏の声が途切れる。毎日のように聞いている筈の言葉が返ってこないことに、男も首を傾げつつ、それでも一定のペースで右手を上下に動かし続ける。
「ぁ…」
「もう一度ちゃんと言ってごらん? 千夏」
――そんなに、握手が嬉しかった?
 吐き出そうとした言葉が、喉元で押しとどまる。そして代わりに脳内に一つの言葉が銃弾のように駆け抜けていった。
「…千夏?」
 あの、千夏の中に存在するあの何かを求めている穴が、轟き木霊するのを感じ、千夏はすっと立ち上がる。その突如とした出来事に男はポカンと口を開いたまま座り込んでいる。
「…また握手するの…また、また…」
「何を言っている…千夏?」
 ぎぃ。
 閉ざされていたはずの扉が、独りでに縦に闇を割った。
 床に放り捨てられている布を拾い上げ、体に巻き付けると彼女はひたすら「握手」という一言を繰り返し、光の差し込む扉へと歩みよっていく。
「千夏!! 行くな!! おまえは俺の…!!」
「あの人と握手するの…また…」
 光を移さない漆黒の瞳を男へ向けながらそうつぶやくと彼女は踵を返し、ノブを掴んだ。
 ぎぃぃぃ。
 ゆっくりと扉が開き、そして月光の差し込む世界に彼女は足を踏み入れた。何も履いていない足からは土の心地よい感触が伝わり、布一枚をするりと通過してやや冷えた夜風が千夏の全身に「儀式」とはまた違う快楽を与えてゆく。
「…握手、しよう? 握手なら…してくれるよね?」
 安定しない足取りで千夏はひたすらに右足、左足と前へと足を突き出していく。
 白い肌が月光を纏って、淡く輝いていた。

     夏蛍「一」
   
     ――後篇――

「一つ聞かせてよ。なんで、父親を殺そうとしているんだい?」
 古家に誰もいないことを確認し、綾乃は苦い表情を表に出している。ここは問いかけるべき空気ではなかったかもしれない。祐輔は無言のまま苦い顔で立ち尽くす彼女を見てからもう一度溜息を吐きだした。
「初対面の人間に普通聞く? そんな大きなこと…」
「そんなこと言われたって…キミが」
 刹那、祐輔の唇に綾乃が指を押し付ける。
「綾乃だよ。あ、や、の!!」
「…綾乃が僕を無理やり連れてきたんだろう? せめて目的ぐらい聞かせてくれよ。そうでもしないと共犯とか割に合わない…」
「あはは、そうだよね。突然人殺しのお手伝いだもんね。混乱しない方がおかしいわね」
 綾乃は後ろで手を組むと、ぐいと状態をこちらに寄せながら笑う。無地のワンピースが月の光をよく吸収し、輝きを見せている。
 祐輔は彼女の仕草一つ一つに胸をとくんと鳴らしつつ、思わず一歩たじろぐ。
「…うちのお父さんね、壊れちゃってるのよ」
 至って普通に帰ってきた返事に祐輔は多少戸惑う。壊れた? どういう意味だろうかと暫く考えるが、自分の思考ではまるで想像がつかない。
「ど、どういうこと?」
「うちの母親ね、私と妹が二歳の時死んじゃったのよ」
 ちょっと長くなるけれど、聞き流してくれればいいから、と綾乃はニッコリと笑う。その笑みに思わず祐輔は頬を赤く染めながらこくりと一度うなづいた。
「あぁ、赤くなってる。惚れた?」
「…なにをそんな、別に気にしないでくれよ」
「あはは、聴きたい?」
 照れを見せる祐輔を見て、思わず綾乃の心が和らぐ。
「うちの父親ね、妹をペットにしてるのよ」
「ぺ…!?」
「変態なのよ。私はどうにか母のおかげで助かったけど…妹は多分洗脳とかされてると思う…」
 おいおいどこのアダルトな内容のビデオ撮影だ。祐輔は混乱気味の頭で彼女に対してそんな言葉を投げかけたい気持ちになる。が、その説明が本当なならば、あの時の状況は確かに納得がいく。祐輔はほんの少しの不安を抱えつつも、綾乃に言葉を投げかけてみる。
「その子の名前って、渡瀬千夏か?」
 その問いかけに、綾乃はきょとんとし、目を丸くした。
「知ってるの?」
「一度だけ会ったんだよ。握手すらしたことないとか言ってたし、それに…」
 それに、と言うところで祐輔は押し黙る。「挨拶だ」と言ってズボンの中に手を入れた出来事は、言うべきではないのかもしれないと咄嗟に判断したからだ。
「それに、何?」
「え、いや父以外の男性と触れ合ったこともないとか言ってたから…」
「…最低なことしか考えてないのよ。これ以上妹を汚したら許さない…」
 目の前で父の殺害を試みる少女のあまりの燃え方を見て、祐輔はズボン事件の出来事を話さなくて本当に良かったと胸を撫で下ろした。
「けどさ、なんで今更になって妹さんを助けに?」
「…勝てないのよ。あいつの魔力、強過ぎて…。でも今日は私の魔力が極限にまで増幅される日だから…最後の賭けよ」
 綾乃は頬を唇を噛み締めボソリとそんなことを呟く。そうなんだと生返事を返しつつも、彼女が先ほどから連呼している『魔法』の存在が一体何なのかを脳内で必死に模索していた。
 呪文を唱えて使用ができるのだろうか。いや、でもさっき空を飛ぶときは何も叫んではいなかった。ただの嘘っぱちというわけではない。なにより一人の少女は男子を引いてあれだけの高さを飛ぶことなんて不可能だ。では一体どんなものなのだろうか。もしかしたら自分にも使えるのかもしれない。使えたらすげぇな、いや本当にすげぇよ。
 そんな妄想を抱いていると、綾乃がくいと服の裾を引いて顔を寄せると耳元に口を寄せる。
「これから私は父を殺しに行ってくるから、そのうちに千夏を探して。会ったことあるなら分かるでしょう?」
「え、いや見つけ出したらどうすればいいんだよ!?」
「…来た!! 見つけ出したらとにかく逃げて。妹は父の下から逃亡はしているみたいだから…行って!!」
 その言葉と同時に綾乃は祐輔を思い切り突き飛ばす。細い腕からとは思えないほどの力だった。祐輔は身構える余裕すらなくそのまま吹き飛ぶと、そのまま叢の中へと消えていった。
「そう、妹だけでも連れて逃げて…」
 綾乃は笑顔で祐輔の消えていった叢にそう言葉を投げかけ、そして前方からやってくる殺意の塊に殺意で返事を返す。
「お前は…そうか、お前が逃がしたのか…」
「お母さんが最後にかけた防御魔法が成立したのよ。死ぬ寸前にかけた『他の男性に触れたら』発動する魔法がね…」
 殺意の塊は綾乃に強い視線を投げ掛けると、右の掌を彼女に向ける。
「…何故今更になって来た?」
「あんたを殺せる可能性ができたからよ…」
 綾乃の発言を聞いて、殺意の塊がふふふと嘲笑に近い笑みを浮かべた。男の周囲の草達が波打つように揺れている。
「なるほど、十五歳か…魔女として魔力が最も高くなる時期だな…」
「今まで妹に悪い事をしたわ…。でももう耐えられない。返してもらうわよ…妹を」
 綾乃は父を強く睨みつける。これ以上妹に地獄を見せたくはないのだ。その為なら相討ってでも良いと、綾乃は父と共に死ぬことさえ考えていた。
 沈黙が、二人の間をじぃっと通過していく。
「…お前もいいかげん帰ってきなさい」
 ふと、先ほどとは違う柔らかな声が、綾乃の体を包み込んだ。
 何故父はあそこまで優しい目をしているのだろうか。先ほどのあの殺意に満ちた瞳は何処へ行ったのだろうか? 綾乃は突然の自分の思考がぐちゃぐちゃにかきまぜられていく。

 ふと、目の前が暗くなる。
 顔面を掴まれたという事に気づいたのは数秒後だった。
 『掴まれた』と理解したとき、綾乃は既に地に這いつくばっていた。
「優しい顔を見せるとすぐにこれだ。お前のような父に奉仕すらできない屑が」
「誰が好き好んであんたのそんな気持ち悪いの咥えるのよ? このロリコンが!!」
 綾乃の掌がずぶりと地へもぐりこんでいく。まるで液体の中に手でも突っ込んだかのように地面は彼女の手を受け入れ、周囲に波紋が広がる。
「…全てを揺さぶれ!!」
 刹那、大地がその言葉に呼応するかの如く振動し、雄たけびを上げる。その様子に男は顔を強張らせ、周囲を見渡している。
「突き上がれ!!」
 その言葉と共に、男の足元に波紋が生まれる。そして次の瞬間、轟音と共に男の足元が勢いよく競り上がっていく。
――昇華
 男が宙へ弾き飛ばされたことを確認し、綾乃は膝をバネように思い切り曲げると、地面を強く蹴りあげた。
 先ほど祐輔の手を掴み飛び上がった時のように、華麗に夜空へと舞い上がっていく。
――蓮華
 綾乃の右手を赤い光が、輪郭をなぞる様に包み込むと、轟々と発火を始め、紅蓮を吐き出す。
 刹那、男は突き出した指で宙を切り、強く息を吐きだし、自身へと牙を向いてやってくる紅蓮の塊をにらみつける。
 滅華という言葉が男の口から吐き出され、突き出した右の手の先から光球が放たれる。そして、その光球は紅蓮の塊と接触するとそのまま四方へと爆散する。
「…!?」
「火炎系統の術式、蓮華…とは言えないな。あの程度の威力では」
 その言葉に綾乃は眼を細め、両足に力を込めると勢いよく地を蹴りつけ飛び上がると、男目がけて再び紅蓮の塊を右腕から吐き出す。
「蓮華の本来の威力は、こういうものだよ」
 ゆっくりと伸びた手が、こちらへと飛び込んでくる綾乃へと向けられる。綾乃はその手から放たれる極上の殺気を感じ取り咄嗟に腕を前で十時に組み防御の体制をとる。

――術式、蓮華…。

 綾乃は、自らの皮膚が焦げる感覚を覚える、その“火龍”の姿をした其れは大きく口を開くと、ぐわんと綾乃を飲み込み天高く舞い上がっていく。
「…爆散しろ」
 言霊に火龍が反応し、そして全身が目も眩むほどに光り出す。


 周囲に砕け散る光景から数秒遅れる形で、耳を貫くような爆音が雷鳴の如く周囲に響き渡る。

     ―――――

 地震だろうか。弘樹は眼を開き、周囲を見渡す。
「…っほ…げほっ…」
 鼓動がドクン、と一度強く高鳴り弘樹は体を折り曲げて堰を吐き出していく。
 抑えていた手が、ヌルリとした液体の感触を覚え、弘樹はハッとして掌を覗き込む。
――血。
「治まってきてた筈なのに…。療養できた筈なのになんで…」
 掌に吐き出された少量の血をぎゅうと弘樹は握り絞める。
 田舎でゆっくりすれば治る病気だと母は言っていたのだ。そしてそれを自分自身は信じている。不安を覚えてはいけない。
「治さないと…。お母さんにも、兄ちゃんにも迷惑がかかるから…」
 念じるように弘樹はつぶやき続ける。月明かりに照らされた部屋で、黒く粘度の高い液体を自らの寝巻き服で拭い去り再度布団にくるまる。とにかく寝よう。そして明日また外の空気を吸って…。
 その時だった。
 窓から強烈な光が投げ込まれ、そして数秒後に龍の鳴くような音が弘樹の耳を貫き、そしてその音を聴いた弘樹は布団を蹴り飛ばしベッドから起き上がると窓に張り付く。
「龍…?」
 裏の森に、火の粉のような物が降り注いでいるのを、その両の眼で確認する。
「…すごい」
 弘樹の瞳は、その赤い光ではなく、もう一つの光の軍勢を見つめていた。
 ざわざわと騒ぐ森から、光の大軍が突如飛び上がり、空にパラパラと光の粒が散り、流星の如く舞い上がる。
 蛍だと気付くのに、少し時間がかかった。
「蛍が、舞ってる…」
 その光景を弘樹は目を輝かせて見上げていた。

   ―――――

 ちりちりと皮膚が沁みるような痛みを与えてくる。軽度の火傷で済んだだけましであると綾乃は思う。
「どうしたんだ? 向かってこないのかい?」
 見透かされている。
 心が挫けてしまっていることにこの男は確実に気づいていると綾乃は感じた。足をしっかりと地に付けて立ち上がろうとするのだが、まるで神経が通っていないのではないかのようにぐにゃりとそのまま崩れ落ちる。
「もう諦めて、帰ってきなさい…」
「嫌っ!!」
 何故、母はこんなに狂った男性と契りを結んだのだろうか。
 何故、母はこんな男に魔力を与えたのだろうか。
 綾乃の中で何故、という言葉が何度も交錯していく。
「なんで、千夏にあんな事をさせるの…?」
 普通親が子を肉体的な意味で愛でるなんてこと普通ではない。なにか理由でもあるのか。
 綾乃が最も聞きたかった内容をぶつけると、男は目を丸くした。
「…くく…くっくっく…」
 問いかけに対する返答は、至極簡単なものだった。
 笑い声。
「お前は、あいつを理解しているのか?」
「どういうことよ…」
「あいつはな、お前のように外に気持ちを出す娘じゃないんだよ…。魔力もな」
 すぅっと、何かが綾乃の頭の中に流れ込んできた。
――内向的な性格で、母の魔力を二人とも綺麗に半分づつ蓄えている。私は魔力を積極的に使用していたが、妹は…。
「長年の間貯め込んできた魔力だ。どれだけの量があいつの中に蓄積されていると思う?」
 その言葉が吐き出された瞬間、がちりと音を立てて体中の神経が繋がったような感覚を綾乃は覚える。そして、歯を思い切り食いしばるとそのまま前傾姿勢で男へと体当たりをぶちかます。
 千夏の貯め込み続けた魔力が狙い。彼は妹を予備のポリタンク程度にしか思っていないのだと確信したその瞬間、内側から湧き出てくる熱い何かが綾乃を包み込み、そして異常なまでの力を与えていく。
――許せない…。許せない!!
 刹那、男の表情が軽く歪んだ。綾乃はそれを見逃さず、更に足に力を入れて地を蹴る。
 突進は見事に男の腹部に打ち込まれる。そして後方へと倒れていく男の両腕に足をかけ昇華と唱える。一時的に強力な脚力の手に入る魔法を身に纏った綾乃はそのまま有無を言わさずに彼の両腕に下した。
 不快な音が二度、静寂に包まれた森に響く。
 ぐぅ、と声を洩らす男に綾乃は冷ややかな視線を浴びせる。
「…その目、母さんとよく似ているじゃないか…」
「あんたに似てる部分なんてあると思う?」
 両腕を動かせないまま、男はニヤリと笑みを浮かべている。綾乃はその表情に吐き気にも似た不快感を覚え、瞬時に右手に蓮華を纏うとそのまま垂直に彼の左胸に落としていく。
「…痛みは感じさせないでくれよ?」
「!?」
 二人の時間が止まった。少なくとも綾乃はそう感じた。
 無防備を装う父と、紅蓮を纏った右手を彼の左胸の前で留める綾乃。煙草一本分もない距離を保つことで、いつでも殺害できるということを見せつける為に。
「…どうして無防備なのよ?」
「もういい。千夏が私を見なくなったんだ」
 ふぅ、と溜息を一つ吐き出す。
 あの少年がやった。綾乃はふとそんな思考が浮かんだ。が、瞬時にその歓喜にも近い感情を男への黒い感情へとシフトさせる。
「洗脳して、妹を汚しておきながら、自分の手から離れたら…もういい?」
「あれだけ可愛がったのに…全く」
「ふざけないでよ!!」
 綾乃は顔をぐいと父の前に出す。
「このロリコン!!」
「その血の一部は、お前にも入ってるんだぞ?」
「っ!!」
 一閃。
 歪んだ笑みを浮かべた父の左胸を綾乃の右腕がずぶりを埋まる。
 噴水のように音を立てて噴出するその深紅の液体が、この綾乃の目の前にいる男が死ぬのだという事を彼女に理解させた。
 どくり、どくり。
 彼女の紅蓮の右手が掴むそれは、まるで生を渇望しているかのように一回一回、強く鼓動する。
「…なんなのよ。なんで…」
 ぬめりとした感触が、男を通して綾乃の全身にも伝わる。
 これが人を殺した感覚なのか。
 綾乃は、あふれ出る涙を、赤く染まった掌で必死に拭い続けていた。

   ―――――

「いってぇ…」
 祐輔はぶつけた頭を撫ぜながら起き上り、周囲を見渡す。確か叢に叩きこまれて、そのまま転がるように斜面を下って行った記憶がある。ここまでして逃がす必要が果たしてあったのかと祐輔は苛立ちを覚える。今度会った時は思い切り頭をぶん殴ってやろう。そうでもしないと気が済まない。女には優しくしろとかなんとか言うやつがいるが、ここまでされて尚笑って許せと? ありえない。右拳がぎゅうと強く握りしめられるのを祐輔は不気味な笑みを浮かべながらじっと見つめていた。
 がさり。
 何かが草を分けてやってくる音に、敏感になっている耳が即座に反応した。
「千夏…ちゃん?」
 さんとでも付けるべきなのだろうか。それとも呼び捨てにするべきなのか。祐輔は危険よりもまず探している相手の呼称について悩んでしまった。いやそうじゃなくて普通は誰かが来たのを感じたらすぐに身を隠すとかするだろうがと頭を両手でがしがしと掻き、自己嫌悪に陥る。
「…だぁれ?」
 その声に、祐輔は脊髄反射で応える。
 そこに立っている半裸の少女―渡瀬千夏―は白い布で秘部を隠した状態でそこに立っていた。羞恥心というものが全くないのだろうか。いや、それはこの間のズボン事件で分かっていることであるしあえて突っ込む必要はないのだろう。が、これでも自分は男はわけで、こんな姿をされたらたつモノもたってしまうわけで。
 目の前の半裸体の少女を目の当たりにして祐輔は更にアクセルを踏み込む。ドクドクと心臓が脈動し、次々に送られてくる血液が渋滞を起こし、酸欠状態で脳が西瓜割りのようにズバンとはじけ飛んで行ってしまうのではないか。そんな不可思議な気分だ。
「…握手」
「いや、そんな姿されたら誰だって…え?」
 顔を赤くし完全に周囲が見えなくなり、手足を振り回す祐輔の手を、千夏の小さくて白い手が包み込む。
 両手で祈るように握りしめたその手からは、千夏が今まで知らなかった温かさが、ゆっくりとじわりと、伝わってきた。その二度目の『快感』とはまた違った感触に千夏は戸惑いと、そして胸にあった渇きのようななにかが潤っていく感覚を覚える。
「あったかいね…ゆーすけ君の手は」
 ポロリ、ポロリと千夏から何かが流れ落ち、土はそれをすぅと吸収していく。

 泣いていた。

 千夏は両手でぎゅうと強く祐輔の手を握りしめ、そのまま涙をぼろりぼろりと零す。やがてそれは大玉の涙となり、嗚咽と共にため込み続けていたなにかを吐き出すかのように、千夏の体から流れ落ちていく。
 祐輔はその姿を見て、静かに笑みを浮かべると残った片方の手で、彼女の手にそっと乗せた。
「…キミの手だって、すごく温かいよ」
「私、よごれちゃってるもん…あったかくなんてないもん…」
「綺麗だよ。僕が保障する」
 千夏は涙を流しながら祐輔の顔を見る。
 笑っていた。祐輔は千夏の両の手を包み込むと、先程とは逆に、祐輔の方が祈るような姿勢で彼女の両手を包み込む。
「吐き出したいことがあるなら吐き出しなよ。君の事を何も知らないけど、聞いてあげることくらいは、できるからさ」
 その言葉が、千夏の心の中の何かを弾き飛ばし、そして堰を切ったように大声をあげて泣き始める。祐輔はそんな彼女を優しく抱きしめ、彼女の涙と嗚咽を受け入れ続ける。
――これでいいのかい? 綾乃?
 祐輔は視線を後方の急な坂道に移し、心の中でそう呟く。ここからは見えないが、綾乃もこの姿を見て喜んでいるだろう。勝手な憶測であるが、あえて勝手な憶測のままにしておこうと考え、祐輔は再度泣きじゃくる千夏の背中を擦り続けた。

 ふと、目の前を何か光が通り過ぎた。
 祐輔はその光に気づき、その光が飛び去って行った何かを視線で追いかける。
「蛍だ…」
 感動と驚きを孕んだその言葉に千夏が反応する。祐輔の腕の中から、その光景へと視線を移した。

 蛍が、空高く舞い上がり、それぞれがまるで星のように鮮やかに輝いている。
 大小のある自然な光はそれぞれがゆらりゆらりと動き、動くイルミネーションはそこら中を自由気ままに飛び回り、祐輔と千夏の視線を釘づけにさせる。
「…綺麗」
「こういう景色が見れるなら、田舎もいいかなぁ…」
「…」
「ええと…何?」
 祐輔の視界を、千夏が遮った。
 千夏の柔らかな唇が祐輔の唇を捕らえて離さない。
 静寂。
 静寂。
 時だけがただ通り過ぎる中で、向き合い寄り添う二人の周囲を、まるで祝福でもしているかのように蛍達が飛び交っていた。
「…ぷぁ」
 唇を離した瞬間、二人の間につう、と糸が垂れ、そして落ちて行った。
「…え、あ…あの…え?」
 呆然としている祐輔に、千夏は顔を赤らめながら微笑む。
「ゆーすけクン、大好き」
 その言葉が、祐輔の意識を完全に途切れさせた。

   ―――――

 目が覚める。体を震わせながら目を開くと、心地よい朝陽が差し込み、あの夜の蛍達の光の舞が夢であったかのような感覚が心のどこかに生まれた。
「…起きた」
 祐輔の身体が反射的にビクリと震える。全身から吹き出た。
「…おはよー。ゆーすけクン」
 隣には、半裸の少女が一人。横たわって微笑んでいた。
 自分の顔が茹でダコのように真っ赤に染まっている。絶対に染まっている筈だ。いや、というか僕自身が茹でダコなのではないだろうか。そうだきっとそれなのだ。僕は茹でダコだったのだ。祐輔は朱に染まった頬を両手で擦りながら後方へと後ずさる。その行動に千夏は眉を傾げつつ、布を体に巻きつけると祐輔に寄っていく。
「ゆーすけクン、顔があかいよ?」
「え、いや、その…」
 どう返せばいい。どう返せばいいんだと必死に思考を巡らせるが、脳みそをこねくり回せばこねくり回すほどに出てくるのは桃色の世界でしかない。
「…何をしてるの?」
 背後からの声。助け舟が、向こうから勝手にやってきてくれたと祐輔は赤い顔で、熱の籠った息を強く吐き出し呟いた。
「おねぇちゃん…?」
 千夏は呆け顔で、祐輔の背後に立つそのワンピース少女、渡瀬綾乃を見つめている。
 綾乃は柔和な笑みを浮かべながら千夏へと歩み寄ると、彼女の体に腕を回し、ゆっくりと抱き締める。
「ごめんね。今まで助けてあげられなくて…」
 その言葉を吐き出すと同時に、嗚咽が聞こえ始める。
 綾乃の腕の中で、千夏はゆっくりと、首を振ると彼女の頬に自分の頬を押し付け、そして静かに口を開いた。
「ただいま、おねぇ…ちゃん…」
 二つの嗚咽を祐輔は微笑みながら見つめている。
 そういえば、蛍は何故あのタイミングで空を一斉に飛んだのだろうか。もしかして、彼女達を祝福する為に神様とやらが飛ばしたのではないだろうか。そんな事を想像しながら、祐輔はあの光景を瞼の裏に映し出す。
 例えるなら天然の流星群。蛍のみにしか表現することのできない世界。
 できるのならもう一度お目にかかりたいものだと思いつつも、まぁムリだろうという答えに辿り着き、深くため息を吐き出した。
「ねぇ」
 こちらに向けられた呼びかけに祐輔は顔を向ける。
「祐輔君…でいいのよね? お願いがあるんだけど、いいかしら?」
「…僕に出来る事なら」
 そう返事を返す。が、正直なところその返事を返してしまったことを後悔しそうな予感が祐輔の頭の中をぐるりと回っていた。

   ―――――

 予感は、見事に的中した。
「祐輔、あんた昨日帰ってこなかったと思ったら…」
 拳を震わせて睨みつける加奈子に恐怖心を抱きつつも別に性的な関係があったわけではないと必死に両手を振る。
「…じゃあ、この子たちはなんなのよ?」
 呆れたような表情で出された問いかけに少しばかり祐輔は悩む。
「…なんていうか、こっちで初めてできた…友達、かな?」
 悩んだ末に、出た言葉はいたってシンプルであった。
 その吐き出された答えに背後の二人は、顔を合わせ、満たされたかのような、そんな満足気な笑みを浮かべていた。

 風が吹く。

 木々がさざめく。

 自然の音楽隊は二人を祝福するかのような演奏をなめらかに奏でていた。

   夏蛍「一」終

       

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Neetsha