番外発『after the juvenile(一日目)』 完全版

 さわやかな休日の朝がクレームで台なしだ。
「私も連れてけー!」
 スピーカーがこわれそうなほどの剣幕でがなり立てられ、思わず携帯電話を耳もとから遠ざける。須川のわがままは今にはじまったことではないが、せめて出発の朝くらい気持ちよく送り出してはもらえないものだろうか。
「連れてけったって、きみは今金欠じゃないか。そもそも今回の旅行は僕と滝川たちの間でずっと前から決まっていたことで……」
「だからそれが気に食わないっつってんの! 私に断りもなくお仲間と楽しくお出かけだなんて、てめーいつからそんな偉くなったんだよ!」
「きみだって原田や屋代と旅行してたじゃないか」
「うるせえ、それとこれとは話が別だろ! 絶交だ絶交!」
 須川の怒りはいっこうに収まる気配がなく、このまま相手をしていたら集合時間に遅れてしまいそうだった。忘れ物がないか確認して、旅行鞄を肩にかける。
「悪い、須川。苦情の続きはメールで聞くから。あ、お土産なにがいい?」
「おまっ……お土産で私の機嫌を取ろうって作戦だな? 騙されねーぞ、騙さねーからな!」
 帰ってきたらぶっ殺す、と捨て台詞を残し、須川は僕がひと言弁解する前に一方的に通話を切った。およそ五ヶ月の交際期間で、彼女にぶっ殺されかけるのはこれで何十回目だろう。このぶんだと、後で電話をかけ直しても出てもらえなさそうだ。
「ゴールデンウィークのまっただ中だってのに、朝っぱらから痴話喧嘩? お兄ちゃんの恋人になってくれる女の人なんて須川さん以外にいないんだから、たいせつにしてあげなよ」
 玄関で靴紐を結んでいると、まだパジャマ姿のあびるに背後から皮肉を言われた。僕が中学三年生のころにとある事件を起こして以来、この妹は兄を軽蔑している。そしてそんな兄と付き合っている須川になついている。
「あびるはお土産なにがいい?」
「現金」
 ……今のは聞かなかったことにしよう。
「行ってきます」
 昨夜も仕事で帰りの遅かった両親への言伝をあびるに頼み、玄関のドアを外に開く。
 須川のことを考えると荷物がひとつ増えた気分だが、それはいったん脇にどけておこう。
 なにせ、今日は楽しい修学旅行だ。

 東海道新幹線の改札口には、すでに旅の仲間たちが集結していた。
「遅いよ―、幹事さん遅刻だよー」
「家を出る前にひと悶着あってさ。待たせてすまない。みんなおはよう」
 滝川がひらひらと手を振って僕を元三年三組D班の輪に招き入れてくれる。まだ新幹線に乗ってもいないのに早くもデジカメのシャッターを切りまくっている長岡に、売店に並んだ駅弁を物ほしげに眺めているピザ太。それから、本人は気づいているのかいないのか、たびたびすれ違う人々の視線を集めている滝川。たまにしか集まりに顔を出さない元女子トイレのつかまえ役を除けばおなじみの顔ぶれだ。
「……なに、黒沢くん」
「いや、北原先輩は相変わらずかわいいなあ、って」
「そういう冗談嫌い。あとその呼び方もやめて」
 野放図に伸びていた髪がすっきりしても、感情を読み取りにくい声と無表情は健在だ。
 昨年末まで不登校児だった北原は、メンバー内唯一の高校一年生だ。一部の心ないクラスメイトからは北原先輩とあだ名されているらしい。が、その容貌は先輩と呼ぶにはあまりにも幼い。いつまで経っても仔リスのままだ。
「ふむ、それでは黒沢殿も到着したことですし、さっそく大阪に向けて出発しましょう! ……っと、その前に」
 天高く拳を突き上げた長岡が、すぐさま思い出したようにその腕を下ろした。
「もう我々は元三年三組なわけですし、厳密にはマギステル殿はD班ではありませんでしたからね。この班にも、SOS団に変わる新しいチーム名が必要ではありませんか?」
 なにを言い出すのかと思えばそんなことか。くだらない。
 しかしそう感じているのは僕と北原だけのようだった。滝川もピザ太も、あごに手を添えて真剣にチーム名を考えている。この五人でなにかを協議すると、僕と北原はなぜかいつも少数派になってしまう。
 まっ先に手を挙げてチーム名候補を出したのは滝川だった。
「あっ、ねえねえ、こんなのはどうかな?」
「ほほお、こんなのとはどんなのですかな?」
「……黒の騎士団!」
 おいおい、滝川。由来は知らないが、さすがにそれはダサすぎるんじゃないのか。第一、僕たちのどこに騎士の要素があるというのだ。
 と、口には出さず一笑に付していたら、ここでも僕は少数派になってしまった。「素晴らしいですぞ!」と両手を叩いた長岡にピザ太が短い首を振って賛同し、チーム名は即決した。それにしても、滝川のネーミングセンスときたら、いったいどうなっているのだろう。これも長岡の影響だとしたら、やつの罪はエアーズロックよりも大きく重い。
 とにもかくにも、こうして僕たち元三年三組D班あらためSOS団あらため黒の騎士団は、新幹線に乗って一泊二日の旅に出た。目的地は大阪だ。
 二年前に修学旅行で訪れた地への、このメンバーでの再訪。
 それはかつてひとりの少女が思い描いたささやかな夢であり、同時に僕の夢でもあった。

 電車にゆられること、およそ二時間半。
 新幹線と地下鉄を乗り継ぎ、僕たち黒の騎士団は天保山ハーバービレッジのある大阪港に到着した。まずはここから修学旅行のルートをたどってゆく段取りだ。空には雲ひとつ浮かんでいない。天候まで当時を忠実に再現して、まるで神様が僕の夢を後押ししてくれているかのようだ。
「おお! なつかしいですな、この光景! 中学時代の淡い思い出がよみがえりますぞ~」
「天保山に淡い思い出なんてあったか?」
「む? むむ~……ありませんでしたな!」
 なかったのかよ。
 修学旅行のときと変わらず、長岡は見ているこっちが疲れるほど興奮している。当時と決定的に変わっているのは、滝川と腕を絡めてべったりくっついているところだ。自重しろ。
「へえ~、大阪港ってこんなとこなんだ。私はじめてだからすごい新鮮」
 そういえば、修学旅行の二日目は班行動で、A班の滝川は岬さんたちと別の街を見て回っていたのだったか。確かに二日目に関しては、ひたすら退屈だった記憶と、北原に取引を持ちかけられて迷惑した記憶しかない。
「さて、それではどこに行きましょうかね~? 海遊館? それともショッピングモール?」
 それにしてもこの長岡、ノリノリである。
 新幹線の座席が窮屈だったせいで、臀部からふくらはぎにかけての筋肉が硬くなっていた。僕としてはこのあたりで小休止がほしい。
 あっちにしようこっちにしようと相談しあっている長岡と滝川に、ピザ太が申しわけなさそうに意見を挟む。
「あ、あの……ちょうどお昼時だし、ま、まずはレストランに……」
 僕はすかさずその提案に乗った。このときほどピザ太に感謝したことはない。

 夕方以降の旅程も考慮して、昼食はカフェで簡単にすませた。大食漢のピザ太は物足りない様子であったが、後でたこ焼きをおごる約束をしてやると、やけに凛々しい顔立ちになってサムズアップしていた。
 協議の結果、食後は海遊館を見て回ることになった。
 トンネルのような通路を渡り、ガラス張りの壁越しに色鮮やかな魚の群れを鑑賞する。
 本音を言えば、生命の神秘に関心の薄い僕には、二回目の海遊館は少しばかり退屈だった。おまけにゴールデンウィークで客の入りが多く、館内を走り回る子どもたちのはしゃぎ声がうるさくてかなわない。図書室のような静かな場所を好む僕にとっては、あまり長居はしたくない空間だ。
 けれど、子どもたちに負けず劣らずはしゃいでいる長岡と滝川は見ていて飽きない。こんな気持ちになるのも二年ぶりだ。
 きっと、旅に意味や目的なんて必要ない。
 いつもの仲間と、いつもと違うことをする。それだけでじゅうぶん、旅は面白い。
「次は大観覧車ですな! マギステル殿、いっしょに乗りましょうぞ~!」
「もっちろんだよー。ふたりで大阪の景色を堪能するっさー」
 海遊館を出るなり、バカップルは大観覧車のほうへと無邪気にスキップしていった。タオルを首にかけたピザ太がその後ろを歩き、そのさらに後ろを僕と北原が並んで歩く。
「北原、またいっしょに乗るか?」
 小声で誘ってみると、北原は僕から表情を隠すようにぷいっと顔をそむけた。
「な、なんで二度も黒沢くんと観覧車に乗らなきゃいけないのよ」
「そう言うと思ったよ。しかたない、ピザ太と楽しんできてくれ」
「え? え?」
「僕といっしょに乗るのはイヤなんだろ? だったらピザ太と乗れよ。長岡と滝川もふたりで乗るみたいだしさ。僕は外で待っとくから」
「な、なんでそうなるの? 三人で乗ればいいじゃない!」
 珍しく動揺して無表情をくずした北原が、ぐいぐいと僕の腕を引っ張ってくる。
「ピザ太と? 三人で? 冗談じゃない。重量オーバーでゴンドラが止まったらどうするんだ」
「止まるわけないでしょ! 冗談じゃないのはこっちのほうよ!」
 僕の弁に多少苦しいところがあるのは事実だが、やむを得まい。こうでもして言いくるめないと目的が達成できそうにないのだ。
「そんなに嫌いか? ピザ太のこと」
「嫌い、ではないけど……今でもときどき気持ち悪いと思う。海遊館でも、関くんの前を歩いてるとお尻のあたりにじめっとした視線を感じたもの。いつも親切にしてくれて、関くんには感謝してるけど……ああでもやっぱり、汗くさいし、気持ち悪い……」
 やれやれ。ピザ太のやつ、陰でえらい言われようだな。さしもの僕も同情を禁じ得ない。この会話が本人の耳に届いていないのがせめてもの救いだ。僕だって、須川に変態だの根暗だのキモ野郎だのと罵倒されるのには慣れっこだが、もし滝川にこんな悪態をつかれたら半年は立ち直れないだろう。中学時代からわかっていたこととはいえ、やはり北原は人として軸がぶれている。
 それとも、女子の本音なんて得てしてこんなものなのだろうか。
 だとしたら、なぜ北原は決して美しくない胸の内を僕にだけさらけ出してくれるのだろう。
「頼むよ、北原。ピザ太と観覧車に乗ってやってくれ。たかだか十分程度の辛抱じゃないか」
「どうしてそんなに関くんにこだわるの」
「どうしてもだよ」
「……まあ、黒沢くんがそこまで言うなら」
 不承不承要求を聞き入れ、やがて北原は僕の隣を離れてピザ太のほうへと駆け寄っていった。
 ほっとして胸を撫で下ろす。
 中学三年生の二学期、僕はクラスメイト全員の前でみずからの罪を告白し、謝罪した。だけどたったひとり、比較的親しかったピザ太には隠しごとをしたままだったのだ。
 修学旅行では、ピザ太に申しわけないことをした。
 だからそのぶん、今回の旅行ではピザ太にもいい思い出を作ってもらわないとな。

 みんなを乗せたゴンドラが、じょじょに高度を上げてゆく。
 巨大な車輪の下、僕は手持ち無沙汰になって、何度も携帯電話のフリップを開いたり閉じたりしていた。須川に送ったメールの返事が来ない。意味のないことだと知りつつメールセンターに問いあわせてみても、ディスプレイに表示されるのは「新着メールはありません」というそっけない一文のみだ。どうやら本格的に不興を買ってしまったらしい。
 ――絶交だ絶交!
 感情に任せて発せられたであろうその言葉が、時間が経つにつれて重みを増してくる。
 長岡たちと旅行してくる、と電話で告げた昨晩から、須川はずっとおかんむりだ。僕が直前まで旅行の計画を黙っていたのが許せないとのことだった。別に後ろ暗い思いがあって秘密にしていたわけではない。ただなんとなく言いそびれていただけだ。それがいけなかった。
 かつて、僕は透明人間になって静かな学校生活を送ることを理想としていた。干渉するのもされるのも、極端なまでに避けて生きてきた。そのせいだろうか、僕は今でもはっきりと自覚できるほど人づきあいのいろはに疎く、相手が恋人ともなると失敗してばかりいる。
 ひとりでいると、中学時代はおよそ理解できなかった感情がちくりと胸を刺す。
 恋人に無視されるのがつらい。
 自分のもとから人が離れてゆくのが、こわい。
 ほどなくして滝川が大観覧車のゴンドラから降りてきた。携帯電話をズボンのポケットに押しこみ、無理やり気持ちを切り替える。
 と、そこで滝川の表情が曇っていることに気づく。
「どうだった? 上空百十二・五メートルからの眺めは」
「え? ああ、うん。けっこうなものでございましたよ」
「……滝川?」
 おかしい。僕が声をかけると滝川の表情はぱっと明るくなったが、その笑顔にはゴンドラに搭乗する前のような覇気がない。彼女に続いて帰投した長岡も同様だった。声ははつらつとしていても、笑顔にカメラを向けられてあわててこしらえたような作りものっぽさがある。
 この違和感はなんだ。
 ゴンドラの中で、ふたりの間になにがあったのだろう。
 他方、北原とピザ太の急造カップルは、ゴンドラに搭乗する前となんら変わりない様子で地上に戻ってきた。北原は例によって朴念仁で、ピザ太はひっきりなしに流れてくる汗をタオルでぬぐっている。
 次の目的地へと移動する道すがら、一応、北原にも大観覧車の感想を尋ねてみた。
「今回はちゃんと雰囲気あったか?」
 どうせこいつはなかったと答えるだろう。
 そう踏んでいたら、思いがけない返事を聞かされた。
「関くん、来年京都に引っ越すんだって」
「は? どういうことだ?」
「さあね。京都の有名なアニメの会社だかなんだかのアニメーター養成学校に通うんだって言ってた。詳しいことは知らない。自分で聞けば?」
 来年ということは、ピザ太は京都の高校に転校するつもりなのだろうか。もしかしたら、高校を中退して、そのまま働きながらアニメーターを目指すつもりなのかもしれない。
 いずれにせよ、おそらくこれは長岡も滝川も知らない情報だ。でなければ、とっくに僕の耳に入っていないとおかしい。相手が北原だったからこそ、ピザ太は仲間内でも秘密にしていた決意を打ち明けたのだろう。これは僕が興味本位で首を突っこんでいい問題じゃない。
 なにやらこの旅行は、ただでは終わってくれなさそうな雲行きだ。

 食い倒れの街、大阪。
 その中でも粉物のメッカとされているのがミナミと呼ばれる道頓堀一帯の地域だ。ピザ太の強い希望で、夕方はミナミの粉物屋台を梯子する旅程になっていた。このために昼食を軽くすませたのだ。
 ところが、
「関殿、わたくし今日はどうもお腹の具合がよろしくないようで。余ったたこ焼き、もらい受けてはいただけませぬか」
「綾っぺ、この肉まん半分あげる。あ、大阪では豚まんって言うんだっけ? まあどっちでもいいや! とにかく私、もうお腹いっぱいなの」
 長岡と滝川がそろって食欲不振に陥っていた。
 かの有名なグリコの看板を見ては記念写真を撮り、かの有名なかに道楽の看板を見ては記念写真を撮り。長岡も滝川も、一年三百六十五日がお通夜の北原と比べるとじゅうぶんテンションが高く、大阪観光を楽しんでいる。それでも、僕にはどうも元気が空回りしているように思えてならなかった。
 いつもの長岡と滝川じゃない。
 大観覧車のゴンドラでなにがあったのか、ますます気になってくる。
 修学旅行の二日目、滝川はA班のメンバーたちとともに、アメリカ村とその近隣の堀江地区でウィンドウショッピングをしていたそうだ。予定より早く粉物屋台めぐりが終わったため、あたりが暗くなるまでその方面を冷やかすことになった。
 バカップルが話しかけづらい雰囲気になっているため、必然的に僕はピザ太と話す時間が増えた。来年京都に引っ越す予定だと聞きおよび、もっと話しておきたくなったのもある。
「おっ、ピザ太。ストリートファッションの黒人が客引きをしているぞ。おまえああいうの好きなんじゃなかったか?」
「興味ないね。ベイブにスチューシーなんて、今どき中学生でも着ないよ」
「そうなのか。じゃああれはどうだ? レゲエダンスって言うのか? ケバい女の人たちが公園で踊ってるぞ」
「ビッチには興味ないんだよね、僕」
「そうなのか……」
 くそっ、おそろしいほど会話がはずまない。なんというか、意識して絡もうとすると絡みづらい相手だな、ピザ太は。
 こんなとき、須川ならへたに気をつかったりせず、みんなを自分のペースに巻きこんでしまうのだろうか。ふとそんなことを考えて、彼女が恋しくなった。

 その夜、信じられないものを見た。
 長岡と滝川の言い争いだ。
「それでそれで? 黒沢殿は須川殿とどこまでいったのですかな?」
「おまえにそんなことを教えてやる義理はない」
「ぬぐおっ! 修学旅行の夜といえば恋バナと相場が決まっているではございませぬか~」
 二年前の修学旅行では深夜アニメにのめりこんでいたくせに、どの口がそう言うのか。
 宿泊先のビジネスホテルは学生料金で安く上げたわりには狭い汚いといった不満点がこれといって見あたらず、アメニティも充実していた。男女で部屋を分けたため、僕は長岡とピザ太のオタク二人組と同室だ。
「教えてくれてもいいではありませんか~、黒沢殿~」
 ふてくされた長岡がベッドの上で身体をくねらせる。ボリュームのある天然パーマの髪が回転する様は、西部劇に出てくるタンブルウィードを彷彿とさせた。
 長岡がどんな恋バナを期待しているのかは知らないが、あいにく僕と須川の関係は恋人になった昨年末からほとんど進展していない。おまけに僕が人づきあいのいろはに疎いせいで、進展するどころか何度となく破局の危機に立たされている。五ヶ月も付き合っていていまだにキスはおろか手を握ったこともないなんて、男としての矜持にかけて教えるわけにはいかない。
「そういうおまえは滝川とどこまでいったんだよ」
「おうふ……そんなの……言えるわけナッスィングですよ~!」
「ピザ太、こいつをつまみ出せ」
 雑談もほどほどに、消灯して布団にもぐりこむ。明日は朝からユニバーサル・スタジオ・ジャパンだ。疲れを明日に持ち越さないためにも夜ふかしはできない。
 ところが、僕は三十分が過ぎ一時間が過ぎてもいっこうに寝つけなかった。ひそかに故郷を離れる決意をしているピザ太のこと、大観覧車のゴンドラを降りてからぎくしゃくしている長岡と滝川のこと、さらにはメールの返事をしてくれない須川のこと。気がかりが多すぎてちっとも心が休まらない。
 ようやく意識がフェードアウトしかけたころ、隣のベッドからがさごそと物音が聞こえてきた。薄目を開けると、長岡が掛け布団から這い出ようとしていた。
 トイレにでも行くのかと思いきや、そうではなかった。長岡は「黒沢殿~、関殿~」と小声で僕とピザ太の入眠を確認し、足音を忍ばせて部屋を出ていった。長岡のやつ、狸寝入りして僕とピザ太が寝静まるのを待っていたな。
 枕もとに置いていた携帯電話のサブディスプレイを点灯させる。時刻は午前一時を回ったところだ。
 なんとなく気になって、僕も長岡の後を追って部屋を出た。廊下に彼の姿はなかった。おそらく一階のエントランスホールに向かったのだろうとあたりをつけ、エレベーターに乗る。
 エレベーターを降りエントランスホールに通じる角に出ると、そこには先客がいた。彼女はサイズのあわない浴衣の裾を地面につけて、壁に貼りついて物陰からエントランスホールを観察していた。
「おい、北原。部屋で滝川と寝てたんじゃなかったのか。こんなところでなにを……」
「しっ」
 北原が唇に人差し指を当てて僕を制する。
「そこのテーブルに滝川さんと長岡くんがいる。声を出したら気づかれるわ」
 盗み聞きとは趣味が悪い。もっとも、僕も先に来ていたらそうしていただろうが。
「滝川さんが夜中に突然起き上がって部屋を抜け出したから、不審に思って追ってみたの」
 考えることは僕も北原も同じか。僕たちはどこまでいっても同類のようだ。
 北原の背後から首を突き出し、エントランスホールを覗いてみる。パソコンに向かって黙々と仕事をしている受付嬢がひとりいるほかには、フロントに人の姿は見当たらない。そこから少し離れたところに脚の長い丸テーブルと椅子がふたそろいあり、長岡と滝川はその片方に陣取って、なにやら深刻そうな面持ちで議論をしていた。
「あれはどういう状況だ?」
 耳もとで尋ねると、北原はびくんと肩を震わせて、僕の脇腹を肘で軽く押してきた。
「見てたらわかる。そ、それより密着しないで……」
「あ、ああ。すまない」
 言われるまま、わずかに北原と距離を取って耳をそばだてる。
「わたくしは……わたくしはやっぱり耐えられません! マギステル殿と離れ離れだなんて!」
「だからさ、何度も言ってるけど別れようってわけじゃないんだよ。一生会えなくなるわけでもないし」
「し、しかしですな!」
 あの長岡が声を荒げるなんて、ただごとではなさそうだ。
 しばらくふたりの会話を盗み聞きしていると、おおよその事情をのみこむことができた。昼間、大観覧車のゴンドラで、どうやら滝川も長岡にピザ太と同じ告白をしていたらしい。
 つまり、高校を卒業すると同時に遠くの街に移り住むということだ。
 ピザ太がアニメーターを目指しているように、滝川にも将来は服飾関係の仕事に就きたいという中学時代からの夢がある。その夢を叶えるため、より高度で専門的な知識を学ぶことのできる環境で生活がしたい、ということのようだ。夢と恋人を天秤にかけ、彼女は夢を取った。長岡にはそれが納得できなかった。
「キョンくん前に言ってたよね、私の夢を応援してくれるって。あれは嘘だったの?」
「嘘ではございませぬが……しかし……」
「しかししかしって、さっきからそればっかじゃん。遠距離になるのがそんなに不安? 私たちが二年かけて築いてきた関係ってその程度だったの?」
 これは夢かなにかだろうか。卒業文集の三年三組ベストカップル部門で見事一位に輝いたふたりが口論を展開している。見てはいけないものを見てしまった気分だ。
「黒沢くんならどうする?」
「そうだな、僕なら……」
 北原のなにげない質問に、僕はついつい真剣に考えこんでしまう。
 こういうときは自分に置き換えてみるとわかりやすい。もし須川が滝川と同じことを言い出したら、僕はその夢を手ばなしで応援できる自信がない。きっとメールの返事が来ないどころではない不安にさいなまれるだろう。
 環境が変われば気持ちも移り変わる。
 ふたりを結んでいた絆も、いつか途切れてしまうかもしれない。
「滝川の夢は応援している。でも、長岡の気持ちも理解できる」
 それに、僕だって滝川がいなくなるのはさびしい。
 答えを聞くと、北原はお決まりの無表情で僕の肩をぽんと叩いた。
「そろそろ飽きてきたし、おしっこしたくなってきたから部屋に戻るね。黒沢くんも、あんまり夜ふかしすると明日に響くよ」
 これで案外、北原も恋人同士の会話を盗み聞きすることに罪悪感を覚えていたのかもしれない。エレベーターのほうへと引き返してゆく彼女にならって、僕もその場を後にした。
 ピザ太が、滝川が、僕のもとを離れてゆく。
 つないだ手がほどけてゆく。
 ひとたび完全に意識が覚醒してしまうと寝るのは至難の業だ。部屋に戻ってからも、僕は布団の中で、夢を追い住み慣れた街を去る決意をした友人たちのことを考えて悶々としていた。
 話しあいが長引いているのか、長岡はいっこうに帰ってこない。
 結局、僕が眠りについたのは午前三時を回ってからだった。
sage