No.13/パラドックス/桜島ファイアー

 彼はいつも通り、この川沿いの道に店を構える釣具屋の店先に立っていた。家の手伝いだと
いうのに、彼は嫌な顔ひとつせずに幼い頃から店番を立派に勤め上げていた。

「やぁ……久し振り」

 自転車を押して歩み寄ってきた私に気付いた彼が、独特の人懐っこい笑顔で挨拶してきた。
この屈託の無い表情は、小さな頃から何一つ変わっていない。

「元気そうね、ちょっと……話せる?」

 努めて笑顔で、彼に訊ねた。彼は店のバックヤードに私の来訪を伝え、外出の許可を求めた。
「おばさん、ひさしぶり。ちょっと息子さん借りますね」

 ちょっとだけ元気のない、おばさんの「行っておいで」という返事が聞こえると、彼はそそ
くさと店のエプロンをレジの下に突っ込んで「さ、行こうか」と歩き出した。





「あのさ……私、来月に結婚する」
「知ってるよ、おめでとう」

 掌に収まりの良い小石が詰まれた川原を、二人で並んで歩く。彼の履いているクロックスが
石と擦れ合ってキュッと音が鳴る。所々に、昨日の夏祭りの名残がゴミで見受けられた。
 彼は足元の手頃な小石をひとつ、摘み上げて川面へと投げ付けた。

「相手は貿易会社の偉い人だろ?」

 石は鋭く回転しながら水面と跳ね、やがて突き刺さるように水中へと消えていった。





 幼少の頃から知っている仲の二人、周囲の人間はみんな私と彼はやがて一緒になって、薄暮
の直前に、川面に反射する美しい西陽が拝める、あの釣具屋を継ぐのだろうと考えていた。
 正直、私自身もそうであれば良いと最近まで思っていた。
 かつて毎日、暗くなるまで色々なお互いの事を語り合ったこの川原で、彼もぼんやりと将来
像を話していて、そこにいつも私は登場人物として存在していた。お客さん、市役所職員、融
資の計画を立てにきた銀行員、保険の勧誘がしつこいおばさん、犬の往診に来た獣医、そして
彼のお嫁さん。

「幸せになれるから俺は。だから生き遅れの気配を感じたら俺を幸せにしにやってきて」

 なんだか情けない殊勝な言葉で、彼は何度か将来的なプロポーズをしていた。人懐っこい
笑顔にギャップのある真面目な笑顔で。





「生き遅れは当初の読み通り俺ですなぁ……パートで釣具屋の店員やりませんかね?」

 彼の目には、私の表情が曇り気味なのがしっかり映っている。それでも彼は笑顔を崩さない
で優しい冗談を言っている。私の晴れない表情に、彼自身きっとどういう顔をしていいのか分
からないのだろう、だから笑っているのだ。彼はいつも、私の前ではTPOに合わせはするけ
ど、笑っている。そんな彼の前だから、私は可笑しければ爆笑して、率直に怒りをぶつけ、辛
ければ表情を曇らせ、嬉しい時は涙を流して喜べた。

「電話……鳴ってるよ」

 私の携帯電話が、ジャニス・ジョプリンの「サマータイム」の中盤を飾っている悲しげなギ
ターの音色で着信を報せている。これは私の婚約者の個別着信だ。

「ううん、いいの」

 彼はいつも私が素直になれるように、バランスの取れた笑顔を常に忘れなかった。そんな気
遣いを彼は私に悟らせないようにも、気遣っていた。

「あのさ、目立たないように席は配置したからさ……式では目に見える近くの場所にいて」
「……あぁ、良いよ。綺麗なドレス、写真に五千枚くらい撮っておくよ」

 そんな彼の優しさが嬉しかった私は。彼の気遣いを気付いていながら、気付いていないよう
に気遣った。だけど、きっと彼はそんな私の気遣いにも気付いていて、私の為にも気遣いに気
付いていないような態度をとっていると思う。

 あぁ私は、きっと彼といる時のこんな優しいパラドックスが、今一歩踏み出せなかったお互
いの距離の間にある壁みたいな歯痒さが、とても心地良かった……心地良過ぎたのだろう。甘
んじていた事への後悔がチクリと胸に突き刺さるようだ。
 川面すれすれを滑空するトンボ達が、一斉に上空へと飛び去った。

「夏も終わりね……」
「……そうだね」