No.34 / ご主人様のストーカー / ずら

朝から感じていた元凶の、「悪寒」が「確信」に変わった瞬間だった。

高校の厳しい夏の部活を終え、汗だくで帰宅したご主人様が、玄関口で何やら楽しげに電話をしている。その黒く焼けた健康的な右手に握られた受話器から聞こえる明るい可憐な笑い声は、ご主人様と同じくらいの年の若い女の子の声だった。受話器の向こうで彼女が黄色い笑い声をあげれば、それに応えるかのように玄関に座るご主人様も頬を赤らめ微笑む。

二人は、恋人同士だった。


今日は地元の湖で年に一度の大きなお祭りがある。私も小さい頃は、よくご主人様に連れていってもらったものだったが、ここ近年は私の右足が悪いせいもあり、めっきり室内で過ごすようになった。耳も遠くなり、鼻はかつての敏感さを失い、団地を貫いた遠吠えも今ではその咆哮を失っていた。だがこうして今もこの家族が、私を「一匹の犬」ではなく「一人の家族」として受け入れてくれていることに、私はものすごく感謝していた。


かつて私は、一匹の「番犬」として家族を守った。

雨が冷たく体を叩きつける日や、風が音を立てて吹き荒れる日も。朝、学生服に身を包んだご主人様が「いってきます」と家を出てから、日暮れ頃泥だらけのジャージで「ただいま」と笑って私の頭を撫でてくれるまで、毎日。そして部屋の明かりが付き、中から笑い声混じりの談笑が聞こえてくれば、私は外の侵入者の足音にその耳をそばだてた。今ではこうして老犬となり、番犬としての地位は息子に譲ったが、私は家族を長く守り通したことに自負を持っていた。

電話を終えたご主人様が、そのホコリまみれのショルダーバックを玄関口に投げ捨てるように置くと、傍で座っていた私の顔をくしゃくしゃと撫で回し、鼻歌を歌いながらシャワー室へと入っていった。きっと今日はあの電話の彼女と二人でお祭りへ行くのだろう。シャワーが床を叩く音に混じって聞こえる少し音痴な鼻歌が、それを物語っていた。ご主人様の幸せは私の幸せでもある。ご主人様がその焼けた肌にシワを寄せニッコリと笑えば、私は尾を振り喜び、試合に負け泣いていれば、私はその場に伏せ、元気を取り戻すのをずっと静かに待った。

しかし、今回はそういうわけにはいかなかった。ご主人様がお祭りに行くのを絶対に阻止しなければならない。なぜなら、ご主人様に危険が迫っているからだ。
私は昔から家族に迫る危険を察することが出来た。昔は微弱なものであったが、年を追うごとに段々とその鋭さを増していった。それで幾度か家族を守ったこともあった。だからこそ、今回の「とてつもなく大きな元凶の悪寒」に、今朝から確信に近い不安を隠せずにいたのだ。
あのお祭りは規模が規模であるため、毎年乱闘騒ぎ等の揉め事が絶えないと聞く。もしも、この悪寒がそれに関連することならば、ご主人様がお祭りに行くのを止めなければならない。

その「元凶」から、守らなくてはならない。

ご主人様が頭からバスタオルを垂らしシャワー室から出てきた。私は、鼻歌混じりで自分の部屋へ戻ろうとするご主人様の前に立ちふさがった。年老いたか細い声で懸命に吠え、訴えるような目でご主人様を見上げる。しかしご主人様は、私の気持ちになど気付いていないといった様子で笑顔を浮かべながら私の頭に優しくその手を置くと、二階へと上がっていってしまった。

どうすればいい…このままでは……。

しばらくして、ご主人様が綺麗に身なりを整え、右手の指で髪の毛の先を弄りながら降りてきた。先ほどよりも鼻歌が大きく、気のせいか歩き方も少しリズミカルになっていた。

行ってはいけない…ご主人様……気付いて!!

しかし無情にも、ご主人様は必死にカバンを引っ張る私の頭を叩いて諭すと、玄関でおろしたての靴の紐を結びはじめ、その嬉しい感情を押さえきれないといった声で私に留守番を頼んだ。

このままではご主人様が…私の大好きなご主人様が……。

ご主人様がドアノブに手をかけ、灼熱の外界で死に物狂いに鳴き叫ぶ蝉たちの声が玄関一杯に響き渡り、そのすべてを焼き尽くす日光がドアの隙間から私の顔を白く照らした瞬間、私は老いてもなお鋭さを保っていたその牙を、ご主人様の右足首に思い切り食い込ませていた――。

これは事故などではない、故意だった。例え私が嫌われようと、これでご主人様が行くのを止めてくれれば、ご主人様が無事なら私は満足だったから。こうしてご主人様の危機を救ったと思い込んでいた私が真実を知ったのは、保健所へ送られる直前、家族と最後の別れの時だった。


「息子は…息子はこの犬のせいで野球が出来なくなったんです!早く…殺してください!」


ああ、「元凶」とはこの犬、私の事だったのか。