No.03/追憶は犬の姿をして/森居 史隆

「あっ、犬だ」
思わず声を上げる。痩せこけた犬だった。腹からはあばら骨が見え、尻尾は力なく垂れ下がり、臆病そうな目をして辺りを伺っている。
「おいでおいで」
私が優しく呼びかけると、犬は嬉しそうな、でも戸惑ったような顔をして、駆け寄ってきた。
どおん。
大きな音がして、輝く円が一つ、空に現れる。
「あっ、はじまった」
どん。どおん。
続けざまにやってくる、お腹に響くような爆音とともに、大輪の花が次々と夜空に咲いた。
今日はお祭りだ。遠くに霞む対岸には、屋台の明かりが見える。今頃は、人がごった返しているに違いない。
「あはは、臆病な子だなぁ」
犬は怯えて、草の陰で体をすくめていた。
「こんなに怯えてると可哀想。ね、お兄ちゃん」
そう言って私が振り向いた先には、ただ、闇があるばかり。

私の兄は、三年前に居なくなった。
花火大会の帰り道、車に轢かれそうになった私を庇ったのだ。
運転手は、後で聞いた所によると、祭りで大量に飲酒していたそうだ。青いランプを光らせた軽自動車は、スピードを落とすことなく、私たち二人を跳ね飛ばした。
私は一ヶ月意識不明となり、兄は帰らぬ人となった。
それからだ。私が、居ないはずの兄に向けて、語りかけるようになったのは。

どん。どどどん。
いつしか、花火は大きい単発のものから、連発式の小さなものになっていた。
それを見つめる私の隣には、先ほどの犬が座っている。舌を出しながら、まるで花火の美しさに魅了されたように、じっと前を見つめていた。
花火の光が、ストロボ写真のように、二つのシルエットを断続的に浮かび上がらせる。
「お前にも、花火の良さがわかるの?」
問いかけると、野良犬はこちらを見つめ返してきた。何故だろう、その目はとても悲しげだ。
「そんなに、悲しそうな顔しないでよ」
兄が死んでからというもの、私の周りには、何故か犬が集まってくるようになった。
そのことを、私は兄の霊が今も見守ってくれているせいだと思っている。
兄は、犬が大好きだったからだ。
「ずっと、信じてたの」
犬に向かって、話しかける。
「例え頭が狂ったと言われても、可哀想な子だって言われても……。だって、認めたくなかったから」
頬を伝う涙を、犬は前足で拭ってくれた。かつて、兄がそうしてくれたように。私は微笑んで、相変わらず悲しげな目をした彼の頭を、優しくなでてやった。
「でも……もう、終わりにしなきゃ、だめだよね」
決意をこめて、言う。
今日、ここに来たのは、区切りをつけるためだ。
犬の姿をした、兄の幻想に。
携帯電話を取り出す。ずっと、消せなかった兄の名前が、そこにあった。
"発信" のボタンをプッシュすると、しばらくして、機械の音声が流れ始める。
『ただいま電話に出ることが出来ません。ピーッという発信音の後に……』
やがて来る静寂。私は、震える声で言う。
「ありがとう、お兄ちゃん。今まで、本当にありがとう……さよなら」

どおん。
夜空に、一際大きい花が咲く。……辺りに静寂が戻った時、犬の姿は消えていた。