Neetel Inside 文芸新都
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三題噺コンテスト会場
No.45/鬼葬/牧根句郎

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そいつを血祭りに上げるのに10秒もかからなかった。
バスルームの中で無防備に裸体を晒すそいつに向けて、マカロフの銃弾を八発全て叩き込む。
ただそれだけで、バスルームはエリザベート・バートリーなら垂涎して悦ぶ様な血の海に変わった。
しかし、その真っ赤な浴槽の中で、そいつはまだ芋虫のように蠢いていた。
ニコラシカが、わざと急所を逸れる様に撃った為だ。
だが死ぬのは時間の問題だ。
撃ち込んだのは、着弾した後、傷口の中で急激に膨張するホローポイント弾だ。
その解放されたエネルギーベクトルは被弾者を体内からズタズタにする。
そのウクライナ人の中年男は、体内を切り刻まれる激痛の中で、じわじわと死ぬ瞬間を噛み締めながら死ぬのを待たなければならない。
そうだ、男は受けなければならない。
死の制裁を。 死の制裁を。
男は自分の人生を後悔しながら、犬畜生のように無様に死んでいかなければならないのだ。
その為には、男は自分が何故死んでゆくかを理解させなければならない。
男は、驚愕と絶望の混じった翡翠色の瞳で、ニコラシカを見上げていた。
「私が誰か、覚えているか? セルゲイ・ランスキー?」
男は―――――セルゲイ・ランスキーは自分の本名を呼ばれた事について驚きを隠せないようだった。
「はっ、覚えてはいない、覚えてはいないだろうな。 私はもはやお前の知る私ではない。 KGBによって、私の顔は原型を留めぬほどに変形させられてしまったからな」
「K…G……B…だと………?」
口の端から血を滴らせながら、男はその言葉を反芻する。
KGB―――――――ソ連国家保安委員会。
その機関と接触を持ったのは、男の人生の中でもたった一度きりだった。



ニコラシカ=ターレスは、生まれはウクライナだったが、幼少時を育ったのはモスクワだった。
まだ、ロシアがソヴィエト連邦と呼ばれていた頃である。
共産主義を謳い文句にしていたソ連であったが、当時のロシア共和国の国内情勢は、平等とは程遠いものだった。
むしろ貧富の差は資本主義国家のそれよりも遥かに大きく、人々は夕食の買出しをするためだけに寒空の中を5時間並び、映画館ではマルクス・レーニン主義を称えるだけの、娯楽とは程遠い映画を垂れ流した。
それは、クレムリンとKGBによる、完全なる国民管理体制国家だった。
そこでは、人々は『国家』と言う牧場の家畜であり、機械の歯車の一つに過ぎなかった。
アンナ=ランスキーという名の少女の一家は、彼女が5歳の時にモスクワに上京した。
彼女の父親であるセルゲイ・ランスキーは、ウクライナの貧民街でペンキ屋を営んでいたが、ウクライナの定める規定賃金はあまりに安すぎて、食べてゆく事ができなかったのだ。
しかし、当時のモスクワでは、居住権すらクレムリンによって掌握されていた。
これは、地方民の流入によってモスクワにスラムを造らないための政策だったが、学のなかった彼女の父親はその事を知らず、上京してすぐにアンナの一家は路頭に迷う事になった。
そこで彼女の一家に接触してきたのが、あのKGB(ロシア国家保安委員会)だった。
彼らは、アンナの父親に対し、取引を持ちかけてきたのだった。
彼らの目的は、アンナだった。
まだ自我の確立していない少女なら、思想の刷り込み、倫理の剥奪も極めて容易だ。
KGBは、一家の居住権を確保する代わりに、アンナの身柄を要求してきたのである。
将来のKGBの手駒とするために。



もしも。
もしも、そこでセルゲイがきっぱりと断ったら。
いや、たとえそうでなくとも、せめて激しく苦悩する事があったのならば、彼女の心はまだ救われたのかも知れない。
そうであったのなら、彼女のその後の人生は多少なりとも変わっていたのかも知れない。

だが、そうはならなかった。
彼女の父親は、迷う事無く、二つ返事でアンナを売った。
KGBが、彼女の身体の対価として支払ったのは、わずか500ルーブルだった。





「長かった……ああ、とても長かった。 父よ、私が誰か覚えているか? お前の種から芽吹いた狂気の萌芽は、今正に復讐を成就させつつあるぞ。 お前はたった一本の手紙も電話も寄越さなかった。 アンナは……ずっと、ずっと待ち続けていたのに。 私が犬のように朽ち果てていたとでも思っていたのか? ペレストロイカでソヴィエトが崩壊した今、復讐の種は外に解き放たれた。 私は今この瞬間を、秒針が何千何億刻まれる間待ち焦がれていた。 ああ、長かった…!」
セルゲイは、ようやく全てを理解したようだった。
自分が何故殺されるのか。
彼女が一体誰なのか。
過去は未来に復讐する。
悔悟と恐怖の中で、セルゲイの眼はしかし硬直したように見開かれていた。
まるで、死にゆく直前に、娘の姿をその網膜に焼き付けようとするかのように。
やがて、瞳孔がゆっくりと拡がってゆく。



「ダ・スヴィダーニャ(さようなら)」

むせかえる血の匂いの中で、そのロシア語が響いた。

独りだった。

       

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