No.42/パーテーション・ロマンス/犬野郎

 仕事で些細なミスをした。
 相手先の連絡ミスだかこっちのメモ取った時のミスだかは知らないけれど、うちみたいな中小企業は結局頭を下げることしかできなくて、社内で割を食うのもいつだって下の人間だ。
「はい、長野さん。コレ差し入れー」
「あ、ありがとう小早川君。助かるわー」
 コンビニの袋に入った鮭と梅干のおにぎりと、冷たい缶コーヒー。なんて無難なチョイス。二十八にもなってこんな質素な夕食だなんて、いいのかしらと思う。もちろん悪い意味で。
「どうしたんです、眉に皺寄せちゃったりして。おにぎりの具、気に入らなかったですか?」
「いやいや、そういうんじゃなくてね。ちょっと嫌なことが重なっちゃってさー」
「あ、今日のアレでしょ。聞こえてましたよ。酷いですよねー課長も、自分の方でもチェックしたはずなんだから自分の責任もあるんでしょうに、全部長野さんのせいみたいに言ってて」
「小早川君……出世したかったら、そういうことは会社で口にしちゃダメよ」
「んー。俺、長野さんのこと信じてますから」
 二年後輩の小早川君は、顔はいいけど口が軽いのがどうかと思う。
 こう……もうそろそろ行き送れという事実を認めたくない年齢の女には、ちょっと刺激が強いというか……こっぱずかしいセリフを聞くと、こっちの顔の方が赤くなってしまう。机の間に立っているパーテーションにこっそり感謝をする。
「そういえば、買出し行く途中で見たんですけど、今日近くでお祭りやってるみたいですよ」
「うわー、イヤになるわね。こっちは残業だっつーのにもー」
「ですよねー。浴衣で手ぇ繋いじゃったりしてる恋人たちの姿がわんさか……」
「きゃー、聞きたくないわー。……最後にそんなことしたの、いつぐらいだったかなー」
「え、長野さん今彼氏とかいないんすか?」
 笑っていたはずの口元が、一瞬引きつったように固まるのを自覚した。
 一年前に、三年付き合っていた彼氏と向こうの浮気で別れてから、とんと浮いた話がない。半年に一回だった親からの電話は月一になり、なんと昨日、見合い写真などというものまで送りつけてきやがった。こんなのが届くのは、ドラマか漫画の中だけの話だと思っていたのに。
 しばし流れた沈黙で何か察したのか、途端に返ってきたのは取り繕うような焦った声。
「そ、そうだ。じゃあ仕事終わったらちょっと冷やかしにでも行きましょうか、お祭り!」
「えっ……それって、二人でってこと?」
「はい。まぁ、俺らしかこのフロアに人残ってないんですけど。……ダメですかね、やっぱ」
 思わぬお誘いだった。と、いうかこれはアレだろうか。新たなロマンスの幕開けだろうか。
 二年後輩の小早川君は、口は軽いが顔はいいのである。
「うん、行く」
 そう返した瞬間、机の電話がけたたましく鳴り出した。物凄い嫌な予感。取りたくない。でも、それで明日の自分がどうなるのかは目に見えているので、出ないわけにはいかない……。
「はぁ……。はい、新都商事の長野です。はい、いつもお世話になっております――」
 かくして、予感は見事に的中した。仕事の手直しは終電まで残ってやっと片付くか、という量で、小早川君に泣いて頼んで手伝ってもらうことにまでなってしまった。もちろん祭りになど行く暇はない。本当に今日は悪いことばかりが重なってしまう。ああ、私のロマンス……。
「はは、そう肩落とさないで下さい。あ、じゃあこれあげますよ」
 そう言って小早川君は立ち上がると、子犬のマスコットのついたストラップを私に差し出した。お茶のペットボトルとかにおまけで付いてくるヤツだろう。緑色のぶちと、やる気の無さそうな目がなんとも言えずプリティーだ。二十八でプリティーって。
「はは、可愛いねー」
「でしょ。今日はこれで我慢してくださいよ。で、今度ちゃんとしたデートに誘いますから」
「え?」と見上げた小早川君の顔が異常に近くて、気が付いたら唇に触れた軽い感触はすでに離れた後で、正気に戻った時には彼はすでにパーテーションの向こうで。
「……え? ちょ、ちょっと! えー!?」
「だから、もう誰もいないって言ったじゃないですか」
 はにかむように笑う、彼の声だけが届いた。
sage