Neetel Inside 文芸新都
表紙

ホーの解
「葵 古都の発見」

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日の光はガラス窓を通り、柔らかい光になって私の部屋を優しく包み込んでいます。昼下がりから急に降り注いだ雨は降り止むのも急で、その振る舞いは狼狽する私をからかっているようでした。

一人になると考える時間だけが増えていきます。一つしかない椅子に誰が見ているわけでもなく行儀よく座り、陰りゆく空をずっと眺めていました。こんなことをしている自分がほんの少しだけ悲しくなってくるけど、落ち着くにはこれが一番だと考えたからです。

けど私の中に少しだけ動揺が残っています。魚の小骨のように上手くとることができなくてもどかしい思いに私は包まれていました。たとえその動揺を自分から作ったのだとしても私はそれをもてあましています。

時計の針の音が私を急かしているようでした。私は一秒一秒の時間を確かめてはまだ来ない先輩の姿を思い浮かべて、期待と不安の両方に胸を焦がします。

不安を感じることなど無駄であるにちがいないのは分かっています。先輩は約束を破るような無粋なことはしない。来るといったら多分来るはずです。でもそのことを素直に喜んだらいいのに、私はそれを表に出す気にはなれません。

先輩が私のことを考えて来てくれるのはうれしい。でも私が志工先輩に言ったのはただの自分の都合だと思っています。私から志工先輩からはなれて欲しくなかったから。その思いに突き動かされて私は先輩の部屋へと向かいました。だけど私は志工先輩の部屋に来たときに、少しでも先輩のことを考えていたでしょうか。

志工先輩に来て欲しいのか来て欲しくないのかの二択で言えば前者に決まっています。ただ志工先輩と私の間は対等の関係で成り立っているのでしょうか。志工先輩は私のためにいろいろと行動を起こしてくれているのに、私は志工先輩に対しては全くの無力です。

それなのに志工先輩に会いたいと思ったとき、それらのことを考えず私はただ感情に任せて自分がしたい選択を選んでしまいました。その感情は私にとって欲求不満のようなものでした。

だんだんと空の色が濁っていくように黒く変化していき、太陽の光は空から遠ざかっていくように感じます。見計らっていたかのように月がその姿を現しました。月光は等しく地上に降り注いでいます。

私はその月に嫉妬をして、悔しくなりました。私は他人に等しく振舞うことができないから。

ひかえめなノックの音が部屋の中で響きます。私は椅子からそっと立ち上がるとカーテンで窓を遮って、扉を開きました。電灯がついていない廊下では一箇所だけ設置されている非常灯の明かりが鋭く発光しています。

扉を開いたままの姿勢で動けない私の前でセーラー服の男性がポケットに手を突っ込んで立っています。非常灯に照らされて彼の体の一面だけが赤く染まっています。少し不気味に見えるけどそれが志工先輩らしい登場の仕方です。

私は非常灯がちかくにあったという偶然にちょっと感謝しました。

「遅くなった」

限りなく小さく唇を動かして志工先輩は私に向かって挨拶をします。その口調や言い方に私は懐かしさを感じて文字通り感激しました。志工先輩はどこも変わっていなく以前の先輩のままです。

目の前にある現実によってこみ上げられたうれしさに感覚が麻痺してドアノブを握っていることも忘れてしまいそうです。それどころか場所も、時間も、答えられないほどに私の頭は真っ白く塗りつぶされていました。

志工先輩は相変わらず手をポケットで隠しています。さっきしゃべったこと以外にはするつもりはないのでしょうか。大きさが変化しない二つの瞳は私に向かって催促と思えるような尖った視線をぶつけています。私はそれでも立ち尽くすだけでしたが窓を通り、カーテンを突き破ってかすかに聞こえてくる梟たちの鳴き声が私を我に返らせました。

「あっいえいえどうぞ。それより服装はやっぱりそれなんですね」

眼鏡をかけているわけでもないのに志工先輩は眼鏡をずりあげるような仕草をみせ、それ以外は何もせずに猫のように隙間を縫って私の部屋に入ってきました。志工先輩は明言していないけどなんだか得意げに鼻をひくつかせています。

この服装で来るのは予想していました。でも自然と笑みがこぼれました。志工先輩とまた時間を共有できる日が戻ってきたことにこれ以上ないほど私は喜びを感じています。

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志工先輩は入り口近くの壁に寄りかかったままポケットから手を出しません。どこか私の部屋に入ることを躊躇っている。そんなことを考えてしまって私は紅茶を淹れることを思いつきました。

紅茶を淹れる動きは手馴れているというよりは意思に反して動いているといったようです。志工先輩が来てくれてうれしいのに、私は紅茶を相手にしている。志工先輩も先輩で入り口から離れようとしません。

電気ポットから流れる水をコップに注ぎ、ティーバッグからは鼈甲飴のような色をした液体が流れ出ていました。そして完全に紅茶になり、その水面には私が映っています。

私が映っている。ただそうとしか思えず、そして会話の糸口を見つけられません。私は何を話したらいいのか考えられません。まだ時間がたっていないのに、私は慌ててしましそのせいで紅茶は波紋を作っています。

「すこし自分勝手な話をさせて欲しい」
「えっ?」

ふいに振り返ると志工先輩がこちらを見つめています。さっきまでの表情を遠くへと吹き飛ばし、壁に寄りかかったまま黒い足をわずかに曲げました。

「別に古都にとっていらないとは思う。だけど俺にとって必要なんだ」

横を向いて私と向き合う先輩に私は物も言わないまま紅茶をそっと渡しました。ありがとうとひかえめな挨拶をして志工先輩は一口だけ紅茶を口に含みます。まだ熱いからそれほど多くは飲めないけど私は志工先輩が喉を上下させているのには気づいていました。

「古都がいいなら話したい」

答えなど初めから決まっています。私が聞いてあげられるのなら聞いてあげたい。それで志工先輩の悩みが少しでも軽くなるのなら、わたしにとってもそれはうれしいことです。だから私は力強く頷きました。志工先輩は私の反応にわづかに唇を曲げ少し眼に柔らかい光をためました。

     

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私が淹れてきた紅茶が注がれたコップを両手に抱えて志工先輩は壁に寄りかかっています。なんででしょう。志工先輩のことを上手く直視できません。壁を背に立つ先輩は私がいるのに一人ぼっちのようでした。

「だいたいのことは知っていると思うけど今から話すのは思織のことだ」

思織と言われて誰かを考えるのに少し戸惑いましたが白崎先輩であるのには間違いないでしょう。私は体格に似合わずに大人びた表情を見せた夕食時の白崎先輩を思い出して、気づかないうちにひざの上で自分の手に力を込めていました。

白崎先輩が志工先輩のことを知っていることには驚きましたがもっと驚いたことは白崎先輩の志工先輩に対する評価でした。私が知っている志工先輩のことを承知の上で私の知らないことを感情を織り交ぜずに話す白崎先輩。

夕食の準備のときに見せていた危うい動きとは一転した不気味なものでした。

「半年ぐらい前に思織と俺は付き合っていた」
「なんとなく白崎先輩からの口調からそれは読み取れていました」
「女の勘か。まぁいいよ。俺にとっても悪くない日々だった。それどころか思織を大切にしていた」

そこで一旦言葉を切りました。目線は天井を見ているのに、もっと遥か遠くを目指しているような気がします。私はそのときに志工先輩の間に隔たりを感じ、それを私が乗り越えることになる予感がそっと肌をいやらしく撫で付けました。

「でも思織のことを俺は切り離したんだ」

斧を振り下ろしたようなすごい音が私の胸の中で聞こえました。ぽっかりと大きな穴が開いて寂しい風が吹き込んでくる。私が愕然としていた表情をして、志工先輩は大げさに笑いながらポケットから手を出します。

「少し疑問に思ったりはしなかったか?この服を誰から貰っていたかとか?」

確かに言われてみると少し不自然です。あまりにもセーラー服姿が似合っているせいなのか、そういう疑問は私の中で限りなく零に近いものでした。自分の腕をくるくると回しながら先輩の筆先のような形をしている瞳は慈愛のようなまなざしに変わっています。

志工先輩にはそれが大切なもののように私に映りました。たったそれだけの動作なのにそれが十分伝わってくるということは志工先輩がそれにこめている思いはもっと計り知れないものなのでしょう。

でもまさか前の持ち主は思織先輩ではないでしょう。志工先輩がそのようなお願いをするというよりもサイズが合いません。私が答えに困って、あたふたとしている様子を志工先輩は薄く笑いながらため息をこぼします。

「この服は俺の妹のものだ。俺が使っているマントも、帽子も、そしてあのぬいぐるみも」

言い終わった後に志工先輩は私の顔色を伺って前髪をいじっています。自分の発言に気まずさを感じているようでした。あの衣装とぬいぐるみが何を意味しているのかはもう考えなくても分かっています。元々は妹さんのものだったそれをなぜ志工先輩が使っているのかについていけない妄想がよぎっていました。

「妹は俺によくなついていたよ。だから思織に嫉妬したんだろうな」

志工先輩は紅茶をまた一口味にして、口からは白い湯気がかすかに漏れていました。体は
ちょっと火照っているようでしたが、遠い目をしているその顔は薄い肌色を保っています。私は何もできません。紅茶がぬるくなっていくことにも特にもったいなさといったものを感じることはありませんでした。

「いきなりだった。妹が家出をした。書置きには俺に対する恨みつらみが告白されていたよ。思織ばかりに自分の時間をさいていたばかりに妹をないがしろにしていた。そのことに妹は耐えられなかったのだろう。」

風なのかがたがたと窓がゆれ、天井の照明がちりちりと音を立てています。志工先輩は体重をかけていた足をもう片方に切り替えるとため息と共に手をポケットに入れました。さっきからため息をする感覚が短くなっているようです。

「今思えば浮かれていたんだろうな。そして妹があんなことを思うはずがないと余裕ぶっていた。しかし現実は違っていた。それをその書置きから思い知らされたんだ」

「俺は迷ったよ。妹のことに関して背に腹は変えられない。だけど思織とはこれからも一緒に居たかった。どちらにしても苦渋の決断だった。もう前のような生活には戻れないことを痛感したよ。俺はさんざん迷って、そして思織を捨てて妹を探した。でも結果はさんざんだった。俺が必死で追いかけたが妹は見つからなかった。そしてあれから思織は俺のことを人間ではないような目つきで見てくる」

思い出話を話すには少し目を細めすぎている志工先輩の昔話はそこで終わりました。まだ知らないことはありますが私はそれを知る気にはなれません。志工先輩は自分の心痛を完全に無視してしゃべっています。そしてそれが当然であるかのような振る舞いに志工先輩から感じるはかなさが強くなっているようでした。

私は紅茶を飲むと、案の定ぬるくなっています。それでも体の中に安心感が染み渡るようでした。志工先輩はさっきから紅茶を飲んでいます。私と同じように安心感を味わってくれているのならいいのですがちょっぴり自信がないです。ティーバッグの紅茶ではなおさらでした。

それでも紅茶を飲み干すと私に空のカップを届けてくれて、そのときの志工先輩の顔はまるで別人のようでした。

「俺は一度失敗した人間だ。信用ならない人間かもしれない。でも俺は決めた。お前だけは置いていかないよ。古都がいいというなら傍にいる」

静に、だけど時間をかけて言い切ったその決意を飲み込むように志工先輩は軽くうなり、その細い目を完全に閉めます。

志工先輩のためだけの言葉がいろいろと浮んできます。でも私は何を言ったらいいのでしょう。先輩を励ましたいのには間違いありません。

でも自虐を存分に体にしみこませた先輩をみていると、私の言葉なんか無力だと思い知らされる気がしてならないのです。結局私は黙ったまま唇をかみ締め、先輩は私を和ませるようにはにかんでいました。

励ましたいのはこっちのほうなのに……

「まぁそれは置いといて今日は他にも話しがある。お前にとってはこっちのほうが知りたいのかもしれないな」

口数が多いためなのか志工先輩は少し疲れたように首周りをさすっていましたが目は真剣そのものでした。さっきまでの自分を責めているような救いようのない目つきはどこにもありません。でも感情として自分の棚の奥にひっそりと閉まっただけなのでしょう。

     

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二杯目の紅茶を先輩のために用意すると先輩は何も言わないでそれを受け取りました。緊張しているのでしょうか?先輩の持っているコップが震えています。もしかしたら不安なのでしょうか。

私が先輩の話を信じてくれないことを恐れているかもしれません。私を信用していないのではなくこれから話すことがそれほど突拍子で常識が外れていることなのでしょうか。苦虫を噛み潰すような表情をしている先輩を見ていると私にもその緊張が伝染してきました。

「一週間ほど前のあの日に大都井に告白された」

私は自分の紅茶のコップをくるくると回しながら志工先輩の話を黙って聞いていました。志工先輩のことだからその告白をどう返したのかは火を見るよりも明らかでした。でもなんだか私の周りに黒い靄がかかって先輩の顔をよく見ることができなかったです。

「大都井は俺と同じクラスであまり話したことはなかったが時折ちらりとこっちを見ているのは知っていた。日ごろから俺に何か感じていることはうすうす感づいていたよ。でも断った」

私のぬるくなった紅茶はそれで飲み終わり、私はその味に少しため息をつきます。志工先輩はその私の動作に同じようにため息をつきながら続きを口にしました。

「そしたら大都井が豹変したんだ。いきなり石を持って俺に襲い掛かってきた。笑っちゃうよな。虫一匹も殺せないような顔つきをしておいて俺には容赦がなかった」
「とりあえず組み伏せることには成功した。ただ大都井がこんな強行手段をとる理由が分からなかった。だがうろたえる俺の前で大都井は胸を押さえて苦しみだした。俺は考える前にそれを調べた」

抑揚をつけずにまるで教科書を読んでいるかのような先輩の口調に私は拘束されているような気分になり、有無を言わせずに信じてしまうような説得力がありました。

「大都井の胸には奇妙な痣があったんだ。そしてその下では何かがうごめいていた。大都井がそのせいで苦しんでいるように見えたから俺はその痣を切り裂いてみた」

どくんと心臓が点ほどにまで収縮したような気がしました。志工先輩は私の顔色をみて一旦口をつぐみましたが、問題のなかったのかまた続きを小雨が降る間隔のように話し始めました。

「中には虫がいた。ただそれだけで、でも何の虫かはちっとも分からなかった。そして大都井が悲鳴を上げて、それより少し前か後かに俺、いや大都井めがけて梟が飛んできた」
「大都井が上げた悲鳴で俺のところに人が集まってきた。そして俺が大都井に暴行を加えているという既成事実が残ったんだ」

一気にしゃべり終わると先輩は残っていた紅茶を全て飲み干しました。私は先輩が話していたことを理解するだけで体の全精力を費やしていました。先輩の話はどこか日常を逸脱しているようです。

おとなしい大都井という方がいきなり暴れだしたり、その彼女の胸に奇妙な痣があったり、その痣には虫が隠れていて、それに反応して梟が飛び掛る。どれをとっても一般人が理解できることではないようです。

でも私はその一般人とは違っている確信があります。そっと右手で左腕の包帯の感触をなぞりました。先輩が話したこと。そのいづれかに私は心当たりがありました。それを先輩も知っているから私に話したのかもしれません。

「今日はもう帰るよ。いろいろと話して眠たくなってきた」

見た目は女性なのに女性らしくない欠伸をして志工先輩は立ち上がりました。同時に私の中で焦燥感が火花を散らしています。先輩は私にいろいろと話しをしてくれた。だけど私はまだ先輩に何も話していない。ドアノブに手をかける先輩を見て私は考えるより前に口が動きました。

「先輩」

呼び止めるだけのたった一言に私はすごく疲れたような気がします。鉛の塊でも食べてしまったかのように胃が重たく、そして全身が鈍重な感覚に縛られていました。口を動かすだけでも精一杯です。でも言いたい。言わなくてはいけない。

「私は先輩が今傍にいてくれてすごくうれしいです。大都井という方の一件で先輩がもう来れないかと思っていました」
「お前が呼んだから来たんだ」
「そうです。でもそれは私の自分勝手な主張でした。だから先輩がくるという義務はなかったかもしれません」

私のわがままというよりも私自身が先輩を束縛している。今日一日はそれに対する悔恨ばかりを感じていました。先輩には来て欲しいものの来なくても私は先輩を責めることはできない。それがあたりまえでした。

「でも来てくれました。それがすごくうれしい」

息が詰まりそうになるほど私は自分の顔が紅潮しているのが分かります。今までこうした自分の思いを他人に告白したことなんかなかったのに、志工先輩だけは簡単に言えました。心情的に独りになることを回避できて本当によかったです。

志工先輩は私を少し冷ややかな目で見ていました。軽蔑しているのではなくて今更何を言っているんだと呆れているような目でした。その証拠に目線は厳しいもののそれには先輩なりのぬくもりが込められています。

「お前が自分勝手だったら俺だって自分勝手だよ。そして古都のところに来たのは自分の考えがあってこそだ。そう無理に自分を卑下に扱わなくてもいい。お前が俺に会いたいのなら、理由はそれで十分だ」

志工先輩は私に空のコップを渡すとそのまま自分のセーラー服の皺を直しながら入り口へと向かっていきました。志工先輩から受け取ったコップと私のコップが私の胸の中でこすれあい、陶器独特の音を出しています。

志工先輩の後姿はどこかはかなげで触るとそのまま崩れてしまいそうでした。そのような状態の先輩が私を励ましてくれたことに私は純粋な喜びと純粋な悲しみの挟まれるのでした。

「おやすみなさい」

志工先輩の声ではないその声を最後に私の前から先輩は消えました。

その声はまだ見たことのない志工先輩の妹の声なのでしょうか。澄み切った声だと思うと先輩の妹が嫉妬に任せた行動をとってしまったことなど夢のように感じられます。私は彼女がどのような人間なのか少しも知りません。

だけど私は彼女がそのようなことをする人間だとは思えない。志工先輩を近くで見ているからそれはただの勘にとどまってはいないことは自信がもてます。だから彼女の行動が彼女にそぐわないと予想を立てることはできました。

そして大都井という方にも同じことが言えるかもしれません。志工先輩の口ぶりからはとてもおとなしそうな彼女がなぜそんな行動に走ったのでしょう。私にはその理由が爪の先ほどにも理解できませんでした。

しかし志工先輩の言うことがてがかりになるとして、一つだけ無視できないものがあります。大都井さんの胸にあったという奇妙な痣の下でうごめいていた虫のことです。

さらに梟……。胸がうずきました。私の悪い予感を肯定しているかのように。

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私の部屋の扉の向こうは雪が積もっているようにしんとしているのがありありと感じ取れました。そろそろ寝る時間になっています。でも一つ確認しなければいけないことがありました。

私は部屋から飛び出すと水場にまっすぐと駆け寄ります。水を欲しているわけではなく欲しているのはそこにある鏡でした。上着を乱暴に脱ぎ捨て、半裸になります。人の目を気にしている余裕などありませんでした。

肩にあった痣はもうなくなっています。私の上半身は両手に包まれた包帯を除けば健康的な肌色をしたごく普通の体でした。しかしそれは前面だけの話です。こめかみからたらりと冷や汗が流れて重苦しくつばを飲み込みます。

頭のどこかで私が警鐘を鳴らしていました。それは頭の中で何十にも響き渡り私を苦しめます。見てはいけないと誰かが警告しているようでした。でも私はこのまますごすごと帰るわけにはいきません。

くるりと振り返り私はそっと鏡を見ました。鏡には私の背中が映っています。すらりと伸びた背筋を挟むように肩甲骨が緩やかな曲線で浮き彫りになっていました。何度も見たことのある背面は私の予想していた通りの見た目をしています。

けど一つだけ見たことのないものがありました。ただそれだけのことなのに、私はからだが冷えるまでその場から動けませんでした。

       

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Neetsha