Neetel Inside 文芸新都
表紙

ホーの解
「志工 香矢の夜」

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香矢は自室にいても特にやることを思いつけなかった。自分の不愉快な疲れが体の中に蓄積されていくだけである。それを拭い去ろうにもまるで油のような粘りで香矢の身体にまとわり付いてくる。それがありえないほどに不愉快に感じられて、朝からずっと香矢は不安定な気分を持て余していた。

疲れているのは物理的な身体の疲れではない。椅子の背もたれに身体を預けて香矢はだらしなく天井を見上げる。明かりで照らされていない天井は香矢には暗いというよりも汚れているといった印象を与えていた。

そう感じるのも疲れているからだろうか。口を開いたまま背もたれに体重を乗せ続け、答えが出ないまま時計の針が刻む音を聞いていた。

神経が磨り減っている理由は分かる。椅子から背を離し、今度は不健康的に背を曲げて、香矢は机にうつぶせになる。目を閉じると自分の思いとは反し、ある種の映像として昨日のことがホログラムのように映されていた。

まだ大都井のことを信じきることはできない。大都井は前のときと変わっていない。香矢のことを呼んだあの日のときの大都井と何一つ変わったところが見られなかった。だけど昨日に大都井が目の前に現れてから自身の判断はまだぐらついている。

大都井が少しも変わっていなかろうが、おかまいなしに安心できないことが香矢の判断の抵抗となっている。香矢がどうして屋上のあの部屋にいることを知っていたのだろう。選択肢は片手で数えられるほどしかないがそのどれを考察しても自分にとって悪い知らせであるのには変わらない。

それに以前と同じ大都井が香矢を呼んでいるという状況はあの時と全く同じことだった。やはり慎重にならざるを得ない。だが大都井が遠回りに言ったように香矢にとって何か利益が得られるような情報が手に入るとしたら、そしてそれが古都にも関係していたら。

香矢はうやむやな思いを頭の中でかき混ぜる。どちらの道を選んだにしろ、プラスとマイナスがつりあっていて、だからどちらにも足を踏み出せないでいた。立ち止まったまま、香矢は何の利益にもならないと知っていながら考えることをやめられなかった。

それを続けているから神経が磨耗されていったのだろう。朝から続けていればそうなるのも無理はない。

目を開くと机の上には鉛筆が転がっているのが目に付いた。大都井に関してそれを転がして決めてみるのもいいかもしれない。かなりいい加減な方法だが少なくとも今の香矢が判断を下すよりかはよい結果がでることを否定できなかった。

鉛筆をつまみたててみる。丸まった鉛筆の芯がすべるように机の上を駆けて、しばらくしてこけた。転がるたびに聞こえてくるカラカラと乾いた音と共に木の匂いが少しだけ鼻をついた。香矢はそれを虚ろなまま見つめている。

大都井を信じて待ち合わせ場所に向かうべきだろうか。客観的に見るとそれで正しいかもしれない。以前のように暴れだすという可能性はおそらく皆無だ。その原因と思うあれと取り除いたのは自分である。だけどあれが一つだけだという証拠はないし、そもそもあれが原因だと決まっていない。

せめてあれに関して何か予習ができたら少しは自分の道しるべになるのだが士友から借りた本は士友の言葉どおり何の役にも立たなかった。無駄ではないが使いどころに困る知識を得ただけだった。

「どうしたものかな」

何度目かも分からない言葉は諦めを表しているだけではなく投げやりな自分を本当は表していた。誰かが答えてくれるのを期待した言葉ではない。ただ梟が香矢の問いかけに答えた。実際には偶然鳴いただけのことだったが。

ただ香矢はその声に引き寄せられるように首を回して頭を窓へと向ける。

小さな窓からは枝が揺れていることと、そこから数枚葉っぱが舞い散っていることしか分からなくて、生物がいるようには見えない。だけど梟は絶対いる。その存在感とそしてなりより、たまにその鳴き声がわづかに聞こえている。

「梟か」

香矢にとっては雀と違いはない。他の町の雀のようにたくさんいるのだからそれはそれで間違っていない。だけど古都が抱いている印象が間違っていないということではない。

そういえば古都はどこか梟を嫌っているような節があった。ほんの小さな刺激が香矢の意識に小石を投じる。そして大きな波紋が広がっていくようだった。大都井に群がっていった梟。古都が嫌っていた梟。共通点はそこにあるとしたら、これからの大都井の話に古都が関係しているかもしれない。

香矢が思考の迷路から抜け出す前に香矢から離れるように窓の外で梟が飛び立っていった。

香矢は机から身体を起こすと軽く背伸びをした。机の上に転がっていた鉛筆をゴミ箱の中に投げ入れる。緩やかな放物線を描いて鉛筆は寸文の狂いもなくゴミ箱の中へと落ちていった。

鉛筆を転がすのをやめる決心がついたわけではない。だがそれならもうちょっといいやり方があるだろう。つまりは神に任せるより人に任せるということだ。

自分で決められないのは情けないことだけど今回だけは古都に聞いてみるほうがいいのかもしれない。それに古都が無関係であるとは限らない。香矢は大都井のことを思い出してその直感がありえないものではないことを感じ取った。

時間を確認する。時間的にもう少しで授業が終わる。まだどのように話せばいいのかちっとも考えていないが、授業の合間に終わるであることは予想付いていた。

椅子から立ち上がると香矢はてきぱきと支度をした。さきほどまで鈍重な動きをしていたとは微塵にも思わせない。一瞬だけ普通の制服を着るかどうか迷ったけどその迷いは香矢にとって気の迷い程度にしかならなかった。


     

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どうして自分のことを香矢と称しているのだろうか。それが可笑しいとか何か違和感があるとかいう議論は自分の中で何度も繰り返し、そのたびに同じ答えにたどり着いている。それが可笑しいことであるのは仕方がないということだ。

一人称が香矢なのに違和感を感じるのを認めることはまぁいい。問題はそのままでいいのだろうかということだ。いつかそれをやめなければいけないとはうすうす感づいている。しかし今の自分はそう思っていない。可笑しいと思う常識的な違和感よりも自分の充足感のほうが大きい上に、それがまた必要なのだった。

だけどときどき女装をしているとそういう決断が自分の本意なのかどうかさえ分からなくなってくる。

古都の教室で古都を探しているほんの数秒間でも香矢はそんなことを考えていた。なぜだか今日だけはそんなとりとめのない妄想をして、些細な暇をつぶしたかった。休み時間で授業中に溜まった鬱憤を少しでも晴らそうと場所を選ばずにやかましくしている第三者のざわめきを聞いているよりかはましだ。

ざっと教室を眺めていて、古都の姿が目に止まることはなかった。香矢が来る前に別の場所に行ったということはまずない。授業が終わる前に香矢は教室の前で待っていたからだった。それならもっと前から他の場所にいるのだろうか。

どうしようか迷っているとさっきからの喧騒の隙間から雑音のようなものを感じていた。再三教室の中をほうきで掃くように見回すとその雑音の発生源がひとつふたつと感覚的に見えてくる。香矢を見る後輩たちの視線と、それらがしている内緒話だった。

彼らの視線はまるでサボテンに触れているように全身がちくちくする。言葉と捕らえられない彼らの話し声は具体的に聞こえているわけでもないのに自分が悪口をささやかれていると勘違いしてしまう。香矢は別に意識することなくそれらの視線に何の反応も返さない。だがそろそろ誰かに聞いたほうが古都を早く見つけられるだろう。

適当に後輩を捕まえて古都の居所を聞いてみる。古都がどこに行ったのかはだいたいの憶測はしているが具体的な場所を聞いたほうが時間の短縮にもなるだろう。だが名前の知らない後輩から返ってきた言葉はあっけないものではあったが香矢にとっては予想もしていなかった。

「葵さんは今日学校に来ていません」
「え?」

香矢はやや背の低い後輩にむけて首をかしげる。後輩は香矢が聞こえなかったのかと勘違いしたのかもう一度同じ言葉を口にした。事務的な言葉遣いは香矢の何も刺激することなく、以前のような態度を変えることができなかった。後輩はその後自分の言い方の何がいけなかったのか省みて、ぶつぶつと呟きながらちょっと目をそらす。

香矢はその後輩にそれ以外のことを何も尋ねることはできなかった。

「朝から学校に来ていないみたいです。今日だけじゃなくて昨日辺りから休んでいるようですよ。心配なら連絡してみてはいかがでしょうか?」

容姿と声を変えることはできても背の高さだけは変えることはできない。後輩は香矢に対して敬語を使い、そしてどこかよそよそしい態度から香矢は先輩だと見られているのだろう。古都も同じように香矢に対して敬語を使う。だけど目の前にいる後輩の敬語から感じるものは古都のそれとは大きな違いがある。

他人行儀ということは自分が怪しまれているということだ。正直まだ少しも納得していないが引き際としては今が一番いいタイミングだった。耳の辺りの髪の毛をそっとなで香矢はわざとらしく肩を落とす。

「そうなの。ありがとう」

香矢の言葉を受けて後輩は軽い会釈の後に安心のため息をつく。厄介ごとが終わってすっきりしたのだろう。香矢はまだいろいろと尋ねたいこともあったがそろそろ授業が始まる。香矢は後ろ髪を引かれる思いで教室から重たい足取りで離れていった。

あたりは雪が舞い降りたかのように静けさが充満している。香矢がそう意識すると自然と肌寒くなって香矢はそんな自分の感覚に苦い笑みをこぼした。まだ春でこれから暑くなるというのに。

階段をのろのろと降りる。時間はまだ正午に差しかかろうとしているところでまだ昼食を食べるにはそれを考慮しても、自分の空腹具合を考慮しても早すぎた。

この服装なら古都の部屋にいって古都の様子を確かめることもできる。それともその前に図書室で役に立ちそうな本でも探してからでもいいだろうか。次の行動を考えている間香矢は校舎の中を遭難するようにさまよっていた。

行く当てもなく流されるように一つ下の階に降りたとき目の前から何かが飛び出してきた。危うくぶつかりそうになったが香矢が一歩ひいたことでそれを逃れることができた。大きな黒い影だと初めはそのように知覚したが落ち着いて何度も見るとそれは教師の平坂であることが判明した。

すこしだけ高鳴った自分の鼓動を落ち着けて、香矢はほっと息を吐き出す。平坂だけなら香矢はそのまま無視してその脇をすりぬけることができただろう。ただ香矢の興味を引いたところは平坂が思織を抱えているところにあった。。

思織は口で息をして胸を掴んでいる。それだけで彼女が何時もの状態とはかけ離れていると香矢は察知した。強い風が足元を走り回っている。それだけで香矢は全身が寒くなりそうだし、それに周りの窓がきしむ音や扉が震える音を前よりも意識してしまっていた。

警戒心とは違うもうちょっと身を強張らせる感情が香矢を不安定にさせていく。

平坂は香矢の姿をみて口を開きかけた。教師として授業中にふらふらと歩いている香矢に説教の一つでもあげてやろうとしたのだろう。しかし平坂は口を開いただけで香矢のそばを通り過ぎていった。

香矢に何か言うことよりも思織を早く介抱させるほうを優先したのだろう。そのまま黙ってすれ違った。香矢はすれ違う直前に思織の顔を横目でうかがった。

思織は息を荒げて苦しそうにその顔を歪ませている。おそらく香矢とすれ違ったことにも気づいていないのだろう。香矢も思織がいつものような余裕を見せることもできないほど衰弱しているのを理解した。あんなに苦悶の表情を見せている思織の顔を見てしまったことに軽い後悔まで覚えていた。

そしてそれだけではない。思織の体勢。お姫様抱っことかいうものではなく、胸を押さえていたあいつの腕。服に皺を刻み込ませているかのように強く掴んでいた。まるでそこが痛いかのように。

あの仕草は何度か見たことがある。思織が見せたものではなく、思織以外の人からもあのような仕草を見せられた。そしてそれらの人々は他にも共通点を持っている。

もしかしたら思織も香矢が見てきた人と同じ原因で苦しんでいるのではないだろうか。そのような推測が香矢を身震いさせたが、香矢はそれがただの根拠のない理論であることだと考え直す。

だけど冷静に、落ち着こうとすればするほどやはり思織たちの仕草が重たくのしかかってくる。一ヶ月程度の期間でなんども見る動作ではないと思う。しかも押さえている場所まで一緒だった。偶然がこんなに一致するものなのだろうか。

「まいったな」

唇をかみ締めて今見た思織の表情を思い出す。思織の体調が悪いのは香矢の推測とはほとんど外れているかもしれない。だけどその場合の真偽を確かめるには思織を調べてみないと決めることはできないだろう。

曇り空だった空の隙間からほんの少し明るい日差しが差し込んで局所的に校庭を照らしている。香矢は窓に手を当てて薄暗い場所にいる自身の暗さがとても強調されているように感じた。

また一つ共通点を見つけて、香矢の行動枠がまた広がったことを感じた。だけどその枠に思織が入ってしまったことが香矢にとってはとても都合が悪かった。香矢は後ろめたさを感じるような暗闇を背負い、これからの予定を付け加え思織たちが向かった方向とは逆の方向へと歩いていった。

     

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後輩が話していた言葉を思い出すと、古都は昨日から学校を休んでいたらしい。香矢は昨日あの部屋で大都井と会話をしていた。それがなければ古都の部屋に様子を見に行っていたことだろう。

そしたら古都が巻き込まれた異変をもうちょっと早く気づくことができたはずだ。香矢は一日前の自分の判断に今更になって後悔していた。大都井に会わなければ昨日はいつもどおりに古都のところにいけたのだとしたら。

「馬鹿らしい」

帽子をベットの上に投げ捨てる。頭を力任せに振りながらその陰湿な考えを追い出した。夜になるにつれて自分の中で何かが膨れ上がっていく。それを押さえつけるのに精一杯で香矢は落ち着きをだんだんなくしている。いつの間にか大都井のせいにしようとしていた自分に身震いがした。

古都の部屋の椅子に座って足を空中に投げ出す。三日月のような軌跡を描いて足は上がり、空中で一旦停止した後に地面に衝突する。スカートが足にあわせてふわりと膨れ上がった。両足はしばらくしびれるような痛みを伴っていたが時間ともに癒えていった。全ていつもの自分の動作で自分の体の反応。だけど古都がいない。

古都の部屋には今のところ香矢しかいない。思ったとおりで生活感はかすかに漂うもののここ数日で物が変わったような印象は受けていなかった。香矢の記憶の中にある古都の部屋と何一つ変わっていない。この部屋は香矢の記憶から誰も入っていないかのようだった。

ひっそりとした不気味さを味わったまま香矢は目を閉じる。何も思い浮かばない。しかしそれはいい考えが浮ばないということではなく、もう香矢の中で考えが纏まっているということだった。目を閉じたまま手首を握り締める。相変わらず胸は悪い方向に高鳴っているが頭が何時もよりも軽い。

「時間だ」

香矢は椅子から立ち上がる帽子をかぶりなおした。とんがり帽子は数秒間糸で引っ張られるように天を向いていたがそれはすぐにぺたりと垂れ落ちた。マントの中で自分の背中をかいて香矢は部屋の扉に手をかけた。

古都はどこに行ったのかは考えなくても誰かが教えてくれそうだ。例えば今から会う人のような。

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女子寮と男子寮のおよそ中間にある自動販売機で大都井がぽつんと立っていた。動き安そうな簡素な服装をしてだらんと脱力したまま立っている。誰を待っているわけでもないような動作なのに、香矢は見過ごすことをできなかった。

木々の枝がばさばさと揺れる中で梟の羽ばたきやそれらの鳴き声は香矢にとっては何の刺激にもならなかった。大都井にいたってはそれらにも気づいていないように立ち尽くしたまま自動販売機をただ見ていた。

香矢が近づくとすぐに香矢に気づいたのかすこしぎくしゃくした笑顔を共に会釈をする。場を和まそうとした彼女なりの誠意なのだろう。大都井はそのまま自動販売機から離れたが、香矢はその服を掴んで大都井を引き止める。大都井が振り返ったと同時に香矢はその手を放した。

「まだついていくと言ったわけではない」

香矢はポケットの中に入れておいたものを掴む。マントの隙間から腕を取り出して大都井に見せた。香矢が握り締めていた小さなガラス瓶の中でそれは紐のような身体をうねらせている。大都井がそれを見た瞬間に一歩下がる。

「それは……」

大都井の目には明らかに動揺が浮き出ている。瞳孔をしきりに左右に動かしているのはどうしていいかわからないのではなくて、逃げ道か言い訳を探しているのかもしれない。それが香矢の神経を逆撫でていく。自分でも知らないうちに大都井の反応が逆鱗に触れたようだった。

「さっき思織から取ってきた。教えてくれないか?これがどうしてお前の身体と、思織の身体に埋め込まれていたんだ?何のために?そして埋め込んだのは誰だ?知らないでごまかさないでくれよな」

だんだんと大都井に詰め寄っていく。大都井は俯いて香矢の言葉をずっと飲み込むように喉を震わせていた。簡素な自動販売機の照明の前で香矢は自分が着ているマントを翻して大都井を圧倒する。

大都井はしばらく閉口していたが何かに叩かれるように背中をびくつかせるとぽつりぽつりと口を開いた。その動きはとてものろい。なのに大都井は周囲の視線を気にしているのかせわしく顔を動かして、頬からはたらりと冷や汗を流していた。

「志工さんが私についてきてくれるならお答えします」
「そんな先送りの態度じゃ納得できない。俺は今知りたいんだ」

いつの間にか自分の声が男のものに戻っている。それが分かっていても香矢は冷静さを取り戻せなく自分の声色を操ることができなかった。いやそれだけではない。いつの間にか大都井の襟元を掴んで自動販売機に叩きつけていた。

大都井は搾り取られたような小さな悲鳴をあげ、なすすべもないまま羽虫が一杯集まっている自動販売機の表面に磔になる。薄い金属が歪む音がして大都井の身体は小刻みに震えていて怯えた目つきで自身を掴んでいる香矢の手を見つめていた。

「話さないというのならお前が俺にされたことに対するという噂。その根も葉もないものを今真実にしても俺はかまわない。お前が嫌がることをすることは俺の罪の意識に何一つ影響はしないんだ」

襟元を掴んでいる力を強め、それに従って大都井の服が伸びた。大都井は抵抗しないのか身体を自動販売機に触れさせたまま短い息を繰り返していた。目はうっすらと濡れて肩から覗かせる肌にはうっすらと鎖骨のラインが見えている。

大都井は抵抗しなかった。いやだと叫びもしなかったし、自分の両手で香矢を跳ね除けることもしなかった。たださっきまで浮かべていた怯えがなくなっている。

涙が溜まっているせいで目線を感じづらくなったということではなくて、大都井は目で香矢に謝り続けている。

香矢はそれを全身で受け止めて、大都井を責めるための手も、口も動かすことができなくなった。それは大都井が見せている純粋な感情だから今の香矢にも感じることができたのだと思う。その涙さえおそらく自分が受けている仕打ちの不当さに泣いているのではないのだろう。

香矢はもう問い詰める気にはなれなかった。泣かれたことで拍子抜けたということではなく、香矢のために泣いてくれている大都井に従ってみる気になったからだった。少なくともあのときの大都井よりかはまだ信じる気になれる。

それと同時に香矢はここまできて本能的に自分が焦っていることを理解した。今までの発言もすべて後先を考えていない思い付きであることを分かってしまった。とっさに大都井から手を放す。自分は何をやっているのだろう。自分が考えていることが正しいとは限らないのに。古都がいない焦りと思織の様態で受けた焦りが香矢から周りを見えなくさせている。

どうしてそんなに自分勝手なのだろう。それを大都井が図らずとも教えてくれたことで香矢の悪影響な興奮は冷めていった。

「ごめん。お前の気を無視して」
「いいえ。あの時は私がいけないのです。なのに全て志工さんに不幸が降り注いでしまって……」

自らの服の乱れを直し大都井は涙声で香矢をフォローしていた。

「志工さんの疑問には答えます。それが私の罪滅ぼしです。でもここでは都合が悪い。話している時間がないのです。信じてください」
「どうして時間がないんだ?」
「もうすぐ狩屋さんが来ます。それに……」

大都井が次の言葉をつなげようとしたときに香矢は後ろを振り返った。おぞましいような、まるで巨大な手に掴みかかられるような憎悪を背後から感じたからだった。暗闇に解けるような髪の毛が一番初めに目に入った。顔を見る前にそれが誰かなのかを思い出した。あいつだ。思織が自ら口付けをしたあいつが立っていた。

それもすぐ眼前に。

       

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Neetsha