Neetel Inside 文芸新都
表紙

ホーの解
「志工 香矢の不透明」

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どきどきすごく投げ出したくなるときがある。集中力が途切れた瞬間とか、部屋に入りそれの明るさに目がくらんだときとか、電車に乗って速すぎる紙芝居のように外の風景が右から左に飛びさっていくのを見ているとき。

そのときに香矢は目の前が真っ暗になったと同時に頭の中で何かカチリとした音が聞こえてきて、そしてそういう衝動に血流が激しくなり、目に力が篭る。歯がカチカチとなり、脂汗の出る寒気が襲う。

とどまることを知らないその衝動になすがままにされて、自分の目に見えるものから見えないものまで全部放棄したくなる。自分の身の回りの環境に何一つ振り回されることはなく、どこか遠いところまで走って行きたい。

だけどそれは叶わぬ願いだった。どれほどあがいても自分自身からはどうやっても逃げることはできない。避けんでも走っても、自分が積み上げた業はいつまでも追ってくる。それは香矢の背後で適度に距離をとって、香矢が離れようというそぶりを見せたときにその存在感をアピールしていた。

「もう忘れたの?」

それはにやけた笑いと共に香矢の後ろから言葉を投げかける。鮮明なその言葉を香矢は受け止めるたびに自分の過去を思い出していた。だから香矢はどこにも行くことはできなかった。走り出そうとするたびにその言葉が香矢の背中をえぐっていく。

香矢は香を最後まで見つけられなかった。それは当然のことかもしれない。香から距離を置いた一言を浴びせた人間がすぐに香に近づこうとしたって近づけるわけがない。心の片隅でそれを思い続けて、香の姿をもう一度見ることができないと悟ったとき、それが正しいことを感じた。

だいたい香を見つけられたことで何を話せばいいのだろう。無神経に適当なことを言えばなおさら香を傷つけるだけに違いない。香をさらに追い詰めるだけだ。

香が遠くに行ってしまうのは耐えられない。香矢は香を拒絶したくはない。だけど香を受け入れることはできない。自分でも矛盾していると思う。だけど香矢が望んでいることはそれでその理不尽さは理解している。

だけど、香矢は間違った選択をしてしまった。それでこのざまなのだろう。誰のせいでもなく、自分のせいだ。中途半端な自分の思いが招いた当然の結果だ。

それからだった。ときどき逃げ出したくなる。自分の身の回りに降りかかる火の粉のようないざこざを振り払いたくなる。でもそれはできなくて、できないということは知っているものの香矢はそれらを捨てたかった。

だから香矢は家から出て行き寮で生活を始めた。思織の後を追ったわけではない。自分の家にいるとかすかににおってくる香の匂い。居間にも、台所にも、洗面所にも自室にも香の匂いが染み付いていた。

香矢はそのたびに香が居るような錯覚をしてしまっていた。それに耐えられなかったから香矢は実家で生活することを諦めた。それが香を突き放した香矢に対する報いなのだろう。香矢はそれをいち早く理解してそれを甘んじて受け入れることにした。香を忘れたいという思いもあった。

だけどどうして自分は女装をしているのだろう。香が居なくなってからも魔女の噂がなくなっていないのは自分が行っていることだった。だから他人たちは魔女のことを忘れていない。香りのことは忘れていったというのに。

それなのにどうして香のことを思い出すのがつらくて、家を出たのに香のことを思い出すような魔女の衣装と香の制服を持ち続けているのだろう。

「やはり……。いや……。それは間違っている。」

香矢は首を振って頭の中にぽっと浮んだそれを振り落とす。

香を受け入れるという選択が正しいということではない。だけど自分の方法が正しかったわけがない。今を見つめるとそれが分かる。それならどうすればよかったのだろう。答えをみつけられないもやもやした歯がゆさに香矢の形相は悪魔のように変形する。

何を間違ったんだ?本当の答えは何だったんだ?答えてくれる人は誰も居ない。答えてくれる人を望んでいるわけでもない。なぜなら自分はそれを知っている。香矢はどこかで別の未来があったのではないかと最近夢見ていた。

「俺はどうするべきだったんだろう」

鏡に向かって呟く。

傍目においてあったそれに映し出されている自分の顔をずっと見続けて、香矢は答えてくれるかもしれない自身に若干な期待を抱く。鏡の中の自分はただ笑っていた。その笑いが自分のもののようには思えなかった。

鏡の中の自分は笑っている。それが香矢に向かって何も語ることはなく、香矢はずっと自分と同じ顔のそれを口をつづんだまま黙ってみていた。そしてふと鏡をそのまま叩き割りたくなった。

香にそっくりな自分の顔が香のように香矢に対して微笑んでいるようで、それから目をそらすことができなくて、いつの間にかその笑い声まで聞こえてきて、ふっと全身から香矢の力が抜けていった。

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絶叫と共に香矢は飛び跳ねるように起き上がった。目覚めてからもその絶叫が自分で起こしたものとは考えていなかった。時間が少し過ぎてからそのことに気づいて香矢は喉仏辺りの皮を掴み、小さく舌打ちをする。

耳の奥がじんじんと痛み、頬には何かが押し付けられているような感触が残っていて、かなり長い間自分が気を失っていたことを物語らせていた。身体で感じる感触は冷やりとしていて、そして少し自然の匂いがする。かすかに身体をなでる風の冷たさも予想以上で、外で寝ていたことはもっと意外だった。

目に見える光景は黒一色でそれ以外は何も見えない。周りに人の気配があるような気はしない。もう一度香矢の横を風が走って、そして香矢が感じている寂しさが現実味を持ち始める。ただ見えるものは魔女の帽子が近くで風にあおられて揺れている様だけだった。

寝起きによくついてくる倦怠感を引きずってその帽子を掴もうと手を伸ばす。そしてすぐ違和感に気づく。思うように身体が動かせなかった。身体は何も縛られていなくて、自分は五体満足である。だけど見えない縄で縛られているようなそんな感覚がある。

香矢は理解のできない自分の体にどうしようもなく怖くなってくる。そしてその束縛感につられて吐きたいような気持ち悪さが襲ってきた。だけどその吐くという意志さえも自分で成し遂げることをできなかった。

思うように動くこともできず、何も得られることもなく、ただ不明ということが何よりも香矢の不安をどうしようもないほどに滾らせている。なんの進展もなく自分が立ち止まったまま時間だけ過ぎていく。香矢は身体の奥底から沸いて出てくる不安にじっと耐えながら事態が変わってくることをじっと待っていた。

どこに居るのだろう。だんだんと暗闇に慣れてくると他の感覚も平常の頃に戻ってくる。それでもまだ身体の自由は利かないが今の香矢にはそれだけでも十分な心の支えとなっていた。

同時に香矢は落ち着きを取り戻す。ささいな鳥肌がたつような風も香矢の身体を冷やす役割となった。だんだんと遠くまで見ることができてざっと周りの状況を観察することができる。

香矢は動けない身体を引きずって巨人の腕のような木の幹にもたれかかる。砂嵐のようなものが入り込む視界の中で自分と同じような形をしたものを探してみるが、初めに感じたとおり、見当たらなかった。それなのに自分とは違う木の幹は香矢を多い尽くすかのように数え切れないほど生えている。

真上に伸びているそれらの先には屋根のように枝葉が生え茂っていて、うっそうとした暗闇と圧倒的に重たい空気が停滞している。身体に感じるマント下でぬくもりのようなものを一切感じない土の感触の肌触りに慣れなくて香矢自身を拒絶しているようだった。

「…………」

何か声を上げようと試みて香矢はその結果にうんざりしたままため息を吐き出した。考えていたとおり、声を出すこともできなく下手くそな笛の音のようなものが香矢の口から漏れるだけである。

木の幹に寄りかかり木の肌がささくれ立っているそのちくりとしたものが余計に痛くなる。香矢は顔を落としたままこの場所で唯一カラフルな色を持っている自分の服装に目を投げかけていた。

この場所ではこの服装は似合わない。香矢は羽織っているマントを身体に巻きつけて制服を隠す。こうしてみると照る照る坊主になった気分で思わず笑いがこぼれた。


その中で場違いな香矢の笑い声が静かに木霊する。自分でも気味悪い神経が逆立つような笑い声で、まだ不安要素を除く事はできないがいつもの自分らしさが戻ってきているようだった。

ただどうして自分がここに居るのかを今はまだ考える気にはなれなかった。身体だって思い通りには動かないし、気分もあまり優れない。そしてなにより考えても大都井と香矢の前に現れたあいつか、それ以外の誰かが教えてくれる。

加えてこの場所はなんだかとても居心地がいい。人の手がほとんどかかっていない。香矢がここにいるのは場違いかもしれない。自然のざわめきがおさまらないのは香矢の来訪に戸惑っていて、それが理由で香矢を歓迎していないかもしれない。

それなのにここにいるのは悪い気がしなかった。初めに感じた不安感もいつの間にか胸の奥底にしまわれていった。この場を立ち去って行動を開始するより、ここでずっといたほうがいいかもしれない。

ここには誰も居ないが、いずれ誰かが来るだろう。

そう思うよりも早く誰かの影で香矢の身体が覆い隠される。唯一動けるようになった首を曲げて香矢は影の主を見上げた。

黒い色で塗りつくされているこの場所で彼女だけが白い色を持っている。まっすぐに伸びている二つの足の後ろで白衣が黒い空気を跳ね返すかのように白く輝いていた。乱暴に突っ込まれている手が白衣のポケットを膨らませている。

もっと顎を上げる。平坂が笑いながら香矢の前で仁王立ちをしている。にたにたした笑い声がここにまで聞こえてきそうだった。その平坂と目が合ったときに平坂に対する香矢の苦手意識が膨らみだす。

     

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「歩ける?全く七子も力入れすぎよね」

平坂は香矢の返答を待たずに香矢の手を掴むとその手を自分の肩にまわす。香矢はあまり抵抗せずに平坂の肩にもたれかかった。身長が近いためもあってかさほど歩きづらいということはなかった。

香矢は平坂から離れて後ろに下がる。身体の自由が利かないせいで止まることができずしりもちをつく。だけど香矢は平坂を睨みつけたままそこから動かない。

平坂は香矢の形相を意にも介さず、もう一度自分の手で白衣のポケットを膨らませる。香矢の疑問や、疑いを全て押し流すように平坂はため息をこぼした。香矢がいつもこぼすようなため息とは違う大人の余裕を持ったため息だった。

「どうしてここにいる」

平坂に反して香矢には余裕めいたものがなかった。煙草の火が灯火のように揺らいでいる。ろうそくよりも小さいけどそれよりも明るい。平坂は白い歯を見せて豪快に唇の端を吊り上げる。煙草の火がより強くなった。

ますます香矢は平坂に圧倒されていき、虚勢を張ることさえできなくなる。

「私も一口噛んでいるから」

口から白い煙を吐き出して平坂はそれだけを言った。そして平坂はもう一度煙草を口に挟む。それ以上は説明するのが面倒だとでも言うかのようだった。しかし香矢にしては過不足ない説明だった。

平坂のことをただの教師だと思ったことはこれが初めてではない。

「そういえば俺と大都井のあの件のときに、いち早く現れたのはお前だったな」

大都井が香矢に襲い掛かってきたときに一番初めに現れた第三者が平坂だった。そのときはただの通りすがりの教師としか見ていなかった。しかしもう一度このときに現れて香矢は過去の登場と今の登場の関係性に何かを掴み始めていた。

香矢と平坂の間に風が流れる。目には見えないけど確かに感じる。明らかに意味を持つその風。その風を受けて平坂は笑い、そしてポケットから手を取り出してこぼれた笑みを拾うように口元に添えた。

「まぁね。でもあんたが考えているのはあたらずとも遠からずといった感じ」

そしてまだポケットに入っているもう片方の手はそこから煙草とライターを掴んでいた。香矢の目を気にせずに煙草を一本取り出して火をともす。目をうっすらと細め、煙草を挟んでいる平坂の指先は何時もよりも白く、そして長く映っていた。

煙草をくわえながら平坂は淡々と語りだす。香矢は平坂に何時も感じていたよそよそしさというものをもっと強く感じていた。香矢の目には煙草の煙がより濃くなっている。それが平坂の全身像というものをぼかしているような幻想を抱いていた。

「大都井の身に起こっていた現象のことを私は知っている。だけど私は関係ない。初めに言ったでしょ。私は一口噛んでいるだけ」

煙草の煙の向こうから平坂が現れる。どこかそっけないつんとした表情のまま、頬をかいている。

「前置きはこれくらいでいいわ。これ以上説明するのは面倒だから黙ってついてきなさい」

平坂はそのまま香矢をつれて自分の背後の方向へと進んでいった。

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平坂は香矢を抱えたまま森の中を歩き続ける。季節の関係で落ち葉が少ないからか歩きづらいということはないが本調子ではないためか平坂との進行は遅いものだった。

平坂はどこに連れて行くのか何も話してくれない。香矢は黙ってついてこいという言いつけを守っているわけではないけどずっと沈黙を貫いていた。二人とも黙ったまま平坂の規則的な足音の後に香矢が自分の足を引きずっている音が続いていた。

月が見えないから夜がどのくらい進んでいるのか検討も付かない。ポケットの中に携帯が入っているはずだが自分の感覚が可笑しいのか、それともどこかで落としたのか入っているという確信が得られなかった。

泳いだ視線で平坂の顔を盗み見てみる。どこかつまらなそうだった。その理由が思考の片隅に引っかかったけど、煙草の匂いが強くなったから平坂の顔を見るのもやめた。半時間は歩いただろうか。歩くペースが遅かったから一時間ぐらい歩いていたかもしれない。

香矢はただ歩くことだけを考えるようになっていたが平坂が急に立ち止まったから香矢もそれにつられて止まることになった。興味と共に周りを見回してみる。長く居るから前よりも鮮明に風景が見える。

まず初めに目に入ったのは夜空だった。今まで木々が邪魔で見えなかったそれが香矢の左手に広がっている。その反対側は今まで歩いてきた道と同じようにたくさん木が好きなように生えている。ただ生えている場所は斜面のようで簡単には登れないような勾配となっている。

ここは崖を削り取ってできた平地のにあるのかもしれない。しかし何よりも香矢の目を引いたのは目の前に大きく広がる薄汚れた温室だった。温室かどうかは分からないが、側面から何までビニールで覆われている半円状の建物といえばそれで間違いない。香矢が周囲の観察をしている間に平坂は煙草をどこからか取り出した携帯灰皿にしまう。

「はい。連れてきたよ」

平坂は温室の中に入ってこない。温室の壁をぺらりと捲り、開いてできた隙間に香矢を押し込む。そしてその声を誰かに投げかけてどこかへと消えていった。足音は聞こえなかったけど、近くでは気配を感じない。

香矢には平坂は遠くに行ってしまったような気がした。自分の前には二度と現れない。まぁこっちも会うつもりはないから別にどうでもいい。平坂はいろいろと知っていそうだが寧ろ今から会う奴のほうが核心に近づく知識を与えてくれそうだった。

温室の中はむっとしていてサウナの中に入っているような錯覚を受ける。埃臭さと泥臭さに顔をしかめて香矢は一歩一歩中へと進んでいった。照明設備がないのか温室に明かりはともっておらず、中はより一層暗いためか、目の前に何があるのかも分からない。

自分が入ってきた隙間をじっと見つめながら掌をそっと握る。まだ違和感はあるものの一人で歩けるまでは回復している。香矢は今まで片手で持っていた帽子を被りなおし奥へと進んでいった。

香矢は暗闇に目が慣れないものの一本道にもなっているためか案外簡単に進んでいくことができた。すぐ近くには何かがある。マントにそれらが引っかかっているたびにそれについていけない妄想と不安を広がらせていた。

香矢は立ち止まらずに進む。猫の額ほどに開けた空間に出た。そこが温室の中心かもしれない。

「よう」

その先に士友がいた。何時ものように風で荒れ果てた椅子の上で悪役座りをしている。士友は手を振って香矢の姿を見ることに純粋に喜んでいた。

       

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