Neetel Inside 文芸新都
表紙

ホーの解
「葵 古都の事後処理」

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ーーーーーーー

春がもう終わろうとしています。終業式が目前と迫ったこの日に平坂先生は私を呼びつけました。あまり会いたくない人でしたが会わなければいけません。

「梟がこの町の象徴だということは知っているよね」

屋上の横にあるあの一室のように学校には使われなくて忘れられた部屋というものがまだまだあるみたいです。平坂先生が呼び出した場所もそのうちのひとつでした。たちの悪いことに私室にしているようです。

パイプ椅子に座らされた私は両腕の包帯をしゅるしゅると解きました。何回も見てきていることですが私の腕の傷痕は客観的に見ても悲惨なものでした。主観的にはもうなれたことですが平坂先生はまだ慣れていないのでしょうか。顔を伏せたまま淡々と作業を進めています。

「私が知っていることは御伽噺で神格化されているということぐらいですけど」

沈黙が我慢できなかったので相槌を打つと平坂先生はため息をつきます。話を振ってきたのは平坂先生のほうなのに。話したくないことなのでしょうか。それとも私が知ってはいけないようなないようなのか。

名前もないこの部屋で平坂先生は片手に注射器を持ちます。私の右腕をそっととると自分の人差し指で私の腕をそっとなぞりました。筆で触られているかのようなくすぐったさが走りましたがもう慣れていることなので私は何も言いませんでした。

「この町の梟はこれをよく好んで食べるんだ。そしてこの虫はこの町にしかいない。だから梟が集まる」

「私はこんな虫がいるなんて知りませんでした」

ぷすりと細い針が私の右腕に刺さります。眉をひそませる私を無視して平坂先生は注射器を離しません。閉め切っているためかまだ初夏も始まっていないこの季節なのに額に汗が浮ぶほど蒸し暑くなっています。

そして窓の外を飛び交っている梟が目に入りました。

「そうだね。一般人はこの虫を知らない。自然が多いこの学校でも、奥の奥の奥でしか育たない珍しいものだもの。梟は好物なのにそのことを知らないのでしょうね。

だからこの町に散らばっている。別に虫だけが食物ではないからそれでいいのでしょう。好物というより嗜好品ね。もしくは昔は町中で結構見かけた虫だったりとか。なんにせよ梟だけが人々の目に入る。街中なのに平気で」

打たれているところをずっと見ながら私はどこか複雑な気分でした。その虫が、人には決して見つかることはなかったはずの虫に私はめぐり合って振り回されて悲惨な結果になってしまった。

虫が悪くはないというのは分かっています。それを利用していた平坂先生、坂堂先輩が責められる立場にあるでしょう。だけど私はそれはしない。したくありません。だったら私は誰に何をぶつければいいのでしょう。それが見つからなくて複雑でした。

「何十年と続くとそれが気味悪くなる。原因不明なことに説明をつけたがる。根も葉もない噂が飛び交う。根拠のないことでも、超理論でも人は納得できればそれでいい。その行き着いた先が神格化。真相を知っている人はごく僅か」

ふと顔を上げると平坂先生は話の続きをしていました。左手に刺さっている注射器が窓から飛び込む光を反射して独特の光沢を放っています。注射器に入っている液体が全部無くなるまで私は平坂先生の顔を見ていました。

平坂先生はそこにしか目のやり場がないかのように注射器を見ていました。

「だと私は思っちゃったりして。なんかロマンがない?」

「そんなものでしょうか?」

「受け止め方は人によるでしょ?実際あの虫を追いやっているのは梟のおかげだし。守り神としては十分すぎる働きね」

引き出しから新しい包帯を取り出して私の腕に巻きつけていきます。ゆっくりと、しとやかな手つきなのに私は何も感じませんでした。平坂先生の姿が何か別のものに上塗りされます。私が一番待ち望んでいる人。

それを望めば望むほど自分で自分の首を絞めている気がします。顔に出なかったのが不幸中の幸いでした。

「はい終わり。そろそろ夕食の準備をする時間よね」

仕上げかのように包帯を巻かれた腕をぽんと叩くと平坂先生は軽く伸びをします。私は両手の指を一本一本折り曲げます。平坂先生の言葉は暗に私に出て行って欲しいことをほのめかしています。

それがいやでした。今まで適当にはぐらかされていたけど私には知る権利がある。

「なんで平坂先生はあの虫を育てていたのですか?というより平坂先生は何がしたかったのですか?私は巻き込まれていただけなので」

「早く行ったらどう?また夕食がカレーライスになるよ」

「答えてください」

勢いよく椅子から倒れたためか座っていたパイプ椅子が倒れて耳障りな音を立てました。平坂先生は私の剣幕に押されたのか持っていた包帯を落とします。床の上に落ちた包帯はころころと転がり白い線を描いています。

こう叫ぶことがあまり好きではなかった。だけど我慢することができない。最近不安定になっているようでした。そんな自分の変化には気づきたくありませんでしたが……。

平坂先生はじっと私を見ていました。瞳はまるで水晶のように、顔はまるで仮面のように、そして身体は彫像のように微動だにしていません。私との距離を測っている。そう思ったときに唐突に平坂先生は口を開きました。

「今古都に打った薬ってね。普通にあの虫からできているものなの。坂堂に散々打たれたせいで蓄積されている毒を中和しやすいようにする薬は何を隠そうあの虫が素材」

「えっ?」

「というよりそれが普通の使い方ね。坂堂、もうちょっと言えば志工妹がやっていた使い方の方が邪道なのよ。あういう使い方をすると対象に負担がかかるということが白崎さんが身をもって教えてくれたし。葵さんのほうがもっと打たれたのに平気なんて可笑しい話よね。耐性の問題かしら?」

平坂先生は白衣をごそごそとあさりながら窓を開きました。涼しい風がカーテンを揺らしています。ポケットの中に突っ込んでいた手からは煙草を取り出しました。ちらかっている机の上からライターを掴むとそれに火をつけます。

「平坂先生はその薬のために虫を育てていたということですか?」

「まぁね。ちょっとした内職という奴。この敷地ならまず使ってない場所があるだろうし、所有者に許可取れば大丈夫だろうと睨んではじめたの。実際許可とっているわよ」

平坂先生が吐いた煙は窓を通り空へと上っていく。その煙をじっと見つめながら平坂先生は話し続けました。逆光なのと、髪の毛で隠れているせいで平坂先生がどういう顔をしているのかが分かりません。

「使い方を変えれば坂堂が思っているような使い方ができるのも知っていた。そんなことをしなかったのは単にする必要がなかったから。ちょっと誤算だったのが坂堂に知られたということかしら。この山を捜索する生徒が出てくるとはね」

平坂先生の話し方はどこか無責任のようでした。坂堂先輩が犬が歩くように行動したからこうなったと話しているみたいです。だけど……平坂先生はやっていたことは結果としてよいことにつながっていたのだから私は何も言えませんでした。

「私としては細々と内職を続けたかった。坂堂があいつは公表するとしたら、絶対するような性格しているからね。だから黙認することにした。だけど使い方をエスカレートさせていくとは思わなかったわ」

「別に焼き払えばよかったじゃないですか。あんなもの。そのせいで志工先輩は二度傷ついたのですよ」

「古都がそういうのも分かるけど本当にそうかしら?」

もう一度煙草を咥えようとした平坂先生は机の上から灰皿を取り出すとぐしぐしと煙草をつぶしました。髪の毛をぐしぐしとかき回して晴れ晴れとした笑顔を私に向けます。

「要は見方の問題なの。毒だと思っていたものも薬になることがある。顔も名前も知らないけどこの薬で助かっている人もいる。必要とされているなら、それは残しておくべきだと思わない?使い方を間違えるのは人間で、その罪は道具にはないと思うわ」

「でも……」

「私が話してもただの言い訳にしかならないけど。発想の転換というものは必要よ。行き詰まっているならなおさらね」

正論を言っているのは平坂先生でしょう。だけどそれを肯定できませんでした。否定もできませんでした。私はどうしたいのか。その答えがいまだ見つかりません。ただ平坂先生は一つの指針を立ててくれたことは分かりました。

そろそろ夕食が近づいているのは確かです。倒れたパイプ椅子を直すと私は扉の前へと歩き出しました。

「私にはまだ分かりません。でもありがとうございました」

「どういたしまして」

メトロノームのように腕を振る平坂先生の前で軽く一礼をすると私は廊下へ進みだしました。窓の外では空が橙色に染まっていき、廊下も燃えるようなまばゆい色となっていました。本当に時間が迫っていました。

私は今まで入っていた部屋の扉をちらりと見ます。そのまま歩き出し、そして駆け出しました。

     

ーーーーーーー

厨房に着いたのは私が一番でした。まだ材料がそろっていないので調理台の前に立ちそれを待ちます。ステンレスの調理台は思った以上にひんやりしていて表面には少し歪んだ私が映っていました。換気扇がぐるぐる回っていましたがそれを止めることを私は忘れていました。

誰かの気配がしてそっと顔を上げるとそれは白崎先輩でした。真っ青な布地に赤字で刷られている龍という文字が目立つシャツが目立ちます。無理やりサイズの大きいものを着ている見たいらしくひざ上まで隠れていて、それしか着ていないように見えましたが、 一応下には短いズボンをはいているみたいです。

見た目は子供そのものですが去年と比べ三センチは伸びたと豪語しています。目に見えた違いはないのですが、私はそのたびに拍手をして、喜んであげました。その動作が白崎先輩には子ども扱いしているように思われているみたいです。結局すねて頬を膨らませてしまいます。

白崎先輩は大きく息をつきながら、歩くたびにビニール袋がこすれあってかさかさと音を立てます。白崎先輩は私の前に買ってきたものを置くと親指を立て向日葵のような笑顔を見せました。

「いっぱい買ってきたよ」

私は隣からそれを覗き込みます。思わずため息が漏れました。こんなことなら私も買出しに付き合っておいたほうが良かったみたいです。

ーーー

とりあえず私がいろいろと工夫をして、定番の料理だけになるのは避けることができました。ただ白崎先輩がやっぱりルーが勿体ないと言いだしました。私は残ったあまり物を駆使してカレーを作ると先輩が手をたたいて喜んでくれました。

先輩が子供っぽいのはその体型だけではなく、その仕草にもあるのでしょう。素直なことはいいことな上に先輩が喜ぶと私もいい気分になります。先輩の素晴らしい才能でしょう。指摘すると多分怒るでしょうが。

夕食の支度を難なく済ませて、みんなして夕食を食べます。ただ同じご飯を食べる仲ですが、私のことを知っているみたいで、たまに学校内ですれ違うとあいさつやお話をしてくれます。

小森さんはやっと生徒会の仕事が板についてきたと話していました。伏見さんは部活でどうやって頭角を現そうか悩んでいるみたいです。矢方さんは彼氏ができたみたいで地に足が着いていませんでした。

ただ適当な集団の端っこで、そこに空きがあるから立っていたような付き合いしかしなかった昔から明らかな変化がありました。いつの間にか私も集団の中にいる。なしくずしてきに入っていたときではなく

春にここに入学してきたよりかは私の交友は広がっています。うわべだけの時とは違い、私との間柄が違う光を帯びている人が格段に増えました。だけど私はどこか物足りない。なんでかは分からないけど、それはわがままというのでしょうか。ふと顔を上げると白崎先輩がこちらを見ていました。

「最近思っちゃうことがある」

「何を?ですか?」

「なんか……このままでいいのかなって」

「先輩と狩屋さんのことですか?」

「ううん」

スプーンを私の前に突き出して、にこりと微笑みます。私のことを言っているのでしょうか?このままでいい?私のこの時間が白崎先輩にはどのように映っているのか。それが私の中でぼんやりと形作っていきます。

「私は別に一人大丈夫です」

「嘘ね」

私よりも数オクターブ高い白崎先輩の声が重苦しく響きます。裁判官がたたく木槌の音のようで私はいやおうなしに黙らさせられます。無邪気なままの白崎先輩だけど確信めいた光を帯びた瞳が私を照らします。

「私が弱いということですか?」

「一人でいられるのと弱いというのは違うと思う」

別のグループの喧騒がいつまでも響いているのに、白崎先輩の言葉は私を縛りました。白崎先輩は難しい顔をしている私の前で自信ありげに柔らかい笑みをこぼしています。望遠鏡のようなその瞳に見透かされているのは、胸がうずきます。

だけど白崎先輩の言葉に導かれるように私は考えていました。今の私は昔と比べてよい境遇であるのは間違いありません。今は友達もいる。その友達だって、私といると喜んでくれるし、白崎先輩だって、私の傍に居る。

私は昔とは違う。おばあちゃんを失い、家を捨て、何もかもを捨てたあの時とは違う。だけど私は白崎先輩の言葉に、どうして一人と答えてしまったのでしょう。一人ではないはずなのに、私は自分が一人だと気づいているような答え方をしてしまった。

何か物足りないと思い、心の底では不満だった。このままではいけないということに一人で大丈夫だと答えた私は、一人だと何時も感じていたのでしょうか。カレーに目を落とす私の上から白崎先輩が言葉を投げかけます。

「愛情ってね一方通行だと思う。みんなは葵ちゃんのことが好きでその思いを向けているとは思うよ。だけどさ。葵ちゃんは自分の思いを向ける人がいないのじゃない?」

「別にそんなわけでは……」

「葵ちゃんだってもう分かっているはずだよ。自分の本音。それを自分で押しつぶすのは勿体ない。葵ちゃんはもう少し素直になったらいいじゃない?今のままだと頭の中でも敬語を使い続けちゃうよ」

白崎先輩は身をのりだして私に向かって手を伸ばします。肩を叩きたかったのかもしれませんが、手が届かなかったのか私の頭を叩きます。励ましたかったのかもしれませんが、全力で叩いているので正直痛かったです。

だけど白崎先輩が私を支えてくれているという思いが伝わってきました。でも私は複雑です。自分の思いを白崎先輩には向けることができない。白崎先輩の思いが私はやや重たかった。

私が思いを向けられる人はここにはもういません。それを白崎先輩も分かっているはずなのに、どうして……。

「私から言えることはそれだけ」

苦笑まじりに私の表情を柔らかくしようとしましたが、私はそれに答えることができませんでした。

コップの水を乱暴に飲み干して、白崎先輩はむせました。乱れた息を深呼吸で整え、ズボンをまさぐると、一枚の紙を私に差し出します。住所と電話番号ということは分かるのですがそれが何を意味するのかは分かりませんでした。

「これ。香矢が入院している病院の場所」

何か考える前に無造作にそれを掴みました。呆然とそれを眺めていてはっと息を呑むと、それをはらりと落とします。

「あいつだって一人なのだから、行ってあげたら?

「先輩は行かないのですか?」

ひらひらと舞い降り、ひざ上に落ちたその紙を見て私の頭の中は白く塗りつぶされていきました。その紙が示している現実を認められなくて胸が締め付けられるようでした。

「あなたが行くことに意味があると思う。というのは建て前ね」

私が首をかしげると白崎先輩はスプーンを置きました。コップを持ち、中の水を傾けながら話します。頬杖をついてそっぽを向きながら、レンズのような瞳で窓の向こうを眺めています。私はその横顔を眺めていました。

「本当は?」

「香矢にはあまり会いたくないということかな?」

白崎先輩はまたスプーンを持ちカレーに手をつけ始めます。半分ほどしか手をつけていないカレーライスはもう冷めていて、白崎先輩は苦笑いを浮かべています。見れば人の半分はもう食堂からいなくなっていました。

「私さ、相手が満足するなら自分がどうなってもいいって思っていた。だってその間はずっと私を見てくれるっていう考えが強くなっていた。いつの間にか捨てられることが怖くなっていたから」

白崎先輩はやや自嘲気味に笑いました。かちゃかちゃとスプーンの先を皿の上に走らせ、淀んだ空気をまぎらわすようにしています。

「正直香矢のことずっと憎んでいた。葵ちゃんに近づいたのも多分自分の利益だろうって思っていたし、それが終わると簡単に葵ちゃんを捨てちゃうのでしょ?って思っていた。香矢がそういうつもりがなくてもね」

「先輩……」

「でも香矢のこと少しは心配している。だけど私はどうすることもできない。できることは助け船をだすぐらいかな?香矢にも、香矢を思っている人にもね」

白崎先輩が立ち上がります。お腹に龍と印字されていた白崎先輩の背後には虎の文字が印刷されていました。私は白崎先輩の言葉を思い出し、自分の中でそれを形あるものにしようと頑張っていました。

物足りないと思いながらも、それをお手玉のように扱いながら過ごしていた。それはもうどうしようもないということが分かっていたからで、ずっと耐えるぐらいしかないと思っていた。

でもそれは間違いだったのだろうか?待っているだけでは何も変わらない。耐えることが嫌なら自分から向かえばいいのだろうか?

周りには人がまだいます。私はその人が頭に入ってきませんでした。食べかけの夕食を前に自分の中で自分を知ろうとしています。目だけは刺激を求めて右往左往していました。食堂の窓ガラスの向こうでは動かない私とは違って、木々が左右に身体を躍らせています。

その枝葉の隙間から一瞬だけ見える梟の影の数を呆然とかぞえ、私が自分の今をどう評価しているのか考えていました。まだ分からない。でもその答えが知りたくて、私は決心をつけ、立ち上がりました。

     

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時間をかけて化粧をして、鏡の前に立つと少しだけ気恥ずかしかったです。化粧だけではなく、服も時間をかけて選びました。取っておきを着て、何か違和感がないかをざっとながめ心の中でよしと一回呟きました。

別にこういうことをする必要はないと思います。ですが緊張しているということを少しでも紛わすためには、おめかしでもしてみようという、単なる気まぐれでした。机の上に置いてある時計を見て時間を確認します。

「よし」

声で一回呟いて私は出かけることにしました。

寮を抜けてバスに乗り、揺られること数十分。本でも持って来ればよかったかなと軽く後悔し始めたときにやっと目的の場所にバスが止まりました。軽く伸びをしながら呼吸をすると少しだけ胸が重たくなりました。

白い壁の頂点に赤い十字が目立つその病院は、学校と同じくらい自然の中にあります。肌が馴染まないこの場所を建物に沿って歩きます。入り口を抜けて受付に入ると、鼻をくすぐるような消毒液と包帯の匂い。私が病院にやってきたのだということをわからせてくれました。

奇妙な視線を受けているような気がします。受付の椅子に座っている人たちが、私を患者を見るような目つきで見ているからだと思います。この包帯ではしょうがないことでしょうが。受付で用件を告げると事務的な態度で目的の場所を教えてくれました。

受付を抜けて別の建物を目指します。そのための渡り廊下を歩いているときに前から見知った影が言い争いをしているのを見つけました。私が声をかける前にその二人が私に気づき手を降りました。

「葵さん」

「こんにちは。大都井先輩、それと狩屋さん」

さっきまで陰険な目つきでにらみ合っていた二人でしたが、私を見ると片方はにこやかに、片方は無粋に私を見つめます。大都井さんは笑いながら眼鏡を直します。だけど少しだけばつが悪そうでした。いい争いを見られたというよりも、この場にいるということに居心地の悪さを感じているようです。

「今日は?何しに?」

大都井先輩の隣でそっぽを向いていた狩屋さんがつんとした口調で私に問いかけました。私は口を開こうかどうか迷ってしまい、はにかんだ笑みで会話を濁しました。狩屋さんは鼻で私の反応を笑いましたが、大都井さんのつっこみが狩屋さんのみぞおちを捕らえました。

前に聞いた話ですと狩屋さんと大都井先輩は同じ中学で悪友同士だったみたいです。大都井先輩がそこを卒業してしまってからは連絡を滞らせていたようでしたけど、同じ高校に進んだことでまた再開したとのことです。

ただそこで大都井先輩が一年間育て続けた片思いを狩屋さんに打ち明けたところ、今回の事態に巻き込まれたとのことです。狩屋さんにしては好意のようでしたが結果は見ての通りです。大都井先輩と調理場に入ったときにそのことを打ち明けてくれました。

私を無視してまた言い争いを続けている二人の前で小さく息をこぼします。目の前にしか頭がないように、言い争う二人でしたが、小さい声を維持していることを考えると悪友と言う表現はぴったりでした。

「今日は志工先輩のお見舞いです」

狩屋さんが分かりきった顔で、ほくそえみながらこちらを見ていましたが、私はにこやかに笑い返しました。大都井先輩は口元を隠しながら何度か頷いていました。しかしどこが、目元に深い影が被っているような感じでした。

私の心の変わりようにどう答えていいのか分からない。そういう難解さが手に取るように分かりました。

「志工先輩は?」

「さぁ?私はまだ見ていないし。でも瑞句は見ているのでしょ?」

狩屋さんはへその辺りに大きなポケットのついたワンピースを着ていました。そのポケットに手を突っ込んでいます。そしてにやついたまま右目だけを開き、その右目は大都井先輩を捕らえていました。

カチコチと時計の音が聞こえているような気がします。沈黙であることを認めたくない私の幻聴でしょうか?

大都井先輩は口をもごもごしている。目線は宙をさまよっていて言葉を探しています。私にどう不安がらせずに話そうか。そう考えるのを微塵にもぶれずに伝わってくる必死さが私から見ても気の毒でした。

「すみません。私が直接確認してみます」

大都井さんを煩わせる必要はないでしょう。もともと私は一人でここに来て、自分の目で確認するために来たのだから。私はそのまま二人の間を割って、先に進むことにしました。大都井さんが私の手を掴もうとしましたが、私はそれをはらりと避けると二人から距離をおきます。

「私もついていく」

ひょいっと、かかとで床を叩いて狩屋さんが私の横まで一飛びしてきました。その顔はとても愉快そうでした。不意を突かれたことによる大都井先輩の声が、破裂するようにこちらに走ってきます。

「別に二人一緒に行く必要はないのじゃない?」

「瑞句には関係ないじゃない。じゃあ行こうよ」


ーーー

多分ですが、狩屋さんは私に話があるから私についてきたのでしょう。エレベーターの中で無言のまま、私の隣に立っている彼女を見て、私はそう確信しました。大都井先輩の隣では口に出せない話は私も少し興味があります。 

「志工がさ……。何で退院できないか分かる?」

志工先輩の病室へ続く廊下を歩いていると、後ろから狩屋さんが私を呼びました。進むたびに私の歩幅が短くなっていたことに見てみぬ振りをしています。まだポケットに両手を入れたまま、小さく息をつくと近くの壁に寄りかかりました。

病院の明るすぎる照明の下で狩屋さんの表情が浮き彫りになります。狩屋さんもどこか疲れた顔をしていて、それを隠そうと努力しているのがより一層疲れを浮き彫りにさせていました。

そして私もこころなしか息苦しいようです。私が認めたくなかったものに近づくにつれて、心臓の鼓動が増していくようでした。

狩屋さんの話は、私が触れたくなかったことに一歩近づくということを意味しています。私が知りたくなかったこと。認めたくなかったことを狩屋さんが知っている。私はこのまま彼女の話を聞いていいのか躊躇しました。

しかし狩屋さんは私のためらいを無視して口を開きました。ほとんど独り言のようなものです。私は半ば諦めて近くでその話しに耳を傾けることにしました。他人とも知り合いとも取れるような曖昧な距離を保ち、白い廊下に黒い影で縞模様を作ります。

「怪我はもうほとんど完治している。あの山肌を転げ落ちて重傷だっただけでも幸運すぎるくらい。まぁ発見が早まったのは瑞句の功績らしいけど」

報告を述べるように天井に向かってしゃべる狩屋さんの隣で私はゆっくりとあのときのことを思い出していました。ちくりと包帯の傷が痛みましたが気のせいだと割り切ります。

志工先輩と坂堂先輩が争った後で、何かを悟った志工先輩が自分たちの前から消えようとした。山の崖に身を投げたようです。私は覚えていません。覚えていないからそのとき志工先輩が何を考えていたのかが分からず、それがとても悲しかったです。

ただ幸運にも志工先輩は発見されました。聞くだけでおぞましいような怪我をしていながらも、大都井先輩と平坂先生が見つけてくれたらしいです。おそらくそれがなかったら発見が遅れていたでしょう。

そして、志工先輩はまだ生きている。それは幸運でしょう。幸運だと受け止めている私の隣で狩屋さんは皮肉めいた目をしています。

「だけど塞ぎこんでいるみたい。精神的に参っているという言葉が一番しっくり来る」

「そうですか……」

「ねぇ?それを聞いてもまだお見舞いに行くの?」

子供が素朴な疑問を投げかけているように狩屋さんが私に聞きます。途中、車椅子にのった子供や、松葉杖をついている老人が私たちの隣を通り過ぎました。志工先輩もそのような様子なのでしょうか?いや違う。そんなくらいで終わっていればよかったのに。

志工先輩の怪我が精神的にも及んでいるというのは私も知っていました。それを知っているからこそ、志工先輩には会えなかった。変わり果てた志工先輩を見て失望してしまう自分が怖かったかもしれない。だけどいつまでも怖がっている暇はない。

力強く頷く私の隣で狩屋さんは空気を抜くためだけのようなため息を一つ。狩屋さんが尋ねたのも私を心配してではなく、単に無駄なことをしようとしている私に呆れているからです。

「私は志工のこと嫌い。私が欲しかった人を持っていながらその人を捨てたんだもん」

「そんな子供っぽく言わなくても」

「子供でいい。私は結構欲張りなの。欲しいものは何が何でも欲しいって思っていた。だけど私の欲しいものは絶対手に入らないものなの。少なくとも私が私である以上」

小さく息をつき、狩屋さんは目を閉じます。狩屋さんの言葉は天井辺りをふわふわと漂い、煙草の煙のように消えていきました。指先ほどに残るその残滓を前に、狩屋さんは眉をひそめます。

「だから私は自分を取り繕うしかなかった。自分の欲を満たすために趣味に逃げたり、自分の気持ちを隠しながら生きていけばそれでよかった。思織と会うまではね」

狩屋さんの話しは私に伝わらせるものではないようです。自分で自分を言い聞かせている。そのような気がしました。だけど私は理解できます。自分を取り繕っているのは狩屋さんだけではないから。

「どうしても思織が欲しかった。瑞句を前にしても湧き上がってこなかった情熱が私の冷静さを軽く凌駕した。だから思織の意志を捻じ曲げても、思織がいとおしくて、そのためにあの手段に走った。私が生きる道はそれ以外にないって思ったから」

狩屋さんの話しは初めて聞きます。だけど私には親近感がありました。多分私も昔に同じような思いを抱いていたから。決まった他人にしか心を開けなかった私は、その人と仲良くなるというよりもその人を利用するとしてしか考えていなかったから。

そう自分が思うことは他人に何一つ迷惑をかけていない。だから私を志工先輩の妹として扱おうとした坂堂先輩のことを許せないわけではありません。けれど今回はそういう考えが現状を引き起こしたのでしょう。狩屋さんもうすうすそれを気づいているのだと思います。

「それがいけないと思ったことはない。今も、これからも。でも最後のあのときの志工の方が正直な生き方なんだなって思った。私がやろうとしていたことが私の幸せに直結するのかということがそのとき疑問に思った。だからって自分が消えたいとか発想さえなかったけど」

つま先で軽くリズムを取り、話の調子を合わせています。私はただ狩屋さんの話を聞いていました。狩屋さんは口を開いたまま、気を紛わしたいのか頭をふります。夏みかんのような少し甘酸っぱい香に、ここが病院であることを忘れてしまいそうでした。

「今回のことを話したのも葵と、それに対する贖罪ということ。私と坂堂が目をつけなければ葵は巻き込まれなかった。私があなたの部屋を訪れて、坂堂のところにまで連れ出したのが始まりだったから。だからごめんなさい」

「今はもういいの?白崎先輩を犠牲にしなくても」

「思織がさ……。本当は思織を私の望みどおりに変えちゃおうと思ったけど……。あの後話したの。思織が私のためにその身を投げ出してくれるなら、それが思織の本望でもある。だけど私の思い通りに思織を操って、それでいい気になっていても私は一人なのではないか?
私という殻に篭っているだけでそれは変わらない。だけどそれでもいいのなら私は傍にいる。そう話してくれた。そして私はやめた。どっちにしろ思織は傍に居てくれるの。瑞句とは違ってね」

思い出し笑いのように笑い声をこらえながら、狩屋さんは口元を手で覆います。くぐもった笑い声の後に私のほうへぱっと振り向くと、自分に付きまとっていた雰囲気を振り払うかのように話しだしました。狩屋さんらしくない。だけど話し方はどこか気持ちよさそうです。

「でも最近瑞句が私の顔を見たら声をかけるのよ。ちゃんと授業には出席しているかとか、思織に迷惑かけてないとか、肉体言語を使っていないかとか?いつから私の保護者になったっていうの。全く。平坂といい、眼中になかった二人が邪魔をするなんて、あの二人には一杯くわされたよ」

そういう狩屋さんははがゆそうに苦笑いを浮かべていました。ただそれでもふっきれたような顔つきをしています。しばらく狩屋さんは私と目線を合わせながら、話し続け、狩屋さんが口を閉じます。

にらめっこをしているわけではないのになぜかそうなってしまい、二人とも堰を切ったように笑い出しました。

ここが病院ということは覚えていますがそれでも笑うことをやめることはできなかったです。まぁ笑うのは人を元気にさせるから大丈夫でしょう。


狩屋さんは腹を曲げてまで笑っていて、乱れた服を直します。手際いいその動作の前で私はまだ笑っていました。狩屋さんとはよく白崎先輩を仲介にして相対したこともありましたが、こう二人で笑いあったのはこれが初めてでした。

「言いたいことはそれだけ。私はもう帰る。ここには元々来るつもりじゃなかったし」

服の乱れを直し、軽く頭を揺らす狩屋さんに窓から光が降り注ぎます。私にだけ不敵を思えるような笑みを見せながらこちらを見てきます。

服装もあいまって、絵本の中に出てくる意地悪な、だけど思いやりのある婆さんのような、イメージがまず思い浮かびました。口には出さないでおきましょう。

「ねぇ。最後に一言いい?あの時さ、本当に志工の妹さんの記憶が戻っていたの?」

「すみません。あまり覚えていないです」

舌を出してごまかす私を見て、狩屋さんは舌打ちをすると、きびすを返して元を歩いていた道を引き返していきました。たぶん入り口では大都井先輩が待っているのでしょう。そしてまた言い争いを繰り返しながら帰るのだろう。

なんだかんだいって仲がいい二人のようです。狩屋さんの背中を見ているとそれが良く分かりました。狩屋さんも、本人が言うように少しだけ自分を周囲に表現するようになったのでしょう。

ちょっぴりうらやましかったです。みんないい方向に変わっている。私も変わっていると思ったものの、みんなよりもそれは少ない。けどそれは周りが悪いからなのではなく、私が変わろうとしなかったからだと思います。

私は振り返ると前へと進みだしました。

       

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