ノックの音をかき消す喧騒も今はもうない。
「――どうぞ」
アリスの声はいつも通りだし、機嫌も良ければいいなどとユウトは勝手な願いを込めてノブを捻った。
「俺だよ」
「知ってたわよ」
ユウトがどこに落ち着こうか考えているときにアリスは言った。
「今までユウトは何回この部屋に来たと思う?」
「さあ」
「普通は数えないわよね、でも私は数えてた」
それが何を意味するのか、ユウトにはわからない。
「研究室に行きましょ。しばらく何もしてないからきっと大変なことになってるわ」
「え、でも研究室はもう……」
「いいから、行くのよ」
廊下で先陣を切って歩くアリス。
「そういえば、しばらくシーナもスーシィもあのルーシェって子もいないの?」
「あ、うん。ルーシェはわからないけど、他はみんな出払っちゃったな」
「……そう」
それきり何も言わずにただ重たい沈黙が流れる空間を二人はひたすらに進んで行った。
「…………」
「意外と早く着いたな」
奥まった廊下の先で一つの扉を前に二人が立ち止まる。
ゆっくりと押し開けると油の切れた蝶番がぎいぎいと高鳴り、古くさい本の臭いが鼻腔を突くのがわかる。
「案の定、酷い有様ね」
アリスはそんな中をマントや制服が汚れるのも構わずに丁寧に散らかった本を片付けていく。
「これと、これは……」
「そういえばここにある本、アリスはこの本を集めたりしたのか?」
ユウトは埃まみれのアリスへ遠巻きに問いかける。
「そうよ、入学してからずっとね」
最初に来たときはただの散らかった部屋にしか思わなかったが、よく見ると後ろの本棚は奥に連なっており、本棚だけでも軽く十はあった。
数十人入っても狭くないようなスペースの部屋に本棚が十架とは、ユウトにはアリスの努力が一体どれほどのものだったのか、想像もつかない。
「一体何をこんなに研究してたんだ?」
「…………」
無視というわけではないようだが、言いたくないことなのだろうか。
ユウトはアリスの体に刻まれた呪術も含めて、何か繋がりがあることを期待したのかもしれない。
しかし、それは意外な一言で打ち消される。
「ここで調べていたことは、全部魔法とは関係ない」
「…………?」
それに、とアリスは続ける。
「もう知りたいことは見つかったから」
アリスの表情はよくわからないが、どこか気の抜けた諦めのような音が紡がれた。
「知りたいことって?」
ユウトは尚も問わずにいられない。アリスがどこか遠くにいるような気がしたのだ。
「あんまり意味のないこと。知ったところでどうにもならないし、私が選ぶわけじゃないし、ただ――」
そうねと言った時、アリスは小さくくしゃみをした。
「っあんた元の世界に戻れるっていったらどうする?」
足下が崩壊したような動揺がユウトを襲った。
それは、魅力的なのか、または蠱惑的なのか。一瞬のうちに頭がスパークしてしまったかのようにユウトはそのまま答えることができないでいた。
「戻りたいか、戻りたくないか。簡単でしょ」
簡単なわけがない、とユウトは強く思う。五年の歳月はユウトにこの世界も許容できる心を抱かせてしまった。
同時に元の世界に未練がないというのは嘘だった。父も母も今は恋しいし、それを想い何度涙をしたことかもわからない。
「本当に、戻れるのか?」「ええ、戻れるわ」
「今すぐにでも?」「……必要ならいつでもよ」
そんなことを今更言うのかとユウトには黒い感情も同時に沸いた。
「せめて最初のうちに戻すとかできなかったのか」
するとアリスは一瞬声を震わせる。
「それが、一番だったかもしれないわね」
「……ごめん、何いってんだ俺」
間をつなぐように手伝うと言ったユウトの言葉は端的に断られる。
最初のうちに戻す方法なんか知っていたら足手纏いと感じた時、訓練所なんかに送らずそのまま戻していたはずだ。
つまりは、あの時点ではわからず、今になってわかったことなのだろうとユウトもようやく冷静な頭が戻ってくる。
アリスの片付けは夕暮まで続き、後半はユウトも雑巾がけなどやっていた。
「それじゃ、ご飯にするわよ」
「?」
ユウトには理解できない。アリスが今までユウトを食事に誘ったのは雨の日(ヴォワ・マンジェ)と呼ばれる使い魔の追悼日だけだ。
それもただの一度だけで、それ以降はない。
「何変な顔してるの? 生徒はほとんど出払ってるんだから自炊するのが当然よ」
「ああ、なるほど……え? 出来るのか?」
「なっ――あんたねぇ……」
万年居残り組だとしてもそれを公に自慢するわけにもいかず、当然でしょの一言でアリスは語った。
制服から私服に着替えたアリスはユウトと共に調理室に向かう。
誰にも会わない学園内はまるで別世界だとユウトは思う。
日はとうに沈み、廊下を照らす光りはいつもより数段うす暗い。
「薄気味悪くないか」
「いつものことでしょ」
アリスが手際良く調理を始めると、ユウトはどうしていいのかわからなくなってしまう。
「あんた、まさか何もしないで食事にありつこうとか考えてないでしょうね」
「いや、そんなことはないけど」
「なに?」
アリスはまじまじと見られていたせいか、怪訝な表情をみせる。
「何をしたらいい?」
「そうね……食器でも出して」
ユウトが食器棚から帰ってきた頃に、アリスはいよいよ怖い表情で料理を火に通していた。
あまりに真剣なその顔は逆に不得意なものに挑む姿に似ている。
「よし、できた」
一連の動作はいったりきたりの非効率なものだったが、出来映えは上々だった。
ユウトの選んできた食器は少し大きかったようで、返って料理が強調される盛りつけになる。
「この料理名は?」
見たところ、何一つのアクセントもなく、食材は全てみじん切りで火を通しただけの山だった。
「……あえていうなら混ぜものよ」
「確かに……」
それはつまり創作を意味していた。ユウトの世界でいうならチャーハンかもしれない。
アリスと二人きりの食事というのもなんだか妙なことだったが、ユウトは不思議と嫌には思わなかった。
それでも一口二口と口に運んでいるうちに食器は空になってしまう。
「ごちそうさま」
ユウトはとりあえず、この料理に及第点をつけることにする。
味は謎の味覚祭りが舌の上で起こるのだが、それぞれの食材が絶妙な焼き加減でまずくはない。
ただ、この多種に渡る野菜をもう少しなくして、わずかな味のメリハリをつければユウトとしても充分納得できるものになるだろうと心の中で評価した。
「どうだった?」
しかし、目の前の少女はそれを暴露しろと言う。
ユウトはこれを包み隠さず言った後のことを考えて、どうするべきか悩んだ。
「これは……」
「これは?」
「旨いと思う」
自然と口から出たのはそんな言葉だった。
というのも、ユウトはこの味に努力の深さを見た気がしたからだ。
この料理を普通と言ってしまうのは簡単だ。だが、ユウトは何の知識もない状態から生み出す普通を普通とは呼ばないことを知っている。
「それ、嘘でしょ」
「え?」
「私、これがおいしいとは思ってない。ただ、これ以上のものが作れないから仕方なくこれだけを作ってるのよ。本当においしいっていうならあんたの舌がおかしいのかもね」
アリスは自嘲気味だった。
生徒がいなくなって、肩肘を張る必要がなくなったのがアリスをそうさせたのかもしれない。
それでもユウトはそんなアリスは見たくないと思ってしまう。
「…………これが、おいしくないなんて、そんなのあり得ない」
低い声が静寂を揺らす。
「……あによ」
「努力して得たものが、例え一級品じゃなくたってそれは立派な一品だっ。それがまずいはずがない!」
あれだけの種類の野菜に均等な火加減を加えることは一朝一夕にできることではない。
それがわかってしまったユウトはその努力をゼロと評価するアリスに腹立った。
ユウトはアリスが目を白黒させているのを見て我に返る。
「ご、ごめん、別にアリスの料理のことを言いたかったわけじゃないんだ」
「いい、わかってるわよ」
アリスはどこかよそよそしく食器を片付け始めた。
こんな料理であんなに息巻くなんてバカじゃないの……アリスはそう思いながらも動揺を隠しきれずにいた。
自分をそんな風に見てくれるヤツがいる、それだけでアリスは嬉しくなるのだった。
部屋に戻るとアリスはこんなことを言い出した。
「暇だからちょっと付き合いなさいよ」
普段なら絶対に言わないような誘いをアリスからしてきたので、ユウトは少なからず裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
剣を部屋に置きに戻ると、ルーシェがいた。
「ルーシェ? 今までどうしてたんだ」
「……後にっていうからその辺を散歩してたよ。今は暇?」
これからアリスの部屋にいくことを告げると、ルーシェの眉はわずかに動いた。
しかしそれは廊下の薄暗い明かりのせいだったかもしれない。
「それじゃあ、おやすみなさい」
また明日とルーシェは背を向けて駆けていく。
そういえば、ルーシェはどうして学園が休みになっても残っているのだろうか。
まさか、本当に学園を辞めた扱いになっているのではないかと考えた頃にはルーシェの姿は廊下の角に消えていた。
身支度を済ませたユウトは普段なら行く理由もないアリスの部屋を叩いた。
「空いてるわ」
いつも通りのアリスの声がユウトの背中を押す。
正直、アリスの寝間着姿はジャポルで負傷した時以来見ていない。
ネグリジェの下には純白の下着が着込んであるのが見える。
前もそうだったかと思い出そうとしても記憶にない。
「寝る前で悪いんだけど、あんたに来て貰ったのはちょっとした実力を見るためだから」
「実力?」
「そ、まぁスーシィから教えて貰ったんだけどね」
そういって取り出したのは金色のボールだった。
「ちょっとこっちにきなさい」
ユウトはおもむろに頭の毛を抜かれる。
「――いっ」
「これをこうして……」
手のひらほどの玉は綺麗な黄金色だが、アリスがなにやら手を加えると独りでに地面へ降り立った。
『使い魔の実力判定をします――ターゲットは所定の位置についてください』
「その金色のボールを破壊すればいいだけよ」
「え、急にそんなこと言われてもな……」
『タイプ、人間型。種族、不明。特性、不明。判断基準が存在しないため、ステージ5より判定を開始します』
するとボールはユウトの足下まで勝手に跳ねてくる。
足下から目の前まで上下に跳ねるボールはまるで取られるのを待っているかのようだ。
「これを壊していいのか?」
「ええ、気兼ねなんていらないらしいわ」
ユウトは剣を置いてきたので、とりあえず素手でこのボールに接触を試みる。
ばしゅっと空気を裂くユウトの右腕がボールの軌道を捉えた。
『スピード判定、Cクラス。ステージ7に移行します』
ぐおおおんとユウトの手の内にあったボールは音を上げて外へ出る。
三回その場で跳ねると、今度はユウトの周囲を飛び回るように跳ね出す。
その軌道は物理法則から外れたもので、向こうへ行ったと思えば後ろから出てくるような具合に速いというより、瞬間的に移動しているようだった。
ユウトは瞬時に目で追うことをやめる。
漠然とした軌道の中心を見極めて、そこを訪れるタイミングで拳を突き出すだけだ。
ばきという音がアリスの部屋に響く。
「っきゃ――」
破片はアリスのいるベッドの方まで撥ねたようだ。
『パワー判定、Aクラス。ステージ9に移行します』
「さっきからこのクラスってなんだ」
「今だとそうね、3の使い魔と同等ってことらしいわ。スーシィの見立てではあんたはその上の4ってことらしいけど、なんかだめみたいね……」
期待はずれということだろうか。ユウトはもう少し真剣になろうとする。
金色の玉はビーズのように細かく分裂し、無尽蔵に動き回っている。
どんな動きでこようとまとめてたたき壊すという気概とは裏腹におかしな声が上がった。
『全部でいくつあるか、答えなさい』
「――は?」
これを数えろと言うのだろうか。まるで数の子のようにひしめく玉は肉眼では捉えきれない。
百……二百……、ユウトはそれでも期待に応えるべくその動きを把握しながら数を数えるが、途端に光りは集束して一つになる。
「さんびゃ――」
『時間切れです』
「えぇっ!」
「ふぅ、終わったみたいね」
アリスは地面に転がったそれを拾い上げると机の中にしまった。
「結果は……?」
「全部言ってたでしょ。あれが全てよ」
3の使い魔止まりということという事実を突きつけられたようでユウトは少し悔しい。
「こういうの何ていうのかしら、修行不足?」
「うっ――」
「それじゃ、もう寝るから出て行って」
結局寝る前に変な汗をかいただけになったなとユウトはアリスの部屋を後にして思った。
ユウトのいなくなった部屋でアリスは机の中のものを取り出す。
先ほどしまった黄金の玉は未だ光り続けたままだった。
『契約解除における存命時間を算出します――』
アリスの部屋で、一つの声が響き渡った。
「…………やっぱりやめよう」
アリスはそっとその魔導具をしまった。ユウトの実力を正確に分析したところで、使い魔として新しい主を捜すのには時間が必要だった。
アリスは部屋の明かりを消して、そっとネグリジェの下の不格好なシャツをまくり上げる。浮かび上がった魔法陣をアリスは見ていた。
空の大きな月明かりがアリスの部屋に冷たい光りを差し込んでいった。