一. ユウジ
――ブツン。テレビの画面は、電子的な音を立てて暗くなる。
ボクは、このうるさいニュースを消した。
なにぶん意味がわからない。
ニュースの内容もそうだが、司会者はしゃべりすぎだし、話はなんか無茶苦茶だし、なにより自分の意見を主張しすぎだと思う。気に染まない。
解説者も解説者だ。小学六年生の自分にはわからないような単語が多いし、説明がちっとも理解できない。まずそれを解説して欲しい。ていうかマスターベーションってなにさ。
分からないことだらけだ。ゲストもなんか濃いし。
「……くぅ」
だからボクは、朝から気分が悪かった。
朝食を今日は奮発してトーストではなく、白ご飯とみそ汁、目玉焼き、おまけにウィンナーまでつけた満腹料理にしたっていうのに、今朝のニュースで完璧に食欲を害されてしまった。
「はぁ……。残すのは、もったいないよね」
せっかく張り切って作ったんだし、残さず食べようと思った。それは使命感みたいなものだ。
勢いに任せ、残りのご飯とみそ汁を喉にかっこむ。
少し見苦しいが、別に構わない。
周りに家族なんかがいると、「こらユウジッ、ご飯ぐらいゆっくり食べなさいっ」とか何とかありきたりな台詞も飛ぶんだろうけど、生憎この席にはボク一人だけだ。気にすることはない。
どうせいつも朝は一人なのだ。
「……ふぅ」
ちょっとさもしい気分になりながらも、食べ終わった食器を片付ける。
久しぶりに朝から料理をしたので洗い物は多いが、今は午前六時半。いつも家を出るのが七時半だから、まだまだ余裕がある。この分ならかなり時間が空きそうだ。
「……冷たい」
ジャブジャブとお椀を洗う。
六月も終わりに近づいているせいか、家の熱い空気の中で、蛇口から流れる真っ直ぐな水は肌に触れると気持ちがいい。ついつい水を長く出しっぱなしにしてしまう。
その行為に軽く自省をしながらも、早く済ませようと手を速めた。
「ほっ、よっ、はっ――」
ご飯、みそ汁のお椀、目玉焼きとウィンナーの皿、そして鍋、おたま、包丁、まな板と、順々に洗っていく。洗剤を流せば、あとは乾燥機に入れるだけだ。
「はい、おしまいっ」
食器洗い乾燥機のレバーをかちり。タイマーを二十分にセットする。さぁ終わった。
洗い物を手早く済ませると、やはり少し時間が余る。時計の針は七時十分前。テレビはもう観る気がないし、洗濯物は昨日の夜干した。掃除は時間がかかるから無理だし、
「…………」
としたら、あとやることといったら―――、
「母さん、起きてるかな……」
期待はできないけど、この家でたった一人の家族、かあさんに朝ごはんを食べてもらおう。
かあさんの部屋がある、二階への階段を上る。二階建てのマイホームという、二人家族、しかも母子家庭には少し、いや、かなり広い家なのだが、いろいろ事情があって、ボクはこんな贅沢な家で暮らすことができている。私室も二人と言わず、六人くらいの部屋が二階だけでもあるくらいだから、もう子ども部屋とかなんとかその辺は全然困ってない。でも広いから掃除は大変だ。本当に。
そういえば、最近は掃除をしてないな。無駄に大きいから一日かけても全部は掃除しきれないから、必然とほったらかしの箇所なんかは出てくる。最近二階は手付かずだったから、少し汚れが溜まっているかもしれない。うん、今度の休みに二階の大掃除でもしよう。
そうして廊下の溜まっている埃を少し気にしている内に、あっという間に一番奥の部屋、かあさんの寝室に辿り着いてしまった。
「……う」
とまぁドアの前まで来たものの、少し、怖気づいてしまう。
いつもは起こしになんて来ない。
かあさんはたいてい昼まで寝ているし、朝食というか昼食というか、それは朝ボクが作っておいて、起きたときに勝手に食べてもらっている。だからこんな時間に起きているわけはないし、起こしに行ったっていい迷惑なだけなのだが、
「――たまには一緒に、ごはん、食べてもらいたいし」
みたいなささやかな願いがあったりする。
かくいう自分は既に食べてしまっているのだが、そういうことじゃないのだ。
朝の時間を、起きていてくれたらでいい。一緒に過ごしたい。
今日は登校までにまだ時間があるし、ごはんだっておいしく作れた。
よかったらでいい。よかったらでいいから、だから――
「よしっ」
軽く深呼吸して、つるつるした木のドアをノックした。コンコンっと、乾いた音が静かな廊下に響いていく。
「かあさん、起きてる? ユウジだけど、入っていい?」
二人しか住んでないのに名のっても意味ないよな、と内心ちょっと苦笑しながら、扉の向こうの反応を待った。
「…………」
返事はない。やはりまだ寝ているのか。
どうしようか迷ったが、ドアの取っ手を握ると、鍵が開いていたので、
「――は、入るよ、かあさん」
思い切って、中に入ってみた。
「――――」
まず見えたのは闇。
入った部屋は、とっても暗かった。
カーテンは二重に全て閉め切られていて、一片の日の光も通していない。部屋の電灯も豆電球さえついておらず、完全に真っ暗。この部屋は朝でいて夜の世界のようだった。
その夜の世界の隅っこ、一際大きなベットの上に、この部屋の主はいた。
「あ……」
寝ていた。
毛布にくるまって、顔は見えないが横になっている。残念だけど、間違いはない。
(……そっか、仕方ないよね)
昨日もあまり顔色はよくなかった。もしかすると体調が悪いのかもしれない。
疲れているんだ。そっとしておこう。
そんな昨夜のことを思い出しながら部屋を出た。音を出さないように、静かにドアを閉める。キィっという金具のこすれる音が邪魔だったが、このくらいの音ならたぶん起こしてしまうこともないだろう。
――と、
「えっ?」
いきなり閉めようとしたドアが動かなくなった。いや、止められた。
大人にしては小さく、そして細く白い手のひらで。
「か、かあさん!?」
そこに寝巻き姿の若い女性、くり江という母親がドアの向こうに立っていた。
虚ろな目は、寝起きを物語っていて、黒いショートの髪も寝癖で乱れている。寝巻きは上下ともに白のシャツとズボンで、この白い肌にとても合っている気がした。
なんというか、その姿は、後ろの暗い世界には似合わないなと、唐突に思った。
「おはよう、ユウちゃん」
その抑揚のない声で、我に返った。
ボクはなぜか焦ってしまって、たどたどしく挨拶をする。
「お、おはよう、かあさん」
そして、しばらく見つめ合ってしまった。
「――」「――」
気まずい沈黙。えもいわれない空気がボクと母さんの間に突っ走る。
「ご、ごめんなさい。もしかして、ボクが起こしちゃった?」
咄嗟に出た言葉に、かあさんは少し背後に目を逸らして、
「いや、ちがうわ。さっきユウちゃんが来るちょっと前に、実は起きてたの。――こっちこそ、せっかく起こしに来てくれたのに、ごめんなさい」
こちらに向き直り、再びトロンとした目でボクを見つめてきた。少し気恥ずかしくなって、頬が熱くなるのがわかる。
「い、いや、そんなことないよっ。こ、こうやって起きてきてくれたんだし……」
たまらず視線を床に落とす。
だが、今は朝食に誘いに来たのだ。モジモジしている訳にはいかない。
くっ、と腹から力を入れ直す。
「それよりかあさん、ごはんできてるんだけど、あの、用意しようか?」
期待を込めて見上げてみる。
十一歳にしては背がとても低い自分には、女性としてけして大きくないかあさんでも一周りも二周りも高い。僕は一三二センチしかないのだ。
「……そうね、いただくわ」
そういってかあさんは、いきなり一階への階段へ向けて、廊下を歩き出した。
自分でも分かるぐらい、胸が緩くなって、ボクは嬉しいという実感を得る。
「――う、うん! じゃあ、すぐ用意するね!」
気づけば母さんより速く階段を駆け下りていた。
卒(そつ)爾(じ)ながら実を言うと、今のかあさん――くり江さんは、ボクの本当のお母さんじゃない。
いわゆる、継母というやつだ。
なぜこの人が僕の母親になったのかというと、簡単だ。父の再婚相手だということ。
一年前に結婚した。
ボクの本当の母親は、その年から約三年ほど前に蒸発してしまっていて、必然に離婚が任意になり、当時父がお付き合いをしていた、愛人ということになるのか。今のかあさんと、そういうことになったらしい。
父に紹介されたときは、びっくりした。
新しい母親が、なにしろまだ自分と同じ子どもで、まだあどけなさとか、幼さとかが残る、一九才のおねえさんだったから。
父は何を考えているのかと、これからの生活を本気で心配したものだ。
でも、外見に反して、くり江さんは中身がとってもしっかりした人だった。言葉遣いや服装は大人以上にきちんとしているし、歩き方やちょっとした仕草なんかも凛としていて、もう、なんというか、少し長く付き合うとすごく大人っぽくて、顔も綺麗な人だったから、かわいい人というより、美人な人だと、子どもながらに思ったほどだ。
「ユウジくんとは、あまり歳も離れてないから、おかあさんっていうよりおねえちゃんって感じだね」
そう丁寧に、背の低いボクの頭に合わせて、顔を覗かれながら言われたときはものすごく恥ずかしかったが、その声色が本当に温かくて、心地よかったことを今も覚えている。
だから、これからはうまくいくんだと矢庭に思った。
前の母さんにはあんまり愛されなかったけど、今度の母さんは大丈夫だと。
結婚から半年経って、お互いまだ気を使っていて、それでも『ユウジ君』から『ユウちゃん』と自分の呼び方が変わったあの日も、全く嫌な思いはしなかった。
だからあとは自分が、くり江さんを『お母さん』と呼ぶだけだった。それでもうこれから、全部うまくいく。これからずっと、家族三人で、いやくり江さんに子どもができたら四人か、そうしたらボク、お兄さんになるな、いやいやそうしたら、五人でもいいかな。六人でも……。なんて。
そうやって、幸せな未来を夢見ていた。
父が、この家からいなくなるまでは――
「――ゃん」
かあさんの食事の支度をして、再び台所の食卓に腰を下ろしたが、かあさんとはなにか緊張して、うまく会話ができなかった。そうして手持無沙汰に少し昔の事が脳内にダイブしてきたのだが、
「――ちゃん」
なんか、嫌なことを思い出した。
そうだ、結婚半年目の朝。これからって時に父は、いきなりこの家から出て行ったのだ。
簡素な、一枚の手紙だけを残して。
「――ウちゃん」
仕事だと。だから当分帰ってこないと。
生活できる金は置いていくと。勝手にしていいと。
そして。
『別れたければ別れても構わん。金も好きに使うといい。そのときはユウジを親戚にでも預けさせてくれ』
そう書いて、見たこともないような数字が記載されてある、小切手を置いて――
「……ユウちゃん?」
「――えっ? あっ、な、なに、かあさん?」
追憶から目が覚める。少し呆っとしてたみたいだ。かあさんに呼ばれていたらしい。
「…………」
かあさんは朝食が置かれたテーブルに座って、少し曇った顔をしている。考えていることはわからないが、なにか心配させてしまったのか。
「ご、ごめん。ちょっとボーっとしてた。どうしたの?」
改めて聞いてみる。すると、かあさんは向かいに座るボクの背後を指差した。
「……時間、いいの? もう、三十分過ぎてるけど」
そうしてつられて背後を見た途端。――さっきまでの記憶が吹っ飛んだ。
時刻は七時四十分。
……遅刻だ。
「うわぁ! いつのまにっ!」
よくよく見ると、母さんの茶碗もとっくに空になっていた。なんてことだ。ボクは一刻以上も呆けていたのか。
「ど、どうしよう! あ、あの、母さん――」
まずい。母さんの分の洗い物をしないと。それにランドセル、ランドセルも取ってこなくちゃ。ミドリにもエサをあげなくちゃいけないし、あと、あと……かあさんと話も――。
考えがまとまらないまま、とりあえず母さんの洗い物を済まそうと、皿に手を伸ばす。
――その皿を、母さんはひょいと先に取ってしまった。
「いいわ。これぐらい自分でやるから。ユウちゃんは学校行って。ミドリにもエサはあげておくわ」
「――え、で、でも」
「いいの。別に私は、どこにも遅刻しないから」
「え……」
きっぱりとかあさんは言い張る。そんな風に言われると、こっちは何も言えない。
「……ん、わかった。じゃあ、行ってくるよ。……その、ごめんなさい」
完全に自分の過失なので、申し訳なさそうに言う。
と、なぜかそこで母さんの動きが止まった。
「?」
どうしたんだろう。皿を持った手が、少し震えている。なにかあったんだろうか。
「かあさん?」
「……構わないわ。早くいってらっしゃい」
母さんはそこで振り返り、台所へと向かっていく。
「……?」
気のせいか。別に変わりはないようだ。
それより、そうと決まれば早く登校しないと。
ランドセルを取りに、ボクも二階の自分の部屋へ足を向けようとして――
「ユウちゃん」
不意に、呼び止められた。
「え? なに?」
もう一度視線を戻すと、母さんがこっちを見ていた。
「――」
じっと、見ていた。
感情が無い表情。ぼんやりした黒い瞳は、ボクではなく、どこか遠くを見るようで――薄く、灰色に翳っている。
「朝ごはん、おいしかったわ。――ありがとう」
そう呟いて、消え入りそうな顔から、ほんの少しの微笑を零れさせた。
「えっ――」
顔が、熱くなる。
母さんに、少し笑って、感謝されただけなのに。
「……うん。じゃあ、いってきます」
だっていうのに。
ボクは、久しぶりのあの人の笑顔が、たまらなく嬉しかった。
部屋からランドセルを担ぎ出し、急いで家を出る。
「おはよっ、じゃ行ってくるねっ」
玄関脇の庭に飼っている、犬のミドリに挨拶をして、一気に街路を走っていく。
ミドリは、ボクのもう一人の家族だ。薄い黄緑色の毛色をしているからミドリ。五年前、前の母親がまだこの家にいたときに飼ってもらった。少し大きめの雑種犬だ。
「?」と、ミドリは黄緑の毛並みをなびかせながら、なんのこっちゃと首を傾げていた。が、今は構っている余裕はない。ごめんね。あとで母さんからごはんもらってっ。
「はっ、……は、は――」
一目散に登校路を駆けていく。
今日はまずい。
家を出たのが四十五分。うちから学校まで歩いて二十分、走って十分だから、八時の予鈴までもうギリギリだ。
早くしないと。遅刻なんかしたら、クラスのみんなになんて思われるか。ただでさえ肩身の狭い転校生だというのに。
「はぁ、は……あ、暑い」
だっていうのに、今日はもの凄く暑くて走りにくい。夏至を越えたばかりの夏の日差しは殊に強く、ただでさえ走って熱が上がる体を、刺すように攻撃しては余計に肌を熱くさせてくる。
「は、く、のっ……なんのこれしきぃ」
それでも遅刻はするわけにはいかない。注目は避けなければいけない。
新学期から転向してはや二ヶ月とちょっと。こんな意気地のない性格で未だにクラスに馴染めてないボクにとって、遅刻で先生に怒られるなんていいからかいの的だ。それだけは、なんとしても阻止しないと。
そんな危機を感じながら、ボクはとにかく懸命に校舎まで走っていった。