Neetel Inside ニートノベル
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 もう日が昇りきろうとしている、午前八時前の朝の空間の中、私は食器の洗い物を終えた。
「……」
かちり、と食器洗い乾燥機のレバーを回す。
 次は、犬の餌やりだ。
「……」
 いつもユウジが与えている、ドックフードを探す。ユウジにはああ言ってしまったが、自分は餌の置き場所など知らない。今更ながらに聞いておけばよかったと後悔するが、もう無理だ。自力で探す他術はない。
「……」
 見つからない。ダイニングとリビングの棚、物置、勝手口、玄関、果てには冷蔵庫まで目を通したが、一向に出てこない。
「……」
 次第に、苛立ちと諦めが身を覆っていく。
 どこだろう。見当がつく所はみな探したつもりだ。みんな探した。それで見つからないのはおかしいのではないか。なぜ。なぜ見つからない。
「――」
 一体どこ。どこだろう。わからない。おかしい。なに。どこ。どうして。どこよ。
 どこにあるの――
「――」
 そして、見つけた。
 苛立って投げ出しそうになって、ふらふらと玄関前に来たとき、それは偶然目についた。
玄関脇の靴箱の下に隠れるように、犬の絵がついた袋がある。
「……」
 それでなぜか心が救われたような気分になって、棘のある感情が抜けていく。
 壊れかけていた自分が、元に戻る。
 ああ、よかった。
「――」
 とりあえずその愛らしい袋を取って、傍に置いてあったボウルに適当にフードを入れる。
 丸いスナック。なんともいえない臭いを漏らすそれは、とってもおいしくなさそうだ。それでも、動物は食べるのよね、などと思ったりする。
「……」
 無造作に置いてあったつっかけを履いて、餌の入ったボウルを手に玄関を出る。
 扉を開けた。
「――っ」
 瞬間、目の前が真っ白になった。
 本当に真っ白だ。目が染み入るように痛むので、思わず手で覆い隠したが、それでもまだ目は慣れない。
 日差しに目をやられたのだ。
 眩しい。本当に、眩しい。痛い。痛い。
 世界が、白い。
「――」
 ああそういえば、外に出たのは何ヶ月ぶりだろう。やっぱり半年くらい、日の光に当たってない気がする。だからなのか。こんなに、太陽の光が痛々しいのは。
「吸血鬼も、こんな感じなのかしら……」
 どうでもいいことだが。
 とにかく目はもう慣れてきたので、さっさとミドリのところへ歩み寄る。
 ミドリは庭の芝の上で、今か今かとしっぽをぶんぶん旋回して、主人が食事を与えてくれるのを待っていた。
「……」
 犬はいい。そうやって何の臆面も無く人に媚びることができる。胃を満たすためならば、プライドも何もないのか。それはすごいわね。とても真似できない。
 だから、そんなあなたに差しあげましょう。
 その毛並みと同じ色をした芝の上に膝を折って、フードを入れた銀のボウルを置いた。ミドリは、それはもう待ってましたとばかりにそれにかぶり付いていく。
「……」
 食べる。食べる。食べる。
 いつまで経ってもやめやしない。まるで物を食うしか知らぬように、小さな丸い塊を牙で噛み砕いてく。その姿は、昔社会の教科書の写真にあった、飢餓に苦しみ、屍肉に群がる餓鬼のように映った。
「――」
 思わず、そのさらさらとした黄緑の頭を撫でる。
 この醜い姿が、とんでもなく愛らしい。
 卑しく、下品で、欲望を剥き出しな、見下すべき対象がここにいる。そんなものが近くにいるだけで、少し救われた気分になる。
 こんな、愚劣な自分でも。
「……」
 思い出すのは今朝の事だ。つい今し方。あの子どものこと。
 ユウジのこと。
「――」
 さらさらさら。毛並みが整って気持ちがいい。ぬいぐるみのようだ。あの子がまめに洗っているんだろうか。いつ洗っているか、洗っているかどうかは、私は知りもしていないが。
 そう、あの子はまめだ。小学生とは思えない程まめだ。
保護者である自分が何もしないのに、文句も無く当然のように家事をこなしている。
掃除。洗濯。食事。近所付き合い。
 全て。私が、母がやるべきこと全て。
 皿洗いなど、久しぶりにした。新婚当時、あの人がまだここにいた半年前までは全部自分がやっていたが、今ではとんと。あの子に任せきりになっている。
 別にやりたくないわけじゃない。面倒だからさぼりたいわけでもない。あの子に苦労をかけることもいいとは思わない。
「……」
 ただ、無力なのだ。何もできない。
 あの人に塵屑(ちりくず)のように棄てられた、あの日から。
「――、――」
 さらさらさらさらさら。何度触れても小気味よい。この子は相変わらず目の前の欲望に噛み付いている。可愛いわね。
 そういえば、さっきなんて言っただろうか、あの子は。
『……その、ごめんなさい』
「……」
 ごめんなさい? なんだそれは。なんでそんなことを言うんだろう。
「……おかしいわよね」
 苦笑する。だって本当におかしい。
「じゃあ、母として本来やるべきことをしたくらいで、本気で謝られる私ってなんなのかしら」
 本当になんなのかしら。わからないわ。
「――、――、――、」
 本当にそんな自分は何者なのか。小学生に心配されて、一日中家でボーっとして。泣いて、叫んで、喚いて、暴れて、家の事は何にもしないで。
 そして自分は、本当の母でないときてる。
 何者なの?
「――、――、――、――、――」
 ただ理解できるのは、これだけ。
 狂ったように何度もやさしく畜生を愛撫する右手と、
「――――――――」
 肉を裂くほど自らの膝を握り締める、震える赤い左手だけ――

       

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