Neetel Inside ニートノベル
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 キーンコーンカーンコーン。
 もう何百回も聞いた録音の鐘が鳴り響く。
 教室の時計は七時五十五分。
「――だぁっ、はぁ、は……ま、間に合った……」
 何とかボクは、普段どおりに教室に辿り着けた。
「――ふっ」
 さあ、ここからは気を引き締めないと。教室に入ればもう弱味は見せられない。
 乱れた呼吸と、乱れた衣服を整えながら、自分の机へと向う。
 予鈴は鳴ったが、まだ教室内は騒がしい。鬼ごっこやふざけ合いをしてケンカ寸前になっているグループもあれば、一つの机に集まって校則違反のオモチャやらカードやらの見せ合いっこをして談笑しているグループもいる。
 みんな自分と周りの世界で頭がいっぱいみたいだ。この分ならギリギリ登校の自分も、関心にされることはないだろう。
 と思っていたのだが。
(……む?)
 どうやら見られているらしい。じろじろ観察されてる。向こうの隅で話しこんでいる女子にさえ、ひそひそと噂話をされている。おかしいな。なんでだろう……。
 そして教室のちょうど真ん中、自分の席に着いたとき、ボクは重大な事実に気がついた。
(――あ、ハ、ハンカチハンカチっ)
 額から流れる、滝のような汗。そりゃそうだ。これだけびちゃびちゃで汗だくだと、見るなっていうほうが無理だ。
 でも仕方ないじゃないか。あれだけ日差しの強く暑い中、家から全力疾走してきたんだから、それは汗もかくさ。
 だから、だから……。あんまり見ないでよ。
「勘弁して……」
 こうやって一人であたふたしていると尚恥ずかしい。頬がまた熱を帯びて赤くなっていく。
これじゃあもうドロ沼だ。どうにかしないと。
 朝から信じられないくらいパニックになっていると、この大童にさらに追い討ちをかけるように、それはやってきた。
「おーゆーじ、ダクダク、ダクダクだー」
 唐突に、後ろの席から間の抜けた声が聞こえてくる。声の主は一声でわかったので問題はないが、今あまり会いたくない相手だ。
 ゆっくりと振り返る。
「……ヒ、ヒロユキ。お、おはよう」
 背後の影は予想通りヒロユキだった。彼はボクの挨拶に、万遍の笑みを返す。
「はい、おはよぉ。ゆーじ、いっぱいぬれてあかいなあ、どーした、どーした、なにがあった?」
「…………」
 本気で不思議そうな質問。そして不必要に大きな声で言ってくるので、場の視線が僕らに集中する。クスクスと、笑い声も聞こえてきた。
「ゆーじ、どーした、どーした」
「い、いや、ちょっと遅刻しそうになってさ。ずっと走ってきたんだよ、家から」
 これ以上は耐えられないので答える。
 ヒロユキは、驚いているのかいないのか、微妙な顔をする。
「ほー……ほー……。じゃあ、あれか? ゆーじチャンピョンか?」
「え……? あ、チャ、チャンピョン?」
「あ、おー、それかぁ? お、おー……あー、うん、チャンピョンだ。おめでとう。ゆーじはユウショウになりました」
「……??? あ、ありがとう」
「はい、ドウイタシマシテ」
 それでまたにっかりと、歯抜けが目立つ口を広げて笑う。
それきり黙ってしまった。興味の対象が変わったのか、今度は自分の上履きをいじり始めている。ほー、ほー、ほー、と、何度も呟きながら。
「……は」
 今日のヒロユキも、いつも通りだ。
 さっぱり意味がわからない。
 今に始まったことではないが、やっぱり慣れるものではないと痛感する。
「…………」
 この子はヒロユキ。
 はっきり言って普通とは言い難く、誰から見ても挙動がおかしい変な子だ。
 一人で何かを追いかけていることがあるし、ぐるぐると廊下をその場で何回も周っていることもある。この前なんかふらっと女子トイレに入ってしまって、本気で女子たちに説教されていたこともあり、周りに影響を及ぼすことも多々。
 言動も異質なものが多く、時に全く見当違いな発言をすることも珍しくない。さっきのようなものも、ほんの一例だ。言い回しも下手で、なにを言ってるかわからないことがあるし、同じことを何度も話したりもする。物覚えも悪いらしく、勉強の成績は常にクラスで最下位という始末だ。
 だからだろう。彼が、このクラスで最も避けられているのは。
 いや、そうでもないか。なにしろ彼はこんなだから、格好の嘲弄の的だ。クラスの男子にはしょっちゅうからかわれているし、女子にはいつも悪態を飛ばされている。でも、根本では何も関わろうとはしていない。普通に会話するのなんて以ての外だし、一緒に遊ぶことなんてまずありえない。つまり、そういう都合のいい『いじめてやれる』的存在なのだ。
 そんな彼に同情したわけではないが、ヒロユキと始めて会ったのは新学期の始業式のとき。たまたま彼と上下の席になって話しかけられてから二ヶ月、その悲惨な実情を思い知らされた。
揶揄、奸計、暴力、雑言。
あらゆる悪逆無道とも呼べる仕打ちが彼を覆っている。自分も、内気なのと特異な家庭の事情もあって、前の学校ではそれなりに嫌な役回りだったのだが、ここまで酷くはなかった。だから、ボクは思った。これは、ただ、あんまりではないかと。
そうしてボクは彼と友達になった。
決して、ヒロユキを避けなかった。
さっきも言ったが同情じゃない。そんな無茶苦茶なことをしているいじめ人たちと、いきなり仲良くなんてなれるわけがない。そんな器用さも持っていないし、持つ必要もないと思うからだ。
だから当然ヒロユキと一緒にいる自分も、のけ者の対象になる。
だが構わなかった。こんなにひどい状況でも、ヒロユキは誰をうらむことのなく笑顔で、いつものように意味はわからない行動だが、自然としていたから。
それはとても強いことだと感じたし、ボクは何度も勇気づけられた。
それが、ボクが彼と付き合う理由だ。
「なーゆーじ。きのうのあれ、なんだっけ。あのゾウ、ゾウみたか? おっきいなーあれー」
 まだいじっている上履きを見つめながら、ヒロユキはやっぱり通る声でしゃべる。う……、でもやっぱり注目されるのはきつい。
「……『動物奇抜天外』でしょ? うん、確かにあれはすごかったね」
 昨日のテレビ番組を反芻しながら、皆の視線に冷や汗を掻く。今朝がんばったのも、そうなのだ。注視されるのがつらいから。これだけはいつまで経っても慣れないらしい。
(……まだまだだな、ボクなんかは)
 もうすぐチャイムだ。とりあえず気を取り直そう。
 そう思った矢先、――もっと面倒な人が来てしまった。
「お、おはようっ、ユウジくんっ」
 またも一際大きい声。たどたどしい挨拶。これは、
「おー、はーかじゃねーかはーか」
「――っ、もう、『はるか』よ! 『る』つけなさいよ『る』を!」
 そう叫んで、いつものようにヒロユキをつっこんでいるのは、このクラスの女子、高篠(たかしの)はるかさんだ。その後ろに、
「…………」
 黙ってこっちを睨んでいる高篠さんの友達、瀬(せ)籐(とう)みく美さんがいる。
 まいった。とっても苦手な二人だ。
ヒロユキと高篠さんの声で、教室内の視線が輪をかけてボクらに集まってくる。
 高篠さんはもう一度ハッと気づいたように、ヒロユキに向けていた背の高い体を敏捷に動かして、改めてあははと笑顔を飛ばしてきた。
「ご、ごねんねー、いきなり。おはよ、ユウジくん」
「お、おはよう」
 とりあえず挨拶されたので応じると、高篠さんはさらに嬉しそうに破顔する。
「ユウジくん、今日暑そうだね。走ってきたの?」
わざとなのか本当に話しづらいのか、高篠さんは不必要に身体を屈ませて聞いてくる。
彼女はバスケットクラブに所属しているらしく、そのためか背が大きい。確か一五七センチだったか。ボクとは二十センチ以上高さが違う。だからボクは見上げるしかない。
「う、うん、ちょっと遅刻しそうになって、急いでたんだ」
 高篠さんは、優しくクスリと笑う。行動はガサツだが、こういう仕草はなんとなく上品だ。
髪は艶っぽい黒のロングヘアだし、大きいから大人っぽいし。
「そうだよね。あたしもさっき来たんだー。もう今日暑くてさ、あたしもすごい汗かいちゃっ
て……。ベタベタして、ちょっと嫌になるよね」
 そういって手の平でパタパタと顔を仰ぐ。いわれてみれば高篠さんも顔が赤い。
「はーかもダクダクだなー、チャンピョンだなー」
「いきなりワケわかんないこといわないでよあんたは。ユウジくんの前で」
 高篠さんはまたつっ込もうとしたが、後ろの瀬籐さんに止められた。
「ねぇはるか、もういこ、チャイム鳴るよ?」
「え? うん、わかった。じゃあねユウジくんっ。ヒロユキ、ユウジくんにへんなこといった
らハッとばすわよ!」
 そして瀬籐さんに促されるように、向こう側の席へ行ってしまった。途中瀬籐さんがもの凄
くボクとヒロユキ、特にヒロユキを睨んでた気がするけど、そこは気にしないようにしてお
こう。
「はーかはきょうもゲンキだなー。うん、ゲンキがあればなんでもできるっ」
「……そうだね」
 どこでそんな言葉を覚えたのか。てか誰の格言だ。
 そして八時のチャイムが鳴った。


       

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