Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 昇りきった太陽は、ゆっくりと業務をこなし、西へと航路を取る。乾燥した空気は少しずつ冷たさを帯び始め、朱色の空へと変わっていく。
 気温は肌を鞭打つほど冷え込み。気だるいカラスの声も聞こえず。時間を追うごとに、木々の震えるようなさざめきが、一層もの悲しく聞こえた。
 そんな夕暮れ。
「どこまで行くの。いい加減、しんどい……」
「部活やってるんでしょ?」
「バスケに自転車乗る機会ないよ」
「体力づくりはするでしょ、でも」
「二人乗り、一時間以上する機会もない」
「私もない」
「…………」
「あ、そこを左に」
 赤い山道。
 午後の授業、そして部活までサボった挙句にやってきたところが、この長く、平坦な、隣町の外山。今では夕暮れに染まり、周りの風景が赤く焼け焦げている。
「……まだ着かないの?」
「もう少し」
「……さっきも言ったよね」
「それは佳山くんが、さっき言ったばかりだからだよ」
「……いや、だって」
「着いたよ」
「え!?」
 焦って急ブレーキをかける。体がつんのめりそうになった。
「危ないなぁ。別に急に止まらなくてもいいのに」
「いやだって、いきなり言うから……」
「もう少しって、言ったじゃない」
「それは……そうだけど」
 自転車を降りて、足元の感触を噛み締める。
 久しぶりの、湿った土の触り心地。革靴を隔てても、その生きた地面の呼吸――草木の香りが頭にまで伝わってきた。
「――っ」
 今日は比較的、晴天で暖かかった方だが、この時間帯になると次第に冷え込んでくる。風の勢いも強い。髪が撫でられ、何度も額をこすれていく。
 辺りは虫の鳴き声、鳥のさえずりも一切聞こえず、人の気配もない。高い人工林に囲まれた山の中腹は、空寒い樹海を思わせた。
「寒いね」
 と呟いた、彼女の言葉で凍りついた。
「……あ」
 それは寒いからではなく。目の前の、すさまじい崖に圧倒されたからだ。

 その暗い深淵は、どこまでも続いているようだった。
 周りが薄暗いせいで、底が見えない。そして穴は、どこまでも黒く、闇に満ちている。
 まるでブラックホール。
 辺りの木々、雑草、土、空気、この山全体までもが、この崖に吸い尽くされているよう。すべてを闇の成分として分解され、穴を構成する一部品として。自分もこの崖の中へ、吸い込まれていくような――
「佳山くん」
「……すごく、深そうな崖だね」
 額が冷たい。こんなに気温が低いのに、僕は汗をかいている。
「まぁね。昼に来ると、下に見える川が綺麗で、絶景だよ」
 底が見えるのか。少し驚きだ。もしここから落ちたら、たとえ昼だろうが夜だろうが、宇宙まで突き抜けそうな気がする。
「あの……、ここが?」
 葉桐さんは、目をキョトンとして首をかしげた。その仕草は愛らしかったが、どこかワザとらしかった。
「ここで……」
 その先を言えないのは、自分の臆病さからか。それとも。
「飛べたらいいのにね」
 彼女の声。横に並んだ彼女は、どこか虚ろな目で崖を見下ろしている。
 風が吹いた。彼女の前髪が、サラサラとなびく。目下の闇が吐息でもしたのか。その風の匂いは、いやに生臭い。
「い、いや……」
 脇が汗でにじむのを感じた。背中も。太ももから尻の部位まで、知らずの内に発汗している。これはどういう汗だろうか。いや、わかっている。理解している。
 引っ込みがつかない。
「でも、きっと飛べない」
「え?」
「きっと飛べないんだ。きっと」
 いつのまにか、辺りは本格的な闇へ。と、機械的な音が響いた。携帯電話の開く音だ。
 液晶が淡い光を放ち、葉桐さんの顔を照らす。
「ここって、自殺の名所なんだよね。あまり知られていないけど」
「そうなの?」
「正確には、自殺未遂の名所」
 青白い顔で、携帯を正視している。それはどこか、死人の表情に似ている。死人の表情というと、どういうものなのかは説明できないけれど、それは死人の表情なのだと思う。
「未遂?」
「そう。ここでは、誰も死ねない」
 ここに落ちて、死なない? 死ねないはずがない。それは物理的におかしい。こんな何十メートルあるかわからない崖から落ちれば、誰でも死ぬ。どんな完璧な受身を取ろうと、それは変わることはない。子供でもきっと判別できることだ。
「もう少し前に出て、もっかいよーく下を見てみて」
 僕は意識して、瞬きをした。そうすることで、相手に対して自分が緊張していることを伝えられる。まったく意味のない行動でバカバカしい。
 穴をもう一度見る。額の汗が頬を伝う。これは、どういう汗なのだろうか。
「あ」
 言われた通り、よーく見る。すると、岩壁沿いに、また小さな崖が見えた。少し広めの空間。うまく今の崖と並列して、大きな岩が突き出ている。
「あれは……」
「うまいこと、はみ出してるでしょ。結構おっきい岩なんだ」
「で、でも、これじゃ」
「そう。ここからじゃ、そーとー向こうまで飛ばないと、下の川まで落ちることは不可能」
 目を凝らす。下の岩までは、およそ三メートル。おそらく、頭とか、当たり所が悪くない限り、死なない。そして下の岩の広さは、
「見えない……」
「自殺ってね、夜に決行する人が多いんだって」
 大きな虫を潰したような音がする。彼女の携帯が閉じられた音だ。辺りの闇が、また一瞬濃くなったような気がした。
「まず、人目につきにくいっていうのがある。それに夜だと、何かセンチな気分になりやすいし。死にたいって気持ちをセンチというのは間違いかもしれないけれど、私個人としてはそういう気持ちだと思う。うん。一番重要なのは、視界ね。夜は、視界が悪いでしょう? だから、こういうところから飛び降りると、意外と楽に死ねるの。本当に高いところから飛び降りると、闇の中で闇に消えるのよ」
「でも、ここからじゃ死ねない」
「そうだね。死ねないね。落ちてもせいぜい骨が折れて死ぬほど痛いだけだろうね。死ぬほど痛いけど、死ねないだろうね」
「そうなんだ」
 吐息して、顔を上げる。暗闇の中でカラスが鳴いた。二度鳴いた。空耳ではなかったと思う。
「本気じゃなかったんだ」
「佳山くんがね」 
振り向いた先、彼女は思ったよりずっと後ろにいた。あれはそう、助走するのにちょうどいい距離だ。体力測定の走り幅跳び。砂場からスタートラインまでくらいの距離。
「ど、どうしたの」
「やっぱりそうだ。飛べるわけがない。そんな腐りきった弱々しい気持ちで、自分の命をどうにかできるわけない」
「なに言って――」
「私、調べてみた。六メートル十九センチ。それがこの崖から、下の崖の先端までの距離。それを越えれば、確実に死ねる。私たちくらいの体格なら、飛べない距離じゃない」
 革靴で地面を踏みしめ、立ち上がる。下は湿った冷たい土。背後はだだ広い暗闇地獄。
「無理だよ、そんな距離……」
「だから君は飛べない」
 周囲の枯れ枝が、突風で乾いた音を奏でる。体がぐらりと揺れて、頭もぐらりと揺れた。
「佳山くんの痛みって、つまりはそういうことなんだよ。たいしたことないんだよ。死ぬよりもずっと楽で、つらくもない。ただ、甘えてるだけ」
「……なんだよそれ」
 一歩、踏み出す。背後の闇から、一歩を遠ざかる。
「ここから飛べないってことは、覚悟がないんだ。つまり、死ぬに値しない。それまで値するものもない。結局、君は別段、不幸でもなんでもないってことなんだね」
「誰が」
 一歩。一歩。暗闇の泥濘を引き連れて、僕は彼女へと足を勧める。
「特別なんかじゃない。特別だと思う必要もない。君はどこにでもいる少年で、普通に生きている。普通に、生きてるんだよ」
「ぼ、僕が」
 気づけば、足が速まっている。後ろから押されている気がする。風か。闇か。どっちだろう。
「だから、がんばろうよ。いじめなんかに、今の自分の境遇なんか、私は――」
「あんたに何がわかるんだよ!」
 葉桐さんの目の前で、大きく叫ぶ。僕は彼女より背が小さいので、見上げて叫ぶ。少し唾が飛んでしまったかもしれない。でもそれはどうでもいい。今は。
「俺の気持ちが、あんたにわかるのかよ! しぇ――」
 噛む。こういう怒鳴ることに慣れてないから、いつも僕は噛んでしまう。
「背が低いから、いくら練習したって、バスケはうまくならない! 身体も、全然っ、大きくならない! 部員からは、馬鹿にされる、後輩にもだ! ……クラスのやつからはちまちまちまちま、薄汚いイジメ、こすい嫌がらせ! 親はバカみたいに平和で、俺に無関心でいやがる! なんだこりゃ! なんなんだよおい! なんだこれ!!」
 葉桐さんのポーカーフェイスが崩れた。眉が引きつって、唇をかみ締めて、こちらを渋い目で見ている。
「大丈夫だよ。だって私は――」
「大丈夫なもんか! ぼ、僕は、いつだってギリギリなんだ! 人のすることをいちいち横目で見て、ビクビクしながら……。誰も僕に関心を向けてくれない。向けてるのは僕に対する……」
「か――」
「こんなの、こんなの何が未来だ!」
 息が切れる。顔が熱い。胸も熱い。全身が熱い。こんなに叫んで、全力で人に文句を言うのも久しぶりだ。互いの沈黙の間に流れる冷たい風が、むしろ心地よい。
「佳山くん」
「昔さ、絵を描いたことがあるんだ」
 葉桐さんがまた、首をかしげた。今度はわざとらしくない。
「先生に、未来の世界を描いてみましょうって」
「…………」
「僕は、いっぱい描いたよ。ロボットや、高いビルの町並み、宙を飛ぶロケット。考えられる想像を全部描いた。でもここには、そんなもの何一つありはしない。あるのはチビで陰気な僕と、そんな僕を笑うふざけた野郎ばかりだ!」
 彼女に背を向ける。そして、たった今背を向けていた闇へと体を向ける。濃厚で、粘りつくような黒い景色だ。なぜか、暗闇しか見えない。気味が悪い。
「こんなところ、もういるもんか!」
「ちょっと――」
 後ろで、彼女が手を伸ばしたような気がした。でも、僕には触れられていないから、それは定かではない。
 耳の奥で、風がヒュンと鳴った。
 叫ぶ。力の限り叫んで、自分が耐えうる、いや、耐える必要がないほど全身全霊で駆ける。
 歯を噛み締め、力強く足を踏みしめたとき、
「佳山く――」
 それが、この世界で聞いた最期の言葉だった。

       

表紙
Tweet

Neetsha