Neetel Inside 文芸新都
表紙

新未来都市
第一章 未来都市

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 そして今日も地獄を走る。
 終わりの見えないゴールへと走る。
「はぁ、はぁ、はぁ、は――」
 頭の中で、吐息が反響する。
 頭蓋骨の中の暗そうなところが、その息で満たされていると錯覚する。
「はぁ、はぁ、はぁ――」
 止まる。いや、止める。 走るという行為を止める。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 止めようと、吐息は止まない。
 肩で息を切らしながら、足下を見る。
 小汚いバスケットボールが一つ、転がっている。
『ハハハ。クスクス。ヘヘヘ』
 ドブ臭い笑い声が耳に入ってくる。反射的に、目をそちらに向ける。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 粘り着くように何度も反響する吐息。いつまでたっても止まない笑い。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――」
 笑う彼らが、蜃気楼のように揺れる。


 教室。 
 背中が蓄音機になったように、自分の後ろに嘲笑が集まる。
 ペンを持つ手が震える。
 唇が震える。
 と、軽く何かが後頭を打って、足元に落ちる。
 見る。紙クズ。クシャクシャになった隙間から、文字が見える。
『死ね』
 背中に集まる笑い声は、止まない。
『死ね』
 ふと前へ顔を上げる。
 一人の少女が、無言で教壇に立っている。
 同じクラスの女子。それが、表情一つ変えず、じっとこちらを見ている。
 目が合った。でも、どうしていいかわからない。
 僕は無意識に笑いかけた。
「――――」
 彼女は何も言わず、憮然と教室を出ていった。


 家の扉を開ける。
 靴を適当に脱ぎ捨て、足早に二階へと階段を登る。
「あ、おかえんなさーい」
 居間の方から、母の平和な声が聞こえる。空気の読めない声が聞こえる。
 自室に入り、肩が外れたかのようにカバンを落とす。
 そのまま着がえもせず、ベッドへ身体をうつぶせた。
「…………」
 枕に顔をうずめ、少しの間自分の呼吸を意識する。
 僕の匂いがする。
 寝返り、すぐそこにある窓を見上げる。
 窓の先にある空を眺める。
 オレンジ色の太陽がよく見える。
 眩しくても、僕はずいぶんな時間、目を離さなかった。
 離せなかった。

     

 懐かしいような光を放つ太陽は、輝き続ける。
「―ーやまくん」
 光はやがて、朱色から白へ。蛍光とは程遠い新鮮さと眩しさで僕の目を照りつける。
「――かやまくん」
 でも、いくら眩しかろうとも、やはり僕はその眩しいものから目を離せない――
「佳山(かやま)くん」
「!?」

 その声に気付いたとき、僕は反射的に目を見開いた。
 空はもうオレンジ色ではない。すべてが浄化されるぐらい、きれいで爽やかなスカイブルーだった。
「…………」
 体を起こす。ここはもう家じゃない。寝ていたのはベッドではなく平らな簡易ベンチで、周りは屋根も窓もない学校の屋上だ。
 そして目の前には、後ろに手を組んでこちらを覗き込んでいる女子。
 目覚めには、幾分かシュールだった。
「…………」
 と、冷たい風が頬を凪ぐ。唐突なわずらわしさに、思わず目をつむる。
「この真冬に、こんなところで寝てると死んじゃうよ?」
「……え」
 すぐそこで自分に話し掛けている女子を見る。
 彼女は、昨日教壇の前で、僕を見て立っていた人だ。そして去っていった人。
 混乱する。初めて話し掛けられた。どう答えていいのか、どういう反応すればいいのか分からない。
 上目遣いになりながら、視線を上下に落とす。
「……あの」
「どうしてこんなに馴れ馴れしいんだろう」
「え」
「とか思ってる?」
 言われて、少し落ち着きを取り戻す。確かに、話している声のトーン、態度も、実に馴れ馴れしかった。不快かどうかは別として、ぶしつけであるのは間違いない。
 僕は頷いて見せる。
 彼女は少し、苦笑した。
「……そうだよね。でも、気にしなくていいよ。最低の理由だから」
 言いながら、彼女は柵の方まで歩いてきた。僕の座っているベンチの、すぐ隣だ。その柵に、細くて白い体をもたせかける。
 その彼女に訊ねた。
「最低?」
 彼女は少し考えたようだった。視線がどこか、遠くを見ているようだ。
「うん、最低」
 答えになってなかった。でもそれ以上はあまり気にしてもしょうがないと思ったので、もう何も言わなかった。
「佳山くん、私の名前知ってる?」
 矢庭な質問だった。

「……葉桐(はぎり)、さん」
「下は?」
「え?」
「下の名前」
「……初美(はつみ)。葉桐、初美さん」
 彼女、葉桐さんはフッと笑い、何か嘲るかのように僕を見た。そのように感じた。それは、僕が座っていて、彼女より目線が下だったからかもしれない。それは分からない。
「よく知ってたね」
「……いや」
 僕は目を逸らした。
「同じクラスだし……」
「でも」
 と言われて、視線を返した。ほとんど反射的だった。
「私は知らないよ? 佳山くんの名前」
「……え」
 どう答えていいか分からない。意識的に、柵の向こう側に目をやった。青い空をバックに、切り取られたチーズのようなビルの先端が見えた。
「あ、そう……」
「なんていうの?」
 彼女は半ば事務的に聞いてきた。わかっていても、少し傷つく。
「……蒼」
「アオ?」
「うん」
「どう書くの? スカイブルーの、青?」
「いや、違う。顔面蒼白の蒼と書いて、アオ」
「え?」
 言うと、葉桐さんは突然噴出した。
「……な、なに?」
「いや……、ごめん。なんか、例え方暗いね。もっとこう、蒼天とかさ。爽やかなチョイスがあるんじゃない?」
「…………」
 どんな風に反応していいか迷った。ただ、あまり気分はよくない。
「怒った?」
「いや……」
 また、目を逸らした。こういうのは、いわゆる『逃げ』ではなく、どう行動すればよいか見当がつかない『戸惑い』だ。自分はそれほど、人の反応に対して意気地がない。簡単に言うと、ボキャブラリーの欠片もない。どちらかといえば、相手の反応よりは自分の反応が情けなく、腹立たしかった。
 だからいじめられるのだ。わかってはいる。理解は、している。
 しかし、今の僕にはどうにもならなかった。
「ここから見る景色って、すばらしいよね」
 そんな頓狂な言葉に、逸らした目を元に。彼女はもう、僕を見てはいなかった。遠い目で、屋上の向こうを見下していた。

直感的に思った。
 ああ、こいつはBだ。B型だ。間違いない。
「…………」
 そんな想像をしたところで、何の意味もないが。
「屋上から見える景色って、ある意味超越した絵画なんだよね」
 葉桐さんは僕にかまわずしゃべり続ける。細くて柔らかそうな髪の毛が、風に揺られて軽くなびいた。
「全力で見下してる嫌なやつらを、全力で見下せる位置に立ってる。それって、すごい芸術の域に達してる景色なんだよね。私の視界から見ると、これは本当に絵だよ。悔しくてむずがゆくなるほどの凝った絵」
「何を言ってるの?」
 彼女は独り言のように笑った。
「そのままの意味だよ」
「…………」
「何かを見下すというのは、それだけで気分がいい。ゴッホの自画像をくまなく観察することに恍惚を覚えるのならば、そうすればいい。私が感じている感覚、ここに立っている感想は、つまりそういうことだよ」
 違うなと思った。
 血液型とかどうとかの問題じゃない。
 こいつは電波だ。ただの電波だ。
「理解できた?」
「……いや、まったく」
「つまんないんだね」
「え?」
 そこでハッとした。
 もしかしたら、これまでのこと、つまり言動は、ただの冗談だったのかもしれない。わけの分からないことを行って、的確な指摘、要はコミカルなつっこみを彼女は期待していたのかもしれない。そう考えると一気に顔から頭に血が――
「うん、それもそうだ。佳山くんはそうでなくっちゃ」
「は?」
 風が吹く。
 身体のどこか中心に響く、震えを覚える風が吹いていく。
 校庭に生える木の枝の擦れる音が聞こえる。そういえば今は冬だ。一月だ。真冬だ。
「飛ぼうか」
 そんな感覚さえも滞るような衝撃。空回りする思考。
 目の前の彼女はとても冷たく、冬の一景色のようだった。

     

「……飛ぶ?」
 そっと冷笑を浮かべる不気味な猫。周りは冷たく頬を打つ空気。
 脈絡ない言葉とは、これほど乾いて不気味で寒い。
「そう、飛ぶ。ジャンプする。ダーイブする」
 彼女の足元のコンクリから、雑草が必死に生えている。苦しそうに生えている。
「……どこから?」
「どこから」
 まるで鍵盤を奏でるようだった。
「どこから。どこからと??」
 手元の旋律を確かめるように、葉桐さんは悠然と会話している。
 しかし、意味が分からない。気後れしている自分がいた。
「ここからだよ」
 葉桐さんの手が、ピストル形になった。屋上の柵が、グリップ代わりの人差し指によって弾かれる。
 いったい何を伝えたいのか、理解できない。
「あの、ふざけてるの? もしかして」
「ふざけてないし、特に冗談を言ってる気もない。それよりも、飛ぶ? 飛ばない?」
「…………」
 なんで僕は、こんな嫌な学校の、こんな寒い屋上で、こんな電波な女子に絡まれているんだろう。どうしてだろう。
「飛んだら死ぬよ」
「うん」
「うんって……」
「でも、そうしなきゃならない。いや、そうしたい。そうしたいはず。佳山くんは」
 ギョロリと、餌を求める金魚のような奇抜な目を向けてくる。しかし、そんな目や言動を次第に受け入れている自分自身も、十分奇妙だと思う。
 つまりは。
 いじめか。
「それは……、嫌味なの?」
「嫌味?」
「いじめられてる……」
 自分でそれを公言するのは、ひどく恥ずかしいものだった。
「いじめられてる、僕に対して」
「飛べるよ」
 会話にならない。
「むしろ飛んだ方がいいよ。あれだけ不幸抱えてるなら、この腐った学校、日本、世界、地球、宇宙、あらゆるすべてから解き放たれたほうがいいよ」
「……は?」
「いい場所があるの。行こうよ」
 不適に破顔する彼女を背景に、飛行機が喧しい音を立てて飛んでいった。
 轟音が聞こえなくなる頃、昼休み終了のチャイムが鳴った。

     

 昇りきった太陽は、ゆっくりと業務をこなし、西へと航路を取る。乾燥した空気は少しずつ冷たさを帯び始め、朱色の空へと変わっていく。
 気温は肌を鞭打つほど冷え込み。気だるいカラスの声も聞こえず。時間を追うごとに、木々の震えるようなさざめきが、一層もの悲しく聞こえた。
 そんな夕暮れ。
「どこまで行くの。いい加減、しんどい……」
「部活やってるんでしょ?」
「バスケに自転車乗る機会ないよ」
「体力づくりはするでしょ、でも」
「二人乗り、一時間以上する機会もない」
「私もない」
「…………」
「あ、そこを左に」
 赤い山道。
 午後の授業、そして部活までサボった挙句にやってきたところが、この長く、平坦な、隣町の外山。今では夕暮れに染まり、周りの風景が赤く焼け焦げている。
「……まだ着かないの?」
「もう少し」
「……さっきも言ったよね」
「それは佳山くんが、さっき言ったばかりだからだよ」
「……いや、だって」
「着いたよ」
「え!?」
 焦って急ブレーキをかける。体がつんのめりそうになった。
「危ないなぁ。別に急に止まらなくてもいいのに」
「いやだって、いきなり言うから……」
「もう少しって、言ったじゃない」
「それは……そうだけど」
 自転車を降りて、足元の感触を噛み締める。
 久しぶりの、湿った土の触り心地。革靴を隔てても、その生きた地面の呼吸――草木の香りが頭にまで伝わってきた。
「――っ」
 今日は比較的、晴天で暖かかった方だが、この時間帯になると次第に冷え込んでくる。風の勢いも強い。髪が撫でられ、何度も額をこすれていく。
 辺りは虫の鳴き声、鳥のさえずりも一切聞こえず、人の気配もない。高い人工林に囲まれた山の中腹は、空寒い樹海を思わせた。
「寒いね」
 と呟いた、彼女の言葉で凍りついた。
「……あ」
 それは寒いからではなく。目の前の、すさまじい崖に圧倒されたからだ。

     


「……飛ぶ?」
 そっと冷笑を浮かべる不気味な猫。周りは冷たく頬を打つ空気。
 脈絡ない言葉とは、これほど乾いて不気味で寒い。
「そう、飛ぶ。ジャンプする。ダーイブする」
 彼女の足元のコンクリから、雑草が必死に生えている。苦しそうに生えている。
「……どこから?」
「どこから」
 まるで鍵盤を奏でるようだった。
「どこから。どこからと??」
 手元の旋律を確かめるように、葉桐さんは悠然と会話している。
 しかし、意味が分からない。気後れしている自分がいた。
「ここからだよ」
 葉桐さんの手が、ピストル形になった。屋上の柵が、グリップ代わりの人差し指によって弾かれる。
 いったい何を伝えたいのか、理解できない。
「あの、ふざけてるの? もしかして」
「ふざけてないし、特に冗談を言ってる気もない。それよりも、飛ぶ? 飛ばない?」
「…………」
 なんで僕は、こんな嫌な学校の、こんな寒い屋上で、こんな電波な女子に絡まれているんだろう。どうしてだろう。
「飛んだら死ぬよ」
「うん」
「うんって……」
「でも、そうしなきゃならない。いや、そうしたい。そうしたいはず。佳山くんは」
 ギョロリと、餌を求める金魚のような奇抜な目を向けてくる。しかし、そんな目や言動を次第に受け入れている自分自身も、十分奇妙だと思う。
 つまりは。
 いじめか。
「それは……、嫌味なの?」
「嫌味?」
「いじめられてる……」
 自分でそれを公言するのは、ひどく恥ずかしいものだった。
「いじめられてる、僕に対して」
「飛べるよ」
 会話にならない。
「むしろ飛んだ方がいいよ。あれだけ不幸抱えてるなら、この腐った学校、日本、世界、地球、宇宙、あらゆるすべてから解き放たれたほうがいいよ」
「……は?」
「いい場所があるの。行こうよ」
 不適に破顔する彼女を背景に、飛行機が喧しい音を立てて飛んでいった。
 轟音が聞こえなくなる頃、昼休み終了のチャイムが鳴った。

     

 昇りきった太陽は、ゆっくりと業務をこなし、西へと航路を取る。乾燥した空気は少しずつ冷たさを帯び始め、朱色の空へと変わっていく。
 気温は肌を鞭打つほど冷え込み。気だるいカラスの声も聞こえず。時間を追うごとに、木々の震えるようなさざめきが、一層もの悲しく聞こえた。
 そんな夕暮れ。
「どこまで行くの。いい加減、しんどい……」
「部活やってるんでしょ?」
「バスケに自転車乗る機会ないよ」
「体力づくりはするでしょ、でも」
「二人乗り、一時間以上する機会もない」
「私もない」
「…………」
「あ、そこを左に」
 赤い山道。
 午後の授業、そして部活までサボった挙句にやってきたところが、この長く、平坦な、隣町の外山。今では夕暮れに染まり、周りの風景が赤く焼け焦げている。
「……まだ着かないの?」
「もう少し」
「……さっきも言ったよね」
「それは佳山くんが、さっき言ったばかりだからだよ」
「……いや、だって」
「着いたよ」
「え!?」
 焦って急ブレーキをかける。体がつんのめりそうになった。
「危ないなぁ。別に急に止まらなくてもいいのに」
「いやだって、いきなり言うから……」
「もう少しって、言ったじゃない」
「それは……そうだけど」
 自転車を降りて、足元の感触を噛み締める。
 久しぶりの、湿った土の触り心地。革靴を隔てても、その生きた地面の呼吸――草木の香りが頭にまで伝わってきた。
「――っ」
 今日は比較的、晴天で暖かかった方だが、この時間帯になると次第に冷え込んでくる。風の勢いも強い。髪が撫でられ、何度も額をこすれていく。
 辺りは虫の鳴き声、鳥のさえずりも一切聞こえず、人の気配もない。高い人工林に囲まれた山の中腹は、空寒い樹海を思わせた。
「寒いね」
 と呟いた、彼女の言葉で凍りついた。
「……あ」
 それは寒いからではなく。目の前の、すさまじい崖に圧倒されたからだ。

 その暗い深淵は、どこまでも続いているようだった。
 周りが薄暗いせいで、底が見えない。そして穴は、どこまでも黒く、闇に満ちている。
 まるでブラックホール。
 辺りの木々、雑草、土、空気、この山全体までもが、この崖に吸い尽くされているよう。すべてを闇の成分として分解され、穴を構成する一部品として。自分もこの崖の中へ、吸い込まれていくような――
「佳山くん」
「……すごく、深そうな崖だね」
 額が冷たい。こんなに気温が低いのに、僕は汗をかいている。
「まぁね。昼に来ると、下に見える川が綺麗で、絶景だよ」
 底が見えるのか。少し驚きだ。もしここから落ちたら、たとえ昼だろうが夜だろうが、宇宙まで突き抜けそうな気がする。
「あの……、ここが?」
 葉桐さんは、目をキョトンとして首をかしげた。その仕草は愛らしかったが、どこかワザとらしかった。
「ここで……」
 その先を言えないのは、自分の臆病さからか。それとも。
「飛べたらいいのにね」
 彼女の声。横に並んだ彼女は、どこか虚ろな目で崖を見下ろしている。
 風が吹いた。彼女の前髪が、サラサラとなびく。目下の闇が吐息でもしたのか。その風の匂いは、いやに生臭い。
「い、いや……」
 脇が汗でにじむのを感じた。背中も。太ももから尻の部位まで、知らずの内に発汗している。これはどういう汗だろうか。いや、わかっている。理解している。
 引っ込みがつかない。
「でも、きっと飛べない」
「え?」
「きっと飛べないんだ。きっと」
 いつのまにか、辺りは本格的な闇へ。と、機械的な音が響いた。携帯電話の開く音だ。
 液晶が淡い光を放ち、葉桐さんの顔を照らす。
「ここって、自殺の名所なんだよね。あまり知られていないけど」
「そうなの?」
「正確には、自殺未遂の名所」
 青白い顔で、携帯を正視している。それはどこか、死人の表情に似ている。死人の表情というと、どういうものなのかは説明できないけれど、それは死人の表情なのだと思う。
「未遂?」
「そう。ここでは、誰も死ねない」
 ここに落ちて、死なない? 死ねないはずがない。それは物理的におかしい。こんな何十メートルあるかわからない崖から落ちれば、誰でも死ぬ。どんな完璧な受身を取ろうと、それは変わることはない。子供でもきっと判別できることだ。
「もう少し前に出て、もっかいよーく下を見てみて」
 僕は意識して、瞬きをした。そうすることで、相手に対して自分が緊張していることを伝えられる。まったく意味のない行動でバカバカしい。
 穴をもう一度見る。額の汗が頬を伝う。これは、どういう汗なのだろうか。
「あ」
 言われた通り、よーく見る。すると、岩壁沿いに、また小さな崖が見えた。少し広めの空間。うまく今の崖と並列して、大きな岩が突き出ている。
「あれは……」
「うまいこと、はみ出してるでしょ。結構おっきい岩なんだ」
「で、でも、これじゃ」
「そう。ここからじゃ、そーとー向こうまで飛ばないと、下の川まで落ちることは不可能」
 目を凝らす。下の岩までは、およそ三メートル。おそらく、頭とか、当たり所が悪くない限り、死なない。そして下の岩の広さは、
「見えない……」
「自殺ってね、夜に決行する人が多いんだって」
 大きな虫を潰したような音がする。彼女の携帯が閉じられた音だ。辺りの闇が、また一瞬濃くなったような気がした。
「まず、人目につきにくいっていうのがある。それに夜だと、何かセンチな気分になりやすいし。死にたいって気持ちをセンチというのは間違いかもしれないけれど、私個人としてはそういう気持ちだと思う。うん。一番重要なのは、視界ね。夜は、視界が悪いでしょう? だから、こういうところから飛び降りると、意外と楽に死ねるの。本当に高いところから飛び降りると、闇の中で闇に消えるのよ」
「でも、ここからじゃ死ねない」
「そうだね。死ねないね。落ちてもせいぜい骨が折れて死ぬほど痛いだけだろうね。死ぬほど痛いけど、死ねないだろうね」
「そうなんだ」
 吐息して、顔を上げる。暗闇の中でカラスが鳴いた。二度鳴いた。空耳ではなかったと思う。
「本気じゃなかったんだ」
「佳山くんがね」 
振り向いた先、彼女は思ったよりずっと後ろにいた。あれはそう、助走するのにちょうどいい距離だ。体力測定の走り幅跳び。砂場からスタートラインまでくらいの距離。
「ど、どうしたの」
「やっぱりそうだ。飛べるわけがない。そんな腐りきった弱々しい気持ちで、自分の命をどうにかできるわけない」
「なに言って――」
「私、調べてみた。六メートル十九センチ。それがこの崖から、下の崖の先端までの距離。それを越えれば、確実に死ねる。私たちくらいの体格なら、飛べない距離じゃない」
 革靴で地面を踏みしめ、立ち上がる。下は湿った冷たい土。背後はだだ広い暗闇地獄。
「無理だよ、そんな距離……」
「だから君は飛べない」
 周囲の枯れ枝が、突風で乾いた音を奏でる。体がぐらりと揺れて、頭もぐらりと揺れた。
「佳山くんの痛みって、つまりはそういうことなんだよ。たいしたことないんだよ。死ぬよりもずっと楽で、つらくもない。ただ、甘えてるだけ」
「……なんだよそれ」
 一歩、踏み出す。背後の闇から、一歩を遠ざかる。
「ここから飛べないってことは、覚悟がないんだ。つまり、死ぬに値しない。それまで値するものもない。結局、君は別段、不幸でもなんでもないってことなんだね」
「誰が」
 一歩。一歩。暗闇の泥濘を引き連れて、僕は彼女へと足を勧める。
「特別なんかじゃない。特別だと思う必要もない。君はどこにでもいる少年で、普通に生きている。普通に、生きてるんだよ」
「ぼ、僕が」
 気づけば、足が速まっている。後ろから押されている気がする。風か。闇か。どっちだろう。
「だから、がんばろうよ。いじめなんかに、今の自分の境遇なんか、私は――」
「あんたに何がわかるんだよ!」
 葉桐さんの目の前で、大きく叫ぶ。僕は彼女より背が小さいので、見上げて叫ぶ。少し唾が飛んでしまったかもしれない。でもそれはどうでもいい。今は。
「俺の気持ちが、あんたにわかるのかよ! しぇ――」
 噛む。こういう怒鳴ることに慣れてないから、いつも僕は噛んでしまう。
「背が低いから、いくら練習したって、バスケはうまくならない! 身体も、全然っ、大きくならない! 部員からは、馬鹿にされる、後輩にもだ! ……クラスのやつからはちまちまちまちま、薄汚いイジメ、こすい嫌がらせ! 親はバカみたいに平和で、俺に無関心でいやがる! なんだこりゃ! なんなんだよおい! なんだこれ!!」
 葉桐さんのポーカーフェイスが崩れた。眉が引きつって、唇をかみ締めて、こちらを渋い目で見ている。
「大丈夫だよ。だって私は――」
「大丈夫なもんか! ぼ、僕は、いつだってギリギリなんだ! 人のすることをいちいち横目で見て、ビクビクしながら……。誰も僕に関心を向けてくれない。向けてるのは僕に対する……」
「か――」
「こんなの、こんなの何が未来だ!」
 息が切れる。顔が熱い。胸も熱い。全身が熱い。こんなに叫んで、全力で人に文句を言うのも久しぶりだ。互いの沈黙の間に流れる冷たい風が、むしろ心地よい。
「佳山くん」
「昔さ、絵を描いたことがあるんだ」
 葉桐さんがまた、首をかしげた。今度はわざとらしくない。
「先生に、未来の世界を描いてみましょうって」
「…………」
「僕は、いっぱい描いたよ。ロボットや、高いビルの町並み、宙を飛ぶロケット。考えられる想像を全部描いた。でもここには、そんなもの何一つありはしない。あるのはチビで陰気な僕と、そんな僕を笑うふざけた野郎ばかりだ!」
 彼女に背を向ける。そして、たった今背を向けていた闇へと体を向ける。濃厚で、粘りつくような黒い景色だ。なぜか、暗闇しか見えない。気味が悪い。
「こんなところ、もういるもんか!」
「ちょっと――」
 後ろで、彼女が手を伸ばしたような気がした。でも、僕には触れられていないから、それは定かではない。
 耳の奥で、風がヒュンと鳴った。
 叫ぶ。力の限り叫んで、自分が耐えうる、いや、耐える必要がないほど全身全霊で駆ける。
 歯を噛み締め、力強く足を踏みしめたとき、
「佳山く――」
 それが、この世界で聞いた最期の言葉だった。

     

 目が覚めた天井は高かった。
 見たこともないような天井。
 布か。なんだろう。動物の皮か。わからない。わからないものが天井に張り付いている。まだら模様で、綺麗な天井だ。
「――――――」
 白いシーツ。羽織っているのは、羽毛か。大きなベッドだ。自分の温もりが通っているシーツは、とても心地よい。手のつま先で、軽くこすってみた。指の中でさする感触が、気持ちよかった。
 目を、天井から左右へ。広い。部屋中に絢爛な装飾がなされている。アンティーク、絵画、ピアノ、シャンデリア、鹿――
「――――!!」
 思わず起き上がる。なんで鹿――と、思ったのは、どうやら剥製のようだった。頭から、首の部分までしかない。それが、壁に張り付いている。傍には、盾のようなエンブレムも立て掛けてあった。床には赤い、スウェット生地のような絨毯が敷かれてある。
 なんだ、剥製か。吐息し、改めて周りを見渡すと、
「……アオ様」
「?」
 見ず知らずの老人が、傍に座っていた。タキシードを着た、かなり身なりのいい、執事風の老人。信じられないものを見たかのように、とても驚いた顔をしている。
 誰だ。
「おお……、アオ様……。アオ様が……」
 目尻に涙を溜めている。なぜこんなにこの老人は感無量なのだろう。それよりも、誰だ。どうして僕は、こんなところにいるんだ。ここは、
「どこ――」
「アオ様がお目覚めになられた!」
「え?」
 老人は叫び、座っていた椅子から飛び上がった。そして一目散に部屋の扉を跳ね開け、外へ。部屋の扉も、豪奢なドアだった。
「…………」
 取り残されて、僕は自分の状態を確認する。今僕は、見たこともない柔らかな大きなベッドにいる。
 白いゆったりした服を着て、映画に出てくるような西洋建築風の、これまた広い部屋にいる。
 そして、違和感が。意味のわからないことが。
「…………」
 自分の胸に微量な膨らみがある。腰周りがスースーする。
 それに、髪。胸を見たときに視界に入ってくるほどの毛が、僕の頭から伸びている。しかも茶色い。黒くない。
 見下ろす腕は、とんでもなく肌白く、細かった。
「な、なんだ、これ……」
 体つきが、いつもの自分と明らかに違う。僕はしばらく、自分の体を瞠目してしまった。
 と、大きな足音が数人分。だんだん近づいてくる。
「――アオ!」
 激しくドアが開かれる。続々と人が入ってきて、ドアがひっきりなしに揺さぶられる。立派なドアが、少し可哀相になるくらいの勢いだ。
「アオ!」
 ズイと、まっしぐらに駆け寄ってきたのは、スーツを着た中年の男。よく肥えている。額や頬が汗だくだ。気持ち悪い。
『アオ様! アオ様! アオ様!』
 立て続けに自分の名前を様付けで呼ばれる。奇妙でムズがゆい気分だった。
「アオ……、アオ、おお、神よ……」
 ただ一人自分を呼び捨てにする、肥えた中年の男。その男が、僕の頬へ手を寄せる。熱の入った手の平が、頬にねっとりと触れた。
「…………」
 執事風の老人と同様に、中年の男は泣きそうになりながら、笑うのを堪えている。いや、笑えないのか。笑いたいが涙が出てくるので笑えない苦しさ。要するに、最高に嬉しい表情。
 しかし、どうして自分が目覚めたことに対して、これほど喜ばれるのか。そもそも、どうして体が女になっているのか。ここはどこなのか。僕は確か、さっきまで葉桐さんと――
「……あ」
 男の手を顔で払い、勢いよくベッドから飛び降りる。着ている服は、ワンピースだった。初めて着るその長い服は、寒くて走り難かった。
「ここは……」
 僕は、崖から飛び降りた。葉桐さんの言葉にカッとなって、もうどうでもいいと思って、文字通り死ぬほど助走をつけて飛んだ。落ちる感触があって、胸が締め付けられるように痺れた。そこから先は覚えていない。
「ここは、どこだ……」
 自分の背より二周りも大きい窓へ近づく。そして窓の外を見る。
 僕は驚愕した。
「……そんな――」
 絶景と呼べる。
 ここは何階か。おそらく五階以上はある。そこから見下ろす視界は、町全体を見渡せた。ちょうど、学校の屋上くらいの高さからの視点だ。
 しかし、その俯瞰風景は、学校の屋上のものと明らかに違っていた。
「ど、どうしたんだ、アオ……」
 中年の男が、落ち着けと、肩に手を置く。だがそんなもの、何の効果もない。落ち着けるわけがない。
 なぜなら、
「…………」
 高い高層ビルが、町全体を敷き詰めている。しかし所々に、レンガ造りと思われるレトロな建築物もたくさんあった。遠くには山が見え、町全体を覆っているように見える。都会なのか田舎なのか、よく分からないアンバランスな町並みだった。
 僕の住んでいた町には、どこにもなかった風景だ。
 言葉を失う。これは夢か? それとも、死んだ後の世界か? 僕はあの後、崖から飛び降りた後、どうなったのだ?
「見違えた風景に、動転しているのか? 無理もない。何しろ三年だ。しかし、目覚めてよかった。私は嬉しいぞ、アオ……。人生で一番、最高の日だ」
 意味不明な男の言葉を尻目に、僕は真新しい風景をしばらく見ていた。

     

違う。
違うと思う。
 こんなのは違うと思う。
 これも、僕には理想の世界じゃない。
 身体が美しい女性になろうと、お金持ちの家の生まれだろうと、穏やかな街の育ちだろうと、親身な家族に囲まれていようと、それは僕の理想ではない。
 僕の理想は失くなった。
 僕の理想は、陳腐なものだ。そう思い始めた。
 それが、崖から飛び降りてこの街で目覚めて、顕著になってきた気がする。
 空飛ぶロケット? 仲良しのロボット? 未来の車? 平和な社会?
 どういうことだよ。僕がどんな暮らしをしたと思ってる。
 毎日毎日嫌なことばっかりだ。自分の矮小さを常に思い知らされる。
 僕が弱者だと感じる。最低ランク外のクソ。
 カッコをつける前に、カッコがつかなくなる。
 そうしているうちに、周りのカッコがついている人間を見るようになってる。
 そして九ミリの大きな蚤よりも小さくなった。
 死んだおばあちゃんと体重が同じになった。
 あの夢はどこに行った。僕が描いた、僕の未来都市はどこに行った。
 どこに。
 どこだ。
 砂漠の果てにでも、墜落してしまったのか。どうなんだ。
 マメが潰れたような痛みを感じる日々にさよならだ。
 もうたくさんだ。
 そう思って行き着いた先が、こんな理想の世界だ。
 理想? 違うな。これは理想じゃない。
 理想と思い込んだ世界。
 ――混乱するわけだ。
 ああ、今僕は、混乱している。
「…………」
 目が覚める。
 重々しく、瞼を悠然と開く。安閑とした目覚めだった。
 ゆっくりと、ベッドの柔らかいシーツの感触を確かめながら、ゆったりと起き上がる。
 気だるい眼差しが見つめるのは、大きな窓から見える、大きな空だった。
 空は青くなかった。
 黒煙がモウモウと立ち込めている。
 僕の目が見開いた。
 煙? 飛び起きて、窓の外を見る。
「――――」
 まるで別世界。
 別世界だった。
 瓦礫の山が、火と煙を吐き出しながら町を覆っている。
 破滅の死海。
 逃げ惑う人々の影。崩れる建物。渋滞している道路。グシャグシャの自動車。うるさいサイレン。ああうるさい。
 積み木崩し。
 僕が壊したような積み木崩しのような荒れ果てた風景だ。
「アオ様!」
 っと勢いよく部屋に入ってきた老執事の声も知らない。どうでもいい。
 今は僕は、この世界の風景に釘つげだ。
 乾いた唇。寝起きでねっとりした口内。そんな僕の口元が醜く歪む。
 腹の辺りから筋が通った。光の筋。感覚の筋。身体を震えさせる得体の知れない筋が脳に突き刺さる。
 僕はきっと笑った。
「――――っ」
 これだ。これだよこれ。こうでなくちゃ。
 これだよ。そうだ。どうでもいいんだ。
 泣き叫べ。崩れろ。破滅しろ。
 もう訳が分からないんだ。
 ガシャガシャのグチャグチャだ。やったぜ。
 ああやった。
「ははっ」
 そうだ。これだ。
 これがワタシの、『新しい』、未来都市だ――


       

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Neetsha