Neetel Inside 文芸新都
表紙

落下
「八月十日」

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 水道の蛇口から両手で水をすくう。
 オーディオからはロックを名乗りながら、売れるのはいつもバラードと言うなんとも皮肉なバンドの、やはりバラードが流れていた。
 ひんやりとした感触をそのまま頬へとあて何度か顔を洗う。呼吸がもたなくなるまでそうして限界がやがてやっと来ると僕は洗面台から顔を持ち上げぷはっと息を吐いた。濡れた前髪を適当に払いのけタオルを取る。
 ソファに腰を下ろす。時計を見る。午後八時五十分。麻奈と約束をした時間は十時なのでまだかなり余裕があった。
『康弘、元気にやってる?』
「うん、ぼちぼち。そっちは?」
 一時間ほど前に、実家に電話をかけた。予想通り出たのは母さんで、僕の声を聞いて安堵のような溜め息を吐いていた。
「父さんはどうしてんの?」
『暇してるわよ。二人だけだから。この前車で出かけたりしたわ』
「そっかぁ」
 元々仲のいい夫婦。息子の贔屓目を使わなくてもそう見える二人だったが、父さんは休みの日と言えば家でごろごろしていたイメージしかない。それに中学生の頃の僕は反抗期と言う事もあってか、あまり父さんと会話をする事はなかった。
「よかったじゃん」
『相変わらず康弘は呑気ねぇ。そんな風に言ってる場合じゃないでしょ?』
「いや、まぁ、そうだけどさ」
『それよりご飯ちゃんと食べてる? 風邪とか引いてない?』
「大丈夫大丈夫」
『暑いからってエアコンつけっぱなしはダメよ』
「分かってるよ」
 煙草に手を伸ばしかけて、受話器の向こうにいる相手の事を思い出し慌てて引っ込めた。通話中に煙草を吸う習慣が思わず出そうになったが、母さんには僕が煙草を吸っている事をまだ隠し通していた。手持ち無沙汰になった手でなんとなくカーテンを開く。昼には晴れていた空によどんだ雲が広がろうとしていた。雨が降りそうだと僕は少し気にしながら母さんの小言に苦笑した。
 母さんもこんな時でも、言う事は変わらないんだな。
 最後まで母さんは、僕の母さんなんだよな。そして僕は息子だ。いつまでも、どんな時でも親に心配されている息子だ。
『ねえ、康弘?』
「ん?」
『ううん、やっぱりいいわ。元気そうで安心したわ』
 帰ってこないの?
 そう言われたような気がして、僕は少し胸が締め付けられる。
「……おう」
 きっと、今の僕は捨てられた子犬のように寂しそうで弱々しい存在だ。
 母さん、ごめんな。俺も本当は会いたい。出来たら親父の運転で母さんは助手席。俺は後部座席にでも座って三人でドライブにでも行って、観光名所でも回ってから、帰りに適当になにか食べて、家のリビングで――ニュースばかりだが――テレビでも見て談笑したあと、母さんが干した布団で寝て朝を迎えたいと思うよ。けどさ、俺こっちに好きな子がいるんだよ。その子は優しくて、笑うとちょっと垂れ目がちな大きな目が印象的で、俺みたいなアホの話もよく聞いてくれて、ちょっと抜けてたりもするけど人の気持ちとかちゃんと考えられる子で、おまけに結構可愛いんだ。俺、その子と一緒にいたいんだよ。けど母さんや父さんよりその子の方がいいって訳じゃないんだ。そんだけは分かってほしいんだ。いや、分かってくれるよな。いや、もう分かってくれてるんだろうな。
「じゃあ、またな」
 胸の内だけの言葉。母さんも聞いただろうか。
『いつでも連絡してきていいからね』
「おう」
 母さんの明るい言葉に、僕も元気よく答える。
「……親父、何歳だったかな」
 ソファベッドで僕はぽつりと呟いた。腕を組んで悩むが思い出せない。今度電話した時に聞いてみよう。
 窓の外は先程から広がりつつあった曇り空が星を全て飲み込んでしまい、ポツポツと雨を降らすようになっていた。縁起が悪いな、と僕は舌打ちをしながら箪笥から服を取り出し着替える。
 智史は派手だと顔をしかめるファッション。
 細いラインの入ったVネックの細身の黒Tシャツ。
 大き目のチェック柄が入ったサスペンダーを垂らしたグレーのボトム。
 ポールスミスの赤い盤面の腕時計。
 シルバーのダブルプレートのネックレス。
 ギャッツビーの緑。
 鏡の前で、後ろ髪を掴むように持ち上げぐしゃぐしゃと乱雑にかき混ぜ浸透させ、捻りながら外に軽く跳ねさせる。少量で前髪を左から右へと軽く流す。
 甘い愛を歌うバラード。人気のない世情を激しく憂うロック。後者の方が僕は好き。
「っしゃ!」
 パチン、と右頬を軽くはたく。部屋のど真ん中で僕は両腕を天井に向け大きく伸びをした。
「行くかな」
 白の折りたたみ携帯。赤いマルボロ。黒いレザーの財布。
 玄関に置かれた黒いブーツ。駐輪場に並べられている銀色の自転車。
 僕はまたがり、ペダルをこく。
 小雨のせいで髪形が崩れてしまいそうだと心配しながら、彼女の家へと向かう静かな夜道を走る。
 裏道に入り、以前彼女を後ろに乗せて走った川原を通る。魚がどこかで跳ねたのかぱしゃんと音が鳴った。視線を向けてみるが暗くて見つける事は出来ない。代わりに聞こえてくるのは蛙の不快な鳴き声だった。
 自転車を漕ぎながら煙草に火をつける。僕は上半身を曲げてハンドルにもたれながら、いつもより長い時間を取って吸い込んでから、ゆっくりと吐き出す。赤く燃えて灰と化し短くなった煙草を僕は人差し指で頭上に弾いた。くるくると回りながら重力に引っ張られて僕の背中の方で落下する。
 今、どうだろう?
 自分に尋ねてみた。
 思ったよりは落ち着いているみたいだ。
 川原を抜け、似たような家が並んでいる住宅地に入ると、僕は姿勢を正す。窓から零れている光や街灯の明かりが、彼女の家まで案内しているような錯覚に陥る。
 そんな光に包まれた道を通り、僕は彼女の家へと辿り着き、そして門の前の道路で青い傘を差して僕を待っていた麻奈の姿を見つける。ペダルを踏む足に力を込める。
 十時十分前。雨。夜道。
 僕が連絡してきてから出てきてくれたのでいいのに。いや、分かってる。それが橘麻奈のアイデンティティ。僕の好きなアイデンティティ。
 手を上げた。
 僕に向かって手を振る彼女。
 薄手の少しネック緩めの、ピンクベースに白が添えられたパーカーチュニック。
 チュニックの裾から覗く淡いグラデーションがかったオレンジのスカート。
 アイボリーのコットンニットのブーツ。
 そして、それが柔らかい事を僕は知っている顎のライン辺りで綺麗に切りそろえられた黒い髪。

     

「よう」
「傘差さずに来たの? 肩濡れてるよ。寒くない?」
「これくらいだったら大丈夫だよ。けどさすがに傘差しながら二人乗りはしんどいな。歩くか」
「そうだね。庭に自転車置いておいていい? 屋根がないから濡れちゃうけど」
「あー全然平気。歩きでも大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 彼女に促されて、自転車を止める。その間に彼女は玄関へと向かっていった。素直にその場で待っている僕のところに戻ってきた彼女の手には傘が握られており、はい、と手渡される。
 僕は、ちょっと躊躇したものの渋々受け取ることにした。ここでいや、一本でいいじゃん、と言えるほどの度胸は流石にない。
 僕達は別々に傘を指すと再び道路へと舞い戻った。
「どこに行くの?」
「ちょっと歩きだと時間かかるんだけどいっかな。行きたかったとこあるんだよな」
「どこ?」
「秘密」
「えー。気になるよ」
 麻奈のせっつきに僕は悪戯っぽく笑い返し「着いたら分かるから」と彼女の体を反転させる。
「別に怖いとか怪しいとか言う場所じゃないから」
「もう、康弘君顔に出てるよ」
「え?」
「そうやって笑うとき、康弘君なにか企んでるもん、いつも」
「まっさかぁ」
 もう一度僕は声に出して笑う。
 全く。智史にお前はバカ正直すぎる、なんて偉そうに言ってるが、僕も彼女の前では似たようなものらしい。
「いいからいいから」と彼女と並んで歩き出す。そんな僕に彼女も「はーい、分かりました」と微笑んだ。
 道路に広がった水溜りをよけながら、僕達は目的の場所へと向かう。
「こんな時間に出てくるのなにか言われなかった?」
「どこ行くの? ってちょっと聞かれたりしたけど、康弘君とって言ったら許してくれたよ」
「マジ?」
「うん」
「そりゃあもう俺の人徳の賜物だなー」
 照れ隠しにそうボケるが「お母さん康弘君の事前褒めてたよ。いい子だねって言ってたもん」と、全く僕の心情に気が付いていないらしい麻奈のべた褒めに、僕は「今度お土産でも持ってこうかな」と首を捻って誤魔化す。
 ふと道沿いにポツンと雨に濡れる自動販売機を見かけ、足を止めた。
「麻奈なんか飲む?」
「うーん、じゃあ紅茶」
「いいよ」
 五百円を入れると電灯が一際強く光った。ストレートとミルクティーとレモンティーがあるが、僕は迷う事無くミルクティーを押す。僕はコーラを飲もうとしたが売切れてしまっていた。
「コーラ殆ど売り切れてんだよなぁ。俺ん家の近くの自販機にもないし」
 僕は憮然としてそう愚痴った。悩んでいる間にお釣りが出てきてしまう。僕はやれやれとしゃがみこんでそれを拾うと百二十円を再び入れなおし、ストレートの紅茶にする。
 空っぽになってしまう日を待つ自動販売機。
 ただ補充されない。それだけのことだが、そんな些細な事の方が、世界が終わるのだと言う事を強く僕達は感じさせられるのだった。
 テレビで流れる衛星からの隕石の映像や、総理大臣の発言は、僕達にとってはリアリティの欠片もなく、まるで出来の悪い映画を見ているんじゃないだろうか、と俯瞰めいた視線で見てしまう。
 日常。僕達にとって、重みがあるものは結局自分達の手の届くところでしか感じる事は出来ない。そういった普遍だと思っていたものが自分の手元から零れていく時、ようやく知るのだ。
 現実の重み。
「康弘君、コーラ好きだもんね」
「まぁ、まだ家にはあるからいいんだけどな」
「そうなの?」
「そうそう。ああいうものは早い者勝ちだからな。ある内に取っとかないとな」
「煙草も一杯あるんでしょ」
「結構」
「もう。せっかくだから本数減らせばいいのに」
「いやぁ、それは無理かなぁ」
 そしてそれがなくなった時のまるで無重力に陥ったかのような脱力感と、訪れる苦い質量のない重みを持った虚無感と空虚。
 片手でプルトップを引き起こす。コーラとは違う甘みを口に感じる。
「ラジオうまくいくかな?」
「んー、まぁ、俺全然詳しくないから分からないけど設備さえ準備できたら出来るんじゃないかな。智史が言うには詳しい奴がいるとか……名前なんだったかな」
「智史君急にラジオするってなにかあったのかな?」
「なんつーか、他人のためだし、自分のためでもあるのかな」
「ラジオを聴いてる人になにか伝えたいのかな? 自分のためって?」
「あー、ほら、自分の中の穴を埋めたいんじゃないかな。それがラジオだったんじゃないかな? あいつが出来る事で」
「穴、かぁ」ポツリと漏らす。「智史君、まだ里美ちゃんの事気にしてるのかな。真尋の気持ちには気が付いてないだろうし」
「そうだろうな」
 そうとしか言えず、僕は二人をどうしたものだろうと尋ねる。
 交差点に差し掛かったところの角に個人経営していたらしいゲームセンターが見えた。ガラス張りから店内を伺うと僕と同い年くらいの男女がきゃあきゃあとはしゃいでいるのが見える。
 智史は今、誰のためになにをしようとしているのだろう。
 僕はこう答える。里美のため。里美を想っている自分のため。真尋のためではない。真尋には悪いがそれが正しいように思えた。彼の中に彼女が今以上の存在として入り込む余地はあるのだろうか。真尋にとってはラジオをしようとしている智史の心情は理解したいものではないのかもしれない。真尋に向けられる行為ではない事。そしてその間にも時間は減っていってしまう。
「……でも、だからって真尋は文句を言う事も出来ないと思うの。それが智文君のやりたい事だから」
 まるで自分の事のように麻奈は思い口調で呟く。
「……アイツもバカだからな」
 僕の部屋で、泣きそうな声で失恋を語った事。
 その失恋に自分なりにケリをつけたいと語った事。
 真尋には悪いけれど、僕はそれを達成させてやりたいと思う。
 僕達は少し黙り込んで雨が降り注ぐ道を二人で並んで歩いた。時折通る車のヘッドライトが見える度道の端に寄り行き過ぎると、僕達は道の真ん中を歩いた。傘がたまに当たり、僕達は少し離れ、それでもまたいつの間にか近づいていたようでまたこつんと当たる。僕はその衝突で彼女の肩に付いた水滴をさっと払った。
「ま、俺がなんとかしてやるよ。ラジオが終わってからでもまだ真尋にチャンスはあるって」
「そうだよね」
「そうそう」
 と僕は頷いて立ち止まった。
「だからそれはその時、また考えよう。着いたよ」
「え? ここ?」
「そうそう」
 彼女は目的の場所がこんなところだとは思っていなかったようで、いきなりの到着宣言に呆けた返事をした。
 そこにあったのは、道沿いに立てられた赤い鳥居と、そこから上へと昇るために続いている階段だ。僕はそこを指差しながら「ここの神社にちょっと来たかったんだよね。来た事ある?」と尋ねる。
「小さい時、お祭りで来たことがあるくらいかなぁ。最近は全然来てないよ」
「そりゃよかった」
「え?」
「いや、こっちの話、階段あがろっか」
 うやむやな表現をする僕に、疑問符をよこすが僕は答える事はしなかった。
 怪訝そうな表情の彼女に「足元、石濡れてるけど滑るなよ」と彼女の歩調に合わせながらゆっくりと、それなりの距離がありここからではまだ見えない神社へと足を進めていく。

     

 白石が敷き詰められている神社は、麻奈の言うとおり祭りなどの行事にも利用される事があるようで、それなりの広さもあり、掃除も隅々まで行き届いていた。階段を上りきったところにはもう一つ鳥居があり僕達はそれをくぐる。初めて訪れた僕はその思っていたよりずっと立派な境内を見てへぇ、と漏らした。
「でかいんだな。想像ではもっとこじんまりした感じなのかと思ってたけど」
「そうなの? ここって結構有名なんだよ。初詣のお参りに来る人も多いみたいだし」
「あぁ、麻奈はお父さんの実家に帰ってるからこっちには来ないんだ」
「うん」
 雨が降っているためだろうか、僕達以外だれもいないようだった。最近の神社は防犯対策に警備会社など契約しているそうだが、確かにこう人気がないと罰当たりな連中がやってきてもおかしくない。
 参道は参道にそって歩く。脇に置かれてある雨に晒されている狛犬が僕達を睨んでいるようで、麻奈にそれを言うと「やだ、やめてよー」と泣きそうな顔になる。晶と同じで怖い話は苦手らしい。
 賽銭箱が置かれている建物の前で僕達は立ち止まった。
「本堂って言うんだっけ」
「違うよ。ここは拝殿って言うんだよ。それに本堂じゃなくて本殿だよ」
「え? そうなの?」
「そうなの。私も勘違いしてたんだけど、神様がいるのはここじゃなくて奥にある本殿なんだって」
「へぇ、知らなかった。ってじゃあ今まで俺なににお参りしてたんだ」
「えっと、それはここからでも本殿の神様にだと思うけど」
 自分の無知を思い切り棚に上げて「へーそうなんだ」と、麻奈の博識に感嘆の声を上げる。
「私もお父さんから聞いただけなんだけどね」
「いや、すげえよそれ。絶対俺の周りの奴ら勘違いしてるわ」
 そう言いながら僕達はお参りをする事にした。賽銭箱に僕は玄担ぎに五円を放り投げた。二度手を叩き目を閉じた。ややあって開くと隣ではまだ麻奈が手を合わせている。じっと見ていると目を開けた彼女が気付いたらしく慌てふためいた。
「なんだよ?」
「あ、いや、なんでも」
「なにお願いしたの?」
「……内緒です」
「ふーん、ちょっと、座ろっか」
「うん」
 近くにあった古びたベンチに腰を下ろす。屋根があったので濡れてはいないようだった。
 煙草に火をつける。
 辺りには誰もおらず、静かなものだった。
 僕はふっと煙を吐き出す。


「ここってさぁ。ジンクスがあるんだって」
「ジンクス?」
「そうそう」
「どんなの?」
「この神社で告白して成功したら、それからも上手く付き合っていけるんだって。麻奈聞いた事ない?」
「へぇ……聞いた事なかった」
「そっか。いや、まぁ、俺もそれにあやかろうと思ってさ」
「え?」
 思ったより、それは容易い事だった。
 覚悟とか悟りとか諦めとかそういうものでも一切なく、呼吸をするのと同じ事とでも言うように、僕は言葉を紡いだ。
「俺、麻奈の事が好きなんだ。だからさ、付き合ってほしい」
 言った。
 数年分の想いとやらはたったそれだけの短いものだった。
 僕はまだ長い煙草を地面に放る。雨に打たれてすぐに火は消えてしまった。
「…………あのね」
「うん」
「あと、二十日しかないんだよ?」
「そうだなぁ」
 僕達は互いを見ずに、ただ真正面だけを見ている。
「私も康弘君の事好きだよ」
 彼女がぽつりと言った。
「けど、付き合ったりとかして、もし嫌になったりしたらどうしようって思って。あと少ししか時間がないのに、その時まで一緒にいられなくなるようになったりしたらどうしようって思ったりしたの」
「それは俺も思ってた」
「そうなんだ」
「俺もこのままでもいいんじゃないかな、とかちょっと思ってた。このまま友達で楽しくやれるなら、とか。でもさ、それって結局本当の俺じゃないし、それに」
「それに?」
「上杉直人と植田智子とは違う形で、俺も自分にとっての後悔しない最善を選びたくてさ」
 二人の名前に麻奈は少し俯いたようだった。
 しばし沈黙。
 雨は小雨のまま、静かに降り注いだ。なんだかそれは僕達二人と他のあらゆるものに境界線でも引こうとしているようでもあった。
 上杉と植田。
 二人は生き残る事に後悔を覚えたのだろうか? 二人で考えた最善が自殺だったのだろうか。もし死後考える事が出来たなら、いつか最後の日を迎える事無く心中した事を後悔する事もあるのだろうか? だがその後悔はもう別のものだ。
 僕はこのまま友達としている事に最後の最後に後悔したくない。例え最後の日、一緒にいられなくなるとしても、中途半端な関係のまま終わってしまう後悔をしたくない。これが僕にとっての最善。たとえ振られていつか告白した事を後悔したとしても、それはやはり、別のものだ。
「俺にとっての最善は、お前と付き合って、最後まで一緒にいたい。だから、よかったら付き合ってほしい」
「うん」
 首だけを彼女の方に動かして見やる。
 彼女の言葉が一瞬なにを意味しているのか理解できなかった。
 ほぼ同時にこちらへと向けられた彼女の迷いのないまっすぐな視線と交差し、僕は思わず逸らしそうになってしまった。
「はは」
 僕は、笑う。
 一瞬きょとんとした顔をされたが、釣られたように麻奈も微笑む。
 告白に成功しても気まずいもんだな、と僕は内心思う。
「よっ」と誤魔化すように言いながらベンチから立ち上がった。
「じゃあ、最後までずっと一緒にいよっか。ずっとは言いすぎだけど」
「ううん、出来たら私もずっと一緒にいたいよ」
「聞いてるこっちが照れるよ」
 いつものように皮肉を返す。
 少し頬が赤くなっているような気がしたが自分もそうだと困るので言わない事にした。
 僕達はもう一度笑い、なんとなく昔の事なんかを話したりしながらその内「そろそろ帰ろうか」と言う事になった。
 彼女から借りた傘を広げようとして、彼女もそうしている事に気付く。「一本でよくない?」僕がそう尋ねると「そうだね」と麻奈がしまいなおす。
 一つの傘に入り、僕より歩幅が狭い彼女のペースに合わせながら、並んで神社の階段を下りる。
 元来た道を辿り、彼女の家の前に辿り着くと、雨がようやくあがろうとしていた。
「明日は学校に行くの?」
「そうだな、多分そうする」
「じゃあ、次会うのは学校だね。私はお昼過ぎに行くと思うけど」
「おう、じゃあ待ってる」
 傘を畳み、水を払いながらそう答える。ふと時計を見ると日付が変わろうとしていた。麻奈の両親はもう寝てしまっているようで、電気が消えている。
「じゃあ、またね」
「キスしよっか」
「えぇ!?」
「いや、そんなに驚かれたら困るんだが……」
 唐突過ぎただろうか、と思いながら僕はそれでも、彼女の返事を待たず肩に手を置いた。彼女は少しビクッとしたものの、それ以上嫌がる素振りはせず、僕は体を寄せる。
 唇が軽く触れ合った程度の軽いキスをして。
 僕は苦笑しながら、俯いてしまった彼女の頭に顎を乗せて、右手で彼女の髪を撫でた。
「好きだよ」
 まぁ、その台詞をどちらが言ったのかなんて事は、どっちでもいいだろう。
「じゃあ、また明日」
 後ろ髪を引かれながら、僕は自転車のペダルを踏んだ。
 度々振り返る。麻奈は姿が見えなくなるまで玄関の前で僕を見ていた。
 そして、僕は角を曲がり、彼女から大分離れたな、と思えた頃
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 と喜びなのか恥ずかしさなのか、意味の分からない衝動により、叫び声を挙げていた。
 そんなこんなで、僕の八月十日は、終わった。

       

表紙

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Neetsha