Neetel Inside 文芸新都
表紙

落下
Black&White&RED

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「……なんか気味悪い」
「え? いや、そんな事ねーよ、全然」
 ヒラヒラと怪訝そう――と言うより言葉の通り気味が悪そうに――な顔をして僕を見る遥に手を振ったが、自分でも傍から今の自分を見ればそう思うだろうと漠然と思った。そしてそう思っても、きっとすぐには収まりそうにないだろうと。
 僕達がやってきていたのは街外れにあるあまり流行っていないだろうと思われるバーガーショップだった。当然店員が出迎えてくれるような事はない。僕達がやってきた理由は厨房の冷凍庫に大量に放置されたバケットやらミートやらポテトを拝借しに来ていたのだった。あまり人気のない場所にあったからか冷凍庫の中にはまだ結構な量がある。だがこれらが僕の腹の中に収まる事はおそらくないだろう。
「ほら、早くしてよね。外で待ってるんだから」
「はいはい」
 僕は普段ならげんなりとしてしまうところだが、今日は素直に返事をし袋詰めされた食料を肩に担いだ。
「……やっぱ気持ち悪い」
 カウンターの向こうで全く手伝う素振りのない彼女がそんな台詞を呟いていたが、僕はやはり無視した。
 外では彼女の知り合いらしい人がクーラーボックスを積んだワンボックスカーで煙草でも吸いながら待っていた。これらは彼女らの身内らに分配されるためのものらしい。なぜ、僕がそんな事の手伝いをさせられているのかと言うと話は数時間前に遡る。


「おはよう」
「……おはよ」
 そう言われて目を開ける。どうやらそれより少し前から彼女は目覚めていたようだった。
 僕は普段なら起きてすぐはしばらくぼんやりとしている事が多いが、目の前に広がっている僕の腕の中にいる裸体の麻奈を見て、これ以上ないと言うほどすぐに眠気は吹き飛んだ。
「……いつから起きてた?」
「三十分前くらいかな」
「ずっとこうしてたの?」
「うん」
「なんか俺の方がこっぱずかしい」
「なんか見てたかったから」
「だからこっぱずかしい」
 あはは、と彼女が笑い僕の背中に腕を回してくる。
 その積極さに少し戸惑ったものの、僕達はしばらくベッドの上でお互いを弄った。
 程なくして彼女が「シャワー借りていい?」と言うので頷くと彼女はベッドから起き上がる。彼女は僕に全て見られたと言うのに、体が離れてしまうとその皮膚を晒す事を恥ずかしく思うようでタオルケットを体に巻きつけ洗面所へと慌しく姿を隠してしまう。
 巻き方が慌てたためか中途半端になり、顕わになっている背中を僕はまだ見足りなかったようでじっと見送っていたが、見えなくなったところでなんとなしに笑いながら、下着を探し手に取るとズボンだけ履いた。シャワーの水音が聞こえてきて(あぁ、向こうで麻奈が体洗ってんのか)とそこまで思って自分の頭の中がやましい事ばかりになっているのに気がつき、いかんいかんと煙草に手を伸ばした。これでは発情期の猿だ。
 閉められたカーテンを少しだけ開く。そこから覗く空の向こうの方に雲が広がっており、夜頃には雨が降り出しそうだった。
 ふとテーブルを見ると携帯電話が着信を告げるランプを点していた。開いて見ると遥からのメールだった。
『ちょっと! 友達から聞いたんだけど悟とやりあったってマジ!? あんた大丈夫!?』
 緊急そうな内容にはそれでも派手な絵文字がゴテゴテと並べられていてなんだかまったく緊張感が感じられないメールを見て、しかしそれでも僕は、はっと仙道との約束をすっかり忘れてしまっていた事を思い出す。
 ――遥と仲直りしたいから康弘から一言よろしく。
「……参ったな」
 彼女に全く了承を得る事もなく受けた条件だったが、負けてしまった以上知らぬ振りをしているわけにはいかない。僕はひとしきり悩んだ後結局単刀直入に言うしかないだろうと腹をくくった。
『まぁ、なんとか。けどそれでちょっとお願いがあるんだが』
 そう送信する。返事は驚くほど早かった。
『なに? お願いって?』
『あのさー、仙道とさー、仲直りする気とかないかなー』
 腹をくくった数分前の自分はもうどこか遠くへと行こうとしているのにふと気がつく。
『はぁ? なんで?』
『いやー、仲直りとまで言わなくても、ちょっとちゃんと話してみてくれないかなー』
『なんなの急に。アンタなんか悟に言われたの?』
 認めよう。僕は情けない。
『いやー、実はお前と仲直りしたいからなんとかしてくれって仙道に言われてさー』
 そうメールを送ったところで麻奈がシャワーから出てきたようだった。体を拭き終わったらしい彼女がバスタオルを巻いた姿で再びドタバタと部屋に舞い戻り、ベッドのすぐ傍に投げ捨てられていたブラジャーや服を僕から隠すように抱えると再び洗面所へと消えた。ややあって戻ってきたその手にはドライヤーが握られていたが、携帯を握っている僕を見て首を捻った。「遥」と答えると「遥ちゃん、最近見てないけど元気かな」と心配そうに言う。そこに今度はメールではなく、音声を告げる着信がなった。確認するまでもないのだが、僕は渋々とディスプレイを見て、若干迷ってから通話ボタンを押した。
「はい」
『どーゆー事よ!?』
 思わず電話機を遠ざけたくなるような怒声交じりの声に僕は目を閉じた。
「……いや、待て、落ち着け」
『落ち付けじゃなくて、なんであんたが私と悟の事に首を突っ込んでくるのよ!?』
「……えっとですね、色々事情があってですね」
『だから事情ってなによ!?』
「……あ、はい。だからですね」
 僕は事の顛末を――かなりおどおどと――説明する。
 全てを説明して、結局彼女の怒りは収まるどころか更に酷くなったようだった。
『あんた、なんでそんな条件受けたのよ!? バカじゃないの!? 最低』
「……はい、すみませんでした」
『で、どうしろって言うのよ』
「えーと、とりあえず一回でいいから話してもらえないですか? その後の事は二人に任せますので」
 俺はどこかの結婚相談員か。
『……分かったわよ』
「ありがとうございます」
『そのかわり!』
「……えぇ」
『なによ、その反応』
「いや、なんでもないです」
 僕は抵抗するのを諦め、彼女の言葉を待った。
『あんたちょっと今日出てきてよ。昼からでいいから』
「え? いや、今日はちょっと無理かなー」
 僕は電話の邪魔になるとでも思ったのかドライヤーを床に置いてこっちを見ている麻奈を見た。だが遥にそんな僕の都合など全く知る由もなく『今日じゃないとダメだから!! 今日出てこなかったら私も悟とは会わないから!! その時悟がなに言ってきても私知らないからね!! じゃあ後で!!』と再び電話機を耳元から放してしまう剣幕でそう叫ぶと、僕が耳に当てた時には既に電話が切れたツー、ツーと空しい音だけが鳴っていた。
「おい! おい!」
「……どうしたの?」
「……いや、なんつーか」
 電話の内容を多少オブラートに包みながら麻奈に説明する。今度は麻奈の機嫌が少し悪くなったようで、僕は今度は彼女が口を開くより先に「すみません。急にこんな事になって」と手を合わせ頭を下げた。幸いこちらはまだ僕に対しての慈悲を残してくれていたようで
「事情が事情だからしょうがないよ。じゃあ、私家に帰るね」
「じゃあ、家まで送るから一緒に出ようか」
「うん。遥ちゃんによかったら教室に顔出してね、って言っておいてね」
「分かった」
「あと」
「ん?」
 まだ濡れたままの髪が額に張り付いている、それを掻き分けながらソファに座っていた僕の隣にちょこんと腰を下ろした。
「浮気しないでね?」
「当然だ」
 僕はそれだけは確信を持って堂々と答える。
 麻奈がその言葉に満足そうに微笑むと、僕の頬に軽くキスをして僕の肩に頭を乗せた。
 女ってのは、誰もが強い。
 彼女らがいつでも自分のためだけに本気を出しでもしたら、男なんてあっという間に女の足元にひれ伏す羽目になるだろう。
 だからこそ、その本気が自分のためじゃなく、誰かのために向けられる事は愛しい。


 レゲエなのかヒップホップなのかそれともミクスチュアーなのか、僕には判別の仕様のない音楽を流しているワンボックスカーにクーラーボックスを積み終えると、僕と遥はリアシートに並んで座った。
「じゃ、行くぞ」
 一体どういう関係なのか分からない強面の僕より十は年上じゃないだろうかと思える運転席に座っている男がそう言うと車がゆっくりと動き出した。助手席にはおそらく彼と同年代だろうと思われる女の人が座っていて、なにやら不機嫌なのか、それともそれが普通なのか分からないが我関せずと言った顔で窓の外を見ていた。僕は居心地の悪さを覚えるが、とにかくこれで彼女の「悟に会う代わりに私達の食料取りに行くの手伝え」と言う彼女の命令を問題なく果たしたと言う事に安堵する。
 殆ど往来のない道路をワンボックスカーはたまに信号無視などをしながら進む。そう言えばどこへ向かうのだろうか。僕はこの車の中ですら重い雰囲気で押しつぶされそうなのに。
「なぁ、遥これからどうすんの?」
「え? あ、そっか。あんた途中で降りるわよね」
 携帯を弄っていた遥が思い出したようにそう言った。メールを打っていたようで一度ディスプレイに視線を戻し、それが済んでからもう一度僕を見る。
「どうしよっかな。学校行くの?」
「えっと、ちょっと待って」
 僕も携帯を取り出し、麻奈にメールを送ってみる事にした。彼女がどうするか確認しようと思ったのだが、返ってきたメールを見て僕は肩を落とした。
『康弘君の家に泊まったのばれちゃった。お父さんが今日は家にいなさいって。あ、でも怒ってるわけじゃないから心配しないでね』
 確かに学校に泊まっていたなら風呂に入られる訳がない。真尋の家に泊まった、そんな言い訳も出来たと思うが彼女の性格上誤魔化しきれなかったのだろう。僕はまだ会った事がない彼女の父親を想像する。ちらりと運転席に座る彼を見て、もしあんなのだったらいざ対面した時どんな顔をしたらいいだろうか。せめて彼女を家に泊める前に一度くらい挨拶しておけばよかった。
 続けて智史にもメールしてみるがこちらは反応がない。練習していて携帯を見ていないのだろうか。時間もないので必死にやっているのならそれは僕が邪魔できる事ではない。
「……学校に行くか」
「じゃ、あたしもいこっかな」
「あ、マジで?」
「マジマジ。つかやっぱ一人で行きにくいと思ってたのよね。いいでしょ?」
「俺に断る権利ないんだろ、どうせ」
「当たり前でしょ。あ、タイジさん、あたしが行ってる学校分かるっしょ? あたし今日そっち泊まるからそこで下ろしてくれない?」
「おう。ポテトとか持ってくか?」
「いい、いい」
 意外と気さくそうにそういうタイジさんとやらは、僕の方をチラリと見ると「お前遥の彼氏?」と尋ねてくる。
「とんでもないっす」
「まぁ、こいつと付き合える男がいるなら見てみたいよな、ヨーコ」
「別にいるんじゃない?」
 その助手席からのそっけない返事にタイジさんは、やれやれと溜め息を吐いて「こいついつもこうなんだよ」と指差す。ヨーコさんは気に食わなかったのか「前見て運転しなよ」と悪態をついていた。
 もしかすると、タイジさんとは女性問題に対して共感しあえるところがあるんじゃないだろうか?
 僕も苦笑を返し、珍しく早起きしたからか遥の大きな欠伸を聞きながら窓の外を眺めた。
 流れていく景色の中で空だけはスローモーションのように見えたが、雨雲は少しずつこちらへと近付いてきているようだった。
 僕はやるべき事は終わったとシートに体を埋める。
 ハンドルが切られるたび後ろのクーラーボックスがガタガタと揺れる。時折、妙に規則よく鳴るその音はまるで不恰好な心臓や脈などの鼓動のようにも聞こえた。
 カタ、カタ、カタ、カタ。
 音が、止まる。

     

 その日の出来事は僕にはどう言えばいいのか分からない。小学生の時に図書館にあったなんとなくタイトルに引かれただけのドストエフスキーの罪と罰を読んで理解出来たなら、判断する事が出来たのだろうか。誰もが無意識のうちに罪を作るが、それが一体どれほどの傷なのかなんて事は他人には、いや、本人にも分からないのかもしれない。だから、一体どんな罰を背負えば、許される? そして傷は癒される?
「じゃあな」
 校門の前まで送ってくれたタイジさんの車を見送ると僕らは校門をくぐった。
 教室に入った僕達を見て紅と蒼の双子の姉妹が大きな声を上げた。
「あー遥ちゃんだー! 久しぶりー!」
「おー双子ー元気ー?」
「元気元気!」
 久しぶりに教室にやってきたのが嬉しかったのか、彼女の周りではしゃいでいる。
 教室を見渡すと大体いつもの同じ面子だ。小川も彼女が返ってきたのを見て満足そうだった。
「よう、小林」
「やぁ、智史君達しばらく学校離れるんだってね」
「あぁ、そうなんだよ」
 と挨拶したところで彼のすぐ傍に小笠原が佇んでいた。彼女は壁越しに体育座りのようにやけにぴんとした姿勢で、それが余計に壁のようなものを感じさせる。彼女と目が合う。僕は無意識に視線を逸らす。あの屋上での会話以来、殆どまともに会話もしていないので、僕はまだ彼女に対して拒否感のようなものがあった。
「こんにちは」
「……珍しいな、自分から挨拶してくるとか」
「や、柳君」
 小林が僕の棘のある返事に慌てて釘を刺す。
 あの後二人は屋上でどんな会話をしたのだろう? 小林は僕達二人の会話を聞いたのならそんな彼女の事を諌めでもしたのだろうか。
「小林、お前がいいたい事は分かるけどな」
「……だったら」
「なんだか気を悪くしたみたいね」
 その原因である彼女が――それでも自分には全く無関係だと言うような口ぶりで――静かに立ち上がる。鴉のような長い黒髪が流れるように揺れた。服装も黒尽くめでまるで葬式にでも出向くかのようでもある。彼女は一度袖口の辺りを気にしたように触れると、僕の横を通り過ぎ教室から出て行こうとする。
「なぁ、おい」
 背中を見せたまま、首だけが動きこちらを見る。
「どこ行くんだよ。なんか用があって話しかけたんじゃないのか?」
「……私と話したくないんでしょう?」
「俺が上機嫌だったら話せた、とか言う気か?」
 薄い眉根がぴくりと動いたような気がした。だがそれは一瞬で全て皮膚の真白の中に沈んでいく。
「……なにが言いたいの?」
「逃げるのかよ。そうやって」
「…………」
 その僕の言葉に一瞬彼女が固まる。
 だがその中で一つだけ動いているところがあった。
 眼球が、激しく上下左右に泳いでいた。まるで痙攣しているかのようなその動きは常人のものとは思えない。
 僕も、そして小林も思わず息を呑んだ。
 そこに見たのは、今まで見たこともない小笠原の怒りに満ちた表情だった。それは生半可なものではなく、まるでこの世の全てを呪い殺そうとでも思えるほどの。
 眼球がようやく落ち着きを取り戻し、焦点を取り戻す。その視線が僕に射抜くかのように向けられる。それと同時に今度は彼女の肩が、掌が、そして口元が、ブルブルと震えを放つ。
 カタ、カタ、カタ、カタカタカタ、カタカタ、カタカタカ、タカ、タ、カタカタカ、タカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。
 まるで安定感のない不規則なリズム。
 僕は恐怖した。背筋が凍るような圧倒的な恐怖。
「小笠原さん」
 小林が彼女へと近寄る。きっと口を開いたのが僕だったらもっと無様な音を発していた事だろう。
 小林が彼女の肩に手を置いた。
「落ち着いて、小笠原さん」
「…………」
 そこでようやく彼女は、僕ではなく、彼女を見ている教室の周囲の視線に気付いたかのようだった。
 誰もが、彼女の豹変に言葉を失っていた。皆のその唖然とした表情を小笠原は無言で受け止めると、小林の手から逃れるように顔を背けると、そのままゆっくりとした動作で教室から出て行ってしまった。
「……久美ちゃん!」
 紅がそう叫んだものの、その声は空しく霧散していく。
 蒼が僕の元へと駆け寄り「なに言ったの、康弘!?」と僕の腕を引っ張った。


「……皆、ごめん」
「小林が謝る事じゃないって。それに……」
 小川が続きを言おうとして、言いよどんだ。誰もがその続きがどんなものかは見当がついたようだった。
 数人が僕の方を見るものの、その視線はどちらかと言うと同情的なものが多く含まれているような気がする。
 彼女の糸を切ってしまったのが偶然僕だった――と言う事。
 遅かれ早かれこんな事になるのではないかと皆心のどこかで思っていたようだった。
「……違うんだよ。彼女だって好きで黙り込んでるわけじゃないんだ」
 その中で一人小林が声をあげる。
「彼女だって、皆と学校での生活をちゃんと送りたくいからこうやって学校に来てるんだよ。不器用なところもあるけど、それは分かってほしいんだ」
「ねぇ、小林って誰にでも優しいけどさ。ちょっと頑張りすぎじゃない?」
「……それが小林だろ」
「そっかなぁ」
 遥が小林には聞こえない声で僕にそう言う。
 クラスの皆が小林の話を聞いていたが、内心では誰もが辟易していた。
 小笠原久美。彼女の異質さは誰を前にしてもその存在を浮き彫りにさせる。暖簾に腕押し、と言えばいいのか、その表現すら生温いのかもしれない。どう扱えばいいのか小林以外の誰も分からず、しかしそれでも殆どを学校で過ごしている彼女をまるで無視する訳にもいかないと思っても、それを拒否しているのは他ならない彼女なのだ。
「小笠原の事好きなんじゃない? 小林って」
「……どうかな」
 一体小笠原はなにを思ってこの教室にその身を寄せているのだろう?
 その疑問は僕だけのものではなく、全員のもので、一方小林に言わせれば皆と過ごしたいからだが、それに頷くには説得力がまるでなかった。
「分かったよ、小林。小笠原帰ってきたら、皆で話しかけてみるよ。それでいいだろ?」
 小川が無理やりにでも話を終わらせたい、と言った感じでそう言う。
 小林は尚もなにか言おうとしていたが諦めたようだった。恐らく小川の言葉が全員の代弁だと理解したのだろう。
「ごめん」ともう一度謝ると、彼は近くの椅子に腰を下ろした。
 僕は遥に囁く。
「そうかもしれないな」
「でしょ? 絶対好きだよ、あれは。あそこまで他人のために出来ないって。特に小笠原みたいな性格の奴にさ」
「その性格のどこに惚れたんだろうな」
「さぁ」
 全く理解出来ない、と言うように肩をすくめる。そして「なんか白けるなぁ」と言いながら立ち上がった。
「じゃ、あたしちょっと言ってくるわ。悟のとこ」
「今から?」
「さっさと終わらせたいし。やばかったら連絡していい?」
「おう」
「あーあ」とわざとらしい大きな声を出して教室から出て行く。それを合図に皆、口を開き始めた。
 先程の小笠原の目を思い出す。今にも眼球が零れ落ちそうなほど開かれた瞳孔の中の血走った目を思い出しこの真夏に寒気を感じる。気分を誤魔化そうと煙草を吸うために屋上でも行こうかと立ち上がると小林が声をかけてきた。
「どこに行くの?」
「屋上で煙草でも吸う」
「僕も行っていいかな」
 若干迷ったものの「はいはい」と結局断りきれず僕は同意した。

     

「……お前さ。もしかして小笠原の事なんとかしようとか思ってる?」
「……どういう意味?」
 マルボロの煙をゆっくりと吐き出す。その煙の向こう側で僕に困惑の表情を浮かべている小林を見ながら地面に煙草を落とした。足元には既に何本かの吸殻が散らばっている。
「だから、クラスの皆と打ち解けさせてやろうとか、あいつの性格自体を変えてやろうとか」
「あぁ」
 合点がいったと言うように「そうだね」と頷く。
「彼女は繊細なんだよ。そのせいで皆と距離を生んでしまうかもしれないけど。彼女だって本当は――」
「あのな、小林」
 僕は無理やり彼の言葉を遮る。
「お前が言いたい事は分かる。小笠原が実際のところ本当はどう思ってるかは分からないがお前の言う事が彼女の意見だとしよう。けど今のままじゃうまく行くわけがないのは分かるだろ? それに距離を生んでしまう、なんて言ってるがいいか、距離は埋めてもらうもんじゃない、自分一人で埋めろとは言わないが、お互いが歩み寄る事で初めて近付くんだ。小笠原はそれをしているってお前は思ってるのか?」
「……確かに彼女にも問題はある。だけどそれは解決していけばいい問題で――」
「俺達には時間がないんだ。皆、自分達の精一杯を生きてる。なぁ、分かるだろ? 小笠原に優しくしてやる余裕を皆が皆持てるわけじゃないんだよ。こんな状態でただでさえ離れてる距離を、ただ待ってるだけで埋まる訳がないだろ? 小笠原自身がどうにかしなきゃどうにもならないんだよ。それをお前が手伝うってのはいい事だと思うよ。だけど今のままじゃダメだ」
「……もしダメなら……」
 フェンスに手を置いて、遠くを見ていた小林が僕の方へと向き直る。
 視線が絡み合う。
「……もしダメなら彼女も上杉直人と植田智子のように――」
「その名前を出すな!!」
 絡み合った視線の狭間でパチンと火花が散ったように僕は叫んだ。
 座っていたビーチチェアから立ち上がり彼に詰め寄る。
「小笠原もあの二人のようになるって言うのか?」
「……君が今言ったこと」
 小林は一歩も引かずにそう言った。
「彼女だってしようとしていない訳じゃない。他人が彼女はなにもしていないと言っても、彼女がなにもしていない訳じゃない。報われていないとしてもそれは彼女の責任じゃない」
 あの日、こうやって小笠原と話した日の事を思い出す。


 ――死ぬ事に興味をもったらダメ?


 そう言った彼女の目は今までのどの彼女よりも生気を感じさせた。死を感じる事によって生まれる生とはなんなのだろうか? 彼女の満足する生の選択肢に死はどれほどのきらめきを感じさせているのだろうか。
「もし、そうだとしてもだ」
 僕は、吐き出す。
「彼女が死ぬとして、お前はそれを認める気か、小林」
「…………」
「肯定したら、今ここで殴るぞ。小林、いいか。俺はその最善を認めない。残り少ない未来を諦めて手に入れる満足なんか俺は認めない。小笠原がどう思ってたとしてもだ」
「……分かってる。僕だって彼女を見放す気はない」
 その言葉が緩和剤となったかのように、僕達は距離を取り直した。
 何本目かの煙草に手を伸ばす。風向きが悪かったのか煙が目に入り、僕は思わず目を閉じた。痛みを感じ手で擦る。
「……柳君」
「……なんだよ」
 涙が出そうになって俯いたままそう返事する。
「僕は彼女の役に立ってるかな?」
 不安でもあるのだろうか? 彼女を支える事への。
「……そう思うよ」
「そう。たまに思うんだ。なんでいつも僕なんだろうってね」
 ようやく痛みが治まり、視線を彼のほうに向ける。
 小林は苦笑いのように微笑んだ。
「お前だったら……差し出した手を取ってくれるからだよ。小笠原だけじゃなくて、皆そうだ」
「それでも僕も、手は二本しかない……そろそろ戻ろうか。かなり話し込んじゃったね」
 誰も彼も救える事なんて出来やしない。そう言いたいのだろうか。
 それでも手を差し伸べる事それ自体に救いはあるのではないだろうか。
 どことなく寂しそうな小林の歩き出した背中を見ながら、僕は煙草を空へと向かって弾いた。
 音もなく落下する前に、僕も立ち上がり小林の後を追った。
 火はすぐに消えるだろう。僕の頬に水滴が落ちてきた。どうやら雨雲がやってきたらしい。

     

 誰が気付く事が出来るだろう。
 今そこに罪が生まれようとしている事に。
 誰が思うだろう。
 その行為が罪だと言う事など。
「おかえりー」
 教室の前の廊下にいた紅と蒼が屋上から帰って来た僕達に大きく手を振った。心なしかその顔が嬉しそうだと僕が思ったのを、やはりどこか鋭い姉妹は素早く感じ取ったらしくニヤニヤと笑う。
「久美ちゃん帰って来たんだよ! 二人とも話長いよー」
「本当に? よかった」
 安堵したように小林がそう言う。廊下の窓から教室を覗く。確かに小笠原の姿があった。先程の狂気じみた姿はなく、いつもの平静とした様子だったが、いつもと違うのは彼女の周りに女子生徒が何人か集まっていた。先程の小林の言葉を聞いて思うところがあったのかもしれない。
「小川君と皆で話して、帰ってきたら明るく迎えようって話したんだよ、ね、蒼」
「うん、康弘の事悪者にしていいって事にしたもんねー」
「あーそうかい。まぁ、よかったじゃん、な、小林」
「……うん」
 小林はそのまま窓枠に手を置いた。せっかくだから自分は加わらず他の連中と話をしたほうがいいと判断したらしい。僕もその隣に立ち、きゃあきゃあと話している女子生徒達を見やった。小笠原は唐突な変わりように戸惑っているのか、それとも特になんの感慨もないのか口数は少ないようだった。
「小笠原さんってアーティストとか好きな人いないの? よかったらCD貸してあげようか?」
「髪の毛綺麗だよね。トリートメントとかなに使ってるの?」
 その会話の内容はやはりどこかぎこちない。それでも彼女達は、少しでも彼女の心を開こうと思いつく限りの台詞を口にしているようだった。
「小笠原さんって肌白いよねー。羨ましい」
「……そう」
 一人の女子生徒が薄いリアクションにたじろいだように小さく笑う。
 それを誤魔化そうと隣の女子が「小笠原さんっていつも黒い服だよね」と切り出した。
「もっと違う色とか着てみればいいのに。それにいっつも長袖」
「…………」
「そうだよ。せっかく肌きれいなんだからたまには違うのとか着てみたら? もったいないよ」
「…………」
「夏なんだし。半袖でいいんじゃない?」
 ふと女子生徒の手が伸びる。小笠原の顔が強張った。
「やめて」
「えーちょっとだけ、ね」
 触れる。袖口のボタンが外された。周りの生徒も「そうだよ。長袖とか暑いでしょー」と笑顔で言っている。
 ガン、と傍で音が鳴った。それがすぐ傍にいる小林が動いたため手が窓枠に派手にぶつかったからだと言うのはすぐに分かったが、僕はなんとなく振り向いて、小林の表情が固まっているのに気がついた。
「……やめろ」
 掠れたようなに捻り出されたその声と同時に
「やめて!!」
 と悲鳴のような声が上がり、そして沈黙が流れる。
 女子生徒は自分がなにをしたか理解するのに、一体どれほどの時間を要したのだろうか?
 それが罪だったのだと気付いてしまった時、傷を負うのは一体誰なのだろうか。
 小笠原は袖を捲くられたその腕を掴んでいる女子生徒の手を乱暴に振り払った。
 まるでスローモーションのように、骨と皮だけのような細さの、病人と見紛うような白い腕が宙を舞う。
 そしてその腕に刻まれている縦横無尽に走る無数の傷と、滲んだ赤い模様が皆の目に飛び込んだ。
「……リスカ」
 誰かがそう漏らした。
 小笠原が固まった女子生徒達の中で一人肩を揺らしながら荒い呼吸を繰り返す。
 血走った目がなにか――救い――を求めるようにさ迷う。やがてその視線は小林を見つけた。だが、彼女はそれも無意味だと判断したのだろう。彼からもその視線が逸れると天井へと逃げるように顔を持ち上げた。
 壊れる。
 彼女の美しい面皮が激しく歪む。
 力なく垂れた両手。捲くられた袖から覗く腕が赤いのは古傷のせいだけではない事は一目瞭然だった。袖の内側には滲んだその赤がこびりついている。
 さっき切ったばかりなのだ。さっき教室を出ていった時に切ったのだ。そして何事もなかった顔をして教室に戻ってきたのだ。そのまま急に自分に話しかけてきた皆とそ知らぬ顔をして会話をしていたのだ。
「…………あ、あああああああああああああああ、あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああ…………」
 その声はまるで枯れ木のように力がない。
 だがそれゆえにただただ絶望だけが込められたその乾いた呻き声は、僕達を圧倒的なまでに飲み込もうとしていた。
 目の前の女子生徒数人が悲鳴を上げて泣き叫ぶ。
「やだああああ!」
 紅と蒼が僕に抱きついてきたが、僕はそれに気がつくことが出来なかった。僕もこの異常な光景に意識をどこかへと奪われてしまっていた。
 小笠原の手が目の前にいた女子生徒を激しく突き飛ばした。同時に床へと転がる女子生徒を尻目に全速力で走り出す。青筋が浮かんだその表情を見て僕は気絶したくなる。一体なにが起こっているのだろうか。
「小笠原さん!」
 小林だけが、事態を理解しているようだった。彼女を追いかけようと走り出そうとする。
「小林!」
 僕は固まったまま叫んだ。叫ば以外なにも出来ない自分がいた。
「お前、さっきやめろって言ったよな。知ってたのか!?」
「今はそんな事言ってる場合じゃないだろ!」
 彼にすれば珍しいその激昂の声に素直に黙り込むと、小林は走り出した。
(なんなんだ、これ)
 僕はふらつく頭をなんとか整理しようとする。だがまとまりそうな気配は一切訪れそうにない。
 とにかく追いかけよう。それだけを考えてようやく双子が体に絡みついているのに気がつく。
「紅、蒼悪い」
 二人は僕がなにをしようとしているかすぐに理解したようだった。すっと体から離れる。
 体が重い。きっとこれは昨日の仙道にやられた傷のせいではない。
 それよりも、もっと重い傷だ。


 通り雨なのだろうか。雨は急激に勢いを増していた。
 階下へと降りていったらしい二人を追いかけて僕は運動場に飛び出した。
 靴が濡れた地面にズブリと埋まる不快な感触を覚えながら僕は走った。
 校門の辺りにいる二人を見つける。小笠原は濡れた運動場に四つんばいのようになって崩れ落ちていた。
 二人の傍に近寄ろうとしたが、小林が首を振っているのを見て、僕は走るのをやめる。中途半端な位置で立ち止まり、僕は吐息を一つ零した。
「もうダメ!」
 激しい雨音の中、小笠原の悲痛な叫びはかき消されそうになる。
 それでも僕はそれを聞き逃す事が出来ない。
「もうダメよ。こんな事になったらおしまいだわ。なんでこうなっちゃうの? 私なにかした? 私が悪いの? なんで? 私はなにもしてない。いいじゃない。こんな私だっていいじゃない。なんで皆認めてくれないの? どうやったら認めてくれるの? 私がんばった。これ以上なにを望むの? 他の皆となにが違うのよ。よりによってなんで今日なの? 皆もう受け入れてくれない。なんで? やっぱり私が悪いんだ。そうよね、私なんかいないほうがいいのよ。どっちみち今までだって皆私を見てなんていなかったじゃない……なんでよ。なんで見てくれないのよ。私がなにをしたって言うの。もうやめてよ。私限界なのよ。あぁ、消えてなくなりたい。誰か助けてよ。どうしたらいいのよ。私なんで生まれてきたのよ。私と皆のなにが違うのよ!!」
 この雨は僕達の涙なのだろうか。もしかすると小笠原一人のものかもしれない。
「……死にたい」
 空耳では、ないのだろう。
 小林が彼女の体を抱きかかえた。彼は僕の方を振り返ることはせず、そのまま二人で校門から出て行く。
 僕はそれを見送る事はしなかった。
 ただ立ち尽くしてなぜ流れるのか分からない涙が止まったかどうかも分からないまま、教室へと戻ろうと、踵を返した。

     

 ――いや、もう来れないでしょ
 ――あの腕の傷やば過ぎるって。何個傷があったか分からないもん
 ――あんな綺麗な顔してるのに、なにに悩んでるのかな
 ――元々クラスで浮いてたもんね。ちょっとイライラしてたの分かったし。ちょっと余計な事しちゃったかな
 ――けど学校来るの強制じゃないしさ。勝手に来て、勝手に不満溜めて、勝手に逆切れして、勝手に恨まれてもどうしようもなくね
 ――なに話したらいいか分からないしね。アイツ中心に世の中動いてないっつの
 ――いや、女子は悪くないって。だってリスカしてるとか分からないじゃん。良かれと思ってやったことだし、しょうがなくね?
 ――つかさ、血だらけだったじゃん。あれって一回目に出て行ったときにどっかで自分で腕切ってたって事だろ? それで普通に教室戻ってきてたとかこえーよ
 ――けどあそこまでおかしくなるもんかな?
 ――精神病でしょ? だからじゃない?
 ――なんか幻滅した。俺、物静かでツンとした感じが好きだったんだけどあれは正直ドン引き
 ――なんで学校来てたんだろ、あの子
 ――だから精神病だからだって!
 ――つかぶっちゃけさ。気持ち悪いよね
 ――あんなに腕切ってさ、死にたいのかな?
 ――けどリスカって確かSOSなんだろ? 死ぬ気はなくて、誰かに気付いてほしいとか、助けてほしいとかでやるんだって言うじゃん
 ――……いや、あれは助けられねーよ、いくらなんでも
 ――助けてほしいだけなら他にやり方あるっしょ。結局ああいうのって危ないんじゃね?
 ――危ないってなにが?
 ――だから……その……頭?
 ――さっさと死ねばいいのにね
 ――いや、お前それは言いすぎだろ


 翌朝、すっかり晴れ上がった空の下、僕は喉に渇きを覚え自販機でジュースを買おうと校門へと向かう途中で小笠原とすれ違った。
 僕は振り向く事はなかったが教室へと向かったはずだ。
 この日から、彼女はまるで空気と同化してしまったかのように誰にも触れる事無く、誰からも触れられる事もなくただ教室の片隅で体育座りをして一日を過ごすようになる。
 たった一人の例外である小林を除いて。僕が小林の右手首辺りに結構深い傷が出来ていたというのを聞いたのは、もう少し後の事だ。

       

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Neetsha