Neetel Inside 文芸新都
表紙

落下
Interlude 〜Winter again

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 彼女、黒澤綾は男に征服される事を嫌う。なぜ? と問われてもそうだからとしか答えようがない。彼女の友人である河合桜子はその名の通り見たものを安心させるような穏やかな笑みを浮かべ「それは綾ちゃんからしたら皆が子供っぽいから甘える事ができないからじゃない?」と少しずれた回答を寄越してきたのは去年の事だった。今思えば彼女は綾の事を心配していたのかもしれない。
「ねぇ?」
「なに?」
 ベッドの上で背中から手を回された。背中に恋人の西川大吾のサッカー部でそこそこ鍛えているらしい胸の厚みを服越しに感じる。こうやってラブホテルにやってくるのは今更特別な事でもなんでもないが、大吾はこうやって付き合いが長くなってもどことなく素っ気ない態度の彼女を味気ないとも思う。
「服脱がしていい?」
「いいよ」
 彼との付き合いは高校二年の冬からだったからそろそろ一年になろうとしている。同じクラスだったが大吾からよく話しかけられるなと思ってはいたものの、あの頃は自分から話しかけたことなどそうなかったように思う。
 左手の薬指のリングが薄暗い光の中で小さく光るのと同時に腰の辺りへと手が伸びてきた。エアコンをさっきつけたばかりの部屋で彼の指はまだ少し冷たく、肌に触れたとたん少しびくりとした。その反応に一度動きが止まるが、慣れたのを確認するとセーターをゆっくりとたくし上げる。綾は黙ってそれを受け入れる。彼女に拒否をされた事は思い当たる限り一つを除いて記憶にない。彼女はいつでもどこかぼんやりとしていると言うか年齢の割に達観していると言うのか初めてセックスを求めた時も彼女は「いいよ」と特に悩むような素振りもなく答えた。自分が初めてで、彼女はそうではなかったからその反応に面食らったのかもしれない。
 胸のところまでセーターを上げたところで彼女の体を仰向けにさせた。首だけを動かしこちらに向けさせるとその唇にキスをする。小さく潤んだ唇に舌を潜り込ませた。程なく綾の舌が動き絡ませあう。そうしながらフロントホックのプレイボーイのブラジャーを手早く外した。
 静かな部屋に唇の重なり合う音がしばらく響く。大吾はそうしながら綾の乳房に手を沿えた。柔らかく吸い付くようなその感触を感じながら閉じていた目を開けて綾を見た。
 顎が細く、眉目の整った顔を持つ彼女は今の行為に対して恥じらいなどないのか頬を赤らめる様子もなく大吾にその身を任せていた。思わず少し手に力が入り、整った眉が少々歪み声が漏れる。
「痛かった?」
「ううん。大丈夫」
 服を脱がす。下着と一緒にスカートも下ろしながら太腿に手を這わせた。
 そうしながら自分も服を脱ぎ捨てる。乱雑にズボンを脱ごうとして性器が膨らんでいたため引っかかり、渋々彼女から一度手を離すと、綾が半身を起こしズボンへと手をかける。
 そのまま彼女がズボンを下ろしベッドの外へと放り投げた。
「触っていい?」
 そう言うと大吾の返事を待つ事無く、綾の指が彼の性器に触れる。
 上下するその手の動きに、今以上隆起するのを感じながら大吾はベッドに寝転がった。その上に跨り、唇を近付け舌を這わせる。なぜ男はフェラチオをしながら目線を合わせる事に興奮をするのだろう。ねとりと涎がまとわりつくそれを口に含み、髪を掻き分けながらゆっくりと動いた。
 力みが入りギシ、と音がして腰の辺りがベッドに深く沈んだ。


 主導権はどちらにあるのだろう。
 こちらを見ながら音を立てて自分のものを丹念に舐め上げている彼女を見ながら大吾は、いつもと同じ疑問を今日を思い浮かべた。
 クラスの連中は黒澤綾と付き合うことになった時、一体彼女をどうやって口説き落としたのかと盛んに聞いてきたが自分でもそんなに特別な事をしたとは思っていない。機会を見つけては何気ない世間話を繰り返していただけだ。
「ねぇ、綾?」
「……なに?」
「俺の事好き?」
 唇を離し綾がなんのためらいもなく答える。
「好きよ」
 綾をベッドに押し倒し、彼女の胸へと顔を埋める。噛むように乳首を弄びながら微かに濡れる彼女の秘所を指でなぞる。黙ったまま彼女の足を広げさせ手が動きやすくなると、指をズブリと体内へと入れる。
 吐息のように彼女が小さく声を上げる。
(他の女もこんなものなのかな)
 AV女優のあの煽情的な喘ぎ声はやはり演技で、こうやって現実で行われるセックスでの女の反応は想像していたよりもスタティックで機械的でもあり、獣のように我を失うほどの情熱など、片手の指が全て折られる頃には煙のようにように掻き消えていった。
 それとも自分の行為に彼女は物足りなさを感じているのだろうか。だがそれを聞くのはもう手遅れのような気もする。もしそうだと肯定された場合自分がどうすればいいのか分からない事に恐れているのかもしれない。
 自然と指の動きが早くなり、綾の中の潤いが増した。
「入れていい?」
「いいよ」
「なぁ、綾」
「なに?」
「後ろから入れたいんだけど」
「ダメよ」
 綾は彼の何度目かのその要求に今日も、迷う事無く即座の否定を入れた。
 大吾が思わず口を開きかけたが、理由を聞くことは最早無駄だと言う事を同時に思い出す。綾は後ろから挿入される事を極端に嫌う。たった一つ彼女が拒否するもの。それがこれだった。
 綾は黙ってしまった大吾が少し気を害しただろうかと思いながら、敢えて口には出さず起き上がり彼の胸を押してベッドへと沈ませた。手早く枕元におかれてあったコンドームを手に取り着けてやると、そのまま跨り彼の中心へと自分の中心を近付かせていく。硬さと柔らかさが混ざり合うぐにゃりとした感触を感じながら挿入し、胸に手をつきながら腰を上下に動かした。浮いてしまうような恍惚を感じながら大吾を見下ろすと、諦めたように腰に手を回してきた。嫌がらせのつもりかその掴んだ手で彼女の動きよりも激しく腰を振り回す。
 このまま強引にバックへと体勢を変えられようとしたらどうしようかとふと考えた。きっとそうされたら私は彼を押しのけようとするだろう。だがこの細腕ではその抵抗も空しく終わるかもしれない。今まで大吾がそんな風に無理やりしてきた事はないし、これからもそうする事はないだろうと思っているがもしそうなったら私は彼の事を嫌いになってしまうかもしれない。
 四つん這いになりベッドに顔を埋め尻だけを持ち上げて、自分の見えないところから就かれる。彼女はその体勢がなんだか醜悪だと思ってしまう。桜子と一度その話をした時「えー、それがいいんじゃない? こう全部相手に委ねちゃう感じ? それに普通にやるより気持ちいいし」などと言っていたが、綾からしてみればなんだか自分の体を蹂躙されてしまうような気になってどうしても好きになれなかった。「ほら、私マゾだから。けど綾ちゃんサドって感じにも見えないけどどうなんだろ?」そう言われ「あまりセックスに興味ないから」と答えると彼女は無邪気に笑った。その無邪気そうな表情のまま「チンチンがマンコに入るときってやられたーって思うよね」となんだか「マックの新商品美味しいよね」と大して変わらない楽しそうな様子で言うので、彼女も思わず笑ってしまった。
 大吾が手の動きを加速させる。肉と肉がぶつかり合う音が激しくなる。
 その乱暴な動きに意識が少し遠くなりそうになったところで、体位を正常位に変更すると絶頂が近くなり、大吾の腰の動きが一層早くなった。
 綾は自分にも間もなく訪れるだろう絶頂を迎え入れるようにシーツを握る手に力を込めた。


「なんで大吾君と付き合ったの?」
「なんでだろ? 別に嫌じゃなかったしいいかなって」
「じゃ、なんで振ったの?」
「県外の大学行くんだって。遠距離恋愛とか私無理だと思って」
「え? マジ? 全然知らなかった」
「なんか言い出せなかったんだって」
 桜子は綾のその言葉に驚きつつ「そっかぁ、それはしょうがないね」とストローに口をつけた。マックシェイクのすこしどろりとした感触とストロベリーの甘みを存分に味わう。どうやら失恋に対して傷心していると言う事はなさそうだ。自分なら失恋をした時は一週間ほど泣くか愚痴るか暴飲暴食などしたりしてしまうのだが、綾に関してはそう言った自暴自棄になる姿を目の当たりにした事は一度もなかった。
「大吾君、女の子から人気あったのに勿体なーい」
「別に、そういうの私に関係ないし」
「美男美女カップルって皆言ってたよ」
「顔とか、あんまり考えた事なかったな」
 その言葉には偽りなく、彼女は自分自身の美観についても無頓着だった。トリートメントはしているものの伸ばしているだけのロングヘアは無造作で、ファッションも見た目と言うよりは機能性を重視したようなセーターとジーパンにコートを羽織るというだけの簡素なものである。
 桜子はもう一度「勿体無い」と言いながら、テーブルに最近ネイルサロンに行ったようでゴテゴテとラインストーンが散りばめられた爪を覗かせながら、器用にポテトをつまむと口に運んだ。買い物帰りに立ち寄ったマックは自分達と同年代だろうと思える客でそこそこ賑わっている。桜子が座っているその横にはバイト代を殆どつぎ込んだのではないだろうかと思えるほどの袋が窮屈そうに並べられていた。綾と違いシーズン毎に服をとっかえひっかえ買い換えたり、髪型を変えたりと忙しいがその努力はきちんと報われているようで、学校では綾よりも男子生徒には人気があった。とは言え彼女の理想の高さのせいでなかなかお眼鏡に適う相手は見つかっていない。
「綾ちゃん、男を寄せ付けないオーラがすごいもん。大吾君レアだったのに」
「別に意識してないよ。大吾みたいに話しかけてきたら話すし」
「じゃあ、今度は大学で探さないとだね」
「けどしばらくはいいかな」
 アイスティーを飲みながら、ふと先週のラブホテルでの事を思い出した。
 大吾がコンドームを外し、風呂に入るよう勧められその通りに入ってから出てくると、服を着てソファに腰掛けていた大吾から県外の大学に進学する事を告げられた。彼はもしよければ遠距離恋愛を続けたいと言ったが、綾はほんの少しだけ悩み「無理だよ。大吾向こうで新しい子見つけなよ」と首を横に振った。彼は尚も彼女を説得しようとソファから軽く腰を上げたものの、彼女が一度決めた事を自分が覆す事など到底出来ないだろうと悟ったように諦めると「……そっか」とだけ呟き、薬指の指輪――以前彼の誕生日に買ったペアリング――を外しテーブルに置いた。消沈しながらこのまま忘れ物として置いていくことに決めた。綾に「いいの?」と聞かれ頷くと彼女は別れたからと言うよりは、彼がそうするのでと言った感じで自分の指からも指輪を外すと同じようにテーブルへと置いた。
 明るくなった室内の中で二つの指輪が光る中で、それを殆ど見向きせず綾はどうしてもっと早く言わなかったのだろうと思った。もしかすると言ってしまうと二人の関係が終わってしまうと思っていて、今までずるずると引きずっていたのかもしれない。確かに、自分は目の前にいない相手をただただ信じて愛し続けることは無理だろうと思う。彼の選択はその意味では正しかったのかもしれない。
 好きだから、言えなかったのね。
 まるで他人事のように考え、ようやく自分が同情しかけている事に気がついた。
「じゃあ、しばらくはフリーでいるの?」
 桜子は綾の言葉に嬉しそうにそう尋ねた。
 その反応に奇妙なものを覚えつつも「そうね」と返事をする。
「どうかした?」
「綾ちゃん、今バイトとかしてないよね」
「してないよ」
 飲食店でバイトをしていたのだが先月の末をもってやめていた。店長は辞める事を告げると頭が痛いと言った感じで渋い顔をすると「皆、やめるんだよな。高校卒業と一緒に。黒澤さん地元の大学でしょ? よかったら続けて欲しいんだけどな」と嘆願されたが、彼女としては卒業をきっかけに別のバイトをやってみようと思っていたのでやんわりと断っていた。店長は説得する事は無理だなと早々に諦めると「そっか。じゃあ一月末までだね。それまではがんばってね」と笑顔を浮かべた。
 そうして今は学校も自由登校となり、彼女達は大学が始まるまでの日々を怠惰に過ごそうとしている。
「じゃあね、私と一緒にバイトしない? 高校卒業したら」
「一緒に?」
「そう。ねー、やろーよ」
 桜子は懇願するように笑顔を浮かべながら、そこに重ねるように両手を合わせて見せた。その仕草は愛嬌があり、よけいなあざとさが纏わりつく事もないと言うバランス具合を計算しているかのようだ。しかし綾に媚を売る必要などないので、それが彼女のナチュラルなのだろう。一見正反対に見える二人だがこうやって馬が合うのは偏に桜子の気を遣わず堂々と接してくる態度ゆえだ。
「ところでなんのバイト?」
「あのね」
 もう三年の付き合いになる。大体の彼女の人となりは理解しているつもりだ。
「キャバ嬢なんだけどね」
 だから彼女がそういう仕事を選ぶ事や、自分を誘ってくると言う事も全く想像できなかった訳ではない。
「私も先輩に誘われただけなんだけど綾ちゃんなら絶対大丈夫だって! ね、だからやろーよー」
「どうせ一人じゃ不安なんでしょ?」
「分かってるならお願い!」
「無理よ。私楽しくないもん」
「大丈夫だって! 結構なんとかなるって先輩言ってた!」

     

 結局高校を卒業するまで桜子の誘いをのらりくらりと交わしていたのだが、しつこく付きまとい「体験入店だけでもいいから」と言い寄る彼女に根負けする形で付き合う事にした。三月になり本格的な寒さがようやく過ぎ去ろうとしている中、繁華街で待ち合わせて行く事を「絶対来てね!」と桜子に念押しされ、約束の五分前にやってきたものの、案の定桜子がやってきたのは約束の時間から五分ほど遅れてだった。
「ごめんね、じゃ、いこっか」
 いつもより更に化粧が濃いと思える桜子がそう促され彼女のあとへと続く。場所もちゃんと聞いてはいなかったが待ち合わせた駅前から十数分程歩くそうだ。平日だったが仕事帰りのサラリーマンや、暇を持て余した人達の姿が見えそれなりに混み合っていた。
 桜子は教えられた道筋を思い出しながら「綾ちゃんこっちこっち」と手を振る。以前から繁華街はよく訪れることがあったが、そこから道を一つ外れた俗に風俗街と呼ばれている場所には今まで足を踏み入れる事はなかった。これからはこちらに来る事の方が多くなるのだろうか、とふと考え果たして自分は馴染んでいるのだろうかと軽く周りを見渡す。
 通りにはどうやら客引きらしいスーツを着てチラシを配っている男や、どこから仕入れてきたのかよく分からないが有名ブランドのデザインをパクっただけのようにも思えるアクセサリーを並べている露店、看板の前で値段と自分の財布の中身を確認しているらしいくたびれたスーツを着ている中年男性のグループなどちらほらといる。
 特に目新しい、と思う事はなかった。妖しい色で発光するネオンや入り口が開け放たれたバーから聞こえてくるジャズの音楽など、触れる機会など今までそんなにある事ではなかったが、なんとなく自分の中にあったイメージを現実のものとして見られる年齢になっただけの事なのかもしれない。だがそうやって見て終わるだけではなく、その中の一つとして自分も加わるのか、と言う事に対してだけはまだ綾の中にリアリティがなかった。
「ねぇ、桜子」
「なに?」
「なんでキャバ嬢しようと思ったの?」
 いつものように、首を傾げるものの大して悩む素振りもなく彼女はあっけらかんとしている。
「うーん、先輩に誘われたし、ちょっと興味あったし。時給いいし、やるなら若い今のうちかなって」
 要するに、特に深い理由というものはないと言う事だ。理由なんていつもないような気がする。大学に進学する事。ダイエットに勤しみ毎日体重を量る事。誰かの悪口を言う事。彼氏に出来るか出来ないかの区切りを自分の中で作る事。流行のドラマのなにがいいってわざわざ同じシーンを皆で褒めあう事。セックスをする事。自分達はいちいち理由を欲しがるけれど、本当は今まで長い時間で作られたルールのようなものに従って、同じ事を繰り返してるだけじゃないだろうか。理由と言うのは、ただその繰り返しているだけ、と言う現実を直視するとあまりに味気なさ過ぎるというから、なんとなくいつの間にか自分も周りも頷くためだけにあるんではないだろうか。まぁ、それもルールの中の一つなのかもしれない。
 彼氏がいてもいなくてもどっちでもよかった。だから告白された時、頷いても、断ってもどっちでもよかったんだけど、断ろうと思うような理由が特になかったから頷く事にした。付き合ってからもそれなりに二人でいることは楽しかったし、きっと間違った選択ではなかったと思う。だけどあの時付き合ってなくても特にそれが間違いだったとは思わないだろう。


「とりあえず肩の力抜いていけばいいよ。初めは誰でも緊張するから」
 履歴書と、二人の顔を軽く見比べながら店長の丸井は、いつものように古株には「最初だけは優しい」と揶揄される優しそうな微笑を浮かべた。近くにいたバイトにアイスティーを三つ持ってこいと言うと、床を掃除していた彼は厨房へと一旦姿を消し、戻ってきたその手にはシロップが四つ握られていた。丸井は甘党で、いつもシロップを二つ入れる。ストローで掻き混ぜながら「俺、甘党なんだよね。二人は一つずつでよかった?」と聞くと綾は「はい」と短く返事をした。
(キャバ嬢向きじゃないかもな)
 その物足りない反応に笑顔のままで考えるが、かと言って仕事となった瞬間変わる女など珍しくもないのでその疑問は保留にしておく事にした。もう一人の桜子と言う子は愛嬌もあるし頑張れば人気者になるかもしれない。
「今日は体験入店って事だから、どうしようかな。二時間……三時間とかどうかな?」
「はい、大丈夫です」
「あー! 桜子来たんだー」
 黒い革張りのソファに腰掛けたまま丸井はその声に振り向くと、キャストの美沙が自分にではなく桜子に手を振っており、そう言えば知り合いが今度店に来るからと言っていた事を思い出した。そう言えば桜子と言う名前だったな、と今の今まで忘れていた記憶を思い返す。彼女は面接をしているというにも関わらず桜子の横に腰掛けた。
「まるっち、この子、前言ってた子」
「さすが美沙ちゃんの知り合いだけあって可愛いね」
「でしょー」
 と自分の事のように――実際そう思っているのかもしれない――大げさに喜ぶ彼女に、適当に返事を返しながら二人へと向き直った。まるっちと言うのは彼の愛称なのだが、それが苗字から来ているのではなく、彼の少し膨れた下っ腹からのものだと言う事は誰にも言われなくても本人も自覚はしている。席から立ち上がる様子のない美沙をそのままに、二人に仕事の内容を軽く話し、体験が終わってからまたシフトや細かい事を話す事を説明する。
「もう名前決めたの?」
「いや、まだだけど。ちょうどいいや、今決めようか。源氏名って言うんだけどね。お客さんの前での自分の名前。よかったら自分で決めてもいいけどなんかある?」
 そう言われて桜子は悩むように首を傾げた。綾のほうを見るが、彼女もどうやら全く考えてなかったようだったが、自分で考えるのは面倒くさいと判断したらしく「なんでもいいです」と答えた。
「本当? じゃあ、俺が考えたんでいいかな。そだな、愛華とかどうかな、愛に豪華とかの華で」
 彼女の履歴書に実際に字を書いて見せる。綾は「じゃあ、それでいいです」と即答した。ただ自分には酷く似合っていないような気もしていた。でもきっと気にする事ではないのだろう。その名前は所詮記号でしかないし、きっとその記号に意味を見出すのは私ではなく他の誰かがする事なのだ。
「私、どうしようかな」
「桜子、花の名前にしたら? 今桜子だし」
「ずっと前から桜子ちゃんだろ」
 かるく丸井が突っ込むと「うるさい!」と美沙がこれまた大げさに叫ぶ。彼女は自分が目立つための方法をよく知っている。それを鬱陶しいと感じる客の前でもやってしまうのがたまに傷なのだがもう直す事は無理だろうと諦めている。
「百合とかは?」
「ちょっと古風過ぎるかな。イメージ的にもっと明るい方がいいよ」
 結局花の名前にする事に桜子は決めたようだが、中々アイディアが浮かばなかったようで「杏とかどう? 可愛らしいし」と言う丸井の一言に「はい、分かりました」と頷いた。


「ちょっとあんたこっちおいで」
 なぜかお客からも、さん付けで呼ばれる晶子に呼ばれている彼女と一緒に客を見送って店の中に入ろうとしたところでそう呼び止められ、綾は自分はなにか悪い事をしでかしただろうかと思ったが、入ったばかりの自分がなにが良くてなにが悪いかなど考えても分かるわけがない。二人はおかえりなさい、と声をかけてきたボーイの男に「ちょっと裏行くから。なんかあったら呼んで」と言うと更衣室へと入った。ボーイは晶子がそういう風に席から離れる事はそう珍しくはないので「分かりました」と素直に告げる。晶子は軽く席を見回して自分がいなくても大丈夫そうだと思う時のみこういった事をする。今年三十になり十年以上水商売を続けている彼女の方がそこら辺のボーイよりも店の状態を正確に判断できた。
「あ、お茶ちょうだい。二つ」
「分かりました。ちょっと席回るんでそれからでいいです?」
「うん、お願い」
 ボーイである沢村浩平はそれを聞いて少しは長い話になるようだが、お茶を出してあげると言う事はきつくお灸を据えられるようではないな、とちらりと綾を見てなぜか安堵のようなものを覚えた。店長の丸井に二人の事を伝え、軽くホールを回ってからお茶を入れて、更衣室へと入る。更衣室に入ることなど沢村はあまりない事だが、入る度に上品な黒にまとめられ天井には派手なシャンデリアがぶら下がっている内装と違って、簡素な蛍光灯に照らされ余計目立つ煙草の煙で黄ばんだ壁と、キャストの私物が乱雑に足元にまで放り投げられている光景を見るたびに女の上辺と言うものは幾らでも化粧以上に厚く上塗り出来るものなのだな、と思ってしまう。
「お茶、置いときますね」
「ありがとうございます」
「いや、全然いいですよ」
 お礼を言う綾に、なるべく落ち着いた素振りで目の前で手を振って答える。
 ボーイに敬語を使うキャストって珍しいよな。つかこういう堅物そうな子もキャバ嬢とかするんだから分かんねーよな。顔だけ見たらめっちゃタイプなんだけどな。あんま笑ったとこ見たことねーな、そう言えば。そんな風に思っていると晶子に「浩平君、さっさと戻りなさいよ」と冷たく言われ、内心で軽く舌を出した。
「仕事慣れた? 今日で一週間だっけ?」
「それなりだと思いますけど、私悪いところありました?」
 バタン、と閉められたドアの音を聞くと彼女が綾に向き直った。丸井は晶子に彼女を教育させる事にし、この一週間彼女の席にヘルプとして付いて回っていた。
「そりゃまぁ、悪いとこはいっぱいあるわよ。ま、大体の事は一週間で出来る事じゃないから気にしないでいいんだけど」
「はぁ」
 晶子はグッチのシガレットケースからパーラメントを一本抜き取ると、店の名前が書かれているライターで火をつけた。客席では煙草を吸わない事にしているらしい彼女の煙草を吸う姿を綾は初めて見たが、やはりどこかおばさんくさいと思った。彼女は年の割りに綺麗な肌をしているし、化粧も念入りでスタイルもグラマラスで黙っていれば思わず振り向いてしまうような美人なのだが、その言動はなんだか大阪のおばちゃんのようで、図々しくもあり、それ以上に清々しい。そのギャップが客に受けるようで、さすがに今はナンバー入りする事はなくなったが彼女に会いに来る客は多かった。
「思ったよりはいい感じ」
「はぁ」
「あんた、そのはぁ、って返事やめなさいよ」
 呆れたようにカラカラと笑われたが、バカにされているようではないようだ。自分とは正反対のキャラクタだと言える彼女は「私はいいけどそういう中途半端な返事嫌うお客さんもいるからね」と忠告をする。
「テーブルクリーンもちゃんとするし、ライターもすぐに出るようになったし水割りもお客さんの好み一回で覚えるし。飲食店で働いてた?」
「働いてました」
「やっぱりねぇ。だと思った。そういう仕事的な事テキパキしてるからさ。けどね、あんたの一番の仕事はそこじゃないからね。飲食店は食べ物が商品だけど、うちは私達が商品だからね。自分が不味い料理だったらどんなにテーブルが綺麗でもお客さんは満足しないの、分かる?」
「分かります」
「よね。だからね、例えば飲食店でお客さんがお勧めの料理なに? って聞いたらあんたお客さんの好みとかまずなにかな。とか考えてそれっぽいの言うでしょ? 飲食店ならメニューの中の何品かを言えばいいけど、うちの場合は自分しかないからね。だから自分を、お客さんの好みの味に変えなきゃダメよ」
 飲食店、と何回か言った晶子に、きっと自分に分かりやすく例えて説明しているのだろうと感じる。自分に合わせた会話をする彼女にふとそれが味を変えると言う事だろうかと思った。
「固いのよね。なんか。普通のところで働いててそのくせがあるんだろうけど。それをいいって言ってるお客さんもいるからそこはそのままでいいんだけどさ。もうちょっと柔らかいのが好きなお客さんもいるから、それに合わせられるようになったら、あんた今より売れると思うよ」
「難しいんです。自分を変えるのって」
「そりゃそうよ。けどほら、あれじゃん。仕事よ、仕事。あんた真面目そうだからそういう風に言うけど。お客さんを喜ばせるのが仕事でそれで金もらうんだから頑張りなさい。マヨネーズ大目にしてくれって言ったらするでしょ。それと同じだと思いなさい」
 無理でもそうしなさい、などと押し付けるような言い方は必要ないと思え、要件だけを事務的に告げる銀行の窓口員のようにそう告げる。そして「そろそろもどろっか」と残ったお茶を飲み干すと立ち上がった。
 後を追って立ち上がり、こちらは半分ほど残っているグラスを手に取り、首をこきこきと折っている彼女の後ろ姿を見ながらやはりおばちゃんくさいと綾は思ったが、同時に真面目な人だ、とも思う。飲食店に入りたての頃、慣れない自分に細かく指導をしてくれた先輩のバイトと同じように。
(なんだ、変わらないんだ)
 売ってるものや働く時間が違うだけ。
「あ、そうだ。えーっと、あれ?」
「愛華です」
「あ、そうそう。てかさ、その名前似合ってないよ。キャラと合ってない」
「合ってないですか?」
「そう、全然合ってない。そのせいで覚えられないのよ、あんた改名しなさいよ。ちょっと待って」
 悩んでいる彼女に「勝手に変えていいんですか?」と聞くと「私が言うから気にしないでいいわよ」とあっさり言う。
「決めた。あんたシェリーにしなさい。愛とか華とかバカなアイドルみたいなのよ、あんたは少しつんとしてるくらいがいいのよ」
 その晶子のネーミングセンスに丸井は頑として否定しようとしたが、綾がシェリーでいいですよ、私と晶子の隣で言ってくれたおかげで「ほら、シェリーもシェリーのほうがいいって言ってるでしょ」と押し切られてしまった。いつもなら女の子のほうから「今のままでいいです」と言ってくれるのでなんとか彼女を説得する事が出来たのだが。
「シェリーってなんだよ。どっかの外人のブルースかよ。カタカナでももっとまともなのあるだろ、もっと」
 後日、そんな風に愚痴っていたと浩平から聞かされるが、綾はそうだとしたら、それはそれでありだと思った。きっと私はそういうキャラクターだと思われたのだろう。適当に思いついた愛華、なんて名前より、私らしさから生まれた名前だと思えば、少しはその源氏名と言う仮名にも愛着を持てそうな気がする。

     

 大学生活が始まってすぐに気が付いた事がある。店で少し仲良くなった自分より一つ年上のキャストが言っていた「同年代の男ってガキくさいから嫌い」と言ってはいるが、自分の場合はむしろ三十代や四十代が想像していたよりも子供っぽくあまり自分達と変わらないような発想を普段は隠しているものの大なり小なり持っていると言う事だ。自分は同年代の集う大学の中で特別目立つ事もなかったし、差異はあってもそこに優劣などはないと思う。だがそう思うのは綾が人並みに周りの顔色を伺う事をしないからで、実際のところは綾の目が届かないところで新入生の権力闘争は始まっているようだった。
「今度、皆との親交を深めようって事で飲み会とかしようと思うんだけど黒澤さんもおいでよ」
 そう爽やかな笑顔を浮かべて声をかけてきた男を見て、綾は軽薄そうな男だとまず思った。名前もまだよく知らなかったが、行動力があるようでなにかにつけて女の輪に入ろうとしている姿を以前見た事がある。外見が良いので雑に扱われる事も少ないようだが、そうやって声をかける相手の選り好みは細かいようだった。
 自分の事を気に入ってるのだろうか。と思う。職業病だろうか。以前なら他人にどう思われるかなんて考えもしなかった。左耳の小さいが派手に光っているピアスが目障りだと思いながら返事を保留すると「君が来てくれたら俺嬉しいな。あ、俺の事タカって呼んでいいよ」と言い残し足早に立ち去った。それよりも素っ気ない態度で離れると失礼だし、それよりもしつこく誘うと鬱陶しく、これがベストのタイミングだと言っているかのような去り際で。
 後日、入学してから親しくなった女の子にもう一度誘われ結局行く事にし、一次会の居酒屋へとやってきたものの、酒には殆ど口をつけずウーロン茶で過ごした。騒がしい集団の中には見た顔もあるし、殆ど記憶にない顔もあるのだが、数人その姿を見せていない者もいるようだった。幹事が声をかけたのが全員ではなく何人かは最初からはぶられていた事など綾は知る由もないが、「あいつ気持ち悪いよな」と笑い声と共にに時折聞こえてくるその台詞にどんな場所でも他人の陰口で喜ぶ事は出来るものだ、と黙々と目の前にあるサラダに手を伸ばす。いつの間にか隣にやってきたタカ――それ以上の名前を彼女は知らない――が「取ってあげるよ」と小皿を手に取ったが「いい」と断って彼の手からそれを受け取る。
「綾ちゃんってさ。ピンとしてるよね」
 名乗った覚えはないが、なぜ名前を知っているのだろう。
 誰かから聞いたのだろうが、まだシェリーと呼ばれた方がマシだと思えた。キャバ嬢だと知ったら彼はどんな反応をするだろうか。
「そうかな」
「私一人で生きていけますって感じ」
 そう言いながらジョッキを呷った。まだ未成年だが飲みなれているようで空になったそれを店員に向けてかざす。少し顔が赤くなっていた。酔っ払った男は面倒くさい。中途半端に酔ってなんでもノリのせいにしようと計算する男はもっと面倒くさい。
「寂しくならない? そういうの」
「今口説いてる?」
「口説いていいなら口説くけど」
「じゃあ、無理」
「じゃあ、また今度口説いていい?」
「無理」
「厳しいなぁ。まぁ、いきなりはないよね、さすがに」
 はっきりと拒絶した綾の言葉を聞いていないようにはぐらかす様な物言いをする。新しく運ばれてきた黄色い液体を今度は少しだけ体の中へと注いだ。今日の会話は酒のせいと言う事にしてしまう事にすると決めたようで「じゃあまたね」と言うと違う席へと移っていった。新しくやってきた席の隣にいた女は彼の事を気に入っているようで、少し甘い言葉を口にすると潤んだように見上げてきた。全員の目の前で必要以上にいちゃつくと後で面倒くさい事になるので「あとで電話するよ」とだけ言いまた席を移る。
 結局のところ、こういう時楽しくなるのは男二人に囲まれた時だった。
 女といて楽しいのは落とすまでの過程の最中か、もしくは二人きりで且つ相手が自分から向ける思いよりも、更に強いものを向けてくれる時だけだと言う持論は彼の中では確固たるものとして定義されており、それ以外の時はひたすらに面倒くさかった。


「黒澤先輩?」
 居酒屋から出てボーリングをしようと数人が言い出しやってきたボーリング場で、そう声をかけられて振り向くと、高校の後輩でバイト先でも一緒だった大川智史が立っていた。
「久しぶりです」
「本当、久しぶりだね。卒業式以来。バイトの皆元気?」
「先輩とか一気に辞めて一時期てんやわんやでした。最近新人入りましたけど相変わらずですよ」
「そうなんだ。懐かしい」
 自然と懐かしさから目元が緩む。
 彼女より二つ年下の彼は高校に入学してすぐにバイトを始めたのだが、その頃から変わらない清潔さを変わらず持っていた。多少鈍感なところはあるが、いつも他人を思いやる事が出来るその人間性に好感を覚えている。
「智史ー。なにやってんだよ」
「あぁ、悪い。ちょっと」
 そう言いながら智史へと近付いてくる姿を見て、どこかで見た顔だと思いおそらく彼のクラスメイトで学校ですれ違った事くらいあるのだろう、と判断した。元々下級生と触れる機会などバイト先くらいでしかなかったので印象は殆ど薄いものだったが、相手は自分の事を知っているらしく目が合うと「あ」と呟き頭を下げた。
「どうもっす」
「あ、俺の友達です。バイト先にも何回か来た事あるんですよ」
「そうなの? ごめん、あんまり覚えてない」
「まぁ、だと思います。黒澤先輩っすよね。柳です。柳康弘」
 康弘は軽く苦笑するとちょっと緊張しながら答えた。彼女の事はそれなりに知ってはいたが、それは彼女と智史のバイト先で見かけて綺麗な人だなと思ったり、その智史との話の合間にふと出てきた事や、学校でも彼女に憧れているものの既に諦めたような口調で愚痴るクラスメイトからの話程度のものだが、それでも表面的な事くらいなら彼の乱雑な頭でも推察は出来る。
 智史の弁では優しい人だそうだが、傍から見る分には気が強くてなにを考えてるか分からないが、とりあえずそんなのあっさり許してしまいそうになるくらいの美人。どちらにしろ、自分の好みとは少し違い苦手なタイプだ。
「大学どうですか?」
「普通よ。今その大学の人達と来てるの」
 綾が離れている事に気付いていないかのように盛り上がっている集団を指差され見る。かなり出来上がっているらしくはしゃいでいるその姿それだけ見ると普通にはとても見えない。智史は自分が去年高校生になった時三年生がとても大人のように見えたが、それ以上に大学生はまた自分とは違う場所にいる人達なのだと思える。
 そろそろ行く、と言う彼女を見送り、康弘とボールを選ぶ作業へと戻る。
「あの人本当美人だよなぁ。ちょっとこえーけど」
「だから怖くないって。話した事ないからそう思うだけだよ」
「気の強い女苦手なんだよ。ほら、真尋とか長瀬とか」
「ちょっとその二人とは違うと思うけどな。まぁ、康弘は麻奈がいいんだろ?」
「うっせーな、バカ」
 そう言いながら慌てたようにキョロキョロとあたりを見渡す。どうやら本人には聞かれていないようだと既にボール選びを終え、レーンへと戻り二人を待っているらしい橘麻奈と黒木真尋が椅子に座ってこちらを見ていた。
「おそーい。なにやってんの? 話してた人誰?」
「去年卒業した先輩」
「綺麗な人だったね」
 麻奈の何気ない呟きに智史が「あ、やっぱり」と答えると真尋が彼の見えないところで少し不機嫌そうに頬を膨らませたが他の二人もそれには気が付かなかった。他意がないのは分かっているのだが、やはり片思いをしている相手からそういう言葉が出るのは好ましくはなかった。
 気を取り直すように「ほら、康弘、一番だよ」と顎で促すと彼は「はいはい」と持ってきたボールに指を入れると重みを確認するように上げたり下げたりを何度か繰り返した。
「ま、人間顔じゃねーしな」
 ゲームの途中煙草を吸おうとして、麻奈の前では吸わない事にしている事を思い出し、ポケットに入れていた手を戻したものの手持ち無沙汰になりそう切り出した。
「あれでしょ? 大人しいけど明るくて優しくてちょっと天然で、柔らかそうな髪しててちょっと小柄でボーリングの玉は七号くらいを選んでて今三回目のガーター出したような子がいいんでしょ?」
「真尋、具体的過ぎるよ」
 真尋の言葉に二人の間に座る智史が大きく笑った。
「ああああああ!? うっせーな! お前マジ死ねよ!?」
 椅子から立ち上がり噴火を間近に控えた火口のような赤い顔をして叫ぶ。智史が「まあまあ」といつものやりとりに半分は呆れながら宥める。言いたい事はそれこそ今にも溢れ出しそうだったが、麻奈が戻ってくると苦虫を潰したような顔をして座りなおした。
「どうしたの?」
「なんでもなーい」
「なんでもないよ」
「……なんでもねーよ」
 不思議そうな顔をした麻奈が隣に座ると、康弘はこっそりと「なぁ、麻奈ってどういう男が好み?」と聞いてみる事にした。
「え。え!? なに、急に!?」
「……いや、なんとなく」
「え、えっとね……」
(……両思いっていいなぁ。けどこの二人いつくっつけるのかしら?)
 戸惑う麻奈を聞こえていない振りをしながらちゃっかりと聞きながら真尋は、椅子の上で足を持ち上げ両手で抱きかかえると、ブラブラと体を揺らし高い天井を見上げた。自分もいつかそうなれる日が来るだろうか?
 派手にピンが倒れる音がしてつけられているモニターにストライクの文字が躍った。ガッツポーズをとる智史に両手を差し出す。
 ハイタッチをして触れた彼の手は、ほんの一瞬だけの接触でも暖かいと思った。


「つまらない奴だとよく言われるんだよね。シェリーちゃんもそう思うだろ?」
「そうかな。そんな事ないですよ。桑原さんいい人だと思います」
「いい人かぁ……そんな風に言ってもらえることってあんまりないな」
「桑原さんおとなしいから」
「集団って苦手でね……」
 くすりと笑うと空いたグラスを取り水割りを作り直した。コースターの上に置きなおすと彼はその度に「ありがとう」と律儀に言うのを忘れなかった。桑原はいつも一時間だけ延長して帰る。飲むのはハウスボトルだし綾もドリンクを頼むのはいつも二杯だった。きっと三杯目を頼んでも彼は困った顔を思わず浮かべてしまうものの結局ダメとは言わないし、いつものように一週間に一度これからも来てくれるとは綾も思っているが、さして払いがいい訳でもない営業をしている桑原吾郎にとってはその一杯の気遣いがありがたいと思うが、少し気恥ずかしくもある。
 この店に来るのは三度目で、初めてやってきた時は会社の上司と四人で無理やり付き合わされるような形だった。それまで自分はキャバクラなどとんと縁がなかったし、三十半ばの自分が若い女の子にチヤホヤされる姿など想像もした事がなかった。案の定と言うべきか席で取り残され、女を隣にして盛り上がっている上司や同僚を見ながら早く帰りたいなどと思っていた。
「私も集団苦手です。いるじゃないですか。いつでも目立とうとする人。ああいうのって疲れるんですよね」
「あぁ、そうなんだよ。気に食わないとこっちのせいにされたりするしね」
「いますよね、そういう人」
 彼女が自分の席に着いたのは三番目だった。その前の二人は隣できゃあきゃあと騒ぐだけでなにを言えばいいか分からず戸惑っていると、彼が不機嫌になっていると勘違いしたらしく逃げるように彼越しに同僚へと声をかけるようになりその度に「桑原、女の子が困ってるぞ」と笑われて居心地が悪くなった。
 だから余計自分のペースに合わせてくれる彼女がよく思えたのかもしれない。彼女は一言「あまり騒ぐの好きじゃないんですね」とだけ言うと落ち着いた素振りでゆっくりと耳を傾けてきた。その時、自分は一見盛り上がってるように錯覚してしまいそうになる嬌声を聞きたかったのではなく、誰かに自分の事を話したかったのだと、聞いてもらいたかったのだとふと気が付いた。まさかその相手がこんな年端のいかないキャバ嬢になるなんて事は思ってもいなかったが。「シェリーです」と言いながら差し出す名刺を受け取り、スーツの内ポケットへと入れた。残念ながら指名が入ったらしく二十分経つか経たないかと言うところですぐに彼女は席を立ってしまった。それからはどんな子がやってきたかあまり覚えていない。ただ席から席へと移動をしている彼女の姿を見ていた。しばらくして帰ることになり、他の三人が携帯電話の番号を交換している事に気付いたが今更綾を指名する事も出来るわけがなかったし、隣の化粧が濃くて退屈そうにどこを見ているのか分からないような彼女と連絡先を交換しても楽しくないだろうと思い諦める事にした。彼らから「桑原も聞けばよかったのに。まぁ、どうせもう行かないか、お前は」と同情されているかのように言われたが、その彼らの思惑に反し、翌週スーツの内ポケットから財布へと移動していた名刺を見返し、一人で行ってみようと思った。
「シェリーちゃんって若いのに落ち着いてるねぇ」
「そんな事ないですよ。ぼんやりしてるだけです」
「俺もぼんやりしてるってよく言われるよ。俺はそんなつもりないんだけどな」
「あはは」
 二人だけでゆっくりと過ごす二時間は、桑原にとって貴重なものになろうとしていた。日々の営業での無茶な要求を言っては気が狂ったように文句を言う客や、成績を上げろと耳にタコが出来そうだと思うほど言ってくる上司の顔もこの間だけは忘れる事が出来る。もう少し若い頃にこういう遊びを覚えていれば自分は今以上にきっとのめりこんでしまっていただろう。キャバクラなど男が女に騙されて有り金を思い切り捻った水道の蛇口のように垂れ流すだけのものと思っていたがいざはまってみると、金を払う価値はあると思えた。最も自分の財布とはいつも相談を繰り返してはいるが。
 ふと携帯電話が鳴り仕事帰りのままのくたびれたスーツから取り出す。綾に一言断り友人からの他愛のない会話を始める。自分がキャバクラにいることなど想像もしていないだろう彼はのらりくらりと愚痴のような事を言ってからまた今度飯でも行こうと締めくくり切れた。
「ごめん、ごめん」
「ううん。桑原さんミスチル好きなの? 着うたミスチルだし」
「あぁ、そうだね。最近の歌は分からないし」
「私もミスチル好きですよ」
「へぇ。なにが好き?」
 黒いドレスを身にまとった綾はそう聞かれ考えるように体を少し動かした。派手にスリットが入ったそのドレスから細いながら肉感的な太股がのぞき、桑原はついつい盗み見てしまう。その視線に気付いたものの見られるくらいならもう慣れてしまったので隠しなおしたりもしなかった。中には遠慮もなく触りたがる客もいるしそれに比べればむしろ照れる事がわかるその表情は可愛らしいとも思えた。
「デルモって分かります? あれ好きです」
「へぇ、珍しいとこつくなぁ。Everything(It’s you)のカップリングのやつだよね。あれ結構古いのによく知ってるね」
「ちょっと前にカップリングのベスト出たじゃないですか」
「あぁ、そういえばそうか」
「そう、それで聞いて。ああいう感じ好きなんです」
「そうかぁ。僕はDrawingが好きだったなぁ。これもカップリングだけど」
 そんな事を話しているうちに時間となり、いつものように名残惜しいと思いながらもボーイに恭しく差し出された伝票をみて値段を確認し財布を取り出した。お釣りを受け取るのを待つ間着うたのサイトを見てデルモを見つけダウンロードする事にする。前回来た時に連絡先を交換した。着信を人によって変えることなど今までした事もなかったが彼女から連絡が来た時この曲を流すようにしようと決める。設定のやり方がよく分からず彼女に聞いてみると「こうやるんですよ」と教えてくれた。彼女が「私専用ですか?」とちょっと悪戯っぽく笑い、吾郎は気恥ずかしくなったがそうやって笑われるのは悪い気分ではなかった。
「じゃあ私も吾郎さんから連絡来たらDrawingにしようかな」
 店を出て見送られる時にそう言うと彼は「本当?」と疑う素振りのない純真な子供のように瞳が輝くのを見て綾はそんなに喜ぶような事でもないのに、と内心で思いながら「本当ですよ。また連絡しますから」と笑顔を浮かべた。専用の着うたの設定をしているのは吾郎さんだけじゃないですよ、と言うと彼はどう思うだろうか。当然の事、と割り切るのだろうか? もし悲しまれたとしたら晶子の言葉を借りれば「扱い方を間違わなければおいしいお客さん」だ。数百円の着うた代も払っているのは間接的には自分以外の誰かだし、それだけで喜んでまた店に足を運びそれ以上の金を払う。
 タクシーに乗り込んだ吾郎は窓越しにこちらを見て不器用に笑顔を浮かべた。手を振り替えし、やがて右折をしてその姿が見えなくなると店へと踵を返す。
「おかえりなさい」
 浩平にそう言われ「ただいま」と言いながら「お茶もらっていいですか?」と尋ねると「シェリーさん指名のお客さんいるんでついてほしいんですけど」と少し申し訳なさそうな顔をする。綾はそう、しょうがないね、とさして不満げに思うようでもなく席を確認するとカツン、とヒールの音を響かせた。その姿を見送り先程出て行った客のテーブルを片付けながら、今度の客の前では敬語を使わなくなった彼女を横目に、キャバ嬢の本性なんてボーイをやってれば幾らでも垣間見る事は出来るが、客席でむしろ不真面目になるキャバ嬢って言うのは珍しいものだよな、と思う。


「杏、あんた彼氏は?」
「今いないんですよ」
「シェリーは?」
「いないです」
「寂しいね、あんたら」
「晶子さんはいるんですか?」
「私結婚してるから。子供もいるのよ」
「えー!?」
 店を閉めてから晶子に連れられ三人でやってきたバーのカウンターでのその発言に、桜子は思わずスツールから立ち上がった。晶子は店でも結構飲んでいると思われたがここでも焼酎の水割りを頼んだ。彼女にとっては酒が水の代わりのようなものなのかもしれない。
「なによ、なんか文句ある?」
「い、いえ、なんかびっくりしちゃって」
「もういい年だからね、私も。あんたらどれくらいいないの?」
「私はもう半年以上以内ですけど。綾ちゃんはちょうど二ヶ月くらいだよね?」
「そうね」
「へー。二月? なんで別れたの?」
「県外に行く事になったんです。だから別れようって」
「それだけ?」
「はい」
「なにか嫌な事とかなかったの?」
 晶子にとって過去の恋愛話など世間話程度のものでしかないのかもしれない。
「嫌な事とかはなかったですね」
「じゃあ遠距離試してからでもよかったじゃん」
「うまくやってく自信がなかったんですよ。だから別れた方がいいと思って」


「俺キリストと誕生日一緒なんだよ」
 そう笑う大吾に「ふうん」と返事をすると「うわ、反応うす」ととっておきのジョークがまるで全く受けずにショックを受けた、とでも言うように頭を掻いた。それでも今まで普通なら誕生日とクリスマスは別々に祝って貰えるはずなのに自分の場合は、ケーキもプレゼントも一緒にされてしまって、他の奴らが羨ましかったんだよな。それに誕生日だけなら主役はそいつなんだけどさ、俺の場合クリスマスパーティーも兼ねちゃうから俺だけが主役じゃないんだよな。なんか不公平だと思わね?
「じゃあ、私が誕生日を祝ってあげる」
「え?」
「元々、私クリスマスとか興味なかったし。十二月二十五日は大吾の誕生日、それを私が祝う日でいいでしょ?」
 彼はしばらくポカンとしたが、ややあって大げさに喜んで見せた。いや、どうやらそれでもまだ足りないとでも言いたそうだった。そうしてクリスマスまでの間彼は上機嫌だったが、ふとプレゼントなにか欲しいものある? と尋ねてみると彼は真剣にうんうんとしばらく悩んでから、ペアリングとかどう? と手を叩いた。
「やっぱクリスマスだし、お前にもプレゼントあげたいし」
 と彼は自分で自分の愚痴の内容を忘れてしまったかのように言ったが、それで彼が満足するのならそれでもいいかと思い、二人で見に行く事にした。
 街はクリスマスを前にしてどこか色めき立っていた。その様子を隠そうとしない人並みの中、大吾に引っ張られるようにして後をついていく。大吾はそのざわめきの中に自分も溺れるのを楽しんでいるようだったが、綾はどちらかと言えば早くこの場所から去りたかったがやはり二人のためのプレゼントを買うのかと思うと少し気が紛れた。
 やってきた店内も自分達と同じように一人だったりカップルだったりで混雑していたが目当ての場所へと辿りつくと彼はウインドウに恥ずかしげもなく顔を寄せて、どれがいいかな、と品比べをしていた。その隣で綾も陳列された多くの指輪を見ながら、やってきた店員からお勧めはこちらです、などと言われたがいいと思ったのは真ん中に石が埋め込まれているシンプルなデザインのシルバーのリングだった。大吾は自分ではどうやら決めきれない様子で彼女がこれがいい、と言うと「じゃあ、それにしようか」と笑った。
「今つけてみます?」
「いや、いいです」
 大吾がそう断りサイズの確認だけ済ますと、クリスマスに受け取りに来る事を伝えた。彼が言うにはああいうのはその時に初めてつけるからいいのだそうだ。万が一そのサイズが入らなかったらどうするのだろうと綾は極めて現実的な心配をしたが、それはそれで彼はまた少し困った顔をしてサイズを直す事を頼み「まぁ、こういう事もあるって」と笑うのだろうな、となんとなく思った。
「誕生日おめでとう」
 十二月二十五日。彼にそう言い彼はその返事にしばらく迷った後結局「メリークリスマス」と言うと彼女の指に慣れない仕草で指輪を嵌めた。店を出てすぐに早速つけようと言い出した彼は道端でやたら照れていたがそれを誤魔化すようにふと空を見上げ「お」と無邪気な子供のような声を出した。
「雪だ」
「本当」
 空からまるで花弁のように雪がはらはらと舞い降りていた。綾は冷え込みそうだと思い、コートの襟元を寄せたが大吾は喜ぶように、白い息を吐きながら空を見上げていた。
「ホワイトクリスマスかぁ。なんかいいな」
「クリスマスじゃなくて誕生日を祝うんじゃなかったの?」
「いいじゃん。綺麗だしさ」
「そうね」
 確かにそんな些細な事に反論するのは馬鹿げた事だと思った。
 まるでこの日を祝うかのようなその光景に、まるで全ての時が止まっていたかのように見入っていたがやがて動き出した世界に引き戻されるように大吾も「そろそろいこっか。ケーキ買いに行こうぜ」と右手で、綾の指輪が嵌められている左手を取った。その硬い感触を確かに感じる。

     

『五月五日にさ。卒業生の皆で集まろうって言ってるんだけどどう?』
 そう誘われ綾は躊躇った。別段予定があるわけでもないし、久しぶりにクラスの皆の顔を見るのも悪くはないと思ったが、大吾も来るのだろうかと思うと少し気まずいと思えた。「考えとく」と濁すと「別に当日いきなり参加でもいいから」と言われたので、ゴールデンウイークに突入した今になってもまだ返事を決めかねていた。
 ゴールデンウイークの間店は休むと丸井には伝えていた。稼ぎ時なので丸井は桜子と並んで二人でそう言った時渋い顔をしたが渋々了承する事にした。元々片手間のバイトのようなものなのであまり強く言う事も出来なかったし、大学一年生が初めての連休に羽目を外したくなって休みをねだってくるのは例年の恒例行事のようなものだった。
「一つ言っとくけどゴールデンウイークに休むとお客さん彼氏いるんじゃないかとか疑ったりするから、そこはなんとかメールとかして機嫌取っといてね」
 綾からすれば彼氏がいるからなんなのだろう、と思うのだがやはり客はキャバ嬢にどこかで夢を持っているのかもしれない。こんな仕事でも男には純粋であり、その純粋さを自分だけにいつか見せてほしいというまさに甘い夢のような事を。桜子は「やったね」と大げさに喜んだが、考えてみれば桜子に誘われ一緒に休む事にしたが自分はその間とくにしたい事もなかったのだが、世間がゆっくりしている時に自分もそうしたって罰は当たらないだろうと思うことにした。
 案の定昨日店に連絡をしないままやってきたらしい客から何件かメールがやってきたが、大学の皆と遊ぶ事になっちゃって、と適当な理由をつけることにした。家族と旅行に行く事にしてもよかったがいざ、近所で客と鉢合わせた場合言い訳が聞かないだろうと思ったのだ。
 そうしてメールを打つ作業を終えると途端に暇になり、せっかくだから外出でもしようかとクローゼットを開けた。以前晶子に「あんたね、私服なんとかしなさいよ。もっとファッション雑誌とか見なさい。お客さんがアンタのその姿見たら幻滅するわよ」と言われ、先月の給料をそのまま持って晶子に連れて行かれた服屋で、あれこれと幾つも手に持たされそのままレジへと押し込まれた事を思い出す。クローゼットから以前の自分では選ばなかったような色や柄のシャツやスカートを手に取ってみる。晶子のセンスはきっと悪くはないのだろう、と思うが誰もが追いかける人気モデルのファッションをそのまま丸写ししたような、鏡に映った今の自分はなんだかショーウインドウに押し込まれたマネキンのようだった。きっと好感を抱くのは飛び抜けた個性ではなく、安心感なのだろうと彼女は思う。どんなに異質に見えても大衆がそれをいいと言えばそれはナチュラルな事になるし。大衆が叩けば平凡だと思えたものも忌み嫌うものになるのだ。そして私はキャバ嬢らしい安心を求められ、キャバ嬢じゃなければちょっと派手じゃない? と思われるファッションに身を包むことで相手は安心感を得るのかもしれない。
(誰のために与えるのか分からないけど)
 玄関を出てのんびりと歩く事にした。最近は店と大学の往復で家に帰っては寝るという生活の繰り返しだったのでその両方が途端になくなると偉く暇だと言う事が分かった。退屈ではない。退屈はどんなに忙しくても感じる事が出来るというのは以前から分かっている。大学でも、店でも、誰かと目を合わせ会話をしてもそれはついて回る。そしてこうやって一人で静かに歩くのは暇ではあるが退屈ではなかった。
 どこか行こうか、そんな事を考えながら交差点に差し掛かり、駅のある方向へと曲がろうとしたところで後ろから、遠慮がちな声で呼びかけられ振り向いた。
「……綾?」
 自転車から片足を下ろし、少し驚いた顔をしている大吾だった。彼がやってきた方向には彼の実家があるのでそこからこちらへとやってきたのだろうが、綾は彼がいる事に少なからず驚いていた。
「……久しぶり。大学は?」
「……ゴールデンウイークだろ? 昨日帰って来たんだ」
「そう」
 納得したように小さく頷く。
「どっか行くの?」
「別に。ちょっと散歩してただけよ。大吾は?」
「ちょっと買い物行こうかなって思ってたんだけど」
 沈黙が落ちた。唐突の事にどう言えばいいか分からずいっその事「じゃあ」と言って逃げるようにこの場から離れ、なにもなかった事にした方がいいのかもしれない。そう思う綾の心を見透かしたかのように「今、暇?」と先に言葉を発してきた。
「まぁ、暇だけど」
「ちょっと話さない?」
 なにを話すの? と言う思いと共にそれが言葉となって喉から飛び出ようとした。だがそれよりも先に違う言葉がその言葉をするりと交わし「うん」と空気を震わせていた。


「なんか、変わったよな」
「そう?」
「服とか。もっと地味だっただろ?」
「あぁ。ちょっとね」
 仕事の事は黙っている事にした。言えば結果は悪い方向にしか転がらないだろう。
 だがいい方向に行ったとしてそこにはなにが待っているのだろうか?
「大学楽しい? いいよな、地元の奴とかいつでも会えるのって。俺も友達と電話とかするけどさ。切った後余計寂しくなるんだよ」
「別に地元にいても、そんなにいつも遊んだりしてるわけじゃないよ」
「そうなの?」
「大学行かずに就職した子とかはやっぱり忙しいしね。学校も違ったら皆、そっちで友達作るしね」
「マジで? なんか勿体ねーな」
「そう?」
 彼の自転車でやってきた近所にあるファミレスで向かい合うと、大吾は交差点の時と同じようにもう一度綾の身を包むファッションをまじまじと見ていた。無頓着とまでは言わなくてもそんなに気を遣うようにも思えなかった彼女の変身振りに一体どんな心境の変化があったのだろう。しかし口振りは以前と同じだったのでそれには安心を覚えた。もし口調まで変わってしまっていたらここにいるのはもう自分が知っている綾ではなく、そうして変わった理由を聞くのは少し怖かった。
「大吾は?」
「ん?」
「元気でやってるの? 一人暮らしとか色々あるでしょ?」
 そう聞くと腕を組んで「うーん」と唸り天井を見上げた。
 悩む時彼はいつも天井を見る。そうやっていると空から回答がいずれ降ってくるとでも思っているかのように。
「洗濯とかめんどくさい」
「ご飯はちゃんと食べてる?」
「たまにコンビニで済ますなぁ。それと今ファミレスでバイトしてるからそこで食ったり」
「栄養足りてないんじゃない? サッカー続けてるんでしょ? 体もつの?」
 まるで母親のようだ、と大吾は思わず苦笑した。付き合ってた時はこんな心配されなかったよなぁ、と少し寂しくなるが、きっと今飲んでいるオレンジジュースが家ではペットボトルで水代わりだと言うと呆れられるだろう。
「なぁ、綾?」
 運ばれてきた軽食の皿が空になってしばらくしてから、大吾は聞きたかった事をようやく切り出すことにした。
「なに?」
「好きな人とか、出来た?」
「出来てないよ」
「マジ?」
「うん」
「そっか」
 そっか。だからなに?
 ……だからなに? ってなに?
 それを聞こうとした私はなに?
「明日、クラスの皆で集まるじゃん。綾も来るんだろ?」
「……まだ決めてない」
「なんで? 行こうぜ。俺久しぶりに皆と会えるの楽しみだしさ……綾、聞いてる?」
 目の前で手を振られはっと、溺れていた思考の渦から浮き上がる。そんな彼女を珍しそうに見ている大吾に「ごめん、なに?」と聞き返した。大吾が「なんか考えてた?」と少し真面目に尋ねてきて首を横に振ると「ならいいけど」と言いながら綾のグラスが空いているのを見て「ちょっと汲んでくるわ」と席から離れる。なにがいいか、と聞くこともなく、彼は以前と同じくアイスティーを入れ戻ってくる。
 やっぱり彼と話すのは楽だった。
 キャバクラの客。大学で知り合った男。道端でナンパしてくる男。
「で、明日だけど、行こうぜ? せっかくだし、次帰ってくるの俺夏休みだしさ」
 目の前で大吾は手を合わせた。


 気がつけば頷いていた。
 大吾は満足そうな顔をすると、そろそろ行くか、と伝票を握り締め立ち上がった。送ろうか? と言う彼に歩いて帰ると言うと「じゃあ気をつけてな」と手を振った。
「ねぇねぇ、綾ちゃん。大吾君と話さないでいいの?」
「大吾も他の子と話したいだろうし、いいんじゃない?」
「そっかなぁ。絶対話したいって思ってるって」
 昨日のやり取りを知らない桜子は、少し距離のある二人をやきもきするように見ていた。そんな彼女の心配を知ってか知らずか綾は黙々とライトの落とされたカラオケボックスで誰かの歌に耳を傾けていた。上手くも下手でもないその歌はなんとなく聞いているのには最適で、終わるとまばらに拍手が鳴り響いた。
 桜子に隣でそう言われたからと言う訳ではないが、大吾の方をチラリと見てみる。クラスメイトの四十人のうち来たのは二十後半と言うところで、県外に休みの間もそのままいたり、単純に用事があるからと断った者もいたが、大吾の周りには彼とよく話していた男達が以前と同じように集まっていた。きっと久しぶりに帰って来た彼の顔を見たかったのだろう。大吾はこの集まりが終わってからどうするのだろうか。仲のいい身内だけでまたどこかに行くのだろうか。そんな事を思っているとふと彼がこちらを見て目が合った。「どうしたの?」と言う表情で首を傾げられ、今更誤魔化す事も出来ず「なんでもない」とこちらも動作だけで伝える。
 リモコンを持ってきた桜子が「一緒に歌お」とはしゃいでいた。元々進んで歌う事をしないのだが、なぜかその日はあまり断る気にもならず、去年流行っていた明るめのポップスを桜子が選曲する。
 当時の事を思い出すように所々で声が上がり、手拍子が鳴った。
 モニターにプロモーションビデオが流れ、女子校生が一人走っていた。ありふれた歌詞のラブソングなのできっとその内男子生徒も現れるのだろうと思った。
「制服とか懐かしー。もう着れないもんねー」
 惜しむように誰かがいった。
 過去を懐かしむように。
 まだ半年も経っていないのに酷く昔の事のように思えた。三年間毎日顔をあわせていた私達も、きっとこのカラオケが終わればまた離れ離れになり、自分達の新しい生活へと戻っていく。そして少しずつ、気付かないまま、確かに少しずつ距離が離れていくのだ。それは寂しい事だが、きっと新しい生活に馴染んでいくからこそそうなるのだと思えばそれは誰にも否定する事は出来ないし、その寂しさもいつか思い出となる。
 そうやって過去を作り、今がある事を誰もが知っている。
「別に着ればいいじゃん。コスプレとして」
「はぁ? なにそれ、変態じゃん」
「いや、別に制服は着れるだろって話だよ」
「制服を着たいんじゃなくて高校生活が懐かしいって話だし!」
「じゃあ、そう言えよ!」
 それでも、人は時に過去に戻る事を願い、戻ろうともがく事もある。
「そろそろ時間だね」
 その一言で皆現実に戻ったように立ち上がり荷物を抱えた。綾と桜子も同じように部屋を出て幹事へ自分の代金を渡し、フロントで会計が済むのを待ちながら別れを惜しむ周りの声を聞いていたところで、大吾が近付いてきた。桜子が気を利かせたつもりなのか、別の集団へと加わろうと距離を取った。
「綾、もう帰るの?」
「うん」
「他の奴らとどっか行ったりしないの?」
「うん」
「じゃあ……ちょっと俺と話さない? 綾がよかったらでいいんだけど」
「いいよ」
 どこかで、そうなる事を望んでいたのだと思う。
 解散となり桜子は二人に大きく手を振っていた。
 並んで歩くと彼は綾に合わせるためにいつもより少し歩幅を狭くする。以前はそれに慣れてしまって普段からそのペースになっていたがいつの間にかその癖も取れてしまっていたらしく、時折足を止める事になった。綾も取り残されないように少し足を早めるがその度に「あれ、ごめんごめん」と大吾は謝った。
「別に謝る事じゃないし」
「なんか、歩くのってさ、普段と変わるとすげぇ違和感出ねぇ? なんか体が思うように動かないって言うか」
「あんまり分からないな」
「綾はマイペースだからなぁ。不器用だし」
 彼の言葉に少し胸が痛んだ。以前のように並んで歩くのが自然だった歩幅は、今では彼の中では違和感となっていると言う事がこんなにも自分の胸に風穴を開けるとは自分でもそう言われるまで思いもしない事だった。
 大吾はそんな自分の台詞を大した事でもないと思っているようで、近くの公園に目を留めると「そこでちょっと話そっか」と綾を促しベンチに腰掛けた。
「懐かしかったなぁ。本当久しぶりに皆の顔見れて俺嬉しかった」
「よかったね」
「うん。綾も元気そうだしさ。ちょっと変わってたのにはびっくりしたけど」
 夜の公園は二人以外誰もおらず静かだった。傍に立っている街灯がベンチを丸く照らし、まるでそこだけを鋏で切り取ったかのようにも見えた。
「似合ってない?」
「似合ってるよ、いやマジで。びっくりする位似合ってる。けど前のままでもいいかなって思うよ。なんか雰囲気変わっちゃったみたい」
 それって結局前のほうがいいって言ってるようなものじゃない?
「ちょっと先輩に言われて変えてみたの」
 自分が言い訳をしているのはすぐに分かった。
「へぇ。綾が人の意見素直に聞くのって珍しい、そんなにいい先輩なんだ?」
「そう言う事じゃないんだけど。ちょっと理由があって」
 逃げるような言い方なんて私らしくない。私じゃない。
「そうなんだ。まぁ、趣味なんてころっと変わったりするしな」
 ねぇ、聞いてくれないの? その先輩は男なのか、とか。理由ってなに? って聞いてくれないの? ねぇ、大吾、私キャバクラで働いてるんだよ? それで晶子って先輩がもっと身なりをプライベートからちゃんとしなさいって言われてこんな格好してるの。別に自分がしたくてそうしてる訳じゃなくて仕事だからそうしてるんだよ? ねぇ、なんでキャバクラなんかで働いてるんだ? って言ってよ。それはね、桜子に誘われたからしょうがなくやってるだけで、別に自分からやりたいとか思ったんじゃないんだよ? お客さんはお客さんでやましい事もないし、働いてみたら分かるんだけど、キャバクラだって結構真面目な仕事でね――
「ねぇ、大吾」
 ねぇ、聞いて?
 あんまり好きじゃない言い訳を、大吾に聞かれてもすぐ答えられるように、こうやって考えてた言い訳を、聞いて。
「なに?」
「…………」
 言葉が、出ない。
 大吾が心配そうに眉根を寄せ「大丈夫?」と尋ねてくる。だが、言葉をそれ以上紡ぐ事が出来ない。
「……ねぇ、ホテルいこ?」
「……なに言ってんだよ。お前もしかしてカラオケで酒でも飲んだ?」
「飲んでない」
「じゃあ、バカな事言うなよ」
 代わりに出てきたのは、彼の言葉も、返事も、殆ど必要ないものだった。ただ頷くか、横に振るかだけの。
「行こうよ。大吾」
「綾?」
「セックスしよう? 私と」
 自分でも気がつかないうちに彼の手を握り締めていたその手に、もう一つ手が重なった。


 どうして彼が聞こうとしないかと言う事。
 なんとなく分かってはいた。それに気がつくと彼がなにを言おうとしていたのかもなんとなく分かった。
「いいの?」
「うん」
 ホテルの部屋にやってきて何度目かの「いいの?」に何度目かの「うん」を言うと、大吾はもう迷うのをやめたようだった。二人はベッドに転がるとお互い黙ったまま久しぶりにキスをし合い、そうしながら大吾は綾の服に手をかける。彼の指が皮膚に触れるのと同時に綾は自分がもう濡れている事に気がついた。元々セックスをする事に抵抗を覚える事もなかったし、人並みの性欲を持っているとは思っていたが、それだけで濡れるのは初めてだった。大吾がルームライトを消そうとベッドに設置されているパネルに手を伸ばしたが、綾が「そのままでいいよ」と止めてきた。以前なら彼がそのまましようとしても、消してと言っていたので戸惑ったが、結局そのままにする事にした。ベッドに横たわる全裸の彼女を見て、自分の服も脱ぎながら大吾は思わず生唾を飲む。光に照らされた彼女の肌は高揚しているのか赤みがかっていた。
「なぁ、綾」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
 その言葉を誤魔化すように口を塞がれた。綾は抵抗する事無く彼の唇の感触を味わいながら舌を出し、彼を捕まえるかのように体に手を回す。
 閉じられているはずなのに自分の口から意識せず喘ぎ声が出ているのが分かった。もっと出ればいいと思う。彼が胸を触るたびに感じる快感に素直に溺れて、これ以上ないくらいいやらしくなりたい。頭から爪先まで溶けるような気持ちよさに包まれてそして、キチガイかと思うような淫靡な声を出して大吾に聞かせたかった。
「もっと触って、大吾」
 沈黙のまま、それでも彼の手に力がこもるのが分かる。びくびくと体を震わせながら彼のものへと手を伸ばす。
 ねぇ、大吾。
 私、卑怯だ。
 本当に言いたい事をいつも言ってるって自分では思ってたけど、いつも本当に言いたい事を言えてたのは、大吾が聞こうとしてくれたからだって今気付いた。大吾がそうじゃなくなってからやっと気付けた。
 彼の体を貪るように抱きしめる。体温を感じる。暖かくて、そして少し冷たい体温。
 ぐいっと体を引っ張られベッドの上で転がった。
「入れるよ?」
「うん」
 ゆっくりと大吾のものが綾の中に入る。いつもより多く濡れたそこに侵入はスムーズだった。根元まで入ったところで一度動きが止まり、無言のままお互いに見つめあうと腰を前後させる。
 お互いのものがぶつかり合い擦れる音と、大吾の荒い吐息を掻き消すように喘ぎながら、自分の中で衝突が繰り返される度にまた濡れていくのを感じながらこのまま、全て彼のものになりたかった。
 ねぇ、大吾。もっとしていいよ。大吾のちんちんから精子が出なくなるまでしていいよ。精子が全部出て萎えちゃってそれでもまだしたかったら私がフェラしてあげるからまたやろう? なんでもしてあげる。バックでしても、いいよ。嫌じゃないから。私大吾にだったら蹂躙されてもいいよ、ううん、蹂躙されたい。私大吾に全部支配されたい。服従じゃなくて愛だから、大吾にならしてもらいたい。ねぇ、大吾。だから、して? したがってたじゃない、前は。今、していいよ。ねぇ、大吾。
 なんとなく分かっていた。そして今、全て理解した。
 聞かない事。私が嫌いだったバックをしたいと言わない事。
 私との、歩き方を忘れてしまった事。
「明後日、帰るんだ」
「そう」
「……そろそろ時間来た?」
「ねぇ、大吾」
「ん?」
「いいよ。今日泊まっていこう? 私お金出すから」
「いいの?」
「うん」
 じゃあ、とベッドに再び寝転がった彼の胸に顔を埋めた。そうやって彼から見えない位置で、このまま泣いてしまいたいと言う衝動に駆られたが、そうしてしまってもきっと彼を困らせるだけだと思い、耐える事にした。もう少ししたらもう一回くらいセックスをさせてもらおうと思った。きっとそれくらいの我が侭なら彼も許してくれるかもしれない。
 結局、自分が言えたのは一緒にいる時間を数時間延ばす事だけだった。
 過去にはもう戻れない。あの時の大吾はもう帰ってこない。少し変わった現在の私と、少し変わった現在の大吾の中に二人で見る未来はもう、ない。


「シェリーさん。最近つか結構前から元気ないですね」
「そんな事ないですよ」
 まるで最近の梅雨空を丸写ししたようだ、と浩平には思えたのだがそれでも以前に比べて客からの評判は一層よくなってきているようなので、疲れがたまっているだけだろうか? と首を傾げた。そんな彼の心配をよそに彼女は呼ばれた席へと座ると、もうすっかり店にも慣れたようで下品な笑顔を浮かべた若い男の隣で淡々と営業をしている。
 元々心配性が過ぎるところがあり、他のキャバ嬢から聞く小さな不満にも必要以上に聞いてしまう彼はなにか彼女も悩みでもあるのだろうか、とやきもきもするが自分から「なにか悩んでいるのか?」と聞く事はない。それは自分の仕事の範囲からは外れた事だし、聞きすぎても逆に嫌われるというのはここで働いて学んだ事の一つだ。彼女達は聞いてほしい事しか言わないし、聞かれたくない事は気付いてもほしくない。
「氷ちょうだい」
「かしこまりました」
 大きく手を振られ跪きながらアイスペールを下げる。彼女達が「ありがとう」と言うのは自分に向けて言っているのではなく客に見せていると言う事は分かっている。自分達は空気だ。それもキャバ嬢に「臭い」と思われない綺麗な空気でなければならない。
「杏、指名で」
「かしこまりました」
 その客は店が開店してから二時間ほどしてからやってきた。一昨年大学を卒業した自分より少し年上だろうと浩平は予想しているが、身に着けているものや素振りを見ると自分とは遠くかけ離れた場所にいる男だと思う。席に案内すると以前下ろしたボトルを持ってくるように言われた。値段ばかり高いそれの味なんて分かるのだろうか、自分も大学卒業してからちゃんと就職してれば客側としてああいう風にでかい態度でソファに深々と腰を下ろしていたかもしれないな、と浩平は内心毒づきながらボトル棚を見回す。
 客は杏が入店する少し前からの客だったが桜子を気に入ったらしく、彼女を指名するようになってからは顔を見せる回数が多くなっていた。
「ケン君来てくれてありがと」
「いや、俺も杏に会いたかったから」
 そんな台詞を彼はさらりと口にする。桜子は「またまた」と照れるように彼の肩を軽く叩いた。
「本当だって。あ、前アフター付き合ってくれてありがとう」
「ううん、いいのいいの、私も暇だったし」
 桜子の指名の中で彼は一番の上客であり、そしてそれを抜きにしても魅力に溢れている男だった。桜子は彼がやってきて値段の割りに大した量ではないフルーツ盛りやボトルを下ろして貰うたびに自分には果たしてそこまでしてもらうような価値があるのだろうか、とふと申し訳なく思う自分がいる事に気がつく。そして他の客に対してはもっと頼んでほしいとばかり思っていると言う事にも。
「また今度ご飯でも行こう?」
「うん、今日店終わってから?」
「あ、今日は無理なんだ。ちょっと明日早いから」
「そうなんだぁ、残念」
「またまた」
「本当だし。じゃあ今度ケン君暇なときあったら連絡してね」
 あぁ、これはきっと、そうだ、と彼女は黒い、ラベルに書かれている英語をどう読めばいいのかもまだ実はよく分かっていないボトルを持ち上げながら確信を得ていた。


「綾ちゃん、ちょっと寄り道して帰らない?」
 仕事を終え帰ろうとしていると桜子にそう声をかけられた。いつもと違って深刻さが浮かんだ表情になにか相談だろうかと思い付き合う事にするが、どういった内容なのかは想像がつかなかった。彼女も仕事には慣れてきたようだったし、明るいキャラクターと名前の通り笑うと満開の花のように明るくなるその容姿でそれなりに人気を得ているようだった。綾はどちらかと言うと客を選ぶタイプだったので、自分よりも順調だと感じている。
 二人がやってきたのは全国展開しているようなチェーン店ではなく、こじんまりとしているが馴染みの客を多く抱えているらしく、バカ騒ぎしているような連中はいないが時折笑い声が聞こえてくる小さな居酒屋だった。桜子は席に着くやいなや「カルアミルクください!」と声を上げた。
 綾はウーロン茶を頼み運ばれてきたそれを一口含むと、吐息を一つ吐いた。上品なドレスを身に纏い華やかな場所で四六時中見られる事から開放されると、とたん気が抜けて自堕落な自分がいつも顔を出す。
「で、なにか相談?」
 畳みの座敷の感触に思わずここで眠りたい、と言う欲求に蓋をしながら尋ねる。
 桜子はすぐに口を開きはせず、戻したカルアミルクにまた手を伸ばしたり、どう言うべきかと悩むかのように中空に視線を漂わせたがややあって「ケン君、いるでしょ?」と言い、綾はあぁ、あの派手な金遣いの荒い客か、とすぐに思い至った。自分も以前席についた事があるが、桜子から元々の知り合いだと言う事を聞いていたらしく、多少ちやほやしてもらった事がある。自分はあまり好きなタイプではなく、他のキャバ嬢も気に入られなかったらしくぞんざいに扱われ、もう席に着きたくないと零していたのを聞いた。
「あの人がどうかしたの?」
「ちょっと」
「なんか嫌な事あった? 丸井さんに言ってみたら? あんまり意味ないと思うけど」
「まるっちは口だけだからなぁ。ってそうじゃなくて、嫌とかじゃないの。そういうんじゃなくてね」
「じゃあ、なに?」
 要領を得ない自分の話に彼女に多少苛立っているようで、さっさと本題を切り出すように促してくる。しかし確かにここで無駄に引き伸ばしても意味がないと彼女には言ってしまう事にした。
「私、惚れちゃったかも」
「あの人に?」
「うん」
「どこらへんがいいわけ?」
「かっこいいし、それに優しいし、話してて楽しいし」
「桜子本気で言ってるの?」
 彼女の発言に多少驚きを覚えながら、確認するように聞き返すと、言ってすっきりしたのか桜子は「えへへ」と笑いながら首を縦に振った。いつもの無邪気な微笑だ。それはきっと今まで何人かの男の骨を簡単に抜いてきたのかもしれないが、同時に彼女自身の骨も抜かれているのだと言う事を綾はこの時ふと思った。
「やめたほうがいいよ。あの人なに考えてるか分からないし」
「そんな事ないよ」
「お客さんと付き合うのってどうなの?」
「他にも付き合ってる人いるし」
「お店でしか話した事ないのに、相手のなにが分かるのよ」
「外でも会ったもん。ゴールデンウイークも一緒に遊んだし」
 その言葉に大吾の事を思い出せられ、胸の奥が疼いた。あれから一ヶ月程経ったが結局一度別れてもまだ好きだと言う事を自覚してしまうと、彼が物理的にも精神的にももう傍にいないのだと言う辛さは今でも、奥歯に物が詰まったかのように絶えず付き纏っていた。だが同時にそんな前から彼女が既に好意を抱いていたのかと思うことに目を剥いた。
「それでバイト休んだんだ」
「だって……ケン君が連休だって言うから」
「五日は同窓会だったから、三日、四日とも会ってたの?」
「うん」
「まさか、ホテルとかに泊まったりしたの?」
「……うん」
 晶子さんならなんて言うだろうか。いや、むしろこの場にいてほしいと、テーブルについていた頬杖を崩し頭を抱えた。桜子は綾以外の誰かに言う事などきっと考えもしていないだろう。しかし自分は彼女を正しい方向へと導くための道筋を作る事など到底出来そうにもなかった。彼女の胸に疑問程度の彼への疑いを持たすことすら。
「キャバクラのお客さんだよ? 向こうも下心持って来てるの分かるでしょ? 桜子じゃなくて誰でもいいんじゃないの?」
「そんな事ないよ! 毎日連絡してるし、外でも暇な時は会ってくれるし、誰でもいいならあんなにいつも奢ってくれるわけなくない? 店でも凄く使ってるのに」
 他人の金に対する常識など、自分達で計れる訳がない。そして、仕事を思えば、私達は会ってもらうのではなく、会ってあげる側でなければならない。そうでなければ相手を付け上がらせるだけだ。そうなったら私達は単なる都合のいい女でしかない。
 晶子の言葉が蘇る。それを聞いた時、自分が理解しやすいように噛み砕いて話していた彼女の事を心底羨ましいと思う。ここ最近思い知ったのは、自分はちっとも強くなどなく、周りに言われていたような芯の強さなど待ったあく持ち合わせてもいないし、確固たるものなど一つもなく、むしろ自分はちょっと前に高校を卒業したばかりのまだたった十八歳にしかならない小娘で、なんの力もなく、弱々しいちっぽけで無力な存在だった。
「桜子、もうちょっとあの人の事よく知ってからのほうがいいと思うよ。まだ半年も経ってないでしょ?」
「綾ちゃんは大人だから、そういう風に言うのかもしれないけど」
 違う。表面上だけ達観したような言葉など、本当はどう言えばいいか分からずありきたりな事を言う事しか出来ない弱者の虚勢だ。
「私も私なりにちゃんと考えたし、自分に嘘をつきたくないの」
「……そう」
 ほら、結局そうやって理解してあげてる振りをするのが精一杯。
 誰かにそう言われた気がした。皮肉でもあるし、嘆きのようにも聞こえたその声はゆっくりと姿を消す。
「大丈夫。仕事はちゃんと続けるし、一緒にこれからもがんばろ、ね?」
「分かったわよ。また、なにかあったら言ってね?」
「うん」
 彼女は機嫌をよくしたのか「カルアミルクおかわりください」とグラスを店員にぐるぐると回して見せた。
 まだ残っているウーロン茶を飲む。水で割られた店の薄い味に慣れたからか、少し苦いと感じるその味を噛み締める。人生と同じだ。薄っぺらな生活に慣れてしまうと、それ以外の状況に放り込まれた時出来るのはその苦さに顔をしかめる事しか出来ない。
 他人の恋心をどうこうする事なんて出来ない。自分自身の恋心すらどうにも出来ないのに。他人の恋の仕方を否定する事なんて出来ない。自分の恋を今否定されたら、やっぱり自分はその人の事をきっと少し嫌いになってしまう。


「そう言えば最近ニュースでもよく言われてるけど」
「隕石?」
「そう、それ。本当はもっと前から問題になってたらしいね」
「まぁ、結構前に一回テレビでやってたの見たけどね。あれ、どこだったかな。アメリカかな、ミサイルを打ち上げて軌道を逸らすようにしてるとか言ってたの見た気がする」
「なんかリアリティないよなぁ、巨大隕石が落下するとか。実際落下しないんだろうけど」
「昔飛行機がビルに突っ込む映像をテレビで見た事あるんだけどさ。あれもリアリティなかったな。なんか、あっけないんだよ。映画とかでは派手に突っ込んで、突っ込んだ飛行機がぶっ壊れていくところとか見てるとさ、現実にあんな事あったらきっととんでもないと思ってたけど。いざ、それが現実になってそれを見てみるとなんかあっさりしてるな、って当時思ったよ。あ、ぶつかった、ってそんな感じだったもんな。リアリティとかそんなもんだよ」
 隕石が落下。
 最近は毎日その話を聞く。
 そこで綾は映画「アルマゲドン」を思い出した。現実では隕石を阻止するために隕石へと向かうブルースウィリスはいないけれど、きっと感動的ではない結末が用意されているのだろうと思う。機械的に打ち上げられるミサイルがどんなものかは私は知らないけれど、それで隕石は地球から外れ、なんとなく後日私達は無事隕石の落下を阻止しました、と言うお堅いキャスターの喜ぶようでもない淡々とした報告を聞いて、あぁ、そう言えばそうだった、なんて思うのだろう。そして数年すれば少し大げさに「私達はあの時死んでいたかもしれない」なんて事を言い合うのかもしれない。
「シェリーちゃんはさ、もしもうすぐ自分が死ぬってなったらどうする?」
「そうですね」
 それより彼女が考えなければならないのは目の前の客達を喜ばせる事だった。
「海外旅行に行きたいですね」
「あぁ、それいいね。俺イタリアに行ってみたいんだよな。サッカー好きなもんでね。今イングランドのプレミアリーグが人気だけど、やっぱ俺はイタリアだな。デルピエロが引退、いや、その前にマルディーニの引退を見届けなきゃな」
 自分が明日死ぬとなったら、大吾は同情してくれるだろうか。
 同情でもいいから、私のところにやってきてくれないだろうか。
 同情なんてしないで、なんてよく言えるものだ。
 きっと同情すらされない事の悲しみをしらないのだ。

     

 ある日、買い物帰りの途中歩道橋を昇ったところで、浩平と出会った。店の外で今まで会うことはなく、私服姿の彼に「あ、どうも」と声をかけられても一瞬誰か分からなかった。彼女の持っているビニール袋を見て買い物帰りですか? と尋ねられ頷くと「そうっすか」と言われ、それ以上話すことはないように思えたが綾は歩道橋の上で歩き出すでもなく、手摺から下を眺めている様子が気になった。
「なに見てるの?」
「えっと、なんでしょう」
 まさか隣に来て話しかけられる事など全く考えておらず、少し面食らい、質問にも上手い回答を見つけることが出来なかったので思ったとおりに言う事にした。彼女はきょとんとすると自分と同じように下を通る車や歩道を歩いている人の姿へと視線を移す。
「人間観察とか好きな人いるよね」
「まぁ、自分は別に人を見てるわけじゃないんですけど」
「景色とか?」
「そうっすね。その景色の中に人もいるって感じですかね。あれですよ。動く絵を見てるって感じですかね。たまにいい絵があるんですよ。本当たまにですけど」
「なんだか芸術家みたいなこと言うんだね。少し意外」
「いや、そんなたいしたもんじゃないっすよ。暇つぶしです」と誤魔化すように手を振って見せた。自分が芸術家だなんて高尚なものには到底なれないと思っている。自分が見ているのはあくまで平凡な自分の中にある平凡な日常を顧みる事で親近感を覚えると言うだけだ。こうやって見る世界の中に特異なものを見つけることなど想像もしないことだった。そしてきっとそんなものを見つけても、自分が好むのはきっといつもの平凡な世界だ。
「あ」
「どうしました?」
「子供がこけた」
「あぁ、ガキって動き回るからなぁ」
「子供嫌い?」
「うーん、あんまり興味ないっすね。周りは自分の子供がほしいとか言う奴いますけど。俺はまだ結婚とかもする気ないし。シェリーさん好きなんですか?」
「私も、興味ないかな。可愛いとは思うけどね」
 会話が途切れ、しかし二人ともそれを気にする様子もなく、歩道橋から見える世界の様子を眺めていた。遠くに立つビルの隙間から夕日の木漏れ日を受けて、茜色に染まっていく中、家へと帰る高校生や、ストレスを抱えているらしく忙しなく歩いているサラリーマン。周りの視線など気にもならないようにいちゃついているカップル。なにか見えない敵とでも戦っているのか、歩きながら厳しい顔をしている若い男。
「シェリーさん、なんか最近丸くなりましたよね」
「そう?」
「はい。入ったときはなんか刺々しいって感じでした」
「まぁ、色々あるから。あと、仕事中じゃないし敬語使わないでいいよ」
「そうで……そう」
 素直にそう言う彼女に、以前だったらそんな事ないです、とただつっけんどんに言ってただろうな、と胸中で呟く。キャバクラで働く事で彼女にとってプラスになることが一つでもあったのだろうか? もしそうなら喜ばしい事だと思う。
「悩みとかあるの?」
「元彼の事忘れられないだけよ」
「あぁ、そういう時って次の相手見つけたらいいってよく言う」
「いないわよ、そんな相手」
「俺とか」
 冗談っぽく言うと、彼女が体はそのままで首だけこちらに向けて、上から下まで見回してから目を合わせる。
「恋愛禁止でしょ。キャストとボーイ」
 呆れているようでもあるし、全く信じてもおらず笑い出しそうでもある表情でそう言う。どちらにしても全く脈はなさそうだと判断し「冗談」と誤魔化す事にした。
 綾は、その台詞が嘘なのだろう、と思いながらも額面通り受け取っておくことにした。悪い男ではないと思う。フリーターだが仕事はちゃんとしているし面倒見もいい、こんな風に意味もなく歩道橋から世界を眺めるようなところもいい趣味をしていると思う。
 だがそれは感想であって、感情ではない。
 もし、時と場合が違ったなら、彼と付き合っているような未来もあったかもしれない。だけど今の私ではそれは出来ない。
「私、そろそろ行くね」
「おう、じゃあまた今度店で」
 彼に見送られながら歩道橋を降りる。
 私の背中姿を彼は見ているだろうか。もし見ていたなら彼が見る絵の中で私はどういった存在になっているだろうか。単なるその他大勢の一人だろうか、明るい世界にポツリと垂れた黒い絵の具のように異質なものだろうか。きっと暗闇の世界に光を灯すような存在にはなれないだろう。もし、いつかそういったものになれるなら、未来の私はその時、過去の私を許す事が出来るだろうか。
 今の私は、過去の私を少し、怒りたい。


 今日はお店休む、ううん、もう行きたくない。
 桜子は大粒の涙を流しながら、綾にケン君彼女いたの、と打ち明けてきた。
 キャバクラで働き出してから一人暮らしを始めた彼女の部屋は、女の子らしい人形が床やベッドに敷き詰められ、壁には写真が貼り付けられていて、全体がピンクに統一され華やかだが、それも今は酷く空しく思えた。
 綾はこうなる事は内心予想出来ていた事だったが、そう思いながら、こうやって彼女が辛い思いをする時までなにも出来ない自分を悔いたが、そうしたところで彼女の傷が居える事などある訳もない。
「ねぇ、桜子」
「……なに?」
「最悪な奴に捕まっちゃったね。でも、早めに別れてよかったじゃない」
「……そうだけど」
 自分になにが出来るだろう。
 そんな事を考えるのは、悲しい機械作業のようだと思う。
 なにかすればいい。正しいかどうかなんて、やる前から分かる訳がない。
 そんな事ばかり考えて、時間がただ消えるのを待つだけなんて、愚かなのだ。それを誤魔化すように安易な選択肢を選んでいく事はさらに愚かだ。結局それは、相手からも、自分からも、逃げている事に他ならない。
 小娘でもいいさ。小娘也の、出来る限りの事を、この桜子と言う親友の小娘にしてあげよう。
「辛かったよね。いいよ、好きなだけ泣いちゃおう。私気が済むまで付き合ってあげるから。今日は私も仕事休む。落ち着いたら外にご飯でも食べに行こうか? 桜子が行きたくないなら他の事しようよ。すぐに忘れる事なんて出来ないかもしれないけど、ほら、桜子なら可愛いからまたいい人すぐに見つかるよ」
「私可愛くないよ。次とか今考えられないし……」
 少し怒らせてしまっただろうか。
 まぁ、いい。しょうがない。全部が全部うまく彼女に届くなんて上手い話がある訳ない。
 それでも、彼女に届く言葉を捜して、それまで届け続けよう、全て。
 今までの、曖昧な事ばかり口にして、適当に逃げていた自分にバイバイ、しよう。
「そうだよね、ごめん」
「ううん。いいの。私も、しょうがないって思ってるし」
 桜子は精一杯強がろうとする。しかしそうすればそうするほど逆に涙が零れてきた。そんな自分に腹が立ち、慌ててタオルを取ろうとすると、先に綾が「はい」と手渡してくれた。「ありがとう」と言い、それを受け取ると顔に当てようとしたところで、綾に抱きしめられる。
 少しぽかんとするが構わず頭を撫でられた。
「しょうがなくないよ。失恋って辛いよね。そんな別れ方したら尚更よね。桜子は悪くないよ」
「綾ちゃんも辛かった? 失恋」
「うん、今も辛い」
「そうだよね」
 大して広くもない部屋に桜子の鳴き声が響いた。まるで生まれたての赤ん坊のように咽ぶその様子を、祝福する事は出来ないが、せめて母親のように落ち着くまで抱きしめていてあげよう。無防備な自分をそうやって守ってくれる人がいる事にいつか気付いて安心と共に眠りにつくように、安らぎを得る事が出来るまで。
 きっと、いつか笑える日がやってくる。
 私も、彼女も。


 いつからか左手の薬指をなんとなく見るようになり、以前そこにあったものの事を思い出す。それと同時に彼の誕生日を思い出し、そしてまたあの雪景色を思い浮かべる。あれからもう半年が経とうとしている。半年後、またやってくるであろう冬。その時、またあの日の事を思い出すだろう。そう思っていた。
 七月二十日。その日綾は、その時はもうやってこない事を知った。
 八月三十一日に世界は終わる。地球は滅亡する。人類は、死ぬ。


****


 その日、電車から降り、私は自分の店へと向かうために繁華街を歩いていた。
 街中が騒がしいのは決して活気に満ちているのではなく、その逆で絶望によってやってくる叫びだった。
 繁華街の至るところで、様々な人たちが様々な形で声を荒げていた。隕石の落下を阻止する事が出来なかった国の事をなじったり、自分の命があと一ヶ月少ししかないと言う事を泣き喚いたり、気が高ぶりすぎたのかケンカを始めたらしく悲鳴や怒声が鳴り響いている。私はそんな集団を避けるようにアーケードの反対側を歩く。しかしどちらに寄ってもそんな光景は後を絶たず、私はまるで波線でも引いているかのようにあっちにいったりこっちに行ったりを繰り返した。
 足が重い。歩きながら私は出来るならここに座り込んでしまいたかった。しかし立ち止まるともうずっとそこから動けなくなるような気がして、そのせいで私はこうやって無理やりに目的を作り出し動く事で自我を保とうとしている。
 もうすっかり見慣れたビルと壁に埋め込まれている店の名前が大きく書かれたパネルが目に入り、私は逃げるように歩調を速めた。エレベーターのボタンを押すと、一階で止まっていたようで開き、三階へと向かう。オープン前、皆よりも早めに来るのでいるのは店長とボーイくらいで、店はいつも静かで、私はその静かな雰囲気の店内は好きだった。だが今日やってきた私がドアを開けると、飛び込んできたのは酒の臭いだった。それもなんの酒かも分からないほどにごちゃ混ぜにぶちまけたような強烈な臭いで思わず顔をしかめる。何事だろうと一歩足を踏み入れた時、ぴしゃり、と足元で液体が跳ねた。すぐにそれが酒のものだと分かり、すぐ傍には粉々に割れたボトルの破片が転がっていた。
「誰?」
 ドアの音か、液体の跳ねた音か、どちらにかは分からないが物音を聞いたのだろう、そう聞こえてきてその声の持ち主が店長の丸井さんだと言うのはすぐに分かったが、その声は酷くろれつが回っていないようだった。
「シェリーです」
 不穏なものを感じ、それだけを言い返すと、今まで見えなかった彼の姿が、備え付けられているカウンターの向こう側から這い上がるようにして顔を見せた。すぐに酔っ払っている事が分かるほど顔が赤くなっており、彼は私をまるで親の敵とでも言わんばかりに憎々しげに睨みつける。そういう目を見るのは初めてではなく、なんどかボーイの子達に怒鳴りつけている時に見たことがある。しかし私がそうやって睨まれるのは初めてで、私は肩が強張った。
「なにしに来たの?」
「なにって、仕事」
「仕事? ははは、お前やっぱ真面目だよな。けどバカか」
 今まで彼から聞いたこともないような口調。
「仕事なんかしてどうすんだよ。もうすぐ死ぬってのにバカどもに媚売って金なんか稼いでどうすんだよ。えぇ?」
「…………」
「バカだな。客もバカだし、キャストもバカだ。ボーイもバカだし、オーナーはカスだ。糞が。人が糞みてぇな事抱え込んでそれでもやってきたってのに、このザマだ」
「…………」
 私は、なにを言えばいいか分からない。
「飲まなきゃやってられねえよ。糞不味い酒ばっか揃っててやんなるけどな。お前も飲むか?」
「いらない」
「そうか。お前はマシなキャストだったな。言う事もよく聞いたし。大学なんか行かずここ一本でやってたらそのうちナンバーワンになってたかもな。けどまぁ、残念だったな、お前も。キャバクラなんか遊び感覚だったろうが、それに随分無駄な時間使ったな」
 丸井さんはそう言うと棚から新しいボトルを掴むと、危なっかしい手つきで封を開けグラスに注ぎなおした。ぐいっとグラスを上まで持ち上げる。一気に彼の中へと酒が注ぎこまれていく度、彼の喉仏が痛みを訴えるかのようにぐりぐりと蠢いた。空になったグラスをカウンターに置き直す。「まずいな、これも」そう恨めしそうに言うと、まだ中に残っているボトルを持ち上げ、大きな体を震わせながら近くの壁へと投げつけた。派手な音を立ててボトルが割れ、赤い液体がまるで血のように壁に広がる。
 壊れていく。昨日まで、楽園だったはずの場所が壊れていく。
 いや、彼にとってここはなんだったのだろう。もし、地獄だったとしたなら、今、この日まで逃げ出す事が出来なかったこの地獄を叩き壊してしまおうとしているのかもしれない。
「丸井さん」
「あぁ?」
「これ」
 そう言って私が差し出したのは透明のビニール袋に入れられて丸まっているおしぼりだった。いつもはボーイ達が開店前に袋から出して準備しているのだが、もうそうしてくれる人はいない。彼はそのおしぼりを怪訝そうに見つめ、ようやく自分の顔や手や服が濡れている事に気がついたように自分の体を眺め回した。
「なぁ」
「はい」
「俺、これでも昔は痩せててもてたんだぜ」
「痩せてても、そんな姿じゃもてないと思う」
「今更もてようとも思わねえよ」
 ふん、と鼻で笑いながらも、受け取ったおしぼりを広げると彼はそれを顔に押し当てた。そしてそのまま「もう行けよ」と私に言う。きっと私がいなくなるまでそのおしぼりが顔から離れる事はないような気がして私は素直にその言葉に従う事にした。ドアへと向き直ったところで携帯電話が鳴り、私は思わず立ち止まりバッグから取り出した。働き出してからしばらくしてプライベート用と仕事用に二台持つようになったが鳴ったのは仕事用のものだった。鳴っていた着信音はミスチルの「Drawing」だった。ディスプレイを見るまでもなく相手は分かっているが習慣のように表示を見る。桑原だ。
『シェリーちゃん。もう隕石の事知ってるよね。急にこんな事になるなんて信じられないけど、もしよかったら会えないかな』
 メールを読む。彼はいつもメールだった。電話は苦手だと言っていたが、初めてメールが来た時はもっと短くて箇条書きのような内容だった。もしかするともう少し続いていたら、電話をするようになっていたかもしれない。だが、その姿を見る事はないだろう。
 電源を切り、折りたたみ式の携帯をそのまま閉じる。どうしようかとふと見回し、この際トイレでいいや、と昨日掃除されて綺麗な洋式の便器の蓋を開ける。
「ごめんね」
 そう、桑原さんだけでなく携帯の中の電話帳の全員にそれだけ告げる。
 ぼちゃん。
 掴んでいた手を離すと、携帯が便器へと落下した。レバーを持ち上げる。一回では流れず、もう一度流すと私の仕事の結晶は排水口の中へと姿を消してしまった。もう、誰かを迎え入れる事もないのだし、詰まる事になっても文句は言われないだろう。
 静かになり、波一つなくなった便器の中の水面を見ながら小さく手を振り、今度こそ私は店を後にする。
 さようなら。
 さようなら。
 お店、さようなら。
 丸井さん、さようなら。
 晶子さん、さようなら。
 お客さん達、さようなら。
 お疲れ様でした。
 私。


 家へと向かう帰路の途中で終わった、と思った。
 大学もなくなった。
 仕事もなくなった。
 行くところもない。
 終わってしまった。
 それに元々大学も仕事もどうでもよかった。
 終わったのは、未来だ。私はあの冬を思い出す。大吾に手を引かれ指輪を交換し、一緒に空から舞い降りる雪を見たあの日。もう、指輪も失ってしまった。あの雪を見ることも出来ない。冬はもう、やってこない。そして、私の隣に雪だけでなく色んなものを一緒に見てくれる大吾もいない。私を見てくれる大吾がいない。
 終わったのだ、全て。
 ふと涙が零れた。桜子のように大粒のそれではなく、一滴頬から顎へと流れるように零れたそれを私は気付いていたが、どうせ拭っても止まらないだろうと思い、そのままにしておく事にしたまま交差点に差し掛かった。
「綾?」
「え?」
 懐かしい声に振り返る。
「大吾?」
「泣いてるのか? どしたんだ?」
「……どうしているの?」
 彼の質問に答えず――と言うより頭に上手く入ってこなかったのかもしれない――質問し返すと「朝一で帰ってきた」と前と同じように自転車に乗っている彼は、それから降りるとこちらへと近付いて、迷う事無く私の頬に触れ涙を拭ってくれた。
「なんで?」
「なにが?」
「なんで帰ってきたの?」
「こんな事になったら帰ってくるだろ」
 はは、と彼が苦笑し、私はそのせいで余計涙が溢れてきた。大吾が慌てて「ちょっと、だいじょぶか!?」と私の肩を抑える。私は「うん、うん」と言葉に出来ず、ただただ子供のように頷いていた。そのせいか、大吾は近くの公園に私を連れて行き、ベンチに座らされる。隣に大吾が座り、自販機で買った紅茶を手渡された。
「ねぇ、大吾?」
「ん? なに?」
 ようやく少し落ち着いた私は以前と同じように彼を呼ぶ。彼が私のほうを見て、首を傾げた。
 あぁ、と思う。
 あのね、大吾――
 聞いてくれるまで言わなくてごめんね。臆病でごめんね。大吾なら、ちゃんと言えば聞いてくれるのに、わざわざ大吾が聞いてくれるまで黙っているようなバカな私でごめんね。
 そういう過去の私。
 大吾がいない間にちょっと変える事にしたんだ。
「好きです。私大吾の事今でも好き。だから、大吾がよかったらまた、付き合ってください」
「……どうしたの、いきなり」
「……ダメ?」
「いや、あのさ」
 彼は困ったように頭をかく。
 あぁ、そっか。無理か。私は絶望的な気持ちになって、ここから出来たら足早に逃げ出したい、なんて事を考える。その隣でまだ困ったようにしている大吾がズボンのポケットに手を入れながら呟いた。
「いや、まさかそっちから言われるとは思ってなくて」
「え?」
「いや、だから帰ってきた理由。これ渡したくて」
「あ」
 と私は小さく驚いて、ポケットから出てこちらへと見せてきた掌の中のものを見て声を上げた。
 あまり派手じゃないけど、シンプルなデザインで真ん中に石が埋め込まれているシルバーのリングが二つ。
 一緒に買って、一緒に外したあの指輪が、今また一緒に大吾の掌の中で重なっていた。
「いや、実はさ。ラブホに置いていったじゃん、あの時。けど俺あの後結局取りに行っちゃったんだよな。なんか未練がましいとは我ながら思ったんだけどさ」
「……信じられない」
「いやぁ、俺もこうやって渡せる日が来るとは思わなかった」
 ニヤリ、と大吾が笑った。
「まぁ、言われちまったけどさ。俺もさ、お前とやり直したくてさ。前会った時は諦めなきゃって思ってたけど、俺やっぱお前がいないとダメみたいなんだ。それがやっと分かった。だからさ、うん、やりなおそうぜ」
「……うん」
「泣くなよ」
 私の目から零れていく粒がベンチに滲んで広がっていくのを見て、私はそれを雪のようだと感じた。
 もう、冬はやってきてくれない。
 だけど、あの冬の寒さから私を守って暖めてくれる大吾は今ここにいてくれる。
 私の手を取って大吾が指輪を取る。
 おかえり。
 左手の薬指に戻ってきた指輪と大吾を見て、私は彼の手の中にあるもう一つの指輪を取り上げた。
 ねぇ、大吾。
 私、言いたい事とかね、言わなきゃいけない事一杯あるんだ。キャバクラの事とか、バックでしたくなかった理由とか、今はしてもいいと思ってる事とか。
 そう言うの、全部言うから、ちゃんと聞いてね。
 もう雪は見られない。
 だけど、残り少ない未来を見る事は、出来る。二人で。


 バイバイ。過去の私。愛してるよ。今なら言える。
 こんにちは。未来の私。愛してるよ。だから生きられる。
 ありがとう。現在の私。愛してるよ。心から。




[Winter fall from Winter again closed]

       

表紙

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha