Neetel Inside 文芸新都
表紙

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ハローグッバイ

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 ただいま。おかえり。ありがとう。おめでとう――……バイバイ。


「あの子元気でちゃんとやってるかしら」
「そんな心配してもしょうがなかろうが」
「そうだけど」
「茶くれ」
「はいはい」
 実際のところ二人のやり取りがどんな風なものなのか、なんて想像してもあまり正解だろうと思えるようなものは思い浮かばなかった。
「あの子の家まで行ってみようかしら」
「あいつも、向こうでやりたい事あるんやろうし、好きにさせたれ」
「でも一回くらい顔見たいのよ」
「茶くれ」
「はいはい」
 そうそう、親父は休みの日はよくお茶を飲んでいた。だからっていつでもその台詞で締めくくってしまう僕はきっと想像力がかなり欠如しているのだろう。きっと、そうだ。逆に働かせすぎた想像力の中で親父はおかんを情熱的に抱きしめたりもしていた。いや、ないな。これはない。例え地球がひっくり返ってもそれはない。結局僕の中で思い描く二人の姿はリビングでのんびりと過ごしているいつもの二人だったが結局それが正解なんじゃないだろうか、なんてそんな風に思う。
「おい、誰か来たぞ」
「あら、お隣さんかしら。呼び鈴使うなんて珍しい」
「茶くれ」
「はいはい」
 我ながら強引過ぎる。
「はいはい。ちょっと待ってね」
 だからさ。結局よく分からない訳。
 ガラリ、と俺の実家の引き戸が開けられて、その開かれた扉の向こうにいるおかんに俺が「……ただいま」と少し照れくさそうに言うと、途端に泣き出してしまって、そうやっておかんが泣く姿なんて昔俺と親父が大喧嘩して、どっちも引き際を見つける事が出来なくてどうしようもなくなってきた頃に、今みたいに泣いてるおかんを見て、なんとか落ち着いたあの時以来で、まさかいきなり泣かれるなんて思ってもなかったから、俺が慌てて「お、おい!」とか言ってると、同時に麻奈も「だ、大丈夫ですか!?」とかおかんを支えるように手を伸ばしたりしてしまって、それに気付いたおかんが、いきなり現れた女の子見て「あら、ごめんなさいね、ところでどちらさま?」なんて泣いてたくせに結構冷静に言い返すもんだから今度は麻奈が逆に舞い上がってしまって「あ、あの、私、橘麻奈と言いまして、あの、康弘君とお付き合いさせて貰っております」なんてわたわた言うような事になって、僕はそれを聞きながら、インターホンを押すときに感じていた緊張感も少し嫌な形で萎えてしまって、深々と溜め息を吐くような羽目になるのだけど、でもそれって想像力が幾らあってもこんな事になるとか気付けないと思うんだ。
「……まぁ、玄関でこういう事言うのもなんなんだが、俺の彼女」
「あら、まぁ」
 おかんは目尻の涙を拭いながら「恥ずかしいとこ見せちゃってごめんなさいね」と途端笑い出した。そうやって笑うと口元辺りの皺がぐっと深くなる。
「二人でやってきたの? どうやってきたの?」
「バイクで帰ってきた」
「康弘、あんたバイクなんか持ってないでしょ?」
「友達に借りた」
「それでも二人乗りなんか危なかったでしょうに。彼女さん――麻奈ちゃんでいいかしら――に怪我とかさせんかった?」
「大丈夫だって。それよりおかん」
「なんよ?」
「いつまでも玄関で話してないで、中入らしてくれ」
 僕は両腕に抱えている荷物を見せ付けるように持ち上げる。
 おかんは「あら、そういやそうね」とコロコロと喉を鳴らすと、招き猫みたいに手をひょこひょこと動かして見せた。全く、久しぶりの再会だと言うのにこんなふうに説教されるとは。
(やっぱおかんはおかんか)
 スリッパを二つ並べているエプロン姿のおかんの背中を眺めるが、それにどこか安心感のようなものも覚える。
 僕は麻奈に入るように促すと「お邪魔します」としきりに頭を下げる。
「いいのいいの。遠慮しないで、どうぞどうぞ」
 おかんが足元に置いた彼女の荷物を持ち上げて、笑った。
「リビングにお父さんいるからちょっと言ってくるわ」
 そのまま僕らを残してさっさと引っ込む。僕はやれやれと腰を下ろし靴を脱ぎながら麻奈に苦笑する。
「いやぁ、騒がしくてごめんな」
「ううん、そんな事ないけどどうしよう、緊張してきちゃった」
「ま、気にすんなって」
 僕は久しぶりに帰ってきた自分の家をぐるりと見渡す。当然だが、以前となにも変わったような様子はなく木造建築の少し古い作りの我が家の匂いを嗅いで懐かしさと安心感を覚える。スリッパに履き替え麻奈をリビングへと案内する。まだ緊張しているらしい彼女を宥めながら扉を開けて、僕は部屋の中央にテーブルを囲むように置かれているソファに座っている親父を見かけた。
「おお。おかえり」
「おう。ただいま。元気してた?」
「おお。元気でやっとるよ。いらっしゃい」
「は、はじめまして」
「よおこんなとこまで来たなぁ。まぁ、座りぃ」
「は、はい、失礼します」
 促されるように僕達はソファに座る。テーブルにはやはり透明のグラスに入れられた麦茶があった。ただいつもと違うのはそこに氷が入れられてなく、見ただけでも少し温そうだ。
 その麦茶に親父が手を伸ばす。僕はそれが呑み終わる前に「麻奈って言うんだよ。俺の、彼女」と紹介する。
「ほおかぁ」
「よ、よろしくお願いします」
「そんな硬くならんでええよ」
「お父さん無口やから緊張するんよ。はい、麻奈ちゃんお茶どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 僕の前にも置かれた麦茶を一飲みする。おかんは麻奈によほど興味があるらしく、そのまま腰を下ろすとああだこうだとペラペラと質問をマシンガンのように繰り出していた。麻奈もそうやって聞かれるほうが落ち着くらしく、僕達が住んでいるところがどんなところだとか、学校での僕がどんな様子だったのか、なんて事まで喋りだしている。昔からそうなのだが、おかんは誰もが無意識で作っている心の垣根、みたいなものをいつも簡単に乗り越えてくる。しかもそれが不快なものではなく、あまりに自然すぎて、気がつくと傍にいると言った感じなので相手はいつも言うつもりのなかった事まで話してしまうようになってしまっていた。
 麻奈も女同士の方が、いいだろう。僕はそう思い、二人の様子を気にしながらも黙っている親父の方を見る。
「最近なんかあった?」
「なんかってなんぞ?」
「なんかだよ。なんか変わった事とかなかったの?」
「別にないわ。隕石の事も、この年になって泣き叫ぶ事でもないが」
「まぁ、そうかもしれんけど」
 訛りのある親父の喋り方に僕も少し癖が移る。
「お前の方はどうぞ?」
「あー……まぁ、ぼちぼちしよるよ」
「ぼちぼちってなんぞ」
「まぁ、色々あんだよ」
「ほおか。まぁ、若いけんの」
 親父はテーブルに置かれてあったセブンスターを取ると火をつけた。
 相変わらず、僕はなにを考えてるのかよく分からない、と思っていたが、灰皿に灰を落とそうとした親父がとん、とんと煙草を二度叩くのを見てそう言えば麻奈に僕も同じ事をしていた事を以前指摘された事を思い出す。親父の煙草を吸う姿なんて今までろくに見ていなかったので真似をしたと言うわけではないのだろうが、やはり親子と言う事なのだろうか。
 チラリと見ると麻奈もそれに気がついたようだった。興味深げにその姿を見ていたが
「お父さん、麻奈ちゃんいるのに煙草なんか吸わんでよ」
 と口を尖らせる。
「あ、大丈夫ですよ。私煙草慣れて――」
 そこで僕は慌てて釘を刺すように視線を送る。気付いてくれたらしく、途中で口を閉じる。
「麻奈ちゃんのお父さんも吸うの?」
「あ、は、はい。そうなんです。だから大丈夫です」
 誤魔化すように笑う様子を見て、僕は胸を撫で下ろした。
 煙草の事はこのまま黙っていようと思っていた。
 それが親孝行なのか、それとも保身なのかは判断しかねたが。
「あ、そうそう、康弘。母さんたちちょっとこれから出かけるんよ」
「どっか行くん?」
「晩御飯のおかずくれる言う人がいるからお父さんに車で連れてってもらう事にしてたんやけどね、二人どうする? 家で待っとく?」
「そっかぁ。じゃあ、俺らもちょっと外出てみようかな」
「あぁ、そうしなさい。麻奈ちゃんにご近所案内してあげなさい」
「案内って別に特別見せるようなものもないだろ」
「いいから、いいから。晩御飯今日は四人分作るからその頃には帰ってくるんよ」
「分かった」と言うとおかんはエプロンを脱いで簡単に支度すると僕に合鍵を手渡した。


「お母さん、優しい人でよかったぁ」
「やかましいだろ? 昔からよく喋るんだ」
「そんな事ないよ。凄い話しやすかったし」
「田舎者だから、警戒心がないんだよ」
 マルボロを吸い煙を吐き出して、先程の親父と同じように煙草を二度叩いた。
 麻奈がそんな僕を見て、面白そうに笑い出す。先程の僕の焦りようを思い出したのだろう。
 僕達はあれから家を出て近所をぶらぶらと歩いていた。
 簡素な住宅街、と言うよりもただ民家が並んでいるだけと言った感じの家の近所を二人で並んで歩くものの特別これと言って見せられるものなどなく、ただ散歩をしていると言う感じだったが麻奈は意外と楽しんでいるようだった。「ここが康弘君が育ったところなんだね」と言いながら、僕の少年時代の面影を探そうとしているようにきょろきょろとしている。僕もふと追憶するように彼女の視線を追いかけながらふと一軒の民家を見つけ足を止めた。
「どうしたの?」
「いや、ここ幼馴染みの家」
「へぇ、そうなんだ」
 麻奈が懐かしむような目をする僕の隣に立ち、その門を見た。
 表札に書かれている「安藤」と言う名前を見て僕はずっと昔から遊んでいた安藤夕子と三浦俊介の顔を思い出す。
「幼馴染みこいつともう一人いてさ。安藤と、俊介って言うんだけど、いっつも三人でよく遊んでたな」
 そう言うと麻奈が少し首を傾げた。
「なんで安藤さんは苗字?」
「あぁ、いや、深い意味はないんだけど」
 そう言えば彼女の事を名前で呼ばなくなったのはいつからだったろう。
 小さかった頃は夕子と呼んでいたはずだが、中学生になる少し前くらいから安藤と呼ぶようになっていた。用するに当時の僕は女の子を名前で呼ぶ事を恥ずかしがっていたのだと思う。当時のクラスメイトに名前で呼んでいた事でからかわれたりして、それがきっかけだったような気もする。今思えば下らない理由だと思うが、当時は安藤もそう言われる事に腹を立ててたりもして、僕や俊介が安藤と呼ぶようになって少しほっとしていたようにも思う。それが未だに抜けきらず僕は今でも彼女の事を安藤と呼ぶ。
「もう一年くらい会ってないんだよな、そう言えば。正月会えなかったし」
「そうなんだ。今家にいるのかな?」
「どうだろ」
 と首を傾げた所で、まるで僕達の言葉を聞いていたかのように家の扉が開いた。
 ただ、そこから出てきた意外な人物に僕は思わず声を上げる。その呟きが届いたのか、それともただ歩き出そうとして前を向いただけなのか、彼はこちらを見て、家の前に突っ立っている僕を見つけると「あー!!」とびっくりするほどの大声を上げた。
「ちょ!! 康弘やん!! え、なんでおるん!?」
 彼――俊介はそのままの勢いで僕のほうに走りよろうとしたが、思いとどまったようで足を止めると、再び玄関の方へ向き直ると「おい! ちょっとはよ出て来い!」と叫んだ。
 半開きのままだった扉から、彼の声に引っ張られるようにして出てきたのは、見まごう事ない安藤夕子の姿だった。彼女は叫んでいる彼をうるさいなぁ、もうとでも言いたげにしていたが、こちらをみると「あー」と指差して、やはり驚いた表情を浮かべた。その言い方は昔から全く変わっていないマイペースなのんびりとした調子だった。
「……おう、久しぶり」
 僕は少し遅れて、手を上げてそう答える。それと同時に俊介がタックルをするように僕に抱きついてきた。
「久しぶりやん!! 帰ってきたんかぁ! うわー俺康弘に会えるなんてめっちゃ嬉しいわぁ!」
「おい! いてぇよ!」
「少々気にすんなや!」
 そう言われるものの僕は無理やり俊介を引き離す。
 昔から人懐っこい奴だったがどうやら変わってないようで安心した。
「柳、久しぶりだねー」
 俊介の背後から安藤が間延びした声でそう言ってきた。
「おう、つか二人一緒に出てきたからびびったぞ」
「私達もびっくりしたよー。外出ようと思ったらいきなり家の前にいるんだもん。ねぇねぇ、隣の子は?」
「こんにちは」
 麻奈は俊介のテンションの高さに驚いているようだ。
 俊介はそれに気付いていないようで「ちわっす!!」と体育会系の返事をするが、それでまた一歩思わず後ずさっている。
「あぁ、あのさ。俺の、彼女。麻奈って言うんだ。今日の朝二人で帰ってきた」
「へーへーへー、柳も彼女出来たんだー。よかったねー、二人で心配してたんだよー、柳ちゃんといい人見つけられてるかなーって」
「余計なお世話じゃ」
「けどこんな可愛い彼女見つけるなんて意外ー」
「どういう意味だよ」
「そんな、可愛くないですよ」
「いやいやいやいや、めっちゃ可愛いよ! なぁ、夕子」
「うん」
「え?」
 僕は俊介の台詞に思わず間抜けな返事を返していた。
 夕子。
 あぁ、そっか。俊介、安藤の事、苗字で呼ぶのやめたんだ。そうだよな、もう高校二年にもなりゃそうなっててもおかしくねーよな。
「柳? どうしたの?」
 安藤が、ぼんやりとしてしまっていた僕を見て首を傾げた。
「あぁ、いや、夕子って俊介が言ってんの久しぶりだなって。ほら、俺ら安藤って呼んでたじゃん」
「あぁ、そう言えば」
 合点がいったと言うように安藤が手をぽんと叩いた。
 僕の中で彼女は「安藤」だった。「夕子」と呼ぶのをやめてからいつしかそれが自然となり、もうずっとそうだった。でもさ、俺さ、たまに思ってたんだよ。なぁ、やっぱ周りがどうこう言うからってさ、呼び方を変えるのってなんかおかしくないかな。そう、「安藤」に慣れてしまっても僕はどこかでそう思っていたんだ。
「あのね、柳」
「なに? 安藤」
 なに? 夕子。
「私もう安藤じゃないんだ」
「え?」
 その言葉の意味が分からず戸惑う僕に、彼女の言葉を受け継ぐように、俊介が口を開いた。
「俺達さ、結婚したんだ」
「……結婚?」
「そうなの。隕石がね、落下する事になってそれからしばらくして、俊介が結婚しようって」
 俊介。
 彼女は以前「三浦」と呼んでいた彼の事を俊介と呼んだ。
 柳。
 そこに、なにがあるのか分からない。距離があるのか、ないのか分からない。ただ、今になって気がついた二人の左手の薬指に嵌められている指輪を見て、その輝きが今の僕には眩しすぎた。
「マジで……?」
「ま、こんな時だからさ。結婚式とかもしてないし、二人で市役所にある婚姻届に名前書いて、判子押して、指輪交換しただけなんだけどさ」
「それでも凄いですよ。おめでとうございます」
「ホントー? そう言ってもらえると嬉しいなー、ね、俊介」
「おお! ありがとう!」
 麻奈が指輪見せてもらっていいですか? と隣で言っている。
 二人は少し照れくさそうにしながらそれでも並んでその手を差し出した。
 なぁ。
 俺さ、なんて言えばいいかな。
 僕の意識が乖離していく中でそれでも「おめでとう」なんて言っていたような気がする。
 うん、そうだよな。きっとめでたいんだよ。
 でもさ、安藤。俺、お前の事なんて呼んだらいいのかな。夕子って呼んでいいのかな。
 安藤じゃなくなったから、夕子って呼ぶしかないから、夕子って呼ぶ。
 そんな理由で「安藤」じゃなくなって、いいのかな。


 俺、今取り残されてんのかな。俺達三人で幼馴染みだったじゃん。今……それ変わっちまってるんだよな。

     

「嘘つけ」
「嘘やない」
 僕の嘘をあっさりと見破られた事に、戸惑いながらそれでも虚勢を張ったが親父は歯牙にもかけず言い切った。
 話の内容は大した事ではなく、特に意地を張るような事でもなく自分でもなぜそこまで頑なになる必要があるのか分からなかったが、親父はそれ以上追及するのをバカらしいと思ったのか、それ以上追求する事はせず、庭の中央で腰を下ろした。
 それ以上追求されないのがむしろ居心地の悪さを感じさせられる。僕は額からふつふつと浮かんでくる汗を肩に巻いていたタオルで拭った。目の前でパチパチと爆ぜる音を立てている焚き火をうんざりとした目で見る。火の上には昔キャンプで使っていた飯盒が親父の手作りらしい木製の棒に引っ掛けられていた。隣にはブロックを積み上げた台が置かれていてこちらでは味噌汁を作っているようで鍋がふつふつと沸騰している。
「お前、向こうでちゃんとした飯食いよったんか?」
「いや、カップラーメンとか」
「だらしないの」
「だってコンロとか使えないし」
「こうやってやりゃええが」
「出来ねえよ。俺こんなの作れないし場所もないが」
「学校で焼肉した言よったが」
 親父の何気ないその一言はおかんからの受け売りなのだろうが、知っている事に少し驚いていた。てっきり、そんな話してもいないだろうと思っていたのだが。
「それは皆でやったからで一人じゃ出来ん」
「皆も一人も関係ない」
「はいはい」
「お前は昔から適当なんじゃ」
 そやなぁ、とだけ言い誤魔化すように味噌汁を一口すすった。おかんの味噌汁はわかめと豆腐とジャガイモと言ういつもの味だった。残った汁をくれと言われ、小皿を手渡すとそれを飲みながら飯盒の蓋を押さえ「もうええか」と言って取り上げると地面に逆さまに置く。
「出来た?」
 おかんが家の中から首だけを覗かせる。親父が「あと蒸したら食えるぞ」と言うと「こっちも準備出来たわ。麻奈ちゃん手伝ってくれたんよ。あの子ええ子やねぇ」と僕を見て目を細める。おかんは息子の恋人を見て喜んでいるのかもしれないが、僕はそう口にされると上手い返事をする事が出来ない。
「康弘鍋運べ」
「あいあい。よっこいせ」
 台所へと運びなおし、それを受け取った麻奈が器へと注ぐ。
 家の中はどこから持ち出してきたのかアルコールランプが一部屋に一つは置かれており、全く暗さを感じる事がなかった。
「康弘君、汗凄いね」
「あーもうこんな季節に焚き火とかたまらんわ」
「たまらんわ」
 僕の聞きなれない口調が面白いのか真似をする。
「なに、それ」
「面白いかなって思って」
「へ?」
「ちょっと元気出してあげようかなって思って」
「麻奈ちゃん、こっち持ってきてもらっていい?」
「はーい」
 お盆に載せた食器を運ぶ彼女の背中を見ながら僕は「なんだよ」と頬をかいた。きっと二人に会ってから僕の様子が少し変わった事に彼女も気がついているのだろう。僕は麻奈に一体どういうふうに言えばいいのか計りかねて、まぁ、いいか、と彼女に続いてリビングに入ると僕達はテーブルを囲んだ。
「いただきます」
 四人で手を合わせる。
 テーブルの真ん中には大皿があり魚の刺身が盛り付けられていた。「すげぇ」と思わず漏らす。近所の人から分けてもらったにしては結構な量のように思えたが、こんなふうにあっさりと他人に物を譲ってしまうのがうちの地元らしいと言えばらしかった。
「麻奈ちゃん遠慮せんでくってええぞ」
「ありがとうございます。本当美味しいです」
 親父に声をかけられた麻奈が、嬉しそうに返事をしながら空になったグラスにお茶を注いでいた。思ったより自然に打ち解けているその様子がなんだかおかしい。親父が若い女の子と話している姿なんてそうそう見る事ではないのだがよくよく考えれば職場でも二十台位の女の人と冗談を言い合ったりする事もあったのかもしれない。
「麻奈ちゃんはスポーツとかするんか?」
「うーん、見るのは好きですけどやるのは苦手です」
「ほおかぁ。康弘も昔は野球とかしよったけど中学の時は悪さばっかりしよってなぁ」
「ちょっと、余計なこと言うなよ」
「本当の事やろが」
「麻奈ちゃん、康弘の悪いところあったら母さんに言ってね。きつく言っとくからね」
「本当ですか? じゃあ後で言います」
「こらこら」
 僕がたしなめるようにそう言うと、いたずらっ子のように舌を出して笑う。どうやら本当にこの家に馴染んでしまったようだが、これは喜んでばかりもいられないなと僕は、そこにあったものらしい少し焦げているご飯を平らげると「おかわり」と差し出す。
 久しぶりに口にした手作りの――母親の――料理は、インスタント食品ばかりだった近頃の食生活の乱れを取り戻そうとするようにいつもより俄然食が進んだ。
「おいしい?」
「うん、正直こんなにうまいとは思わんかった」
「あら、どしたの、急に」
 おかんは意外そうに答えたが、よっぽど嬉しかったのか「ご飯も味噌汁もまだあるからね」と微笑んだ。
 うん、うまいよ。
 やっぱおかんの料理は美味い。
 それに刺身とは言え麻奈の手料理も食べられたって事になるのかな、これで。
「あ、お父さん、私味噌汁つぎますよ」
「おお、ありがとお。お父さんとか言われたらこっぱずかしいが」
「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、かまんよ」
 親父も彼女の事気に入ってくれたようだった。
 なー。ええ彼女だろ。文句なんか一つもないんよ、マジで。
 けどさ、この胸のしこりは別問題なんだよ。


「風呂沸かせんの!?」
「おお」
「つか水とかどっから汲んできてんの?」
「向こうの山に湧き水があるから近所の皆で汲みに行きよる」
「へぇ。で、どうやるん?」
 そう言うと親父は再び庭に出ると再び火を燃やし始めた。なにをしているのかと覗き込むと火の中に幾つか大きな石が転がっている。親父はそれが充分熱を持った事を確かめると火鋏でそれを掴み、庭に面している風呂の窓から水を浸している浴槽へと放り込んだ。充分に暖められ湯気を放っていた石が、今度は冷たい水の中に投げ込まれじゅわ、と大きく音を立てた。
(なんかサバイバル生活してるみてーだな)
 親父はどれほど石を入れれば温度がちょうど良くなるか既に理解しているようでポンポンと幾つか放り込んだ。
「お父さん、凄いよね」
「俺もびっくりした。正直もっとやばい暮らししてんのかと思ってたのに、全く苦労してなさげだし」
 僕は庭に置いた小さなパイプ椅子に腰掛けながら、ほんの少し隙間を開けて浴槽に浸かっている麻奈に答えた。
 風呂の温度がちょうどいいようだ、と確認すると親父は「麻奈ちゃん、先入ってええよ」と促した。そして僕はお湯が冷めてしまったら石を一つ入れてやれ、と父親に命ぜられ一人こうやって庭にポツンと座り焚き火を見ていた。
「湯加減どう?」
「うん、ちょうどいいよ」
「じゃあ、俺家ん中戻っていい?」
「お父さんに怒られるんじゃない?」
「あーありえる」
 ぱしゃん、と水の跳ねる音が聞こえる。壁の向こう側には全裸の彼女がいるのだと思うとやはり落ち着かない。
 火の勢いが弱くなったようで僕は庭の片隅にまとめられている薪を少し足してやった。
「ねぇ、康弘君。まだ落ち込んでるの?」
「落ち込んでねーよ」
「嘘つき」
「だから嘘やないって」
 親父にも言われた言葉をまた彼女に言われ、僕はもう一度否定を返すがやはり彼女も信じてはくれなかったようだ。
「だって康弘君ちょっと泣きそうな顔してたよ」
「……ちょっと驚いただけだよ。結婚とかいきなりだったからさ」
「それだけじゃないんでしょ?」
「他になにがあるって言うんだよ。幼馴染みとして喜ぶべき事だよ」
 思わず立ち上がり、振り返ろうとしたがぎりぎりで思い直した。まぁ窓の隙間なんて僅かなものなので見える事もある訳ないのだが。
 しばらく彼女は黙っていた。僕もやれやれと腰を下ろしなおす。
「じゃあ、独り言言う」
「ん?」
「独り言言うから気にしないで」
「なにそれ?」
 僕が唐突な彼女の台詞になにを言っているのか分からなかったが、そう言うとおり彼女は勝手に話し始める。
「私も、多分似たような事昔あったし、康弘君も落ち込んでるのかもしれないけど。私は昔のそういう気持ちってやっぱり今どんな暮らしをしてても簡単に忘れられるものじゃないから、しょうがないと思うな」
「…………」
「それに逆にそういう気持ちをあっさり忘れちゃうような人って、あんまりいい事じゃないと思うから、うん、やっぱりしょうがないよ」
 だから私の事気にしてなにも言えなくなってるとしたら、今だけ見なかった事にしてあげるから気にしないでいいよ。
 それは僕の甘えが導き出した続きの台詞だろうか。
 彼女はどうやら僕の嘘をとっくに見抜いているらしい。
「麻奈」
「なに?」
「愛してるよ。やばいくらい」
「ぶはっ!」
 水を飲み込んだのか決して可愛らしくないその声に僕は若干驚いたが、それよりも「な、な、急になに?」とガラリ、と窓を開けてこちらへ顔を覗かせた姿を見て尚驚いた。
「いや、言葉通りの意味だけど。それより」
「そ、それよりなに?」
「窓、閉めた方がいいと思うぞ」
「え?」
 幸か不幸か首から下は壁に隠れて見える事はなかった。
 ただ、彼女があげたとんでもない悲鳴に飛び出してきたおかんに僕はなんて説明をするべきだろうか、と半眼で僕に近寄ってくるおかんを見ながら、思わず眉間に皺が寄る。
 嘘、俺下手なんだよ。
 他人にも、自分にも。


 幼馴染み。
 その言葉だけでは表現できないものがある。
 変わってしまった事を嘆いても、もうどうしようもならない事がある。
 そして、僕は他人にバレバレでも、嘘をつき続けている。そして一番のその嘘は自分自身になんだ。
「まだ起きとったん?」
「おお。お前も寝んのか?」
 夜が更けて僕の部屋におかんがもう一枚布団を運んでくれた。二階にある僕の部屋は僕が家を出た時から全く変わっておらず、いつ帰ってきても綺麗に掃除されていた。昼の内に干されていた布団は柔らかくて僕はそこに沈み込みそうになったが、なぜか眠る事が出来ず、もう眠っているらしい麻奈を起こさないようにゆっくりと部屋から出てきていた。
 親父はリビングで一人ソファに腰掛けながらテーブルに置かれたアルコールランプの光を頼りに一人でビールを飲んでいた。「お前酒飲めるか?」と聞かれ「まぁ、少しは」とはぐらかすと庭においてある水を浸したたらいに入れられているビールを一缶僕に手渡してくれた。冷えている、とは言えないもののそうやって飲んだビールは確かに美味しかった。
「お前いつまでこっちおるんぞ?」
「そやなぁ……まだ決めてないけど。明日か、明後日には帰るかもしれん」
「ずっとこっちにはおらんのか?」
 僕は押し黙ってしまう。それを拒否してしまうのはあまりに辛かった。
「……まぁ、向こうに大事な友達とかおるししょうがないか」
「ごめん」
「わしはかまんぞ。母さんも分かっとるやろうし」
「うん」
 助け舟を出して貰った事に感謝しながら短く返事をする。
「こうやって最後に顔見れて母さんも安心したやろ。帰ってきてくれてありがとうな」
「礼なんか言うなよ。らしくねえが」
「なんでぞ。子供が帰ってきて喜ばん親なんかおらんが」
「それはそうかもしらんけど」
 親父のそんな優しい言葉なんて聞けるなんて思ってなかった。
 僕達はきっととても近い場所で何度もすれ違いを繰り返していたんだろう。近すぎてそうなっている事に今まで気がつけていなかったのだ。もっとゆっくりお互いに歩く事が出来れば派手に衝突して喧嘩を繰り返すような事もなかったのかもしれない。いや、多分ぶつかっていたのは僕だけで、親父はそれをいつも黙って受け入れてくれていたのだろう。
 壁にかけられた古く汚れが目立つ丸時計が十二時を指した。
 十九日になった。
 世界が終わるまであと二週間もないのだ。
 だけど、十数年のすれ違いは今正しい距離を取り戻せたように思う。
 僕達は、親子だ。ずっと前から。
「俺の方こそありがとな」
「なにがぞ」
「育ててくれた事とか、全部かな」
「親やから当然やろが」
「でも、ありがと」
「おお」
 そう短く返事をするとテーブルの上の煙草に手を伸ばした。一本抜き取ったその箱を親父は僕のほうに差し出す。
「セブンスターでもええか?」
「いや、煙草は……」
「なに言よんぞ、煙草吸いよんやろが」
「な、なんでだよ」
「煙草臭いぞ、服とか。自分で気付いてないやろ」
「え? マジ?」
「母さんもお前の脱いだ服煙草臭いって言よったぞ」
「マジかよ」
 まさかそんな事まで気付かれているとは露とも思ってなかった僕は嘆息すると、渋々受け取ることにした。親父よりも先にライターを取ると親父に向ける。顎だけ動かして僕の差し出した火で煙草をつけると味わうかのようにゆっくりと息を吸った。僕も同じようにゆっくりとその味を吸う。
 とん、とん。
 僕達は二度、煙草を叩く。親父は僕が一緒の事をしている事に気がついただろうか。
「なぁ、安藤と俊介、結婚したんだと」
「おお、前挨拶来たぞ。会ったんか」
「さっきな。俺、ちょっといきなりすぎて喜べんかったわ」
「昔はよお三人で家でも遊びよったなぁ。夕子ちゃんも綺麗になったな」
「そりゃ幼稚園から見てたらそう思うだろ」
「まぁ、そうかもしれんなぁ。けどちゃんと祝ってやらんといかんぞ」
 念を押すように言う。あの二人は親父にとって自分の子供のようなものなのかもしれない。
「そうなんだけどさ」
「康弘、お前も麻奈ちゃんみたいなええ彼女おるんやし、あの二人の事認めたれ」
「……分かっとる」
 人生の先輩は、出来の悪い後輩を慰めるように穏やかに諭す。
 僕はそのアドバイスを丁重に受け取りながら、こうやって相談してよかったなと思い、親父は今までどんな人生を送ってきたんだろうと考える。
 なぁ、親父。やっぱガキの時は悪い事ばっかやっておじいちゃんによく怒られてたんか? 初めて彼女作ったの何歳の時だった? 初めての彼女との恋愛は上手く出来たんか? 今でも昔の友達と遊んだりするんか? おかんとはいつどうやって知り合ったんぞ? やっぱあのおかんの性格やし、すぐに仲良くなったんか?
「どうかしたか?」
「いや、なんでもねぇ。俺もそろそろ寝るわ」
「おお、ほおか。おやすみ」
「おう、おやすみ」
 そう言い残し、空になったビールの缶をゴミ箱に投げ入れて、リビングから廊下へと出て二階へと向かう。
 親父とこうやって酒を飲んで煙草を吸いあう事をより喜んでいるのは一体どちらだろう。
 聞きたい事は次から次へと出てきたが、それは胸の内にしまっておく事にした。誰だって、どんなに仲が良くても秘密にしておきたい事の一つや二つはあるだろうから。僕だって、どんなに聞かれても言えねぇ事はやっぱ言えねぇ。
「うーん」
 戻ってきた部屋では布団の上で麻奈が、ごそごそと寝返りを打っていた。
「愛してるよ、麻奈」
「うん?」
 吐息のような小さなその無意識の返事に僕は苦笑をして、寝入っている彼女の頭を撫でた。

     

 おかんが「せっかくだから四人で出かけない?」と朝食を食べながら言い、僕は頷いた。親父の通勤に使われていたセドリックは、その役目を終えてもたまに洗車をされているようで僕と麻奈は後部座席に座り、助手席におかんが座ると親父は車を発進させたが「どこ行くんぞ?」とすぐに尋ねてきた。
「どこでもいいじゃない」
「そんな事言うてもお前、行くとこ決めんとしゃあなかろうが」
「こうやってドライブでいいのよ」
 何事もはっきりしないと気がすまない親父は行き先がなく、ただ車を走らせるという事に不満げ――と言うより運転している自分が道を選ぶのが億劫だったのかもしれない――にすると、交差点に差し掛かったところで左折して大通りへと出た。
「康弘はどこか行きたいところないん?」
「あー、そやなぁ」
 と急に聞かれ、悩んでいると
「あ、あれ見て、あれ。あの白い病院。あそこで康弘産まれたんよ」
 そう、窓越しに指を差し出された。
「あの四角い建物ですか?」
「そうそう。懐かしいわねぇ。康弘こんな小さくてねぇ」
 助手席から麻奈の方へ向き直ると、身振り手振りを加えながら、僕が生まれた時元気よく泣いていた事や、妊娠してから出産までがとても大変だった事、子供の頃から動き回って手がかかったという事などをけらけら笑いながら説明していた。麻奈は自分が経験した事ないその話が興味深いらしく、時折相槌を打っては、質問し返したりもしている。
「麻奈ちゃんは子供好き?」
「大好きです。親戚にまだ小さい子がいるんですけど、凄い可愛いんですよ」
「そうなの。男の子? 女の子?」
 親父はそんな二人の会話が退屈なのか少し窓を開けると煙草を吸いだした。エアコンが効いている車内は随分涼しかったが、僕も吊られて窓を開けると顔を少しそこから出してみる。「危ないぞ」と親父が言うが「大丈夫やって」と答える。車幅が広い道に、しかし他に走っている車は殆どなく、まるで貸しきり状態のようだった。風圧で髪が乱れるがそれも気にせず、僕はもう少し頭を外へと動かした。あっさりと通り過ぎていってしまう風景に少しでも近付こうとでも思っていたのだろうか。
 昔よく通った駄菓子屋を見かける。おじさんはまだ元気だろうか、ふとそこにあの頃の僕達がいるような気がして僕は目を細めた。
 数枚の百円を握り締めた小さな僕と俊介が当たりつきのアイスを当てようと、真剣な眼差しで選んでいる。その後ろで安藤が「もー早く買おうよー」と口を尖らせている。小さな僕は「待てって! 当たったら夕子にあげるけん!」と言うと「本当!?」と顔を輝かせるが、結局二人とも外れで安藤は自分のポケットから百円を出して自分の好きなアイスを買っている。
「俺、大人になったら大工になる」
「大工?」
 俊介は昔からそう言っていた。
「おう、大工になって、そんでめちゃくちゃでっかい自分の家を建てる」
「えーいいなー」
「じゃあ、康弘と夕子の家も建ててやるわ! あれやったら三人一緒に住んだらええやん」
「えー、俺自分だけの家が欲しいわ」
「なんでよー康弘。いいじゃない、一緒に住むの」
 小さな僕は、彼女の台詞に頑なに「嫌や」と言い返す。僕は昔から少しひねくれていたのかもしれない。だからだろうか、今更になってその彼女の言葉に「あぁ、いいかもな、そういうの」と頷きたくなる。
 叶いもしない夢。
「康弘、なに見よんの?」
「……いや、懐かしいなぁ、と思って。なんでもないよ」
 おかんの言葉に現実に引き戻された僕は、車内へと顔を引っ込めた。
「なぁ、あそこにあった駄菓子屋って今もやってんの?」
「あぁ、あそこ? 去年くらいに店閉めちゃったのよ。デパートとか出来て儲からないって言ってたわねぇ。ちょっと体の調子も悪かったらしいから、ちょうどいいって言ってたわよ」
「マジか……そうか、もうやってないんかぁ」
「なに? 駄菓子欲しかったん?」
「いらんわ」
 そうか。もうないのか。あの店は、もう思い出の中にしか存在していないのか。
 なぜか溜め息が出てきて、誤魔化すように麻奈に地元の田舎具合を適当に説明する事にした。
 変わらないものって、この世の中にあるんだろうか。
 裏切りや忘却や苦しみや、そんなものを受け止めて、以前と変わらず微笑んでくれるような永遠に変わらないもの。
「親父」
「おお?」
「俺、行きたいとこ思い出したわ」
「どこぞ?」
「虹山」
「虹山? なんかあるんか?」
「いや、ガキん時よく行ってたなぁ、と思って」
 虹山、と言うのは愛称で正しい名前がちゃんとあるそうなのだが、僕達は昔からそう呼んでいた。そう呼ばれるようになった由来は、あまり高い山とはいえないその山の遠くに、もっと高い双子の山があるのだがその辺りの天候が崩れやすいため雨が良く降る為虹が見られるのだが、その時角度によってはその虹が虹山を囲うようにしているように見えるため、そう呼ばれるようになったらしい。なので本当ならそう目立つ事なかったはずの山は、そういう理由から地元民に愛着を抱かれるようになり、頂上までの整備した道が敷かれ、頂上には土産屋やレストランなどが作られて小さな観光名所のようになっている。
 親父は「じゃあ、行こか」とすぐにハンドルを切り返した。目的のないドライブより、どこでもいいから向かう場所があるほうが気楽だったのだろう、二人の返事を聞くこともしなかったが、おかんも麻奈も特に反論はしなかった。
「その虹山って遠いの?」
「いや、そんなに。俺がガキん時もチャリで行ってたしな」
 麻奈が少し意外そうに声を出す。僕の言うとおり、車は大通りから一本だけ道をずれて少し走ると「こちら虹山」と言う看板が見えてきた。きっと街中からすぐ傍に山があると言うのが彼女の中では目新しいのだろう。車は山道に差し掛かって、何台かちらほらと姿を見かけだした他の車に合わせ少し速度を緩めた。
「やっぱり他にも来る人いるのねぇ」
「せやなぁ」
 二人の呑気そうな声を聞いている間にも車はすぐに頂上へと辿り着いた。
 広い駐車場の片隅に車を止めて、僕達はドアを開けた。
 当然と言うべきか土産物屋やレストランは閉まってしまっていたが、僕達は二階建ての建物のテラス部分へと階段を上がるとテーブルごとに屋根がついているその一つに腰掛けた。このテラスはここにやってくる人たちの特等席みたいなもので、座ったまま山の下の街並みを見下ろす事が出来た。
「いい景色ですね」
「そうでしょう。私が若い頃からここはあるんだけど昔から人気あるのよ」
「分かる気がします、それ」
「昔からなんも変わっとらんけどな」
 おかんが水筒を取り出して、麦茶を全員分注いでくれた。僕は紙コップに入れられたそれを飲みながら会話には加わらず、風景を眺める。
 変わらない風景がここにはある。所々潰れたり、新しく建ったりした建物などあっても、こうやって全てを含めて眺めてみればそんな事は大した問題ではなく、望郷に浸る事が出来た。テラスの木製のテラスに山鳥が二羽休憩しようとでも思ったのか羽根を仕舞い舞い降りる。中睦まじくお互いを嘴で突付きあっており、人に慣れているのか僕達を見止めても逃げ出す様子もなかった。
「あれ、大きな十字架の建物教会ですか?」
 一際目立っている屋根に十字架がくっついている建物を麻奈が指差した。
「ああ、あれ? 違うわよ。結婚式場。私達もあそこで式挙げたのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。ねぇ、お父さん」
「そうやな」
 嬉しそうに笑うおかんに親父が面倒くさそうに答える。僕と同じでそういう話は苦手らしい。
「結婚かぁ」
 俊介と安藤の事を思わず思い出し僕が呟くと、なにをどう勘違いしたのか
「母さん、康弘の結婚式見たかったわぁ」
 なんて困った事を言い出した。
「無茶言うなよ」
「そうよねぇ。まぁ、こうやって麻奈ちゃん見られたしよしとしないとね」
「そんな式とか大したもんじゃなかろうが」
「そんな事ないわよ。ねぇ、麻奈ちゃんもウエディングドレスとか着たいわよねぇ」
 親父の言葉も無視して彼女にそう言うと麻奈は照れながらそれでも「そうですね。着たいです」なんて言っていた。やはり女は一度でいいからウエディングドレスを着てみたいものなのだろうか。僕も親父も理解出来ないと首を傾げるが二人はしばらくその話で盛り上がっていた。
「しょうもな」
 親父が灰皿を持ってくると煙草を出した。僕がなんとなくふとそちらを見ると、親父はその視線に気がついたらしく、無言のまま僕のほうへとすっと差し出してきた。彼がなにを言いたいのかすぐに分かったが、僕は戸惑うものの親父は、さっさと向こうへと視線をやってしまう。
「そんくらい自分でやれえや」
 そう言っているような気がした。
「はぁ」
 それでもやはりまだ迷ってしまう。
 無言ってのはいつでも優しかったり厳しかったり色んな表現があるけれど、それを少しオブラートに包んでしまうからつい甘えてしまいたくなる時があるのだけれど、それに甘えてただ逃げてばかりになってしまう時があるのは確かだ。
「おかん」
「え? なに?」
 僕はポケットに手を入れ、少し潰れているソフトパッケージのマルボロを取り出した。
「煙草、吸っていい?」
 昔から悪い事を白状する時、僕はいつも言い訳を考えるのだが結局何も思い浮かばず、そんな短い言葉しか出てこなかった。そしておかんはいつものように
「あんた、未成年やろがね!」
 そうやって反論の余地がなくなった僕の頭を一度パシンとはたく。
「いて」
「康弘、あんた煙草いつから吸いよった?」
「……一年前位から」
 すっかり笑顔が消えて、僕にとっては鬼のような形相となったおかんの眼光に僕は目を逸らした。こうなった時のおかんには親父の言葉も届かないという事を僕は誰よりも知っている。
「なに考えとんの!?」
「……ごめん」
「ごめんと思うんなら初めからせんかったらええやろ」
 僕は時間を稼ぐように、叩かれた頭を撫でながら、隣でおろおろとしている麻奈を見て、首を振った。
 いいんだって。こうなる事は分かってたし、分かってて煙草持ってきたし。多分おかんもお前に自分のそういうとこ見せてもいいや、って思ってるんだと思うよ。理解してくれるって思ってもらえたんなら、むしろいい事なんじゃないかな。
「地元出て、一人で退屈でさ。つい吸い出しちゃったんだよ。わりい」
「……本当あんたはアホやねぇ」
 おかんは「本当しょうがない子やねぇ」と大げさに首を振りながら溜め息を吐き、そして「はい」と僕の前に灰皿を差し出した。僕は少し緊張しながら
「ええの?」
「どうせまた吸うんやろ?」
「……多分」
「それやったらこそこそせずに吸ってもらったほうがまだマシやわ、ほら」
 どうやら、許してくれたらしい。
 僕はもう一度「ごめん」と謝ると箱から一本取り出し火をつけた。
 親父から吐き出された煙の後を追うように白い煙がもう一本空へと伸びていく。
「まぁ、煙草くらいわしもお前くらいの年から吸いよったぞ」
 親父が今になってそう助け舟を出してくれた。
「まぁ、気晴らしにはええやろ」
「けど服に臭い移るから気ぃつけなさいよ。正月帰ってきた時も臭かったわよ」
「そやったん?」
「そうよ」
 おかんがそう言うと全く気がついていなかった当時の僕が面白かったのか声に出して笑った。僕は気になって自分の腕の辺りに鼻を近づけるがいまいちぴんと来ない。
「そうなん?」
「うん、結構」
 麻奈に尋ねてみると今まで黙っていたのよ、と言う感じで頷いた。
 まぁ、ごめんな、おかん。昨日親父から知ってる事聞いてたから、今言えたようなもんなんだけど。
 そうやって許せない事を怒ってくれて、話を聞いてくれて、最後にはちゃんと許してくれてありがとな。
 そうだな。変わらないものはあるな。ここに。
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 いつもより少し美味しい気がした。
「よし、決めた」
「なにが?」
 唐突にそう切り出した僕におかんが首を傾げる。
「こっちの話」
 扇状に広がる、さして大きくもない小さな街並みのあちらこちらに一つ一つに浮かび上がってくるような、小さな自分がいるような気がした。小さな大勢の僕は笑ったり、泣き喚いていたり、怒っていたり、呆けたような間抜けな表情をしている。
 なぁ、一人じゃその表情、どれも浮かべる事出来ないだろう?
 一人じゃ、ふと懐かしくて思い出すたび、切なくなってしまうような思い出なんて、作れないだろう?
 帰り道の途中親父がカーステレオを操作すると、Beatlesの「Hello goodbye」が流れた。親父は昔からBeatlesが好きで僕も家でよく聞いていた。
 なぁ、すれ違いなんてよくある話さ。
 あの歌はちょっと切ない歌だけどさ、意味なんか適当でいいさ。
 何回すれ違ってもああやって、また何回もハローと言えばいいさ。


 家に戻った僕は麻奈を乗せて原付を走らせていた。
 向かった先は俊介の実家だったが出てきたのは彼の父親だった。
「あらぁ、康弘君かい? 久しぶりやねぇ」
「お久しぶりです。俊介います?」
「俊介? いや、今一緒に住んでないんよ。夕子ちゃんいたやろ? 近くのアパートで二人で住んどんよ」
「え? そうなんですか?」
「康弘君、話聞いてなかったの?」
「マジで? あー、参ったな」
 後ろの麻奈にそう言われた。実は前にあった時二人はその事を言っていたらしい。僕が呆然としすぎていて聞き逃してしまっていたようだ。気を取り直して二人が住んでいる場所を確認する。
「あ、そうだ。おじさん」
「ん?」
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なん?」
 そうやり取りを交わしてから、僕達は再び走り出す。ここからもあまり遠くではないようですぐにアパートを見つける事が出来た。206号室だと言われた通りにその玄関の前に立つとインターホンを押す。
「はいはい!」
 俊介の返事が聞こえドアが開けられた。
「おお、康弘! 来てくれたんか!」
「おう、安藤いる?」
「夕子? いや、今ちょっと出てる」
 その言葉を聞いて僕と麻奈はにんまりと笑いあった。
 それを見て俊介が訳が分からないと言った感じで少し薄気味悪そうにこちらを見るが、僕は構わず「よっしゃ、それなら好都合だな」と言い、素早く俊介の頭をがっちりとヘッドロックした。
「な、な、なんや! いきなり!?」
「うるせー、ちょっと出かけるぞ。だらしねー格好してねーで着替えろ」
「出かけるってどこに!?」
 僕の腕の中でじたばたしている俊介は苦しそうに言うが、僕は構わず彼と安藤の住む家の中へと侵入する。
「あとで教えてやるからさっさと準備せえ」

     

「あれ? 柳? どうしたの?」
 しばらくして帰ってきた安藤がアパートの前にいる僕を見て首を傾げた。
「おっせえよ。帰ってくんの。どこ行ってたんだ?」
「ちょっと高校の友達に会ってたんよー。つい話し込んじゃって。もしかして待ってた?」
「結構」
「それやったら家に入って待ってたらよかったのに。俊介いるでしょ?」
「いや、ちょっと俊介今出てんだわ」
「あれ? そうなん? 今日は家いるって言ってたのにな」
 そう言って首を傾げ我が家を見上げた。さして大きくもないアパートは静かで僕達以外誰も付近にはいない。安藤は「上がってく? そのうち俊介も帰ってくると思うし」と言うが、僕は首を振った。
「ちょっと付き合ってくんないかな」
「私?」
「以外に誰がいるんだよ」
 そう言われる事が意外だったのか素っ頓狂な返事をあげる彼女に、笑いながら僕は近くに置いてあった原付のシートに手を置いた。
「いいけどどこ行くん?」
「んー。行ったら分かる」
「また隠し事?」
「またってなんだよ?」
「柳は大事な事とかあるといっつもそうやって内緒にするもん」
 さすが幼馴染み、と言う事だろうか。鋭い。
「けどまぁ」
「まぁ?」
「今までもそんな風に秘密にしてて嫌な思いした事ってそんなにないと思うぞ」
「自分で言う? まぁ、暇やしいいよ。久しぶりに柳と二人で話せるのもちょっと嬉しいし」
 にこりと明るく笑った。そんな彼女に僕も笑い返しながら原付に跨る。後ろに座ったのを確認してから僕はアパートから道路へと原付を発進させる。僕はゆっくりと走る事にした。彼女の言うとおり二人だけで話すのは久しぶりだったし、その時間を少しでも引き延ばしたいと思ったのかもしれない。
「なぁなぁ、柳?」
「あん?」
「麻奈ちゃんってどんな子?」
「……そだな、いい子だよ」
「えー、そんなんは見てたら分かるわぁ。もっとなんか詳しく聞かせてよ」
 僕は「別に詳しく言うような事ねーよ」と前を見ながら答えた。一体どんな表情をしながら彼女が聞いているのか気になったがミラーを見ても写るのは街並みだけで、彼女の姿は僕の背中に隠れてしまっている。
「お前らの方はどうなんだよ。いきなり結婚とか聞いてびびったわ」
「んー、私も言われた時はびっくりした。いきなりやったもんなぁ」
「元々付き合ってたんじゃないのか?」
「なかったよー。でも遅かれ早かれ、付き合うことになってたかもしれないけど。ほら、俊介奥手だから」
「隕石のおかげか」
「感謝する気にはならないけどねー」
 俊介が彼女に告白するところを想像するのは面白かった。その事を彼女に言うと彼女も同調して笑う。一頻り笑いながら「でも、今は幸せだしよかったかな」と言う言葉を聞いて僕は「そっか。よかったやん」と呟いた。
「そうやねぇ。柳も素敵な彼女作ったとこ見られたし」
「はいはい」
「けどあんないい子いてくれるんだから元気出しぃよ。なんかちょっと雰囲気違ったよ、前」
「あー、まぁ、そうやな」
「なんかあったん?」
「お前らの事知ってびっくりしただけや」
 そう話している内にも目的の場所はもうすぐに迫ってきて、僕はその建物を視界に捉えた。偶然だろうが、彼女がその建物を見て声を上げる。
「あの建物きれいやと思わん? 昔からあったけど高校に入ってくらいからそう思うようになったんよね」
「お年頃か?」
「んー、女の子になったんかなぁ、私も、なんて」
 僕はまだそういった感慨は正直よく分からない。だけど女の子にとってきっとそういうものはもっと幼い頃から具体的ではなく漠然としていてもそういった夢のようなものをいつでも見ているものなのかもしれない。僕はその言葉を聞いてもう一度建物を見つめなおす。
 白い壁面の正面に一つだけある大きな窓は陽の光を浴びて輝いており、屋根から伸びている十字架は遠くから見るよりもずっと、想像以上に大きかった。
「じゃ、その夢叶えちまおう」
「え?」
 僕は台詞と同時に、ハンドルを切り結婚式場へと原付を滑らせた。
 安藤は僕の台詞と行動の両方が理解できていないようで、やたら「え? え?」と声を出しているがそれを聞き流し、僕は入り口前までやってくる。そして原付から降りると、放心しているような彼女の体を引っ張り建物の中へと押し込んだ。
「あぁ、来た来た。遅いけん心配しとったよ」
「お父さん? お母さんも?」
 エントランスに置かれているソファに座っていた彼女の両親が立ち上がりこっちを見た。隣には麻奈もいて、やってきた僕達を見て微笑んでいる。
「柳君に言われて待っとったんよ。俊介君も待ってるからはよ準備せんとね」
「俊介? 準備?」
「結婚式の準備やがね」
「え? えええ!?」
 いつものんびりとした彼女からは珍しい建物中に響く声に、僕は「まあまあ」と彼女の肩を軽く叩いた。安藤は僕の方を振り向いて「どういう事なん?」と目を見開いている。
「どういう事もなにも」
「なにも?」
「ウエディングドレス着て結婚式挙げるのが夢だって、お前ガキの時に言よったろうが」


「……あー、やばい、緊張する」
「……そんな緊張してどうすんぞ」
「するわ! アホか! しかもこんないきなりで!」
「ええやないか、俊介。康弘君もお前らのためにやってくれてるんやから」
「……まぁ、そやけど」
 俊介はもう何度目か数え切れなくなった溜め息をもう一度しながら、ネクタイをする事が慣れてないらしくまた首筋の辺りをなぞった。もっとも、それは僕も同じで、安藤を連れてきてから僕も用意されていたスーツに着替えたのだが、俊介の親父さんが用意してくれたらしいスーツは偉く豪華なもののようで僕も肩の辺りに息苦しさを覚えていた。
 お袋さんがそんな僕らを「しょうがないわねぇ。俊介ネクタイ歪むで」としきりに手を伸ばしている。今会場にいるのは僕と麻奈。それに俊介と安藤、その両親の八人だけだった。
 俊介が居心地悪そうにネクタイを直してもらうともう鏡に向き直った。そわそわとした様子で髪型が気になるのかなんどもああでもないこうでもないと弄っている。
「そんな、髪型だけかっこよくしてもしゃーねーが」
「やかましいわ! 髪型だけってなんぞ! 髪型だけって!」
「言葉どおりの意味じゃ」
 待合室で僕達は今、安藤の準備が終わるのを待っていた。麻奈は彼女の準備を手伝うためにそちらへと駆り出されている。今頃なにも知らなかった安藤は化粧だの、幾つか用意したウエディングドレス選びでこちらと同じように色めき立っている事だろう。
 昨日僕が結婚式を挙げようと思いついて、すぐに行動を開始したのだが思っていた以上に進行はスムーズだった。彼らの両親が快く了承して手伝ってくれたのが大きかったのだが。スーツやらウエディングドレスは僕が俊介をここまで連れてきてから、安藤を待っている間に全て準備してくれていた。とは言えそれ以上本格的にやるには時間も人手も足りないのでこれが精一杯だが。
「あー、ちょっと二人にしてもらってええかな」
「じゃあ、外にいるからなんかあったら呼んでね」
 俊介のその言葉に、両親が出て行って、僕と二人だけになる。
 ドアがバタンと閉められるのを見送って、ややあってから、また溜め息が生まれた。
「まさか、こんな事になるとは考えてもなかったわ」
「いいじゃねえか。どうせ暇だろ?」
「それはそやけど……ってそういう問題じゃないが」
 僕は灰皿を見つけると煙草を吸おうと一本取り出した。俊介に一本差し出すと「俺吸わん」と断られる。彼の親も煙草は吸わないようだった。
「煙草なんか吸いよったら肺がんになるぞ」
「肺がんになるまであとどれだけかかるんだよ」
「二十歳まで吸ったらあかん」
「まぁ、そう固い事言うなよ」
 厳しい顔をする彼から少し離れ窓際に近付いた。出窓になっているその空間に灰皿を置きながら窓を開け僕は煙を吐き出す。空はまるで今日を祝うかのように雲一つなかった。
「あーええ天気やなぁ」
 そう言いながら太陽の光を全身で浴びるように僕は体全体を大きく広げ目を細めた。
「あのさぁ、康弘。結婚の事言うの遅くなってごめんな。本当はもっと早く言おう言おうと思ってたんやけど」
「今更なに言ってんだよ」
「すまん、ほんと」
「気にすんなよ。理由とか、誰にでもあんだろ」
 僕は振り向かない。きっと今振り向くと俊介が目を逸らしてしまいそうな気がしたから。そしてもし本当にそうなったらきっと今日と言う日が少し翳ってしまうかもしれないから。
 気付かない振りをしていよう。僕はなにもなかった顔をしてしまおう。
 嘘を吐いているのは僕だけじゃないかもしれない。
 自分の中に秘め事をしているのは僕だけじゃない。
 だけど、それはしょうがない事なんだよ。誰が悪いとかじゃない。
 例えば、それを運命と言うなら、僕達が出来るのはそれを受け入れる努力をする事くらいなんだ。そこに罪はない。だから、罰を受ける必要なんてない。罰を与えられるような理由なんてない。
 その事は、今は忘れてしまおう。
 短くなった煙草を灰皿に押し付けた。静かに何度か灰皿に押し付け火が消えたのを見やってから「そう言えばさぁ、虹山昨日行ったんだけど」と関係のない話を切り出した。
「俺も最近夜行ったけどもうすげー真っ暗やったんよなぁ」
「まぁ、そうだろうな」
 僕は近くにある椅子に腰を下ろす。そうやって振り向いた時俊介は僕のほうを見ていた。
「そろそろじゃねえかな」
 僕が、待ちくたびれて時計に目をやる。するとそれを待っていたかのようにドアが開けられ「準備出来たよ」と俊介のお袋さんが顔を覗かせた。その言葉に俊介がまた緊張するように体を固くしたが、僕はそれを少しでも緩めてやろうと背中をパン、と叩いた。


 チャペルへと移動した僕達は赤い絨毯で左右に区切られた長椅子の一つに腰掛けた。僕は俊介の両親と安藤の母親から一つ後ろの席に座っていたのだが麻奈がまだやって来ていない事に首を傾げ、おばさんに尋ねてみた。
「ごめんね、ちょっと麻奈ちゃんにやってもらいたい事があって」
「そうなん?」
 僕の前で手を合わせるおばさんに「それならしょうがないか」と納得した。なにをさせるのかは分からないが結婚式の作法など僕には分からないのでやる事があるのだろうと判断する。言い方は悪いけどこの面子ではどうしても麻奈が裏方に回ってしまうのはしょうがなかった。
「おーい、新郎大丈夫かー?」
「お、おう」
 祭壇に一人突っ立っている俊介がどもった返事を返す。どう見ても大丈夫じゃないその様子におじさんも「大丈夫か、あいつ」と心配そうにもらした。
 どうだろう、と僕も少し心配ではあったが、今更どうしようもない。「まあまあ」と声をかけたところで、祭壇からまっすぐ続く中央通路の先にあるドアが開かれ、僕達は口を閉じた。
 小さく拍手が鳴る。
 ドアの向こうには黄色いウエディングドレスを着た安藤が、彼女の父親と腕を組んで立っていた。彼女は僕達の視線が自分に向けられている事に多少照れた様子だったが、父親に促されると赤い絨毯へと一歩ずつ足を進める。
 綺麗だ、と僕は思った。
 細かな刺繍が施され、朗らかな性格を現すような黄色いウエディングドレスは、彼女のために作られたのだ、と僕は本当に思えたし、僕の横を通り過ぎていくベールの下に包まれた安藤の横顔は今まで見てきたどの表情よりも、魅力的だったし、誰が見たって分かるほど幸せを称えていた。
 僕は通り過ぎる彼女の後ろ姿を見つめる。
 あぁ、彼女が少し離れていく。きっと寂しいと僕は思っているのだろう。拍手をする手の動きが少し鈍くなったのに気がついて、僕はそれを打ち消すように先程よりも強く手を叩く。
 祭壇へと二人が近付くと、安藤は組んでいた手を離す。一度父親に向き直り何事か言葉を交わしていた。おじさんは笑っているのか泣いているのかよく分からない表情で何度か頷くと、並んでいる先頭の、僕達がいる長椅子へとやってきた。その隣ではデジタルカメラを持った安藤のおばさんがパシャパシャとシャッターを切っている。
 安藤はまだ固まっている俊介を見て少し笑った。
 腰の辺りから大きく膨らんだスカート部分を握り短い階段を安藤が上り祭壇の前に立った。「そんなに緊張したら私も緊張するやろー」と俊介の太股辺りをパンと叩かれて周囲に笑い声が上がる。
「き、緊張なんかしてないわ」
「してるしてる」
 タキシード姿の俊介は向きあった彼女に言い返す。そうしてしばらく見詰め合ったところで「えっと」と僕達のほうを見た。
「これ、これからどうしたらええの?」
「あー、本当なら誓いの言葉とかあるんやけどねぇ」
「牧師さんとかおらんもんねぇ」
 おばさん達が少し困ったように顎に手を置いた。祭壇にいる二人もどうしたものか、と困ったようにこちらを見る。僕もそこまで考えていなかったのでいきなりの事にこけそうになったが、おじさんが「じゃあ」と僕のほうを見た。
「康弘君、牧師役やってくれんやろか?」
「いい!?」
「あぁ、それええやん。康弘君頼むわぁ」
「いや、牧師役ってマジで?」
「そうよ、せっかく康弘君帰ってきてくれたんやから、お願い」
 皆にそう言われ、僕は断る事がなんだか悪いような気がしてしまい「……しゃあないなぁ」と渋々椅子から立ち上がると祭壇へと近付いた。二人よりも少し高いところに立って全体を見回す。突然の事で僕も俊介の緊張が移ってしまったようで、落ち着こうと一旦咳払いをする。
 改めて、二人の方へと視線を移す。二人はこんなところに立つ事になった僕の姿が面白いのか、にやにや笑っている。そんな風に笑われるのはあまり好きではないが、まぁ、今日の主役は二人だし大目に見ることにした。
「えっと、なんだっけな。誓いの言葉だっけ」
「康弘、そんなの分かるの?」
「親戚の結婚式の時に一回くらい聞いた気がする」
 安藤のからかいにそう答えてしばらく頭の中で整理するものの、正しい言葉なんて当然思い出せるわけもなく、結局自分流でいいかとまとめる事にした。
「えー、では誓いの言葉を」
 僕の言葉に二人が背筋を伸ばしこちらを見る。
「新郎……三浦俊介」
「はい」
「あなたは健やかなる時も、病める時も……」
 僕は少し躊躇う。だけど言わないわけにはいかない。
 こんな事なら先に言っておけばよかったと少し後悔した。
「……夕子と共に歩む事を、誓いますか?」
「はい」
「では……夕子。あなたは健やかなる時も、病める時も、俊介と共に歩む事を、誓いますか?」
「はい」
 彼女は、まっすぐ僕を見て真摯な態度でそう答えた。
「よろしい。えーっと次は指輪の交換だけど、もうしてんのか」
「あー、そうやなぁ」
「じゃあ、それいいや、次……あー、次か」
 次、なにをするべきか。いや、分かってはいるんだけどな。なんか、な。
 まぁ、しゃあねえよな。二人の結婚式を望んだのは俺だしな。こうなる事は分かってただろ。
 うん、しゃあねえよ。
「それでは、誓いのキスを」
 僕は目を閉じたくなる。
 俊介が、安藤の顔を覆っているベールに手をかけた。悪魔だとか悪霊とかそういったものから守るためと言われるそのベールの向こう側にある天使のような安藤が、皆に見られて恥ずかしそうにしているが、それでもややあって俊介の方へ顔を上げると目を閉じた。
 あー、やだなー。
 俊介の唇が、彼女へとゆっくりと近付いた。
 軽く触れ合うようなキス。二人は本当に一瞬だけのそれを交わすとチラリと僕を見て苦笑する。
 僕は二人に微笑んで拍手をする。
「照れるな、なんか」
 俊介の言葉に僕は祭壇から身を乗り出して「見てるこっちが照れるわ」と頭を小突いた。
「……じゃ、俺から一言言っとこうかな」
「一言?」
「まぁ、本当は前言うべきだったんだろうけどな」
 僕は祭壇から降りて二人と並んだ。はぁ、と一つ吐息。
「おめでとう」
「……前も言ったよ? それ」
「……そうだっけ? えーっと、じゃあ心の底から、結婚おめでとう」
「なんじゃそりゃ」
「いいんだ、あんま気にすんな」
 僕は二人にそう言って、役目は終わったとばかりに首を振った。言わなきゃいけない事は言ったような気がする。それでいいじゃないか。
「おじさんおばさんありがとね。手伝ったり付き合ってくれて」
「なに言よんよ。昔から仲良くしよったんやけん、当たり前やろ。こっちこそありがとうね」
 目尻に涙を浮かべているようでバッグからハンカチを取ろうとしているおばさんに、それよりも早くおじさんは「ほら」と手渡していた。昔から僕の両親も含めて仲良くやっていたが、そういう姿を見るのは少し新鮮だった。
「あー、終わったなぁ」
 そう言って僕は、スーツのネクタイを緩めようとする。
「あ、康弘。ちょい待て」
 その僕を止めたのは、俊介だった。
「なに?」
 手を止めた僕の肩を掴むと祭壇へと再び引き戻される。
「まだ、やる事残ってるんやが」
「はぁ? これ以上なにすんだよ」
「すぐに分かるから」
 安藤がそう言い、僕は訳が分からず疑問符を浮かべた。
 そんな僕を尻目に俊介が「じゃーええよー」と叫んでいる。
「なんなんだ?」とどうやら分かっていないのは僕だけらしい状況で不安げにしていると、閉じられていた中央通路の扉が、ゆっくりと開かれていった。
「……嘘やろ」
 開かれた扉の向こう側を見ながら、俊介を強引に連れ出した時に聞かされた彼の言葉を、今度は僕が口にした。
「嘘やない」
 その台詞をさっき言ったのは僕だ。それを今度は俊介がにやにやとした顔を浮かべて僕の肩を叩きながら言う。
 扉の向こうにいる三人が祭壇の中央にいる僕を見て、得意げな顔をして微笑んだ。
 真ん中にいるのは、白いウエディングドレスを着ている麻奈で、その両隣にいるのは、いつの間にやってきていたのか僕の親父とお袋で、その三人が腕を組んで、先ほどの安藤と同じようにこちらへと歩いてくる。
「な、な、なんじゃこりゃ!?」
「お前が夕子迎えに行っとる間にお前の親父さんらに連絡しといた」
「……なに勝手なことしとんじゃ!?」
「そらお互い様やろが!?」
 俊介と安藤の両親を見ると、僕のほうを見てしてやったりと言う顔をしていた。恐らく麻奈も僕がいない間に言いくるめてしまっていたのだろう。道理で姿を見なかったはずだ。僕は二人を驚かそうとしていたが、どうやら本当に驚かされたのは僕のほうだったらしい。
「じゃ、がんばれよ」
 固まっている僕の背中をぱんと俊介が叩いて、祭壇から長椅子へと移動して腰を下ろした。
「お、おい!」
 尚も言い募ろうとしたが思考が上手くまとまらず言葉に出来ない。
 ふとまだすぐそばにいた安藤と目が合った。
「……なぁ、お前も知ってたん?」
「うん、準備してる時に聞いた。麻奈ちゃんと一緒にドレス選んだんよ」
「やられたわ、マジで」
「なぁなぁ、柳?」
「ん?」
 彼女は僕の問いかけにしばし沈黙をする。迷いを示すかのように床まで伸びているドレスの裾が小さく擦れた音を立てた。僕は、ふと彼女がなにを言おうとしているのか、気がつく。
「私ね、小さい時からね、柳のこ――」
「なぁ」
「え?」
 僕はそれよりも先に、口を開く事にした。
 なぁ、そんな話は今はやめようぜ。
 いや、これからもやめとこう。
 あのさ、過去は積み重なるもんでさ。きっとそれはいつまでも消える事無く自分の中に無限に詰まっていくもので、ふと見返してしまった時当時の記憶の欠片ってのは、どうしても美化されたりしてしまってキラキラと輝いていて、そんな過去の自分の事を羨ましく思ったりする事もあって、たまにそのキラキラは過去のものではなくて現在でも同じように輝いていると思い込んでしまう時ってのがあるんだよ。でもさ、そんなの間違いで過去の輝きは過去のものでさ、今は、今輝いているものを見るべきなんだよ。心配すんなよ。俺、過去のお前も現在のお前も好きだからさ。お前も現在の好きなものを好きでいるのが一番だよ。だからさ、その話は思い出にしてしまおうぜ。
「俺さぁ。お前の事安藤って呼ぶのずっと前から気に入ってなかったんだよ。だからさ、夕子って呼んでいいかな?」
「……だからもう安藤じゃないって」
「分かってるけど、そうじゃなくてちゃんと夕子って呼びたかったんだよ、前から」
「意味分からん、なんなん?」
 安藤――じゃなくて、夕子は僕の言葉に一度首を振ってぽろぽろと涙を流し始めた。僕はそんな彼女をしょうがねえなぁ、と言うように宥めるように頭を撫でる。
「泣くなよ、夕子」
「……だって」
 周りが泣き出した彼女を見て動揺するが「なんでもない。ちょっと感動しちゃって」と夕子がごまかす。
「……私も」
「ん?」
「私も……康弘って呼びたかった」
「おう、呼べ呼べ。今から好きなだけ呼べよ」
「……アホ」
 ようやく笑ってくれた彼女に安心する。僕は改めて赤い絨毯へと視線を移した。
「……お前らなにやっとんじゃ」
 親父とおかんに半眼でそう告げる。
「なにやっとんじゃって、呼ばれたけんしゃあなかろうが」
「つか、普通嫁とヴァージンロード歩くん普通麻奈の親父さんのやる事やろうが。しかも、なんでおかんまで一緒に腕組んで歩きよんじゃ」
「急な事やからしゃあなかろうが。母さんも一人で隠れとるわけにもいかんやろうが」
「あぁ、もうええわ、麻奈が困っとるし」
 ああ言えばこう言う親父と付き合っても切りがなさそうだと僕は適当なところで打ち切ることにした。おかんが「麻奈ちゃん綺麗やろー、ほんとお人形さんみたいでねぇ」と見当違いな事を言っているがそれも無視する。
「夕子」
 僕は誰にも聞こえないように耳打ちする。
「なに?」
「麻奈ってどんな子って言ってたやん? 俺もうまく言えないけど、他人の事を明るくする事が出来たり、気遣うことが出来たり――まぁ、とにかくいい彼女だよ。お前もそう思うだろ」
「そーかー」
 彼女はその僕の回答に満足しただろうか。僕と麻奈を見比べ、うんうんと頷くと
「よかったね、康弘! いい彼女見つけられて。そんないい彼女見つけてくれて私も安心した」
 そう言って、彼女も俊介と同じように僕の背中をぱんと叩く。その痛みは少し懐かしい。
 そうだ。僕達はよく誰かが落ち込むとこうやっていつも背中を叩いていた。それは今でも変わらない。僕達が幼馴染みと言う事が、死んでも変わらない事と同じように。
「麻奈ちゃん」
 祭壇から降りた夕子が麻奈へと近付く。
「康弘の事よろしくね」
「は、はい」
 どうやら緊張しているのは麻奈も同じようだ。
 それを理解したらしい夕子は、まるで子供をあやすかのように優しい微笑を浮かべた。
「おめでとう、麻奈ちゃん」
 ウエディングドレスに身を包んだ二人の女の子。
「ありがとう」
 そう微笑んだ麻奈を見て夕子は満足したように俊介の元へと歩いていった。
 俊介は泣き出した夕子の事を心配しているようだったが、僕と目が合うと得意げな顔と共に右手を突き上げていた。
「おい、康弘。もうええか」
「あ? ああ。じゃ、しゃあない、やろか」
「もっとしゃきっとせぇ」
 そう叱られるが、親父もこんな場所で長々と説教なんてするもんではないと思ったのだろう。おかんと共に組んでいた腕を麻奈から離すと、長椅子の方へとさっさと下がっていった。
「ほら、こけんなよ」
「うん、ありがと」
 彼女の手を取って祭壇へと導く。
「わ、私おかしくない?」
「なに言ってんだ。めちゃくちゃ可愛いよ。世界一可愛い」
「本当?」
「本当。愛してるよ。麻奈」
「私もだよ」
 前言った時は寝てた時で、その前言った時は派手に風呂場ですっ転んでいたっけか。そんな台詞を今じゃさらりと受け取ることが出来るのはやっぱりウエディングドレスに魔力のようなものでも備わっているからなのだろうか?
 あぁ、可愛いよ。マジで。
 けど、その結婚式がどんなものかだったかとかはこれ以上いうのこっぱずかしいから言うのやめとこう。
 全く、他人の嫁のウエディングドレス姿とかそういうのに感想を言うのはまだ難しい事じゃないけど。
 自分の彼女との結婚式を冷静に説明するなんて、とてもじゃねーが出来る事じゃない。
 まぁ、一つだけ言っとくと、僕達の場合は指輪の交換は予定通り行われた。俊介が用意してくれたらしい。もっともそれは結婚式をするからと言う訳ではなくて、前にあった時にしきりに指輪を見て羨ましがっている彼女を見て用意してあげようと思ったものらしく、ペアリングではあるが結婚指輪ではなかった。けどまぁ、やっぱ、そういう事してくれる幼馴染みの存在ってありがたいよな。

     

「寂しくない?」
「寂しいよ」
 その問い掛けに即答すると、麻奈は「ずっとこっちにいたかったとか思う?」と再度質問してきた。
「思うよ」
 僕も再び即答する。
「でも、向こうにも待ってる奴がいるしな。いいんだよ。こうやってちゃんとお別れが出来たしさ」
「そう」
 麻奈が名残惜しそうにそういうのを聞いて、僕は寂しくても、そうやって思ってくれることは喜ぶべき事なんだろうと思う。
 僕達は今地元を離れ智史たちの待つ場所へと帰るために原付を走らせていた。来る時よりも増えた荷物の中にはおかんが途中で食べなさい、と腐りにくいもので作ってくれた弁当などが入っている。
 おかんは僕達がそろそろ帰るよ、と言う事を言うと、一度大きな声で泣き出したが、親父に慰められ最後には笑顔で僕達を送り出してくれた。
 きっと、両親の顔を見る事はもうないだろう。
 二人もきっとそれは分かっていたはずだ。
 それでも「行く」と言う僕の意思を受け入れてくれた事は、きっとどれだけ感謝しても足りないのだろう。
 親父は最後に「がんばれよ」と言っていた。
 さぁ、なにを頑張ればいいだろう。
 それはきっとシンプルな事だ。
 僕は背中の温もりを確かめる。


 結局、僕は、僕達は嘘を嘘のままにしておく事を選んだ。
 他の皆が、気付いていたとしても。
 なぁ、麻奈。お前、全部分かってたんだろう?
 僕が落ち込んだ理由。
 突然の結婚を知らされた事? 幼馴染みとしての距離が離れてしまった事?
 そうだ、そんなのは全部嘘で、それでもお前は僕の本音を理解して受け入れてくれただろう?
 そのおかげで、僕は正しい選択をすることが出来たような気がするんだ。
 たとえ、その中に幾つも幾つも嘘が含まれていたとしても。
 人気のないコンクリートの道路、ずっと続くその向こうに広がる夕焼けがとても鮮やかで、それを見ている内に僕は涙を流していたんだ。なぁ、麻奈気付いてる?
 小さかった頃からの僕の恋心が、失恋として終わってしまった事。
 僕は謝らなきゃいけない。
 なぁ、麻奈。僕は少し自分が嫌になったりしたんだ。麻奈って言う彼女がいるのに、こんな気持ちになってしまった事。悪いと思いながらもその胸のしこりをいつまでも消せない事。
 あの時の、お前の独り言。
 そう言っても、もしかしてやっぱりお前俺に少し怒ろうとか思わなかった? 嫉妬しなかった? そうしたって当たり前だと思うよ。でも、お前はそれ我慢する事にしてくれたんだな。
 ごめんな、麻奈。
 けど、そのおかげで僕は過去にお別れをする事が出来たんだ。
 そして現在、僕が愛してるのは君なんだ。
 それだけは、嘘じゃないから。


 悲しいのは別れる事じゃない。
 悲しいのは分かり合えないままに別れてしまう事だ。
 親父、おかん、俊介、夕子。
 僕達は、分かり合えただろう。
 だから、こうやって別れてしまう事は、悲しい事じゃない。


 ただいま。おかえり。ありがとう。おめでとう――バイバイ!

       

表紙

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Neetsha