Neetel Inside 文芸新都
表紙

そして俺はカレーを望んだ
第六話『メテオ・チルドレン』

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 思うにね、俺は類稀なる変人なんだわ。
 カレー味の食べ物以外はおいしいと思えないし、世の中に触れ合えば触れ合うほど自分の考え方がちょっとずれてるように感じちゃう。そんなわけでほんと、母さんには頭が上がらない。毎日文句も言わずカレーを作ってくれるんだから。俺の変な言い回しにも付き合ってくれるしね。そう思うと、従姉弟なんて他人にも等しい母さんがここまでするのは十分変だよな。やっぱ俺の周りには変人しかいないわ。
「ほんとにそうか? もしかしたら、俺が変人だと思っている人たちこそが普通で、俺こそが変なのかもしれないぞ」
 目の前で“俺”が変なことを言う。いや、俺が俺に語りかけてる時点で十分に変なんだけどさ、それはひとまず置いといて、俺が言った言葉を考える。まあ、そういう考え方もありだよね。でもさ、そんなの人それぞれの考え方で変わっちゃうし、決めることなんて出来ないよな。俺が変だと思ったから変人に認定したんだ、誰かに文句を言われる筋合いは無いぞ。まさか俺自身に文句を言われるとは思わなかったわ。
「俺はよく自分のことを変だと思ってるけど、変だと思い始めたのはいつ頃からだ?」
 いきなり話を変えやがって。……思い出せないな。物心ついた時には既に変だと思ってた。思うというか、カレーしか好きになれなくなった時点で変だと意識せざるを得なかったというか。じいちゃんばあちゃんに変だ変だって言われ続けてきたこともあるだろうね。実際変だったわけだし、しょうがない。。今や天国の住人になってしまった人らに言っても仕方ないことだと思うぞ。
「じいちゃんとばあちゃんの世話になり始めた時だよな、変になったのは。まだ旭川に住んでた頃だ」
 そうだな。
「俺ってさ、実はそこまでバカじゃないと思うんだよね。俺だって覚えてるだろ、あの路地裏での銀髪女を」
 覚えてるとも。あの日ほど理不尽さを感じたのは人生で初めてさ。なんで旭川に住んでたら殺されなきゃいけないんだよってな。じゃあ今頃旭川市民は全滅かっての。
「それは置いとくとして、銀髪女が言ってただろ。思い出そうぜ」
 何をだよ。というか俺のくせに主導権を握るな。自分に悔しがるとか矛盾しすぎて気持ち悪くなるぞ。少し黙ってろ。……急に静かになった。真っ暗だな。まあ、それは置いとくんだよな。
 銀髪女が言ってたことってのはあれだよな、隕石が墜落した時にいたってことは、今は違ってもじきに変わるだのなんだのと、そんな感じのことだろ。……ああ、なるほど、なんか線が繋がってきた気がする。
「だろ? 天文部で読んだじゃんか、隕石と不可解な事件を強引に繋げようとしたノートをさ。ああいう考え方をしてみようぜ」
 線だな。銀髪女の言ってたことを考えるに、どういう理屈かはわからないけど、隕石が墜落した時、その現場付近にいた人は変わると、そういうことらしい。なるほどなるほど、中々興味深い考え方だわ。でもさすがにちょっと強引すぎるんじゃねえの。なんつうか、俺の中の常識が否定したがってるぞ。
「でも、俺が変だと感じ始めたのは、その頃からなんだよな。それくらい、もう気付いただろ」
 そりゃあそうだけどなあ。ほら、その理屈だと、あの日生き残った人はみんなカレー好きになってなくちゃおかしくねえか。日本のカレー需要が半端ないことになるぜ。
「そう言われてみればそうだ。この理屈はおかしいな」
 そうだろうそうだろう。
 ……さて、下らない考えは置いといて、ここはどこなんだろうな。深く考えないようにしてたけど、まさかまた異次元とかに跳ばされたんじゃないだろうな。そもそも、なんで俺はこんなとこにいるんだ。
 辺りを見回す。どこもかしこも真っ暗だ。何も無い。ここまでくると夢かなあ、なんて思ったけど、それにしては意識がはっきりし過ぎてる。……む、意識、意識か。そういえば俺、気を失ったような気がするぞ。
 そう思ったところで、目が覚めた。


第六話『メテオ・チルドレン』


「……あ、うん。え? ああ、いてえ」
 目を覚ました。なんか長い夢のようなものを見てた気がするけど、腕の痛みですぐさま忘れてしまう。そうだよ、なんでこんなに痛いんだ。ばかじゃねえの。痛む左腕を見てみると、血が滲んでる包帯が巻かれていた。え、なんでこんなことになってんだ。なんか服も違うし。入院してる人っぽいし。なんだこれ。記憶がなくなるくらい酒を飲んだとしても、こうはならないだろ。そして腕も気になるけど、ここどこだよ。
 俺は、明らかに自分の部屋じゃない場所で寝ていた。ベッドが硬い。掛け布団も硬い。見るからに病院っぽい場所だ。白いし。脇を見れば、なにやら透明な液体が入ってる袋が垂れ下がっていた。点滴だな。されてるのは俺だ。……なんでこんなことになってんだよ。そこらのホラー映画より怖いぞ。
 痛む腕を頑張って無視しながら、事の前後を思い出そうと頭を捻る。昨日は学校に行った。何事もなく学校が終わって、帰り道にカレーアイスを食いに行ったんだよな。で、何故か店が燃え始めたんだ。そこに誰かいたよね、開道寺だ。おお、そう、開道寺だよ。ロングコート男。思い出してきたぞ。それで俺は開道寺と公園に来て、そこで黒ずくめの妹に会って、手を繋いで、喋って、突然現れた銀髪女に撃たれたんだ。……そう、撃たれた。撃たれただと!?
「撃たれたな!」
 喋ったら腕が痛んだ。やべえ俺撃たれてやんの。よく生きてたな。あの状態で気を失ったのに助かったとか奇跡だよ。というか銀髪女許すまじ、今度学校で会った時が貴様の命日だ。一度言ってみたかった。正直恐くてもう学校行けないわ。
 よし、一通り混乱したところで、落ち着こう。ここはどこだろうね。俺はぐるりと部屋を見渡して、病院にしてはおかしいところがあることに気付く。まず、窓がない。まあこれは病院によってはあるかもしれないけど、問題は天井の隅にぶら下がってるアレだ。アレ、いわゆる監視カメラ。ぐりぐり動いてる。さすがに病室にゃ監視カメラは無いよな。いや、もしかしたら重度の精神病患者を収容する場所にはあるのかもしれない。俺は重度の変人だ。運ばれてもおかしくない。無意識のうちにカレーと結婚するとか呟いちゃったかもしれない。それはまずいな、誰がどう見ても正気とは思えない。でもさすがそれはないな! 考えすぎさ!
 結論が出たところで、暇になった。娯楽っぽいものを捜すけど、ベッドと椅子、それに点滴の袋をぶら下げる棒以外に物が置かれてない。こりゃあ人の住む場所じゃないね。ほんと暇だわ。そんなわけで、暇になりすぎた俺は、監視カメラがこちらに向くタイミングを見計らって、ベッドの上で転げまわる。
「……うんこ。うんこうんこうんこうんこ。うんこおおおおおお! カレー食べたいっひいいいいい! ひゃはああああああ! はあ」
 一瞬で飽きた。さすがにマイクは無いだろうから声は聞かれてないだろう。よしよし。なにもよくないけど気は紛れた。
 どれくらい時間が経ったんだろうか。人を呼ぼうにも、病院ならナースコールとかあってもいいだろうけど、ここにはない。今さっき転げまわったせいで腕が痛むので、歩こうにも歩けない。自業自得だけどさ、人間、こういう不条理な状況に立たされたら何をするかわからないからね。責められる筋合いは無い。というわけで、本格的にすることがなくなった。
 というわけで、不貞寝しようと布団に潜りこんだ時だった。扉を開けるような音がしたので俺は上半身を起こし、入ってきた人物を確認する。どえらいべっぴんさんだった。
 俺が起きてたことが嬉しかったのかどうかはわからないけど、べっぴんさんは笑顔を浮かべて、こっちに歩いてきた。そのまま、傍に置いてあった椅子に座る。
「腕の具合はどうですか、相羽さん」
「え、ああ、まあ、痛いけど、動かないとかそんなのはないよ」
「大事がなくてよかったです」
 そう言って、べっぴんさんは目を瞑ったまま笑う。……そうだ、さっきからこの子、目を開けない。瞑ったままだ。目を開けないといえば、黒ずくめだよな。よくよく見れば、髪とか背とか声とか、そんな気がしてきた。つまり、この子は黒ずくめか。あまりにも普通の服を着てたから、気付けなかった。俺はてっきりあの特殊効果が付いてそうな黒いローブが普段着かと思ったぜ。
 この子が誰なのかわかったところで、俺はさっきから頭の中でぐるぐる回る疑問を口にする。
「それでここはどこだよ。腕の傷を介抱してくれたのは礼を言うけど、もしかして俺ってば拉致されてたりするんじゃねえの」
「……ま、まあ、世間的には、そうなります、かも」
「そこ認めちゃだめだろ!」
 叫んだら腕が痛んだ。ファッキン銀髪女。
 混乱してる俺を他所に、黒ずくめはいたって冷静な様子。騒いじゃダメですよ、なんて言いながら俺を寝かしつけてくる。なんだろうな、すげえ屈辱感。大人になってからオムツを履かされるような感じと似てる。やったことはないけどそんな感じ。
「ここは西町にある楠木コーポレーションビルの中です。兄さんがここまで運んだんですよ」
「楠木ビルだったのかー」
「はい。安心しましたか?」
「しねえよばーか! ばーか! なんで俺がそんなとこにいなきゃいけないんだよ! 普通に病院に行かない理由とか考えるだけで怖すぎるわ! 腕いてえ!」
 落ち着いてください、と、黒ずくめが俺のことをなだめる。素直に俺は落ち着いた。無駄に腹が減って腕が痛んだだけだったことに気付いて、叫んだことを後悔する。そうだよね、黒ずくめに叫んでも仕方ないよね。とりあえず俺は生きてたことに感謝するべきだよね。考えてみればここに運んだ奴らって命の恩人だもんな。
 黒ずくめを見ると、困ったような表情を浮かべていた。困ってるのはおれだっつーの、と言いたい気持ちを堪えて、見えてるかどうかはわからないけど、俺は精一杯笑顔を浮かべる。
「まあ、助けてくれてありがと」
「お礼なら兄さんに言ってあげてください。私は、何も出来ませんでしたから。守るって大見得切って言ったのに、恥ずかしいですよね」 
「いやまあ、うん。黒ずくめちゃんは頑張ったと思うよ。俺なら絶対逃げてたからね。銃は卑怯だよな。しょうがねえよな」
 正直黒ずくめの言う守ったとかいう辺りはまだ思い出せない。なので、適当に落ち込んでしまった黒ずくめを励ます。
 俺の言葉を聞いて、黒ずくめは伏せていた顔を上げた。表情を見る限り、気分の落ち込みはなおったようだ。それどころか、なんか不満そうな顔だ。なんでだよ。
「もしかして、黒ずくめちゃんって私のことですか?」
「うん」
「……開道寺紗綾です。名前を言ってなかったにしても、黒ずくめちゃんはないと思います」
 頬を膨らませて、黒ずくめはいきなり自己紹介をしてきた。なんだろうな、この一連の動作を見てたら、なんか胸がきゅんきゅんした。率直に言えば可愛かった。反則過ぎる。そこまで考えて、俺は黙ってしまってたことに気付いた。慌てて、頬を膨らませたままの、あー、紗綾ちゃんに応える。
「ごめん、黒かったから俺の中では黒ずくめちゃんだったわ。あの格好は無いと思う」
「夜出歩くときは見つかりにくいって、兄さんがくれた服なんですけど、変ですか?」
「うん」
 紗綾ちゃんは黙ってしまった。俺ってば正直者だな。でも、実際変だったわけだし、気付かせてあげた俺はむしろお礼を言われるべきだ。紗綾ちゃんはいつの間にか顔を伏せていて、なにやらぶつぶつと何かを呟いている。あら、これなんてデジャブ。つい最近、兄さんはこれだから頭まで燃えてるだの、後先考えてないだの、くれしまさんに言いつけるだの、帰ったらキムチ食わせるだのという呟きを聞いた気がするぞ。ああ、今も呟いてる。不穏だ。お兄ちゃんも大変なんだな。もし俺に妹が出来るとしたら、少なくとも兄の悪口をぶつぶつと呟かない妹がいいな。……ああ、同じことを昨日思ったわ。色々思い出した。
 このまま下らない会話を続けるのも悪くは無いけど、俺は適当に紗綾ちゃんを落ち着かせて、ことの経緯を聞きだす。
「それでさ、昨日は結局どうなったんだ? 俺が撃たれてからさ。痛くて気を失ったところまではおぼえてるけど、そこからなんで“こう”なってるのかが全然わからんぞ」
「そう、ですよね」
 俺が聞くと、紗綾ちゃんは言いづらそうに顔を背ける。なんだよ、言えないことでもしたのかよ。急に思ったけどなんか卑猥だな、言えないことって。――主人と若いメイドの二人が暮らす洋館では、今日も“言えないこと”が繰り広げられる。だめです、ご主人様。奥様に悪いです。家内は今日も帰ってこない、さあ、私の部屋に行こうじゃないか。いやあ! 卑猥だ!
 俺がとてもじゃないが言えないことを考えていると、紗綾ちゃんは顔をこっちに向けていた。俺が見ていることに気付いたのか、口を開く。
「相羽さんが気を失ったあと、兄さんがガーラックを退けてくれました。簡単なことじゃなかったです。それで、怪我をしていた相羽さんをここまで兄さんが背負って運びました。もうわかっているかと思いますけど、私達は一度、相羽さんをここに連れてきたかったんです。それが、病院に行かなかった理由です」
「まあ、さっき言ってた通り拉致られたわけだな。すごく怖くなってきたけど、納得はしたぞ。……で、だ。ここに来た理由はわかったけど、じゃあ、お前らは俺をここに連れてきて、何をやらせたいんだ?」
「べ、別に誘拐して身代金を、とか、どこかに売り飛ばすとか、そんなことをしたいわけじゃありませんよ。ただ、検査をしてもらいたくって」
 声を強めて聞くと、紗綾ちゃんは焦るように手をばたつかせながら怖いことを言う。なんだよ売り飛ばすとかおっかねえ。それがないとしても、検査ってなんだ。検査って響きが怖いぞ。
「検査ってなんだ検査って」
 気になった俺は、すぐさま聞く。
「検査と言うのは他でもありません、相羽さんが“メテオ・チルドレン”かどうかを判別するためのものですね」
「へ? メテ、なんだって?」
「メテオ・チルドレン、北海道旭川隕石によって変わった人をまとめてそう呼びます。……私としては、相羽さんも“そう”であって欲しいと思ってるんですよ? そしたら、同年代の仲間が出来るってことですし」
「はあ、さいですか」
 もじもじしながらそんなことを言う紗綾ちゃんに、俺は気の抜けた言葉を返す。
 なんだかわけのわからんことになってきたぞ。なんだ、隕石のせいで云々ってのは天文部で見たノートに書いてあったことだよな。突拍子も無いことだとは思ってたけど、あれか、それは真実だったってことか。メテオなんちゃらとかいう言葉も出来てるくらいだから、真実なんだろうな。……まあそれはいい。それはいいぞ。世の中不思議なことだらけだからな、俺の知らない不思議なことがあったとしても別におかしくはない。けど、それが俺に関係してくるとなると話は別だ。あー、混乱してきた。色々なことが頭の中でくっ付き始めてる。隕石とか能力とか変なこととか事件とか、点としてあった事が線で繋がり始めた。やべえやべえ、混乱する。
 落ち着こう。深呼吸だ。素数は数えなくてもいい。深呼吸だ。深く息を吸い込んで、吐き出す。……よし。何も解決しない。
「あの、大丈夫ですか? 具合が悪くなったのなら、今人を」
「大丈夫大丈夫。人生について考えてたら宇宙が見えただけだから」
「そ、そうですか」
 慌てる紗綾ちゃんを制しながら、考える。
 そう、もしかしたら。まだ信じることは出来ないけど、もしかしたら。俺がカレーしか美味しく感じないのも、人とは違った変な考え方を持っているのも、隕石のせいかもしれないと、そういうことだよな。……なんだそりゃあ。ダメだ、深く考えれば考えるほど自分の常識とか大切な部分が壊れていく。
 溜め息を一つ。ひとまず考えるのはやめとこう。今はどうやってここから出るか、それだけを考えようじゃないか。隕石云々は今考えてもしょうがないことだからな。俺って頭いいな。感動した。
「落ち着きましたか?」
 俺の溜め息を聞いて、紗綾ちゃんが顔を覗き込んできた。見られてるはずはないんだけど恥ずかしくなってしまい、俺は慌てて頷く。
 しっかし、さっきまでの話を考えると、紗綾ちゃんも開道寺も、隕石のせいで変わったんだよな。ってことは旭川にいたのか。結構生き残った人っているんだな、俺が言うのもなんだけど。
 疑問はあると言えばあるけど、あんまり質問しすぎるのも悪いと思い、俺はなんてことはない日常的な話題を振ることにした。
「そーいえばさー、紗綾ちゃんは何歳なの? 同年代がどうとかって言ってたけど」
「え、わ、私ですか? 兄さんが言っていた通りなら、相羽さんと同い年ですよ」
「なんで開道寺が俺の歳を知ってんだよ……おっかねえ……」
「兄さんは学生証を見せてもらったと言ってましたけど、なにかされたんですか?」
「そういえば、されたといえばされたかもしれない」
 銃を突きつけられ、学生証を出せなんて脅されただけだ。とは、言えなかった。妹の前で兄の悪口を言うのはどうかと思う。でもさ、悪口っていうか、本当のことだよね。うん、ちょっとほろ苦い思い出として胸の中にしまっておこう。
 そんなこんなで普通の会話をしていた時だった。俺がカレーについて熱く語ってると、紗綾ちゃんの背後に見える白い扉が開かれた。入ってきたのは、眼鏡をかけた白衣の男。無駄に伸びた前髪を鬱陶しそうに払いながら、こっちに歩いてくる。
「あ、足立さん」
「足立?」
「ああうん、いいよ、僕に構わず話を続けてくれても」
 そう言って、足立と呼ばれた男は傍にある椅子に腰掛ける。いや、話を続けろと言われても、あんた誰だよ。すげえ気になるんだけど。紗綾ちゃんは気にしてないようだけど、俺は男が気になって話どころじゃなかった。
 紗綾ちゃんにこの人誰なんですか的な視線を送る。気付いてくれない。そもそも目が見えてないわけで、アイコンタクトをできるはずがなかった。ごめん。……それでも俺が黙ってしまったことで気がついたんだろう、紗綾ちゃんは男と俺を交互に見て、閃いたように口を開く。
「あ、そうですね。相羽さん、この人は足立さんといって、ここで研究してる人なんですよ」
「ほー」
「そうだった、自己紹介をするべきだね。今紗綾君に紹介されたとおり、ここ、楠木コーポーレーションで隕石とチルドレンの研究をやらせてもらってる、足立広大だ。君のことは獄吏君と改君から聞いてるよ。実に興味深い」
 足立さんはそう言うと、眼鏡をくいっと持ち上げる。なんか怪しい感じにレンズが光る。これはあれだな、マッドなサイエンティストに違いない。俺が怪訝な目を向けていると、紗綾ちゃんが慌ててさっきまでの話題を続ける。
「そ、それで、そのカレードリアがどうしたんですか?」
「ああ、カレードリアは黄金の草原を彷彿とさせる素晴らしい見た目と味を兼ね備えた素晴らしいカレーだった。ありゃあ神だね。母さんにしか作れないよ」
 俺が話してると、足立さんが不意に壁を見つめて、くいっと首を動かす。なにやってんだ。釣られるように足立さんが見つめていた壁を見るけど、ただの壁にしか見えない。もしかしたら、足立さんにしか見えない妖精さんが飛び回ってるのかもしれないな。そりゃやべえ。さすがの俺も妖精さんは見たことない。この人レベル高いわ。
 紗綾ちゃんも俺と同じ方向に顔を向ける。複雑な顔だ。なんだろ、やっぱあの壁になにかあるんだろうか。
「足立さん、あの壁になにかあるんですか?」
 たまらず俺は聞いた。すると、足立さんは慌てて視線を俺に戻して、笑う。
「いやね、実はあの壁、秘密基地への入り口なんだよ。こう、左右に開いて、奥には司令部と総督が控えてるというわけさ」
「え、うそ。さすがにそれは嘘だ。俺はバカだけどそれは嘘だってわかるぞ」
「嘘じゃないよ。なんなら、見せてあげようか?」
「……いや、いいです。負けました」
 子供のように笑う足立さんに、俺は何も言えなくなってしまった。なんにせよ、あの壁の向こうには何かがあるらしい。らしいけど、言えないと。紗綾ちゃんは俺たちのそんなやり取りを見て、胸を撫で下ろすように息を吐く。まあいいか。壁の向こうに何があったって、俺には関係ないだろう。
「よし、それじゃあそろそろ行こうか。紗綾君が言った通り、君にはある検査をしてもらうために来てもらったわけだからね」
「あ、はい」
 そう言いながら立ち上がる足立さんに、俺は呆けながら返事をする。そうだった、そういえばさっきそんなことを紗綾ちゃんが言ってたな。しかしながら、今の今まで忘れてたけど、動くと腕が痛いんだよね。これを無視して歩けってのは色々ときついものがあるぞ。俺が言いたいことに気付いたんだろう、足立さんは俺の腕を見つめて、紗綾ちゃんに話しかける。
「紗綾君、一人じゃつらそうだし、相羽君を研究室までつれてきてくれないかな。車椅子を部屋の前に用意させておくからさ」
「わかりました。……相羽さん、私がついてますから、心配しなくてもいいですよ」
「それじゃ、僕は先に行ってるから。急がなくてもいいよ、大事が無いようにゆっくり来てね」
「はあ」
 話が勝手に進んでいくのを耳で聞きながら、またも呆けた返事をしてしまう。それを聞いて、足立さんは部屋から出て行った。
 検査、検査かあ。なにすんだろ。なんつーか、俺って危機感ないよね。普通なら、知らない場所につれてこられただけでも泣けるだろ。それに加えて検査とか、なに普通に受けようとしてんだ俺。そう思うんだけど、傍で微笑みながらベッドから降りるのを手伝ってくれる紗綾ちゃんを見ると、警戒心が薄れるというかなんというか。……決して鼻を伸ばしてるわけじゃないぞ。俺は紗綾ちゃんの優しさが心にしみただけなのだ。ただ、ちょっと腕に当たる胸の感触がやべえとか思っただけだ。男って悲しい。
「っと」
「大丈夫ですか? 丸三日寝てたんですもんね、肩を貸しますから、はい、ゆっくり」
「む、三日寝てた、と?」
 紗綾ちゃんに肩を貸し、床に置いてあったスリッパを履きながら、気になったので聞く。
「はい、心配したんですよ。このまま目が覚めなかったらどうしよう、って」
「いや、まあ、うん。学校とかどうしよう。というか母さんが心配してると思うんだけど、俺って帰れるの?」
「……それは、すみません。私が決めてるわけじゃないので」
「さいですか」
 紗綾ちゃんの言葉に相槌を打ちながら、扉の前へ。まあ、ここまで来たらもう祈るしかないね。願わくばまた母さんのカレーが食べれるように。
 扉は自動で開くタイプで、目の前に来ると音も無く開いた。廊下も部屋と同じく病院に似てて、出れば近くに車椅子が置かれてた。俺は紗綾ちゃんに手伝ってもらいながら、車椅子に座る。別に歩こうと思えば歩けるんだけど、まあ、今はご厚意に甘えようじゃないか。痛いのは事実だし。
 俺がちゃんと座ったのを確認すると、紗綾ちゃんが後ろに回り、車椅子を押し始める。自然と無言になってしまったので、俺はここぞとばかりに周りを観察し始める。
 人が極端に少ない。病院じゃないことは確かなんだよな。けど、普通の会社にこんな施設があるのかと聞かれれば、ちょっと考えてしまう。たまに人とすれ違うけど、格好を見れば足立さんと同じように白衣に身を包んだ人ばかり。たまにスーツを着てる人も居るけど、やっぱ色々な違和感がある。……ふと、扉が開いてる部屋を通りかかったので、中を見てみる。なにやら白衣を着た男とスーツ男が、ガラス窓を見つめていた。ガラス窓の向こう側には、さっき俺が寝ていたような白い部屋。……というか、そのまんま俺が寝ていた部屋と同じだった。違うのは、部屋の中にいるのが俺じゃないという点だけ。もっと詳しく見ようとしたところで、通り過ぎてしまった。俺が車椅子を動かしてるわけじゃないからな。
 今見た部屋を考える。もしかしなくても、ありゃあマジックミラーみたいな、そんなやつだよな。部屋の中からは見えないけど、外からは見えてる、みたいな。ということは、俺も見られてたのか。あんな男連中にうんことか言っちゃってるとこを見られてたわけか。……声も聞かれてただろうな。
『“紗綾君が言った通り”、君にはある検査をしてもらうために来てもらったわけだからね』
 足立さんの言葉を思い出す。そう、紗綾ちゃんが検査の話をしたのは、足立さんが来る前のことだ。普通なら足立さんは知らないはずだもんね。そうかそうか、色々と見られて聞かれてたわけか。……あまりいい気分はしないぞ。というか恥ずかしくて死ぬ。監視カメラはおとりかよ。なんて趣味の悪い奴らだ。
「相羽さん?」
 足立の野郎に、こう、“しかしまあ、貴様らの覗き見趣味にはうんざりだな”なんてかっこつけながら言ってやりたい。俺が部屋でやった恥ずかしいことも、こう言えば帳消しになるはずだ。俺ってすげえ頭いいな。何度も思うけど感動するね。
「あの、相羽さん?」
「へ?」
「着きましたよ」
「あ、ああ」
 紗綾ちゃんの声で、妄想から現実に引き戻される。正面を見ると、第三研究室と書かれたプレートが貼られた扉があった。目的地はここか。紗綾ちゃんは一旦俺の後ろから扉の前に来て、ノックする。遅れて、扉の向こう側から足立さんらしき人の声が聞こえてきた。紗綾ちゃんをまた俺の後ろに回り、車椅子を押す。さっきは反応しなかった自動扉が開いた。
「早速だけど、これを頭につけてくれないかな」
 部屋に入って、すぐさま俺はパソコンに向かう足立さんから変な機械を渡された。異様に重量を感じる物体で出来た、ヘルメットのようなもの。あちこちから線が伸びていて、それらが全部一つの機械に繋がってる。なんだこれは。なんかブレインウォッシュ的なことをされそうな機械なんだけど、超合金っぽい重さも気になる。これを頭にはめろってのかよ。足立さんに不安な視線を送るが、笑顔が返されるだけだった。なんか言えよ。もっと不安になるっつーの。
 渋々俺は頭に嵌めようとするが、ここで腕を怪我してることを思い出す。遅かった。すげえ痛い。思わず、持っていた機械を床に落としてしまう。……直後、部屋にけたましい音が鳴り響いた。すげえ警告されてる感じ。音的にはパトカーのサイレンみたいな。なんかしらんがやっちまったみたいだな!
「ごめんなさい機械高いんですか弁償しますごめんなさい」
 床に落ちた機械を見つめながら、慌てて謝る。心なしか赤い光が視界の端に見えるぞ。こりゃあ本格的にやっちまったか。俺は足元に落ちたヘルメットを拾いながら、謝罪の反応を待つ。が、中々言葉は返ってこない。なんてこった、怒らせたか。でも怪我してる俺に渡すほうもどうかと思うよね。裁判なら勝てる気がするぜ。
 下らない考えは置いといて、俺は顔を上げる。なんか部屋中が赤くなってた。てっきりこのヘルメット関係の機械が光ってるかと思いきや、天井に設けられたランプがくるくる回って光りながら、同時にサイレンも鳴らしていた。何が起こってるのか把握できずに二人を見れば、なにやら深刻そうな表情を浮かべてる。なんだよ、なんかあったのかよ。俺のせいじゃないよな。
「なあ、なにが起こってんだ」
「あ、ああ、相羽君は気にしなくてもいいんだよ。ちょっとした問題が発生したようだね」
 足立さんはそう言いながら、キーボードをカタカタと叩いている。なんなんだ。
「紗綾君、申し訳ないが相羽君の頭にヘッドセットをつけてくれないかな。その腕ではつらそうだ」
「わかりました」
 サイレンが鳴っててもやることは変わらないようで、紗綾ちゃんが俺の頭に変な機械をはめる。やべえ重いぞ。肩こり増幅装置かこれは。機械をはめる紗綾ちゃんを見れば、まだ険しい表情を浮かべていた。俺が見てることに気付いたのか、慌てて笑顔を浮かべる。……なにが起こってるのかはおしえてくれなさそうだな。
 はめ終わった紗綾ちゃんが俺の前から退くと、足立さんがまたキーボードをカタカタ。そのまま口を開く。
「よし、それじゃあしばらくじっとしていてくれるかな。十分ほどで終わるからね」
「わかりまんた。で、これはなんなんですか」
 コツコツと頭の機械を叩きながら聞く。
「うーん、簡単に言ってしまえば、君がメテオ・チルドレンかどうかを調べるものかな。隕石にはね、地上では見られない極小の粒子が確認されているんだよ。その量を特定するのさ」
「ほー。その粒子とやらがあんたらの言う能力を発生させる原因なんですかい?」
「鋭いね、その通りさ。もし君から能力が発現するに足り得る粒子が検出されれば、君は間違いなくメテオ・チルドレンというわけだ」
 そんな簡単にわかるもんなんだなあ。というか、もし俺が“そう”じゃなかったら、銀髪女はなんだったんだって話だ。それこそ無関係で無害な俺を殺そうとしたってことだろ。それはさすがの俺でも擁護できないぞ。なんてことを考えてると、なにやら頭の機械が細かく振動し始める。あー、なんかマッサージ椅子みたいな。意外と気持ちいいな。重くなければ一家に一台欲しくなる心地いい振動だ。
「ふむ」
 足立さんがパソコンの画面を見て、一人頷く。なんだ、何かわかったのか。パソコンの画面になにが表示されてるのか気になるけど、じっとしてろって言われたしなあ。すげえ暇になってきたぞ。
 十分ってのは意識してみれば意外と長くて、学校の医務室のような部屋を何度も見回して時のこと。俺が入ってきた扉の向こう側、わりと近いところで銃声のような音が鳴った。銃声のような、じゃあないな。銃声だ。ここ最近で何度も聞いたからわかるぞ。問題は音じゃない、なんでここで銃声が聞こえたか、ってことだ。
「おい銃声が聞こえたんだけどおい」
「ははは、気にしなくてもいいよ。それなりによくあることなんだ」
「よくあるとかすげえ怖いんだけど。どんだけ世紀末なビルだよ」
 サイレンは鳴り止まない。いかにも非常事態的な状況は何も変わってなかった。だというのに、足立さんは笑いながらキーボードを叩いている。やべえな、俺が言うのもなんだけど、狂ってやがるぜ。
「大丈夫ですよ相羽さん、私が見る限り、この部屋に危険はありませんから」
「ってことはやっぱどっかが危険なんじゃねえか!」
 後ろから聞こえた紗綾ちゃんの言葉に、俺は突っ込む。紗綾ちゃんは黙ってしまった。……ま、まあ、紗綾ちゃんは悪くないんだけどな。悪くないんだろうけど、やっぱ少しくらい説明が無いと、俺は混乱しちゃうぞ。その内うんことか叫んだりするかもしれないぞ。
 全く知らない場所で、全くわからない状況に巻き込まれているのは、中々にきつい。さすがの俺も怖くなってきて、きょろきょろと辺りを見回す。もう何度も見た部屋が広がっているだけなのだが、ふと、扉が目に入った。ここへ来た時に使った扉。この向こう側から銃声が聞こえたんだけど、それはひとまず置いといて。扉の下にある隙間から、ちょろちょろと水が部屋に入ってきている。どう見ても水だ。気になったので、誰に向けて離すわけでもなく、俺は言う。
「なあ、なんか水漏れしてね」
 そう言って、俺は地鳴りのような音が聞こえていることに気付いた。遠くのほうで雪崩が起きてるような。大勢が一斉に走ってるような。
「いけない、相羽さん、扉から離れてください! 足立さんも、何かに掴まって――!」
 俺の言葉を聞いた紗綾ちゃんが、何かに気付いたようにはっとし、そんなことを叫ぶ。俺も足立さんもわけがわからないといった表情を浮かべながらも、不審な音が気になるので、言われたとおりにする。頭に機械がついたままだけど、離れろと言われたなら離れるしかない。車椅子の車輪部分を手に、俺は扉に背を向ける。直後、俺は吹っ飛んだ。
「相羽さん!」
 水だった。扉を弾き飛ばして部屋に入ってきたのは、水。とんでもない量の水が入ったバケツをぶちまけたような、そんな水が車椅子ごと俺を吹き飛ばしのだ。というかなんだこれ、息をしようにも水だらけなんだけど。紗綾ちゃんの声が辛うじて聞こえるけど、水の中じゃなにが起こってるのか全くわからない。あ、いてえ、なんか硬いものがぶつかった。いてえ、腕もいてえ。つーか頭の機械が重すぎる。外す。同時に、車椅子から離れてしまう。
 あー、ここどこだっけ。なんで俺ビルの中だってのに水の中で漂ってんだ。咄嗟に息を止めたからいいものの、下手したら死んでたぞ。いや、過去形じゃないな。今も死にそうだぞ。頼むから誰か俺に説明してくれ。この状況をなるべく簡潔に説明してくれ。説明出来るもんならしてみやがれ。
 なるべく息が続くように、俺は動かず漂う。苦しくなってきたなあ、と、思い始めた時、水が流れ始めた。そう、流れてる。目を開けば、明らかにさっきの部屋とは違う場所で俺は漂っていた。
 やべえやべえ、そんなことよりも息が出来ん。苦しい。脱出するしかないだろ。というわけで最後の力空気を使い、俺はこの水中から逃れようと試みる。必死に痛む腕を無視しながら水を掻いて、掻いて、指の先に空気が触れた。そして、落ちる。
「うえええ、げほがはへごふへえおごおうええええ」
 なんで落ちるんだよ、というツッコミは置いといて、ひとまず空気の補給。あまり人には聞かせられない咳をしながら、すごい勢いで流れていく水を見る。まるで意思を持っているように、高低差のない廊下を流れていく水。こりゃあおかしいよな、明らかにおかしい水だ。こんなとこで流れるのもそうだけど、仕切りもないのに天井まで届いてるあたりがとてもおかしい。どうりで落ちるわけだよ。腕痛いわ。
 咳をしながら、自ら目を離して周りを見る。見る限り辺りは滅茶苦茶だった。色々な部屋から流れ出たんだろう椅子やらゴミ箱やら机やら人やらが転がってる。……人が転がってやがるぞ。スーツを着た男の人だ。俺と同じように巻き込まれたんだろうか。水の中に長く漂っていたせいか、ふらふらする。が、無視して立ち上がり、転がる男に近付く。
「おい、大丈夫かよ。おい、おーい、起きろ。おい」
 俺は膝を付いて男を仰向けにすると、適当に喋りかけながら頬をぺちぺちと叩く。どうやら息はしているようだな。よかったぜ、俺のファーストキスをどこの誰かも知らないおっさんに捧げるわけにはいかないからな。胸を撫で下ろすと、意識が回復したんだろう、おっさんが咳き込みながら体を起こした。
「げほっ、ごっ」
「おいおっさん、目が覚めた直後で悪いんだけどさ、一体なにがあったのか教えてくれねえかな」
「ごほっ……は、ふう。実験体が暴走したんだ。どこの管轄下かはわからんが、君も早く部屋へ戻ったほうがいい。鎮圧課が動いてるからね、間違って殺されでもしたら大変だぞ」
「はあ、なるほど」
 おっさんは話し終わると立ち上がり、どこかへ歩いていってしまった。残された俺は、膝を付いたままおっさんが言ってたことを考える。なるほどね、実験体が暴走したのか。なるほどな。わかるわけないじゃん! なんだそれ! なんだよ実験とかおっかねえ! 間違えて殺されるかもしれないとかもっとおっかねえ!
 混乱する頭を落ち着かせる。どうすんだよ。おっさんはかなり親切な人だったけど、管轄とか言われてもわけわかんないんだよね。自分の部屋とかないし。このビルじゃないし。帰ってもいいならすぐ帰りたいぜ。……とまあ、ここでじっとしていて帰れるかと言われれば、もちろん帰れないわけで。
 俺は立ち上がり、なんとかしてこのビルから出る方法を考えながら歩き始める。エレベーターとか階段とかあればいいんだけど、ぱっと見た感じ、無いんだよね。窓ガラスすらない。窓があったらそこから出られるかもしれないし、出られる高さじゃないにしろ、どれだけ下に降りればいいのかわかるし。なんともまあ、変なビルだ。普通のビルだったらいきなり水に流されたりしないね。
 ぺたぺたと廊下を歩く。履いていたスリッパはとうに流されてしまった。すげえ冷える。今の季節、薄着をしているだけでも耐えられないというのに、加えて水責めですよ。凍え死ぬわ。タオルくれ。
「ぶえーっくしょい! くそたれ!」
 くしゃみをしながら悪態をつく。そもそも廊下が長えんだよ。部屋の一つくらいあったっていいものを、緩やかな曲線を描くこの廊下には水害で散らばったものと天井で光るランプ以外に物がない。なんてこった。せめて人が転がってればいいものを。と、早速歩く気力が無くなりかけてた時、後ろのほうで水が跳ねたような音が聞こえた。
「――動くな」
「わかりまんた」
 背後から動くなと言われた。咄嗟に俺は肯定の言葉と共にハンズアップする。さすがだな俺。手馴れたもんだぜ。背後から銃っぽいものを突き付けられた時の対処法は極めたと言ってもいいね。事実、俺は頭に硬いものを押し付けられていた。今急に思ったけど硬いものを押し付けるってエロいな。
「ゆっくりと振り向くんだ」
「あい」
 現実逃避しながら、俺は言われるがままに振り向く。どこかで見たロングコートとニット帽を装備した赤髪が俺に銃を向けていた。
「次は全裸になればいいですか。そして別の硬いものを俺に押し付けるんですね」
「相羽光史、か。なぜこんなところにいる」
 俺の言葉を完全に無視して、開道寺は銃を下ろした。そう、開道寺だった。知ってる人に会えてちょっと嬉しい。開道寺は呆れながら、俺の全身を見ていた。
「やだ、今ちょっと乳首透けてるんだけど」
「……黙ってこの部屋に入れ。ロッカーに服が入っているはずだ」
「すげえ未来だな」
 開道寺はまたも俺の言葉を無視して、壁に手をついた。すると、俺が壁だと思っていた部分が開く。奥には普通に部屋があった。なんというかとってもフューチャー。



「ああ凍え死ぬかと思った」
「ビル内の電力が停止しているからな。非常用電源では空調設備が動かない」
 学校の制服に着替え、一息つく。開道寺の言うとおり、ロッカーには服が入っていた。まあそれだけなら何も思うことは無いんだけど、何故か同じ制服が何着も入っていたのだから、ちょっと考えてしまう。俺が通う学校の制服だけじゃない、ここら一帯にある学校全ての制服があったと思う。
 更衣室のような部屋。なんだかわからんが、よからぬにおいがするぞ。間違いなく、このビルのオーナーは制服マニアだ。変態すぎる。まあ、その変態のおかげで制服を取り戻せたんだけど。靴下を探しながらロッカーを漁り、そんな結論に至る。
「で、開道寺さんよ。一体なにが起こってるんだ」
 銃を手にして、警戒しながら廊下に顔を出している開道寺に、俺は説明を求めた。
「実験体が逃げ出したんだ。研究課の危機管理能力を疑わざるを得ないな」
「転がってたおっさんにもさっき聞いたんだけどさ、実験体ってなにさ」
「……人間だ。そう、少しだけ変わっているだけで、他は普通の人間と変わらない」
 見ていた限り、開道寺はあまり感情を顔に出さない。けど、今喋っている開道寺の顔には、明らかに何かの感情が表れていた。なんだろうな。怒っているのか、悲しいのか。よくわからないけど、あんまし良くないことだってのはわかった。
 靴下を探り当て、手に持ったまま開道寺に近寄る。
「む、水が引いていく。……近いぞ」
「へ?」
「わかると思うが、この水は一人の人間によって発生し、動かされている。水の流れが先程とは逆になった。つまり、この水が引いた先に主がいるということだ」
 わかんねえよ! と、俺が言う前に開道寺が部屋から出る。つられて俺も廊下に出てみれば、確かに水溜りが同じ方向を目指して動いていた。開道寺は無言で水溜りの後を追うように歩き始める。……待て待て。いやね、もう能力が信じられないなんて言わないけどさ、だからこそ、その。
「もしかしてその主とやらに会いに行こうとしてるんですかい?」
「ああ。今なら鎮圧課よりも先に抑えることが出来るかもしれない」
 俺の問いに、開道寺は振り返ることなく答える。
 なんてこった、ここで安全になるまで俺を護衛してくれるんじゃないのかよ。俺は慌ててまだ履いてなかった靴下を履いて、開道寺の後を追う。いやだってこんなところで一人きりとか明らかにB級モンスター映画だと死んじゃうぜ? ついていっても死んじゃうパターンもあるけどな。なんてこった。なんてこった。
 俺は頭の中の葛藤を振り払い、開道寺の隣まで走る。仕方ない、ここまで来たんだ、最後まで付き合おう。なんかかっこいいこと思っちゃってるけど、実際、俺一人じゃ帰ることも出来ないし。開道寺くらいしか頼れるやつが居ないし。消去法すぎるぜ。
 歩きながら思った。さっきから同じところを歩いてるのかと錯覚させるくらい、この曲線を描く廊下は同じ景色だ。唯一違ってるのは、所々に転がってる水害の跡。水溜りが動いてくれなかったら、歩く気力が無くなってただろうね。というかついさっき無くなってたし。
「そういえば、主とやらに会ったらどうすんだよ」
 変わらない景色と沈黙が耐え切れなくなって、俺は無言で隣を歩いている開道寺に話しかける。顔を見れば、いつも通りの無表情。その中で、口だけが動く。
「話してわかる相手ならば、ここまでの事にはなっていないだろう。荒事しかないな」
「なんという」
 ここまで来ておいてなんだけど、ちょっと後悔した。さっきの部屋で座りながら待ってたほうが、よっぽど安全だったんじゃないのかなあ、なんて。B級モンスター映画じゃ好奇心旺盛な奴も死ぬからなあ。やだなあ。
 歩く。床に目を向ければ、さっきまでの水浸しが嘘だったかのように乾いてる。俺と開道寺が追ってる水溜りだけしかない。そして、水溜りから目を離して前を見れば、曲線の廊下が途切れていた。やっと終わりかあ、なんて思いながら、ロビーのような広場のような、そんな場所を見渡す。大きなテーブル、ソファ。家具類が全部端の壁に飛ばされていて。
「うへえ」
 広場の中心に、どんな原理で“そう”なってるのかはわからないけど、水の柱が出来ていた。氷ならわかるんだけどね、どうやって飛び散らずにああやって柱になっているのか全くわからない。とにかく、水の柱としか表現できないものが広場の中心に居座っていた。なんというかゲームだと中ボス辺りが出てくる感じだわ。
 こんな光景を見て、開道寺はどんな表情をしているんだろうと気になり隣を見れば、予想通り無表情だった。やっぱ変わんねえのな。というか、変わんないってことはこの光景がそれなりに普通ってことなんだよな。そうなんだよな。帰りてえ。
「――実験体ナンバースリー、いや、小埜木夏澄。今ならまだ間に合う、これ以上能力を使うな。大人しく捕縛されるんだ」
 と、俺が現実から逃げようとしていた時、開道寺が水の柱に話しかけた。……このビルには妖精さんがたくさん住んでるらしいな。こんなのばっかじゃねえか。どこに向かって話してんだよ。現実逃避したいのは俺のほうだよ。
 俺は心の底から開道寺に哀れみを向けつつも、本当に妖精さんが居るのなら見てみたいという好奇心に負けて、水の柱を見つめてみた。何の動きも無い、ぱっと見た感じゼリーのような。何か混ざってるのか、色は不自然なくらいに水色だ。とてもじゃないが妖精さんが住める環境とは思えない。
「帰して」
 そうやって水の柱を観察してると、声が聞こえた。空耳だろう。
「私を、帰して」
 いかん、俺も中々あぶない側に来てしまったようだぞ。妖精さんらしき声が聞こえてくる。おかしい。
「私を、家に、帰して」
「無理だ」
 色々と否定したかったけど、この声は現実のものだったらしい。三度目の空耳に、開道寺が簡潔な一言を返した。気のせいじゃなければ、開道寺が応えた瞬間、水の柱が動いた気がする。柱が動くというか、水の中で何かが動くような。目を凝らす。よくよく見れば、確かに水の中で何かの影が動いていた。へへ、さすがにここまでくれば俺にだってわかるぜ。水の中に住む妖精さんは存在していたってことがね。
「今のお前を世に放てば、人々はお前を人間として認めてはくれないだろうな。……自分の姿を見てみろ」
「……やだ。いやだ。違う」
「違わない」
「違うよ! 私は、ただ、家に、帰ってた。そう、それだけ! だから、目が覚めたら“こう”なってて、だから、そう、だから違う、違うの、私じゃない、私じゃないよ!」
 妖精さんは水の中で叫ぶ。水の中で喋ってるのに、何故か声は普通に聞こえてくる。なんでだろうな。ほんとまじわかんねえよ。……わかんねえ。
「私は、私だよ、私だから、そう、早く、覚めて」
「……相羽、お前は下がっていろ。少々熱くなる」
「へ? なにすんの?」
「実験体を処分する。なに、すぐに終わる」
 処分。実験体イコール妖精さんイコール人間。……ちゃんとわかってた。けどさ、やっぱ認めたくないじゃん。水の柱を見てもさ、影しか見えないんだよ。そう、影だけ。本当に影だけなんだ。中には人間も妖精さんもいない。なのに、開道寺は相手を人間とした上で話してる。現実からはもう逃げられない。開道寺は人間を殺すと言ったんだ。
 足が震える。能力とか隕石とか、それだけでもういっぱいいっぱいだってのに、なんでそうやってまた俺を混乱させるような状況になるんだろうな。やっとビルに拉致られたって現実を認めようとしたところでこれだよ。なんなんだ。俺の目の前で人殺しとか正気かよ。泣くぞ。
「それって殺すってことだろ、なあ。それはだめだろ。ダメなことだぞ。相手はもちろん、それをやる開道寺にもダメなことしかないぞ」
「世の中、駄目なことしか選べない時もあるということだ」
 俺と開道寺、二人して互いを見ずに、水の柱を見つめながら話す。話してる間に、水の柱が揺らめき始めていた。どこからともなく波紋が生まれて、何かを表すようにそれは幾何学的な模様を描いている。
 なんとなくわかってる。目の前にいる人は、確かに人だったんだろうけど、今は違うってことが。水の中にいるってのに、さっきから一度も息継ぎをしていないとかね。そもそも人の形をしてないとかね。これが人だって言われても、すぐには認められそうにない。……でもさ、だからって殺すのはダメなんだわ。
「ダメだってわかってんなら、なんでだよ!」
 叫びながら、俺は開道寺の前に立ち塞がる。
「何のつもりだ」
「どこの誰かわからない、人間かもわからないけどさ、目の前で誰かが殺されるってのは耐えられないんだ! 殺すのを止めるか、もしくは今すぐ俺を家に帰すかしてくれよ!」
「……振り向いてもう一度アレを見てみろ。アレは人間じゃない、体のほぼ全てを水で構成された、怪物だ。お前がアレを人だと言うのは勝手だがな、殺されてからも同じことが言えるのか」
 振り向きたくなかった。確かに開道寺の言うことは正しいだろうね。開道寺の言葉は嘘じゃないと主張する現実が、俺の後ろにあるんだから。
 振り向いたら、開道寺の言葉に頷いてしまいそうで。だから、俺は振り向かずに口を開く。
「俺はなんも知らねえよ。今起こってることすら理解出来ねえわ。けど、だからこそ自分が唯一正しいと思えることは譲れないわ」
「そうか。……横に跳べ、死ぬぞ」
 さっきまでと変わらない口調で喋りながら、開道寺は横に跳んで、床に転がった。一瞬何がしたいのかわからなくて、変人を見る目で開道寺のことを見つめる。その一瞬の間に、俺は空中で回転しながら、壁に叩きつけられていた。
「ぐえー」
 水だった。壁に背中を預けるような体勢で咳き込みながら正面を見れば、まるで蛇のように鎌首を擡げる水が目の前にあった。なるほど、これを避けるための言葉だったんだな。跳べじゃなくて、避けろって言って欲しかったわ。バカな俺じゃ理解するのに時間かかるぞ。苦しくて死ぬ。
 口に手を当てながら盛大に咳き込めば、掌にはちょっとした血痕。すげえ漫画みてえだ。ちょっとかっこいい。でも死ねるわ。
「そこで見ていろ。世の中には、こんなにも不可解なことが多いのだと気付け」
「ごえーっほ、げふー」
 とりあえず開道寺の野郎に悪態をつこうと思ったけど、出たのは咳だけだった。たぶん内臓が死んだ。腕の傷も完治してないってのにこれだよ。
 俺と違って華麗に避けた開道寺は、何事も無かったように立ち上がる。そのまま水の柱に向かい合い、ポケットから手を出した。てっきり銃を持っているのだとばかり思ってたんだけど、その手には何も握られて無い。
 なんだかわからんが、開道寺の野郎は俺の目の前で、あの水の柱の中にいる何かを殺そうとしてるんだな。正直見たくない。意識よ飛んでしまえ。……血が流れてれば貧血で気を失えそうなんだけど、生憎と出てない。それどころか、痛みのせいで逆に意識がハッキリしてきた。なんてこった。
「――俺の手からボルケーノ」
 開道寺がそんなことを呟く。そういえばカレーのYAMASHITAでそんなことを言ってたような気がする。うん、確かその後で火事になったんだよな。……開道寺の手を見る。いつの間にか開道寺の手が炎に包まれていた。まあ、考えてみれば火っぽい能力だってのは認めてたよな。普通に火か。そのまんまか。カレー屋燃やしたのはてめえかよ。
「火? 火で? 火で、私を、殺すの? ねえ? 殺すの? 私を? 覚める? ねえ、覚める?」
「ああ、覚めるさ」
「嘘。嘘。また、見るわ。夢を、見る。覚めたら、また、“こう”なんだ。ねえ、覚まして。覚ましてよ」
 広場に声が響く。幼さを残す女の声だ。何度も同じことを自分に言い聞かせるように、声は何度も広場に響く。なんという病的な。間違いなくこれをずっと聞いてたら病んでしまう。と思ったけど俺はもう変だから平気だな。
 声の主を見る。柱からは水の枝が何本も生えていて、柱に近付く開道寺を警戒するように揺れている。あれが当たった時の痛さはよくわかった。間違いなく死ねるぞ。血吐くぞ。
「来ないで。やだ。熱い。痛い。やだ」
「……」
 開道寺はもう、声に応えることはなかった。ただ無言で、柱に近付く。
 俺は目の前の光景から逃げるように、顔を伏せ、考える。常識的に考えてみればさ、近付くのって自殺行為だよな。いくら手から火が出たとしても、水をぶっかけられたら消えちゃうわけだし。消えなかったとしても、こんな常識の範疇にない相手を殺せるのかどうか。いや、殺せないほうがいいんだけどさ。ただ、このままだと開道寺が殺されるってのもありえるんだよな。……選べん。どっちも死んで欲しくないんだけど。どうすりゃいいんだよ。
 俺が悩んでいると、滝のような音が聞こえた。近くに滝とかねえよ。なんだよ。顔を上げて見れば、物凄い速さで開道寺に水の触手が迫っていた。やべえ、あれは死ねる。
「お願い、覚めて」
「……」
 太さが俺の上半身くらいはある水の触手が、開道寺に直撃した。死んだなあれは。間違いなく死ぬ。圧縮された水とかやばいらしいからな。あれがどの程度かはわからんけど、俺を吹き飛ばすくらいの硬さはありましたよ。終わった。死んだな。
 俺は再度、顔を伏せる。見たくなかった。初めて会った時とか、カレー屋を燃やすとか、殺す殺さないの話をした時とか、ちょっとどころかすげえ許せねえ奴だったけど、それでもいい奴っぽい感じはした。そんな奴が目の前で死ぬのはどうなんだ。嫌だろ。とても嫌だ。泣けはしないけどつらい。じゅうじゅうと何かが焼けるような音を無視して、俺は開道寺に黙祷を捧げる。
 いや、無視しちゃダメだな。
 顔を上げた。開道寺が立ってたところに、水の触手が揺れている。見た感じ開道寺はギャグ漫画ばりにペチャンコなんだと思ってしまう。でも、と。視線を少し上げる。白い水蒸気が、天井を覆い隠すように漂っていた。発生源は、開道寺が立ってたところ。
「熱い。痛い。やめて。痛い。来ないで。痛い。痛い」
 じゅうじゅうという音が一際大きく聞こえ、直後、触手の先っぽから半分くらいまでが消えた。いや、蒸発したんだな。見れば開道寺は何事もなかったように同じ場所で手を燃やしている。柱は苦痛の声を漏らしながら、ボトボトとスライムのような水をこぼす触手を振り回す。そして、開道寺に触れる瞬間、蒸発した。開道寺はただ、燃えている手を前にかざしただけ。……見てて思う。開道寺の能力ってのは呆れるくらいに反則過ぎた。たぶん、あの声の主が水を操れるように、開道寺は火を操れるんだろう。
 痛い痛いと、何度も繰り返し聞こえてくる声。いつの日だったか、聞いたことがある言葉だね。うん。ずっと前に聞いたな。吐き気がする。
「殺すの? 痛い。痛い。殺すの? ねえ。殺すの? 私を、殺すの? 覚める? 覚めるの? なんで? どうして? 痛い?」
 もう水の触手は一本も残ってなかった。湿気た空気が充満する中で、開道寺は柱のすぐ目の前まで近付くと、口を開く。
「殺すさ。同じ第二世代として、俺が覚ましてやる」
「なに? なに? 殺す? 覚める? ねえ? ころ」
「悪夢だな」
 短い会話。開道寺は口から一言漏らすと、手を横に払う。一際大きな音が聞こえた後、目がかすむような水蒸気が広場に充満して。……視界が晴れる頃、広場には、俺と開道寺以外に残ってる人はいなかった。
 血の気が引いていくってのはこういうことなんだろうな。さっきまでの激痛を感じない。意識が薄れていってるんだなあ、と思った頃、俺は考えることをやめていた。




次回:第七話『ブラック・アウトッ!』

       

表紙

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Neetsha