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自説自論
「餃子」になります

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 実に唐突だが、敬語の使い方について考える。
 おそらく誰もが一度は耳にしたことがあるだろう「~になります」という表現。常々それに思うところがあったからだ。
 これは敬語に慣れない若者が接客業に携わった際、丁寧な言葉遣いをしなきゃいけないんだけどよく分かんねーや、とりあえず聞いたことあるこんな感じで大丈夫だろーという経緯で使われだしたものだと思われるが、その真偽のほどはどうでもよい。

 本来の日本語としては「お越しになる」や「お使いになる」のように「お+動詞+になる」のセットで一つの敬語表現である。
 故に「こちらは餃子になります」とか「お会計、300円になります」とか、「名詞+になる」は厳密には間違いとされている。通常は「~になる」と言えば「あるものが~に変化する」ことを意味するからだ。ちょっぴり意地悪な見方をするならば「これが餃子になるんだったら、今この皿に乗ってる物は何だ?」とネチっこく店員を追及することも可能であろう。
 だが本当に間違いなのだろうか。もしかしたら、本来の意味としても正しい表現なのではないだろうか。ここで少し疑いの目を持とう。

 まず考えなければいけないのは、個人間の認識の差異だ。
 互いに同じ音の言葉を使っていても、その意味するものが同じとは限らない。
 例えば私はうどんやそばの上に油揚げが乗っているものを「きつね」、天ぷらかすが乗っているものを「たぬき」だと思っている。「きつね=油揚げ」であり「たぬき=天ぷらかす」という認識である。
 しかし伝え聞くところによると大阪界隈では、油揚げ乗せうどんを「きつね」、同じく油揚げ乗せそばを「たぬき」と言うらしい。つまりは「きつね=うどん」で「たぬき=そば」なのだそうだ。だから何も知らずに大阪で、天かす乗せそばを食べたくて「たぬきそば」を頼むと、店は当然のように油揚げ乗せそばを出してくるというわけだ。
 もっと話を極端にしてみよう。
 あなたが「餃子」を食べたくて普通の中華料理屋だと思われる店に足を運んだが実は、そこは幻のフンガタタッタ大国料理を再現した珍店かもしれない。しかもフンガタタッタ料理においては、ネズミの香草詰め丸焼きのことを「ギョウザ」と呼ぶかもしれない。そんなバカなと笑うかもしれないが、その可能性が全くの0であるとは言い切れないはずである。
 つまるところ、あなたの望むものと店が提供するものが一致しているとは限らないのだ。

 さらに考慮するべきは、取引とは相互が納得して初めて成立するものだということ。一方的に理不尽かつ不平等な要求をするのは横暴であり、恐喝であり、強盗であり、詐欺である。
 普通の中華料理屋で「餃子」を注文したのに「ネズミの丸焼き」が出てきたら、もちろん、これ頼んだものと違いますよと言うだろう。そうすれば店側も、謝罪と共に改めて「餃子」を作ってくれるだろうし、そうあって然るべきだ。
 ところが先にも言った通り、あなたの考える「餃子」と店の考える「餃子」が同じとは限らない。正しく仕事をしたつもりなのにお客様からクレームを付けられたら、店員も堪ったものではないだろう。

 だから親切な店員は、認識の差異と取引の成立という重大事項をおもんぱかり、しかも決して驕ることなくあくまで腰を低くして言うのだ。
「(我々は、ひき肉とみじん切りにした野菜を混ぜた餡を、小麦粉をこねて作った薄皮で包み、加熱調理したこの料理を『餃子』と呼びます。だけど例えばお客様がこんなの『餃子』ではない、俺はネズミの香草詰め丸焼きが食べたかったんだなどと仰るのであれば、我々はそれに従いましょう。現時点ではまだお客様は、この料理を否定する権利をお持ちです。そしてもしお客様がこれを『餃子』と認めてくださるならば、この餡の薄皮包み焼きは名も無い料理から晴れて『餃子』へと変化します。つまり)こちらは『餃子』になります」と。
 同じく会計においても、餃子一枚300円という値段設定は店側が一方的に決めたものであり、本当に支払いをするのは客がそれに納得したときだ。もしあなたが会計半額のサービス券を持っていれば150円で済むし、前科者になる危険性を伴うことを承知であれば食い逃げという選択肢もある。また料理の美味しさに大感動し、これほど素晴らしいものを食べさせてくれたのに300円しか払わないなんて自分を納得させられない、是非とも1000円を払わせてくれと言うのならばそれもありだろう。
 実際に会計が済まされるまでは全てが不確定であり、そのために「(もし我々の提示額にご納得されるのであれば)お会計、300円になります」と言うわけだ。

 そう考えてみれば「~になります」は日本語として厳密な意味で正しいだけでなく、とても思いやりに満ちた素晴らしい表現だとさえ言える。
 さて思いつくままに書き連ねたが、ここで私が言いたいことは、いつもの常識をほんのちょっとだけ疑うと面白い発見があるかもしれないということだ。もちろんこれを読んでいるあなたには、こんな私の言葉をほんのちょっとだけ疑う権利があるのは言うまでもない。



 ……というわけで以上、橘圭郎のエッセイになります。

       

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