投げの美学
一見変な物が正しい方向へ――負の価値から正へと向けて収斂していくもの――新都社作品の中で名作と呼ばれる物の多くはそれである。最初は下手くそだった絵がだんだんと上手くなる、最初は奇妙だったキャラクターが王道ストーリーを展開する等、これらの物は単なる予定調和に過ぎない。
変な「もの」に壮大なストーリーを歩ませることによってそれに強引な権威や付加価値を与えようとする。それはおよそ暴力的な権威の押しつけであり、その「もの」本来の性質を評価されることは無い。不の評価を与えられるならまだしもその「もの」自体がすり替えられ消失するのである。
最初に普通のキャラクターが登場する、これも多くの作品で見られる方法論である。それは大衆からの幅広い支持を獲得するためのものである。しかし畢竟それはおよそ「凡人」とかけ離れた姿に変容する場合が多い。真の「凡人」は変容しないのであって、その作品はそういった虚実の上に成り立っている。
例えば「オタク」を主人公とする物語に本物の「オタク」達は上記のような違和感を感じる。彼らが感情移入する本来の「オタク」は物語が進む度に滅却され消失するに至る。全くもって変容してしまった主人公に彼らは違和感を抱く。それが実話という面目の作品であった場合は特にその非現実性に困惑する。
最初に述べた新都社における名作群もこれと構造的にはほとんど同質である。その作品がいくら巧妙な手段を用いて主人公の成長段階を描くとしてもその違和感は拭えない。読んでいる読者には何の変容も無いからである。
私はここで一つの提案をする。作者はその顔写真を作品の1ページに張り、そしてその作品が完結した後にその時の作者の顔写真を掲載する。作者の顔が何の変容も無ければ読者は作品内のトリックの違和感を消すことができるだろう。また、もし作者の顔がとてつもなくイケメンになっていたりした場合には読者達はその作者を崇拝せずにはいられないだろう。是非やったほうが良い。
作品内の主人公とともに成長できない作者達のためにもう一つの提案をしよう。それは「投げ」である。作品内の予定調和性を排除し、作者と読者共に現実へと帰することができる。例えこのような場所で作品を掲載したとしても、仮にその作者がプロの漫画家を目指しているとして、その予定調和の為にはほとんど無益だろう。まともな会社はこんなところにわざわざスカウトに来ないし、技術を磨くためなら一人でやればいいし、誰かと高め合うとかそういったことは友人とやる方が望ましい。そういった現実を受け止め、予定調和を排するためにも「投げ」というものは最大の効果を発揮するのである。