ようやっと玄関から脱出した桂は、洋靴の窮屈さにむず痒い感覚を覚えながらも、
うんと思い切り伸びをして、全身にへばり付いた不快感を振り払おうとしていた。
いつの間にか日は大分昇っている。朝方に比べると非常に柔らかな光線である。
ただ、その不快感を浄化させるには些か威力が足りないようであった。
何と言っても、背後には未だ彦田城の荘厳なる玄関口が控えており、
その印象はしっかりと桂に圧し掛かったままなのである。
おぞましいものであった。
就寝前に吸った三本ばかりの煙草の残滓が、
起床その時まで粘り強く残っているのを思い知らされた心持である。
確かに、彦田氏の存在は煙草三本に匹敵している。
ただ、侮るべからざるは、そのタールの暗黒の濃度。
密かな筈の口腔を、まろやかにも刺激的な臭気を伴って、
ジワリジワリと侵食し、荒らし回る嫌あな異物感、
それが彦田氏、嫌味な子捨ての彦田氏であると、桂は考える。
こうなれば、生身だろうと死体だろうと構わない、
一君の身体をとっ捕まえて来て、彦田氏の眼前に放り出して様子を見てみるかと、
桂が一歩踏み出したところ、後方からお呼びがかかる。
「あの、お待ち下さいまし。一寸お話を。」
やはり白塗りのドアの隙間から、霧か霞か判別の付かない声を出すのは、
やはり件の下女であった。口に手まで添えているのは彼女なりの努力であろう。
桂は振り向き様、これ以上無いほどぶっきら棒に「何です。」と応える。
きちんと顔もしかめているところ、抜かりは無い。
「旦那様は、その、決してそのような気で仰ったのでは御座いませんから。」
「はあ。何、心配は要りませんよ。僕はこれでも真人間を名乗るつもりです。
彼の、ええ、醜聞をあちこち吹聴する気はありません。」
「そうでは御座いませんわ。一坊ちゃんの事を、旦那様は――。」
「仕様の無い決断だったのでしょう。全く、そのような表情で語っていましたからな。」
「違います。ですから、違うんです。」
ここへ来て桂は猛然と玄関口へ歩み寄って、思い切りドアを開け放してやる。
下女は呆気に取られていたが、更に彼の憎憎しげな表情が猛烈な速度を以って、
己の鼻先へ接近してきたので、危うく卒倒しかけてよろめく。
「あなたはもう少し、はきはき喋れないのか。何と言ってるのか、分かりゃしませんよ。
僕あ、はっきりしない人間は大嫌いですからね。」
怒声に及ばずとも、中々厳しい口撃を浴びせられて、
哀れな下女は細い目を目を潤ませ、わなわな震えていたが、
うんと生唾を飲み込んで、幾分か明瞭な調子で話し始めた。
もっとも、この下女の幾分明瞭では高が知れるのも確かである。
「彦田家にも様々の事情があるんです。旦那様も大いにお悩みになりました。
芝居みたような遣り取りを経て、軽々しく勘当したんじゃ御座いませんわ。
簡単に親子の縁を切るわけがない、そう言ったのはあなた様の方でしょう。
辛いに極まっているじゃありませんか。お察しになれるでしょう。
それを知っていて、まだずけずけ言い掛かりをつけるなんて法外です。
それに、それに。あなた様があんな態度じゃ、誰だって嫌な気分になります。
あなたは非道い人です。怒鳴って、罵倒して。あなたじゃ分かりっこありませんわ。」
下女風情が。桂の感情の坩堝に再び猛炎が盛るかというところであったが、
既の事でその上に蓋をする事に成功した。
下女風情に一々言い返すのも品を欠くかと、柄にも無い判断であったが、
とにかく今は、一刻も早くこの城から離れたい一心であった。
全く、主人を反映して下女まで横柄であるのか、と。
皮肉に引き攣られた口角と、毅然とした水々しい眼差しを遮って、
深く重苦しい影が立ちはだかった。
黒点を見下ろしつつ、白城は悠々と聳える。腸を氷点下と晒して。