Neetel Inside ニートノベル
表紙

突然ですが、世界を救って下さい。
その血、誰の血、気になる血-ページ統括版

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 つまり、こういうことだ。
 僕らの世界は、不思議に満ち満ちている。
 おそらくは各国共通で存在する、朝から夜までの太陽の動き。
 自分とは異なる存在が、自分とは異なる意思を持って、自分とは異なる日々を生きている事実。
 空を飛べない人類の何百、何千倍の重量を持ちながら、人類の何百、何千倍の速度、人類の何百、何千倍の移動距離を誇る、空飛ぶ鉛塊飛行機。
 毒持ちの魚類が、毒を抜くだけで高級食材に早変わりするという事実。
 それらはすべて、不思議なのではないだろうか?
 否。
 不思議だった、のだ。
 二千ペケペケ年現在、こうして平々凡々と某高等学校某二年生を満喫している某僕には理解出来ない領域ではあるが、今から遡ること数百年ほど前までなら、それは不思議に他ならなかったのだろう。当時に僕が存在したならば、僕はそれらを、魔法だの手品だの何だのと囃し立てる民衆の塊を構成する一粒であった自信がある。
 それならば何故、今こうして、頭上高くを滑空するエアバスA340を見送っているにも関わらず、「何だあれは!?」ではなく「ああ、飛行機雲は綺麗だな」などという、興味があるのか無いのかすら不明瞭な感銘のみに落ち着いているか?
 知っているからだ。
 僕は、知っている。あれは飛行機だ。胴体についている翼で揚力を得て、動力によって推力を発生させて空を飛ぶものだ。あの中には今、何百人もの人が、里帰りか或いは観光旅行に心を躍らせている最中なのだ。或いは帰郷先で待つ母親の美味しい手料理。或いは観光先での郷土料理、伝統工芸、独特の趣。
 いるのだろう、不思議だと思う人も。
 この鉄の塊は、こんなに大きいクセに何で空を飛んでいるのかしら? こんなに重いクセに何でこんなに速いのだろう? こんなに広いクセに何で搭乗前から席を決め付けられなければいけないのだ?
 それら、僕達一般人にはブラックボックスとなっている部分に興味を持ち、ああでもないこうでもないと脳内で試行錯誤する人も、もしかしたらいるのかもしれない。
 だがしかし、知っている。
 飛行機というものが、どういう原理で、どういう回路を持ち、どういう働きをしているのかは知らないが、僕らは飛行機が「飛ぶものである」と知っている。
 飛行機というものに、慣れてしまっているのだ。
 いつの間にか飛行機は、僕の視力では及ばぬほど遥か彼方に飛び去り、幼児が戯れで描いた線路のような飛行機雲が、空に描かれている。

「どう思う?」
 パンに焼きそばを挟んだだけというやっつけ料理にも関わらず、その人気は一、二を争うほどに高位置に該当するという、原価率の低さに定評のある食物を口に放り込み、僕は昼食を共にする友人に問いかけた。
 つーかー、というわけにもいかず、約五弱のブランクが入った後、
《定義がはっきりしないものに対して『どう思う?』と問われてもね。些か戸惑いを覚える事しか出来ないな》
 死亡記事を報道するアナウンサーだってもう少し起伏に富んでいると思うような、テキスト読み上げツール独特の無呼吸発声が、僕の鼓膜を揺らした。
 注釈する必要があるだろう。決して僕は機械と話しているわけではない。人種差別の趣味は無いが、飽くまで僕は、多くもないし少なくもない程度の数の友人を持つ、極々一般的な高校二年生である。機械しかお話相手がいないほど寂しいわけではない。
 僕が話しているのは、その読み上げツールが読み上げた文章を「書いた」人間である。
「不思議とは、何だろう?」
《原因や理由がはっきりしない事柄や、思いにもかけないような事柄の事だろう? 辞書を引いてみるといいさ、おそらくはそれに類似する説明文を目の当たりに出来る筈だからね》
「そういう、言葉の意味とか形骸的なものの事を聞いてるんじゃないよ」
 詰まった排水溝のような音を立てて低脂肪粉乳吸い上げながら僕が嘯くと、テキストの書き主が、腿に乗せたパソコンのディスプレイから目を離し、ようやく僕と目を合わせた。
 彼女という人物を紹介するには、まず何を置いても最初に「コンピュータ」が来る。
 今は腿に、常日頃はその手に肌身離さずその十七型ノートパソコンを持ち歩き、何かを問う時も、何かに答える時も、そのどちらでもない時も、決してその生まれ持った口腔に頼ることはせず、コンピュータにインストールされているTTSを通して自分の意思を伝達するのだ。
 そういったスタイルがスタンダードになっているが故に誕生した「無口」というキャラと、その生まれ持った端正な顔立ちと理的な印象を与える眼鏡のそれらが相俟って、実に取っ付き難い存在となってしまった彼女──梔子高千穂(くちなしたかちほ)は、やはりカタカタと何かしらの文章をキーボードで打ち込み始める。
《君が焼きそばパンを咀嚼しながら何を考えていたかは知らないけれどもね。私は『不思議とは何だ?』と聞かれた際にする返答としてはベストのものを選んだつもりだよ》
「そうじゃなくてさぁ」
 喉元に詰まった煙を吐き出した煙突のような音を立てて牛乳パックを膨らませながら、僕は吠えた。
「もっとこう……あるだろう? 裏山のど真ん中にミステリーサークルが現れるとか、ある日突然超能力に目覚めるとか、海の底に謎の超文明大陸が眠っているとか、そういうの」
《『あるだろう?』じゃないだろう? そんなものは存在しない》
「そこを否定されると、話が続かない」
 お前の都合など知ったことかとばかりにいつも通りに鼓膜を劈く機械語に神経を逆撫でされれば、僕とて反論の一つもしたくなる。健やかなる時も病める時も、如何なる時も淡々と機械語で喋るのが梔子高千穂だ。だがしかし、どんなに虫の居所が悪い時でもそれをすんなりと許容出来るほど僕が精神的に成長しているかと言えば、それは否だ。僕の精神年齢は肉体年齢と同様に十代中盤なのである。
「初めて稲を発見した猿人はさ、きっと凄く楽しかったんだぜ。だって、草だ。植物だよ? それを煮るなり焼くなりしたらさ、吃驚仰天美味しい事に気付いたんだ。きっと大騒ぎだったに違いないぞ。羨ましい。僕もその時代に生まれて、みんなでお米の美味しさに初めて気が付いて、ウホウホ騒ぎたかった」
《私は遠慮したい次第だね。この性別のこの年で、あまり『ウホウホ』なんて言葉は口走りたくはないな》
 口走るも何も、そもそも己の口で喋る事すらせんではないか、という粗捜しも今は億劫だ。
 何が言いたいのか?
 足りないのだ、僕らには。
 何が?
 決まっている、「不思議」がだ。
 誰かが言った。「『絶対』なんて有り得ない」と。誰が言ったかは……知らん。忘れた。
 それはそれとして、だ。
 である以上。
 ある日突然プレコグニションに目覚めたり、異世界の宇宙人とのサイキックバトルが発生したり、孤高の島で殺人事件に巻き込まれたり、etcetc……。
 それらはすべて、「絶対に無い」とは言えない筈なのだ。
 ……問題は。
《言わんとする事は解るけれどね。君が判例として並べたそれら「不思議」のサンプルなんだけれども、それらは私達がどうにかこうにかして実現する範疇を越えていると思うよ。殺人事件なら努力次第で何とかなるかもしれないけれど、よもや犯人としてその脚本に参加したいわけではないんだろう?》
 そうなのだ。
 身の丈五尺七寸。
 重量二十貫。
 視力両目共に一.五。
 好きな食べ物は梅茶漬け。嫌いな食べ物は酢豚。
 以上、誰が聞いても「どっちも視力良いって凄いね」或いは「パイナップルのせいじゃないの?」程度の感想しか押戴けない自己紹介を常々行っている事から解るように、
 僕は、普通だ。
 ライト兄弟の身の丈が何尺何寸だったかなど知った事もないし、ガガーリンが酢豚を三週間連続で出されても平気な人間だったのかも右に同じ。
 だがしかし、きっとどこかが普通ではなかったのだ。どこかが普通ではなかったから、普通ではない事をしでかしたし、普通ではない事をやり遂げたのだ。
 ご覧頂きたい。
 体の大きさにそぐわず、焼きそばパン一個と脂肪を抑えた牛乳で満腹になれるという、燃費の良さに定評のある僕ではあるけれども。
 僕は、普通だ。
《不思議不思議と君は言うけれども、私にとってはそれこそが常々不思議に思っている事なのだよ。何故君は、たったそれだけの昼食で午後の苛烈な時間を乗り切れるんだろう? 私の横でそんな風にこじんまりと食事をされると、女として私の立つ瀬が無いんだけれどね》
「知らないよ。僕の親父と母さんに聞いてくれ、そういうのは製作者に聞くのが一番だ」
 梔子高の横に放られている、成長期の野球少年が鞄に入れていそうなサイズの弁当箱にバッタを見る視線を向けながら、僕は嘯いた。梔子高の事だ、どうせ帰宅路の途中にある定食屋のチャレンジ定食を完食したところで、肉付きなどそうそう良くはなるまい。そういう体質の持ち主だ、この娘は。
《見えない努力をしているのさ。早朝のランニングはいいよ。空気の味を確かめる良い機会だと私は考えているね、存外美味しいものだよ、空気って》
 見えない努力は見えない事に美徳があるのであって、それを本人直々に暴露してしまえば、その魅力はがた落ちである。ついでに言えば、おそらく梔子高は早朝ランニングなんかしていない。嘘をあたかも本当のように言うのが、この娘の常套手段である。梔子高との交流が浅い人間ならすんなり騙されてくれるのだろうが、こと僕に関してはその限りではない。

 本気で言っているわけではなかった。

 当然だ。何とならば、僕は現在高校二年生と名乗るに相応の年であり、将来の夢を問われる事があるならば、飛行機のパイロットよりも公務員に魅力を感じる年であり、未来予知能力が備われば、世界の危機の察知よりも期末テストの答案の先読みに能力を活用する年であり、腹が減っていれば、不思議な味のする魔法の飴玉よりもあっさりとした味わい深い梅風味に美味を覚える年であり、道路の白線以外の部分は毒の沼地であるというルールよりもただひたすらに近道を探す事に熱心な年であり、心にも無い事をさも本気の様に訴える事をその学校生活の中で身につける年である。
 本当を材料にして、嘘をつく年である。嘘の中ですら、嘘をつけない年である。
 だから、本気で言ったわけではない。食事時の他愛も無い会話を織り成す一つのエッセンスとしてそれを織り込んだだけの話であり、それに対して不平不満を漏らすつもりも無ければ、不平不満を漏らしたところで、それも結局は本気で言うつもりは微塵も無い自信があった。
 そして何より。
 荷が重いのだ、僕では。
 実際、そう言った不思議の数々が現れた時、僕がそこに立って勇姿を見せられる確率など、ガリバーが裁縫針に糸を通す事が出来る可能性よりも低い自信がある。
 日常を、享受しようではないか。
 それが無難であり、最善である。



************************



 などと、くどくどと言い訳を重ねたくせにと罵詈雑言を浴びせかけられるのも仕方無しなのだが、僕はその議題を、一人で、未だに、この帰宅路にて、考えているのか考えていないのかも曖昧になる程度の度合いで反芻している。
 足る事を知る心とは良く言ったもので、大分に物と金と自由に満ち満ちているこの日本という国に足を着いていても尚、僕は足る事を知らずにいた。
 足りないから、欲しいと思う。欲しいと思うから、手に入れる為の努力をする。手に入れる為の努力をするから、結果としてそれは獲得出来る、或いは獲得出来る確率は飛躍的に上昇する。
 幼稚園児だって知っている理屈だ。にも関わらず、僕は、今、ここで、足りない足りないと言っておきながら、帰宅路を歩む事しか出来ずにいる。
 だって、解らないのだ。
 獲得出来るかどうかが解らない。獲得出来るかどうかが解らないから、獲得する為の努力の仕方が解らない。獲得する為の努力の仕方が解らないから、欲しいと思えない。
 欲しいと思えないから、何が足りないのかが解らない。
 見事なメビウスの輪だと思う。「足りない」から始まったその問答は、必ず最後には「足りない」に返って来るのだ。
 ライト兄弟は偉大だと思う。ガガーリンもまた偉大だと思う。
 彼らは、知ったのだ。この延々と続くメビウスの輪に存在する微かな綻びを見つけ出し、そこからこの螺旋を脱出して、自分に足りないのは「空」なんだと、理解したのだ。
 空を見る。特に風情云々を気にする事も無く、人は何かの節目や段落を迎えた際、その行為に意味があろうが無かろうが、とりあえず空を見る。
 ライト兄弟は、初めて自作の翼で空を飛んだ時、何を思ったのだろう? 僕らの時代ではすっかり慣れてしまった「空から見下ろす地面」を見た時、何を感じたのだろうか? 世界中の誰よりも最初に、その風景を見つけた時、どんな気持ちでいたのだろう? 或いはガガーリンだってそうだ。ガガー


 落ちてきた。



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 自慢ではないし自慢にもならないが、学校から僕の家へと続くこの帰宅路は、人通りが少ない。そして今日という日もその御多分に漏れる事なく、今ここで無差別殺人鬼に出会おうものならイイ感じにヤバイ程度に、人通りが少ない。今という時間だけを見据えれば、僕しか居ないという言い方の方が正しい。
 だから、見間違う筈は無い。同じ事を何度も言うが、そこには確かに、僕しか居なかった。
 だがしかし、気が付けば、目の前に何かがあった。
 そして僕は空を見つめていたわけであり、空を見つめている以上、僕の目線は上に注がれていたわけであり、目線が上に注がれている以上、目の前に現れたソレは上にあるものであり、上にあるものである以上、重力という絶対摂理の働いているこの地球上に存在するソレは、その慣性に則って、
「~~っ!?」
「む」に濁点を付け加えたらこんな音になるのだろうという声を漏らし、僕はソレの下敷きになった。
 何が起こっているのか解らないやら何が乗っているのか解らないやらで、すっかり混乱してしまった僕は、何をするよりも先に、まず、
「……痛い」
 阿呆の子のように、感じた事をそのまま言葉にした。
 乾してあった布団、ではないだろう。遭遇した事は無いが、多分布団とかそういう柔らかいものは、下敷きになったところでそれほど痛みを伴うものではないだろうと思う。
 サッカーボールか軟球か? いや、その線も薄い。それらの物であれば確かに傷みも伴うのだろうが、下敷きになるほどの面積を伴ってはいない。
 どうあれ、作法に則りしっかりと目を瞑りながら、鼻も頬も押し付けんばかりの情熱的なキスをコンクリートと交わしている状態をいつまでも続けていては、事態はいつまでも進展しない。宛らノタクリテスのように地面を這いながら、僕は下敷きという屈辱的な現状を脱した。
 そして、見た。


 顔面蒼白、という言葉がある。
 想定外の出来事や、恐怖、不安を感じるような事態に直面した時、人は顔面から血の気を引き、蒼だか白だかの顔色になるという事を解りやすくした言葉である。
 そして、白ならともかくとして蒼は幾ら何でもないだろうと、これまでその論をせせら笑っていた僕の今の顔色は、それはそれは半分から上が蒼く、半分から下が白かったことだろう。
 最初、それはマネキンか何かかと思った。限りなく人間に近い造形をしていたものの、まさか突然人間が、電車の座席のちょっとした隙間に強引に入り込む中年女性のように空間に割り込んで来るとは考え難いし……いや、それを言ってしまえばマネキンであろうがカネキンであろうが、自然の摂理に全力で反抗してこの空間に召還されていい物質など無いのだろうが、とにもかくにも、僕はそれを生きて呼吸する人間だとは思わなかった。
 甲冑、と呼ばれるものだと思う。痛さを増していた原因はこれかと舌を打ってしまうくらいに、見るからに頑強さを主張している白金の甲冑を、肩、胴、腰回りに装着していた。
──ここまでの説明で落着したのであれば、 僕だって「あの、大丈夫ですか?」程度の声くらいは掛けたと思う。場合によっては肩を揺すったりだってしただろう。そして、それがマネキンである事をしっかりと確認して、道端に寄せておいて、帰路の続きを歩くのだ。場合によっては、通りの自販機で缶コーヒーだって買った筈だ。
 出来ない理由があった。

 血である。

 調理をしていたら指を切ってしまったとか、食事をしていたら唇を噛んでしまった等々の理由で片付けられる量ではない。
 べっとり、だ。バケツでぶちまけられたのではないかというような夥しい量の血が付着していた。そのあまりの量に、最初は血だとすら思わなかったほどである。が、しかし、その生暖かい鉄分の香りは、ソレである何よりの動かぬ証拠となっていた。
 ソレは甲冑に。
 ソレは四肢に。
 ソレは顔面に。
 生きているかもしれない証拠であり、死んでいるかもしれない証拠でもあった。血液とは、生きとし生ける者すべてに分け隔てなく備わっているものであり、そしてその生きている証明である血液が、これほどまでに散乱しているという事は……。
「き、救急車っ!」
 言いながら携帯電話を取り出し、しかし救急車の要請は百十番だったか百十九番のどっちだったか知らん、携帯電話から救急車って呼べたろうかなどという雑念が邪魔をして、中々行動を起こせない。生半に冷静さを残しているせいで、「救急車を要請する」という正しい結果は導き出せているものの、導き出した結果に辿り着くまでのシーケンスがまるで纏められない。携帯電話からの要請は場所の特定が出来ないため、近くの民家に駆け込んで呼んでもらうのがスタンダードなのだが、その方法すらも思い当たらなかった。
「Э……ё……」
 呻きだった。
 何度も同じ事を反芻してしまうようだが、ここには僕と、生死不明のマネキンもどきしか存在しない。そして僕は狼狽こそしているものの、呻き声を上げる理由なんて無い。従って呻いてなどおらず、ならば他に呻く事が可能である存在は一つしか無い。
「ёヾб……?」
 起き上がっていた。
 わずかに残っていた冷静は、そこで尽きた。
「ひぇっ!?」
 僕が机の脚でフローリングを擦ったような悲鳴を上げ、「彼女」が何事かと僕の方を見た。
 一目で解った。この人は、女性だ。
 赤液をふんだんに浴びせかけたその顔立ちは、それでも美しい曲線を描いた女性特有のものであり、険しさを纏ったその表情は、それでもあどけなさを残す女性特有のものだった。ショートにまとめた頭髪もまた赤液に塗れてこそいるものの、その光に映える栗色は、普段ならばさぞかし瑞々しいのであろう事を想像するに難しくはない。甲冑の胸板部分の造形は、女性にしか無い部分を上手に覆うように模られており、甲冑で守られていない部分もまた、インナーやズボン越しに見ても、男性的なごつごつとした肉体ではない事を彷彿とさせた。
 美人の範疇に納まるだろう。彼女が美人ではなかったら、この世の美人にカテゴライズされている女性は、その七割がたくらいが嘘になる。
 ……とまぁ、冷静でいられたならばそういう文面が出ていたのであろうが、些か冷静さに欠けている僕が幾ら思春期とはいえ、こんな時に「お、この娘めちゃ可愛いじゃないの」などという自然な反応を期待するのはお門違いである。
「ЭヾЯΞ~~……? ~υηⅷ?」
──逃げれ。
 そう僕に囁き掛けてきたのは、僕の中に住む二人の僕の内の一人である。人はそれに良心と邪心という名前をつけているのだが、この逃亡を推薦した方がどちらなのかは、ちょいとよく解らない。どちらにせよ、同じ事を言うであろうからだ。
「τεζ?」
「あ、あの、あの……」
「……δηξη」
 何が起こっているのか解らないやら、何を言っているのか解らないやらで、退行の一つでもしてやろうかと、半ば開き直りにような発想まで浮かんでくる。
 先ほどから彼女の口から出て来る音は、そのどれもが理解出来ないものだった。ハングル語の響きと逆再生ビデオの音声を足して二で割ったような感じだと言うのが、一番近しい表現なのかもしれない。当然、何を言っているのかが解らない以上、彼女が僕に何を聞いているのかも解らないし、そもそも何かを聞いているのかどうかすらも理解出来ない。
 不意に、彼女が、背中を上背から掻く要領で背中に手をやり、その掌で何かを掴むと、バイオリンを奏でるように上に持ち上げていく。

 血塗れの剣が現れた。

──逃げれ。
──逃げれ。
 衆議一決。異口同音。
 ここに来てようやく、脳内の僕と現実の僕の意見が合致し、すぐさま逃亡の決定が成される。が、時既に遅しであって、僕の腰はとっくの昔に脱力の限りを尽くしており、僕は逃げる事も抗う事も出来ない状況に陥っていた。
 やっぱり出た、という感じである。
 実を言えば、全くの予想外というわけでもなかった。白銀の甲冑、血塗れの体と来れば、むしろソレが無い方が不自然だと思えるほどに、僕はその返り血に染まった剣の存在に説得力を感じている。
 何かを斬ったのだろう。何かを斬ったからそれは血に塗れているのであり、血に塗れているのだから、それは本物なのだろう。
 十余年という短い生涯での尺取りになるが、実際に見た刃物の中で、最も巨大で危険な刃物は何かと問われれば、それは鉈であるとこれまでの僕は答えていた。斧や剣なんてものは、漫画や図鑑などで見た事はあるものの、所詮それは映像であり、直に目の当たりにした刃物と比べてみれば、どうしてもこれらの存在が鉈を上回る事は出来ずにいたのである。
 鉈など、比較対象にすらならない。
 今、目の前で、美しいとさえ思ってしまうほど残忍に輝輝とする白刃は、あまりにも刃物らしすぎて逆に刃物に見えないほどのスケールを持って、僕の目の前で仁王の如く存在を主張している。
 彼女が剣を横一文字に構えた。血糊と血糊の隙間に僕の顔が映っている。
 何かを、言った。
 人の口腔内で作り出される音かと問われれば、首を傾げてしまうような音だった。


 眼球に罅が入ってしまったと、最初にそう思った。
 小枝を踏んだ時のような音を立てて、まず最初に剣に小さな罅が出来た。その罅が、今度は剣全体に広まったと思えば、遂に彼女の腕にまでその鋭角線が走る。
 罅は、まるで植物の根のように地走りを続け、彼女の端麗な顔を、胴を、足を、縦横無尽に駆け巡り、遂に彼女の体は罅だらけになってしまった。
 四肢から。頭から。
 罅が、蜘蛛の巣のように周りの風景にまで広がっていく。壁に、家に、空に、余すところなく、心地良い音を止める事なく、広がっていく。目を擦ろうと瞼を下ろせば、瞼にまで罅が入っているのが解った。
 空から、空の欠片が降って来る。
 音も無く砕け散った破片が地面に散らばり、蒸発するように光の粒になって消えていく。空を見上げれば、ドーム状になった罅の鋭角線が、頂点から綺麗に広がるように割れていくのが見えた。空が割れた先に、全く同じ空が広がっていた。
 やがて、家が割れ、壁が割れ、彼女が割れ、僕が割れ、剣が割れ。
 すべてが砕け散った後、すべてが何事も無かったかのようにその場に鎮座していた。



************************



 寝惚け眼に冷や水をぶちまけられたような気分だった。
 辺りを見回してみる。先ほどまでステンドグラスのように広がっていた罅の蜘蛛糸は、どこにも見当たらない。足元に目をやっても、空の欠片も僕の欠片も落ちてはいなかった。
 白昼夢から覚める時、こんな気分になるのかもしれない。先ほどまでは、絡まった糸のように滅裂になってしまっていた僕の心中は、今は波立たぬ水面のように透き通り、静寂に包まれている。
 彼女を見た。彼女は、先ほどとは逆の順序で背中の束に剣を収め、真っ直ぐ僕に視線を向ける。
──どうだ?
 そう言っていた。言葉ではなく、目でそう僕に尋ねていた。
「……大丈夫、大分落ち着いたみたいだ。有難う」
 僕らが日常で使用している、僕らの言葉で、僕は彼女に礼を言った。
 どちらが夢なのかが、曖昧になっている。
 どちらかが、夢なのだろう。夢の世界が粉々に砕け散って現実に戻ってきたのか、それとも現実の世界を粉々に砕いて夢の世界に入り込んでしまったのか。
 砕け散り、粉になって消えていった世界と、今僕が踏みしめている世界は、数寸の違いも無い。この日、この時、この場所特有の、蜜柑色の夕日がアスファルトを照らしつけているこの風景は、何も変わった様子は無いように見える。
 僕だけが違っていた。
 気味が悪い気もしないではない。血塗れの甲冑を纏った、血塗れの女性と相対して尚、こんな風に静かに冷えた精神を保っていられる事は不自然だ。言うなれば、アスファルトにへたり込んで脳内会議に勤しんでいたさっきまでの僕の方が、体裁はさておき、よほど現実的だと思う。
【感じるだろうか?】
 そう問われるならば、「応」と返答せざるを得ない。
 それは、声として届いたわけではなかった。聴覚に訴えるような音の類ではなく、脳の内側から、水面に雫を一粒落とした時の波紋のように広がる、信号のようなものだと思う。「感じるだろうか」という音があったのではなく、その信号がそのような意味を持っていた、としか表現出来ない。
【……詠唱を違えたか?】
「聞こえているよ」
 額に、一番長い指と二番目に長い指の先を当てながら、僕は彼女に返答した。
 言葉そのものが伝わったかどうかは解らないが、僕の言わんとしようとした事は、きっと伝わっただろう。安堵した彼女を見て、そう思った。
 この信号は、彼女が発しているものだ。そう理解出来た。それはもう理屈ではなく、言うなれば既に、理屈や根拠や摂理など超越しているような現象が連鎖に連鎖を重ねている。

 あ、そうか。夢か。

 血塗れの甲冑を纏った血塗れの女性も。
 同じく、返り血に塗れた物々しい剣も。
 割れる世界も。
 脳内に響く信号も。
 夢だと、割り切ろうと思った。夢だと割り切れば、存外冷静でいられるものだ。下校途中に突然夢など見るものかと……考えはしまい。ここで重要なのは、夢か現実の真偽ではなく、夢であるという結論だ。
【驚かせてしまってすまない。決して君に危害を加える気は無い、安心して欲しい】
 信じていいものかどうか、判断を迷った。彼女のような出で立ちをした人間に「危害は加えないよ」と言われて、はいそうですかと言えるほど、僕はお人良しでもなければ脳足りんさんでもないつもりである。
「これは何? 君の声が頭の内側から聞こえて来る。君が頭の中にいるみたいだ」
【君と私は、それぞれ別のコミニカを使用しているようだ。それでその……勝手だとは思ったが、君にカスカをかけさせてもらった。だから私はコミニカを用いる事なく君に意思を伝える事が出来るし、元より私はすべてのコミニカを理解出来る】
「……かすか? こみにか?」
 聞き慣れない言葉だった。聞き慣れない言葉なのだから、僕は首を傾げるより他が無い。
【カスカはカスカで、コミニカはコミニカだ。知らない筈は無いだろう?】
 妙な奴だなと言わんばかりに僕を見てしかめっ面を作るが、そこばく待たれよ、しかめっ面をしたいのはこちらの方である。
 寝て、起きて、寝て、食べて、帰って、食べて、寝る生活を繰り返している僕のライフスタイルの中で、かすか、とか、こみにか、と言った言葉が頻繁に出て来た前例は無い。自他共にかどうかは判り兼ねるが、少なくとも自負という一点に於いては平凡の一途を辿っているであろうと予想出来る僕がその言葉を知らない以上、その言葉は一般常識ではない筈だ。百歩譲って、日常生活で比較的頻繁に使われる部類の言葉だったとしても、それを知らないからといって苦い顔をされるのは心外である。
「知らないよ。クレジットカードの仲間か何かかい?」
【本気で解らないのか? いや、そんな筈は……呼称が違うのか?】
 迷惑な事に、彼女は僕の頭の中で考え事をし始めた。それは正に言葉通り「他人事」であり、自分の頭の中で他人事が沸々と波紋を打ちながら広がっていくのは、大いに気持ちが悪いものである。
【ポポロカならば或いは……っ! ポポロカ!】
 推奨値を大幅に上回った電力を注入されたおもちゃのように、不意に彼女は目を見開いて辺りを見回し、何かを詮索し始めた。
「νφζθ、Σρ? θθφξ、ζδν!」
 自分がここにいるのに、それがここに無い筈は無い。その狼狽した仕草からは、そんな意思が見て取れる。
 ポポロカ、と呼ばれるものを探しているのだろう。それが生きた人間なのか、或いはペットに値するものなのか、はたまた生き物ですらない無機物なのかは解らない。当然、僕の辞書で「ぽ」を索引してみても、ポポロカなる単語の説明文などある筈も無い。
【小さな男の子だ! 君は知らないか?】
「少なくとも、僕がここに来てから見た人は君だけだよ。他には誰もいなかったし、君がポポロカと呼んでいるその男の子? も、僕は見かけなかった」
【……そう、か】
 そう言ったきり、彼女は人差し指の第二関節を齧りながら思案に暮れてしまった。
 不意に。
 視界のコントラストが薄くなり、明度が徐々に高くなっていくのに気が付いた。眩暈や貧血に近い感覚である。
「っ……? 何だ? 何これ?」
【カスカが解けるのだ。早過ぎる……リオラの濃度が薄いのか?】
 さほど置かずして、二本足立ちではバランスが取れなくなり、堪らず膝を地面につけてしまった。すかさず彼女が僕に駆け寄り、背中を撫でながら耳元で呟きかけて来る。女性特有の芳しい香りがしたが、それよりも強く、血の香りが僕の鼻腔を刺激する。
【これだけ教えて欲しい。ここはどこで、君は誰だ?】
 わんわんと彼女の意思が頭の中でピンボールのように反射を繰り返し、遂には頭痛までしてきた頭で必死に考える。
 道行く人に「ここはどこですか?」と聞かれたならば、何の疑いも無く「ここは三丁目の住宅街ですよ」と答えられる。
 何故なら、前提条件があるからだ。この街に足を踏み入れるべくして踏み入れ、その末に道に迷ってしまったのだという前提条件があるから、そのように答える事が出来る。
 彼女は、違う気がした。
 カスカ。
 コミニカ。
 ポポロカという名の男の子。
 何一つとして、理解出来るものが無かった。生まれも育ちもこの町である僕が解らないという事は、かなりの高確率で、それはこの町には存在しない、或いは普及していない文化、知恵なのかもしれない。首都からやや離れた場所にその身を置くこの町は、物の不足に悩まされがちで、なおかつ静かで緑の溢るる場なのかと言われれば首を傾げてしまう程度に、中途半端に田舎である。
 おそらく、この町がこの町である事すら、彼女は知らないのかもしれない。
「ここは天照町。僕の名前は都。延岡都」
 頭痛という悪条件の中、足りない脳みそをフル回転させ、その結果、それだけを搾り出すように彼女に告げた。
【アマテラチョウ……初めて聞く名だ。やはり、飛ばされたか……】
 僕の背中を撫でる手の優しさとは裏腹に、口調……もとい、思調の端に漏れ出るほどの口惜しさが、その意思にはあった。
【迷惑をかけてしまったな、すまなかった】
 そう僕に囁きかける彼女を見上げた。顔面に、罅が入っていた。罅は、首を伝って四肢に広まり、背中を撫でる指先から僕にまで伝わり、やがて僕の体から、彼女の体から、それぞれ空間にまで走り、空を覆いつくす。
【私の名はハユマ。もう二度と会う事も無いだろう。道中気をつけてな、ノベオカミヤコ】
 空から空の欠片が降り落ちて、地面に消えてゆく。そうして空の欠片を吸い取った地面もまた、徐々に崩壊を始める。
 そうしてすべてが崩れ去り、同様に砕け散ろうとしているハユマの背中を見つめながら、僕は一つの事に気が付いた。
 そうだ。
 甲冑の外面についているのだから、それは彼女の血ではないのではないか?



************************



 そうして。
 外側から姿を現した住宅街は、先ほどまでの赴きとは随分異なっていた。
 日はすっかり沈み、夜闇が黄色い口で大いに僕を笑っている。街灯がすべて灯り、その街灯の下には、明日には焼却処分される自分の運命にやさぐれたゴミ袋達が屯していた。
 そして、変わっているのは赴きだけに留まらず、そこに居た人物模様も大いに改変されていた。
 僕は、尻餅をついていた。心臓は取立て屋のノックのように強く早く鼓動し、足腰は怠惰の限りを尽くしている。宛らフルマラソンを完走した後のようだ。斯くてあればしばらくは使い物になりそうにもない。
 そしてハユマに関しては、存在そのものが消え失せていた。
 血塗れの状態で僕を下敷きにし、妙な暗示(カスカ、と言ったろうか)をかけるだけかけて、その副作用として頭痛と眩暈にさい悩まされる僕の背中をしきりに撫でていた彼女の存在は、まるで始めからそこにいなかったかのように、綺麗さっぱり無くなっていたのだ。
 夢でも、見ていたのだろうか?
 今度ばかりは、そうは思わなかった。生まれてこの方、白昼夢に陥るなどという経験が無いのも勿論であるし、あの痛みが、あの鉄分臭さが、ほんのり残る頭痛が、背中に名残がある優しい手つきが、夢であったとは信じ難い。夢よりも夢らしい出来事ではあったが、きっとあれは夢ではない。
 頬がかさついた。指先で擦ると、ぽろぽろと何かが剥がれ落ちた。
「う、わっ!」
 剥がれ落ちた塗料の欠片に似ており、しかしやや粘度を残すそれは、紛れも無く乾燥した血液だった。おそらく甲冑に付着していたものが、衝突の際僕の頬に擦り付けられたのだろう。夢ではなかった、何よりの証拠である。
 先ほどのように冷静にはなれなかった。あの時冷静でいられたのは、おそらくそれこそが、彼女がカスカと読んだものの効能の一つであり、そしてこんな風に心身共に平静でいられないのは、そのカスカとやらの効能が切れたからなのだろう。
 冷静でいられた状態で最後に気付いた事を思い出す。
 甲冑の外面についているのだから、それが彼女の血である可能性は低い。
 じゃあ。
……誰の血なんだよ、あれは?
「~~っ!」
 一頻り考え事をするには十分な時間を持ってしても尚、更なる休息を求める足腰を手で物理的に鞭打って、僕は一目散にその場を離れた。
──もう二度と会う事も無いだろう。
 その彼女の言葉を、希望的観測の範疇を出る事はないものの、一重に信じたかった。



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 ことほどさように。
 我ながら「ヘタレ」を地で行っている僕ではあるものの。
 この世の物語と呼べるすべてのものに於いて例外無く少数で編成される「主役」に、誰が血迷ったか、僕は今回の物語で抜擢された。
 ちなみに聞き様によってはネタバレ的要素を含んでしまうのかもしれないのだが、例の「もう二度と会う事は無いだろう」というハユマの言葉は、実際に現実のものとなり、僕とハユマが接触したのは、後にも先にもこれ一度きりだ。
 しかし、ハユマもまた、「主役」の一人である。
 つまり、誰が何と言おうとも。
 例え僕に全く見せ場が無く、やった事と言えば、下敷きにされ、腰を抜かし、妙な暗示をかけられ、気が付けばすべてが終わっていたという、村人Aでももう少し報われる場がありそうな憂き目にあったこの場面は。

「起」以外の何物でもない。

       

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Neetsha