Neetel Inside ニートノベル
表紙

突然ですが、世界を救って下さい。
どういうことなの…-ページ統括版

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 だからどうしたと言われればそれまでなのだが、ここは天照町である。
 観光協会に気を利かせたような名所も無ければ、老後はこういう場所に住みたいなどと思わせるような雅も特に無し。最寄り駅に関しても、特急や急行には気持ち良いくらいにスルーされるという体たらくだ。自慢といえば、決して混雑せず、ゆとりある運転が出来る車線くらいしか思いつかない。しかも僕は運転免許を持っていないため、その魅力を十二分に語る事が出来ない。
 そんな、クオリティレベルを言えば中の下くらいの町に住む僕は、これまた両方とも視力が良いという申し訳程度の特徴しか持っていない普通の延岡都(のべおかみやこ)である。特に、後ろ暗い過去があるとか、超絶に腕っぷしが強いとか、そういった所謂一つの設定的なものは皆無だ。梔子高や比較的仲の良い友人知人からは、
《おはよう、ミヤコ。今日も良い朝だね》
 このように呼ばれているので、皆様方もそれに倣って頂いて一向に構わない。
 
 
 脱兎よりも脱兎らしい腰抜け振りを披露した日から夜を跨いだ今日。
 小学校低学年の頃からの幼馴染の女の子が毎朝迎えに来るという、特定のユーザーからは血の涙を流して羨まれるであろう今の状況を持ってして尚、僕の顔色は優れなかった。
《良い朝だ、と私は言ったけれども》
 両手が自由になる画板のようなステンレス製の板を首にぶら下げながら、梔子高が小気味良いブラインドタッチ音をステンレス板上のパソコンから響かせて、僕に問い掛けてきた。
《今の君の心情を察するに、その限りではないようだ。……何か、あったのかい?》
「……梔子高」
《うん?》
「もしも僕が、『昨日、殺人犯に会ったよ』って言ったら、梔子高は信じるだろうか?」
《信じるよ》
 朝一番に目の当たりにしたい顔としてはかなりの上位に食い込むであろう朗らかな笑みを浮かべ、しかしそれとは相反して無機質な機械音声で、梔子高が答えた。
 自慢ではないが……いや、本心はどうかと言われれば実は自慢に他ならないのだが、梔子高のこういった表情を目の当たりに出来るのは、梔子高の御家族の方々を除けば、僕と、あと片手の指に収まる程度の少数の友人だけである。
《君が過去に、私を騙せた試しは無いだろう? 嘘を本当のように言うことも、本当を嘘のように言うことも、君は下手だからね。それに、君は意味の無い嘘をついたりはしない》
「……」
《会ったんだね?》
 それは「本当に?」という響きではなく、「それで、どうしたの?」という響きだった。
「明確には、殺人犯っていう言い方は正しくないのかもしれない。何て言ったら良いのか……血塗れの甲冑を着ててさ」
《甲冑?》
「血塗れ」よりも「甲冑」に、梔子高は反応した。確かに、どちらもどちらではあるが、日常会話に於いて使用回数が少ないのは、多分そちらの方ではある。
《甲冑と言うと、あの甲冑かい?》
「あの甲冑。本当に、バケツでぶちまけたんじゃないかってくらいでさ。背中に剣まで背負ってたんだけど、こっちもまたべっとりと……」
《出て来る場所を間違えた幽霊、といった感じだね》
 目をイコールの形にしながら顎を人差し指で掻き、余った片手でブラインドタッチをするという、大道芸人も舌を巻く奇芸を伴って梔子高が言った。富豪が自宅玄関に置いているような重装備の甲冑と勘違いしているのかもしれない。
《歩きながら話そうか。朝の通学路を歩く気だるさを紛らわす良い材料になるだろうし、今から学校までの通学時間を考えると、そこに雑談の時間を設けるには些かゆとりが足りなそうだ》
 言われるまでもなく、僕はつま先で地面をノックして足にしっかりと革靴を装着させ、そして歩き始めた。梔子高も、慣れた動作で僕の横に着く。低血圧で寝起きが悪く、来る日も来る日も遅刻ぎりぎりまで待たせてしまっている手前、これが本当の遅刻になってしまったら申し訳の欠片も無い。
 甲冑の誤解から解こうと思いながら歩く通学路の風景は、昨日見たものとは何も変わらなかった。


《白昼夢の類じゃないのかい?》
「ない。ほらここ、下敷きにされた時に擦り剥いた場所」
 一頻り、昨日の自分の体たらくを語って聞かせた僕は、ブレザーとシャツの袖を捲くって、前腕部分の擦過傷跡を梔子高に披露した。梔子高がそれを見て、指で下唇を撫でる。
《うぅん……昨日の昼食中に話した話題が話題だったから、よもやと思ったんだけどな》
「白昼夢なら白昼夢で、もう少し浪漫がある夢を見せてもらいたかったよ。カスカだのコミニカだのって、言っていることが何一つとして理解出来ないままだったもんな」
《かすか?》
「風景がガラスみたいに砕けた、って部分があっただろう? 理屈はさっぱり解らないけれど、それがカスカってのらしいんだ」
 無音の時間が、容量が三分の一程度になっている飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干せるくらいの間続いた。
「信じるって言ったこと、後悔してるだろ」
《どうして?》
 梔子高が小首を傾げた。《どうして?》と聞く方が「どうして?」である。
 梔子高はここまでの一連の会話の中で、一度も僕のことを疑わなかった。「錯覚」や「白昼夢」といった可能性の提示こそしたものの、決して僕の言葉そのものを疑ったりはしていない。
「どうして、そんな風に手放しに信じるのさ? 自分で言うのもなんだけど、仮に梔子高が僕に、今僕が言ったような話をそっくりそのまま話したとしたら、僕はとりあえず梔子高の手を取って精神病院の看板を探すと思うよ」
 仮にそれが白昼夢や幻覚の類だったにしても、それならそれで精神病院の扉を叩く必要がある気がする。
《うーん。それはしていらないな》
 梔子高が、そのまま有料化してもそれなりに利益を得られそうな朗らかな微笑みを漏らした。そうして横一文字になった瞼がゆっくり開いて、その下から、綺麗な琥珀色の瞳が僕を覗く。
《何度も言うようだけれど、君の嘘は私には通用しないよ、ミヤコ。何年この距離を保っていると思っているのかな? 私は、君という生命体の生態に関するイロハに関しては、他の意見を一切尊重しない覚悟がある程度には詳しいつもりさ。そして嘘を言っているのが解るということはそれ即ち、本当のことを言っているのも解るってことだよ》
 以上の長文を片手でタイプしながら、残った片手を手櫛にして、僕の襟足についた寝癖を整えた。
 実際、そうだった。
 僕が、ノンフィクションを語ろうが、登場する団体名・地名・人物などがいっさい現実と関係しない物語を語ろうが、梔子高は常にこんな風に、斜に首を傾げ、微笑みながら耳を傾ける。
 しかし僕とて、伊達や酔狂で梔子高とこの距離を保っているわけではない。一見同じような微笑であっても、僕クラスの人間が見れば誤差は判別出来る。その数ミリレベルでの判定で差異が出てくる表情筋や唇の形で、それがどんな意味を持った微笑なのかを判断する観察眼には定評があるつもりだ。
 今の梔子高は、僕の与太話を信じて疑っていない。唇の右端と左端が綺麗に左右対称になっている時は、その話に疑いの念を向けていない時である。
「良い経験だったよ、楽しませてもらった」
 一ミリ、眉間が吊り上った。楽しんでなどおらず、ただ腰を抜かしていただけだからだ。
《カスカ、と君は言ったね?》
 プロファイリングもどきに勤しんでいた僕に、梔子高は不意に問いかけて来た。
《種明かしをしようか。実は私も、そのカスカと呼ばれるものに心当たりがあるんだよ》
「……」
《そんなに不安げな顔をしないでも大丈夫さ。私とて、その単語に対する心当たりが生まれたのはつい先日。つまり、君がその摩訶不思議現象に遭遇した日と同じなんだ。つまり、このカスカという単語が世間様の流行になっているわけでもなければ、ましてや君が無知なわけでもない》
 成る程。
 そう思った。何のことはない。
《私の場合、それは自室で発生したね。それに甲冑の美女ではなく、小さな男の子だったよ》
 事情を把握しているのだから、疑う筈が無いのだ。
「意地が悪いじゃないか、何でもっと早く言ってくれなかったんだ」
《ついさっき、他ならぬ私自身が君に言ったのさ、『白昼夢の類じゃないのか?』とね。私だって半信半疑だったんだよ、本当にあれは現実として起こったことなのだろうか、と。だけど今の君の話を聞いていると、どうにも私のそれと類似する部分や合致する部分が、偶然の産物として処理するには些か強引になってしまうほどに存在する。違う人間が異なる場所で、似たような白昼夢を同時に見る。これもまた、偶然として片付けるには惜しい材料だね。つまり、私と君が同じように経験したその事象は、おそらく何かしらの関連性を持ったものだと私は推理するよ》
 ……つまり、である。
 この、自分の意思を言葉で伝えることすら機械に頼っている怠慢の化身は。
 この、経験してもいない早朝ランニングの素晴らしさを、何となく納得出来てしまう度合いで語り続けることが出来る演技の天才は。
 この、何をするにも用心深く、物事をフカンで捉えることを十八番とする優秀な幼馴染は。
「安全策を取ったな?」
《君の右手を私の左手に精神病院の看板を求めるデートを満喫するのは、ご勘弁願いたかったものだからね》
 グゥの音も出ない。確かに僕は、ほんの数分前に、お説ごもっともであることを口走っていたからだ。
《そうむくれるなよ。私はただ君に、頭のイカれた野郎だと思われたくはなかっただけさ》
「僕は言ったぞ」
《君にはそれが出来る。私にはそれが出来ない。それを一番よく解っているのは君だと思っていたんだけれどな。私は少し自惚れていたのかな?》
「……」
 いちいち、真理を突いて来る娘だと思う。
 
 
《ミヤコ》
 梔子高が、長い間共に連れ添った仲であるからこそ侵入が許される距離にまで、顔を近づけて来た。
《今日、学校が終わったら、私の家においでよ》
「何だって?」
 マゼンタとイエローが鮮やかに混ざり合った瞳を真っ直ぐ僕の瞳に向けて来る。当然、僕は思春期なのだから、胸の一つや二つは高鳴った。
 梔子高の家に最後に上がり込んだのは、何年前だったろうか?
 あの頃はまだ、梔子高は、ちゃんと己の口で主張をしていた。梔子高がTTSに頼るようになったのが中学一年。今から四年ほど前だから、つまり少なくとも四年以上遡る計算になる。
 何故梔子高がTSSに頼るようになったかは、説明出来なくはない。特に後ろ暗い理由があるわけでもないのだ。それに実のところ、喋ろうと思えば、何の不備も無く普通に喋れる。
 ただ何と言うか……幼少時の罪の無い残酷な仕打ちの後遺症というか、梔子高の僕に対する意地というか、そういう類のものだ。それで納得して頂ければ有難い。
 それはともかく。
 五年無いし四年以上前だ、梔子高の家に最後に上がり込んだのは。
……まだお互いの家に行っても、おばさんに挨拶をして、テレビゲームで遊んで、お菓子をご馳走になって、場合によっては夕飯もご馳走になって、それでも何事も無く帰路につく事に、疑問を感じずにいられた年だ。
「っ?」
 違和を感じた。違和を感じたから、顔を微かに仰け反ったのだ。
《残念だけど、というのも自惚れかな。君の想像しているような色っぽくて甘酸っぱい展開にはならないと思うよ。ただ、君に見せたいものがあるんだ》
 そうキーボードに打ち込んだ梔子高の顔は、既にいつも通りの距離に戻っていた。
《さて、学校が終わったらと言った以上は学校に行かないとね。私の視線右下には、既にのっぴきならないような時刻が表示されている》
「……たまに、梔子高が何を考えているのかが解らなくなる時があるよ」
《のっぴきならないような時刻、って言ったんだけどな。その話をしている余裕は無い筈だよ?》
 いけしゃあしゃあと、梔子高が微笑む。のっぴきならないような状況だったから、やったに決まっているのだ。
《何も、考えていないさ。君が相手なら、何を考えずにいられるんだ。それに、何かを思案していたらこんなことは、ね?》
 その疑問系を最後に、梔子高は僕を置いていくようにすたすたと歩いていく。グリニッジ標準時間に設定されている梔子高のデスクトップクロック同様、僕の腕時計ものっぴきならない時刻を表示していることは揺ぎ無い事実であり、僕には梔子高の後を追い駆けるくらいしか出来ることは無かった。

 唇には、まだ柔らかい違和感が残っている。



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 当然。
 良からぬ期待に身を翻弄された僕を、誰が責め立てることが出来ようか。
 責め立てることが出来る人間がいるとすれば、それは「色っぽく甘酸っぱい展開は期待出来ない」と忠告したにも関わらず、宛ら西洋のネジ巻き人形の如く最低限の関節の駆動だけで参上仕った僕を、《新しいジャンルの金縛りか何かかい?》といつものように斜に構えた微笑で迎え入れた梔子高くらいだろう。
 マジで、そんな展開は欠片も無かった。
 である以上、その日その場所で展開された話や出来事を事細かに書き記す事に何ら意味など持つものかと僕は主張したいのだが、とりあえずという名目の下、渋々と書き綴ろうではないか。

 計らずも、今回の珍騒動に関しての、すっきり明快な回答とは言わずとも多大なヒントと成り得る話を聞けたことだし、だ。



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「──で、だ」
《うん》
「その、突然出来た弟ってのが、この子のことかい?」
「なのなのよー」
「……」
「ポポロカって言うのね。よろしくお願いするのよ」
「あ……ミヤコ、延岡都。よろしく」
 ビリジアンのとんがり帽子を乗せた頭を深々と下げて、ポポロカと名乗った少年が簡潔な自己紹介をする。礼を尽くされた以上、礼を尽くし返さねばならない僕が取った行動と言えば、同じように簡潔な自己紹介を返すことのみである。
《可愛いだろう? 見てごらん、耳がこんな風に尖ってるんだ》
「あ、ダカチホ、耳は止めて欲しい止めて欲しいのね」
《何度も言ってるじゃないか、ダカチホじゃなくてタカチホだよ、濁点をつけちゃ駄目だ。それと、私の名前は高千穂じゃなくて千穂だよ、切る部分が違うんだ》
「ここは呼称が難しいのね。ミョージとかナマエとか、そんな風に区切る風習なんて初めて聞いたのよ。あ、引っ張るのも駄目駄目なのね」
「……」
 何て言っていいのか解らないので、「何て言っていいのか解らない」と言っておこう。こんな風に何度も何度も沈黙を繰り返していては、「お前さっきから三点リーダが多いな」と突っ込まれそうなことだし。




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 梔子高の家に辿り着いた僕は、一も二も無く梔子高の部屋に連行されることになる。父親の仕事の都合上、結構な富豪である梔子高邸は、いつのことだったかも曖昧な遠い昔に訪れた時と、決して大規模な変化はないものの、それなりには赴きを違えていた。
……百三インチのプラズマテレビなんて、家電機器量販店でしか見たことなど無い。
《実際、それほど頻繁に電源は入れないものだよ。父上は滅多に家には帰って来ないし、私だってそれほどコアなテレビっ子ってわけでもないし、そもそも来客が無いから居間を使う機会が無いのさ。電源を入れた回数なら、片手の指で事足りるんじゃないかな?》
「テクノロジーの無駄遣いだよ、勿体無い。それなら僕が譲り受ける」
《いいよ。今日にでも持って帰るかい?》
「……冗談だよ」
 こんなに自己主張の激しいテレビなんか置いたら、どちらが部屋の主なのか知れたものじゃない。身分相応の物で身を固めることを好しとするのが日本人の美徳であり、今の僕には十五型のブラウン管テレビ(入力切換のボタンが作動しないリモコン付)が最良なのである。
 通常であれば、居間の襖を開ければ、決して長くはない廊下を挟んで、厠なり風呂場なり個人部屋なりがあるものなのだが、梔子高邸に関しては、少しばかりその常識を捨て去ってもらう必要がある。
 修行僧が雑巾掛けでもしてそうな長い廊下に、上質な漆をふんだんに使用した格子の襖が続く続く。部屋から向いに誂えられた庭は、これまた腕に覚えのある庭師が喜び勇んで飛びかかっていきそうな、見事な面積のものである。
 僕の家が三つほど敷き詰められそうな庭を眺めていたら、ふと思い出した。
「そういえば、トテチトテは元気なの?」
《それが、昨日板垣さんが散歩に連れて行ったらしいんだけど、少し目を離した隙にいなくなってしまったらしいんだよ、リードだけを残してね。それで板垣さんったら、自分のせいだから自分が探して来るって言ったきり、まだ帰って来ないんだ。困ったものだよね》
「ふぅん……。小型犬だし、そう遠くには行ってないさ、きっと」
 トテチトテとは、梔子高が飼っているオスのポメラニアンのことであり、板垣さんというのは、長年梔子高邸に仕えている執事の方のことだ。ちなみに下の名前は聞かされていない。
 幼少の頃、トテチトテとはよくこの庭で遊んでいたものだった。久方振りに梔子高邸に足を踏み入れる事になって、トテチトテとの再会を喜ぶ用意が整っていた僕にとって、これは少しばかり残念な知らせである。
「それで、さ」
 小学生の徒競走用トラック程度の距離を歩いて、僕はようやっと梔子高に質問した。
「梔子高が僕に見せたいものって、何なのさ?」
《弟だね》
「……は?」
《弟だよ、知らないのかい? 年少の姉弟のことなんだけれど》
 それは知っている。生来一人っ子である僕は、それを幾度と無く両親に催促したものだ。人が生まれるメカニズムを学校で学んだ今、面と向かって両親に弟をねだるなど、物欲よりも羞恥の方が勝る故に結局は諦めたのだが。
 問題は、そこじゃない。
「梔子高、一人っ子だろう?」
《父上に隠し子がいない限りは、そうなるね。尤も、父上は今も昔も母上一筋だから、多分隠し子疑惑は君のワイシャツよりもシロなんじゃないかな?》
 僕のワイシャツよりもシロくても完全な潔白の証拠になど成り得ないし、シロならシロで梔子高の発言の意図が解らない。
《今朝言っただろう? 私の場合は甲冑の美女ではなく小さな男の子だった、って》
「え?」と、気の利いた疑問符すら放てなかった。
 何とならば、それは今朝の会話のことだ。互いの身に降りかかった、災難と呼んでいいのかどうかすら判断に困る超常現象の発起人が、僕の場合は甲冑の女性であり、梔子高の場合は小さな男の子だった、というのは、確かに僕の頭の中のメモリに保存されている情報ではある。
 よもや、とは思うが……。
「まだ、居るの?」
《居るよ。昨日付けで家に住まわせる事にして、今は私の部屋でテレビゲームをしている》
 よもや、である。
 梔子高千穂という人物に於いて、環境の適応や状況の判断に定評があるのは、他ならぬ僕が一番よく知っている。
 だがしかし……限度ってものがあるのではないだろうか?
「ずっと、消えたりしてないの?」
《というより、消えない方が自然だと思うんだけどな。私からすれば、むしろ君のケースのように忽然と消えてしまう方が驚きだけどね》
 いつのまにか、梔子高の個室まで辿り着いていた。梔子高が、自分の部屋の襖の格子を軽くノックする。
《ポポロカ、入っても大丈夫かな? お姉ちゃんが戻ったよ》
「はぁいー。お帰りなさいなのねー」
 妙な間の伸び方をした、まだ変声期を通過していない子供の声が奥から聞こえ、梔子高が襖を開ける。
「……ポポロカ? ポポロカだって?」
 聞き覚えのある名前である事に三五十五秒ほどで気付いた僕は、梔子高の肩越しに部屋の奥を見やる。
 まず目に入ったのは、その特徴的な両耳だった。三角定規のように綺麗な直角を模った耳が、時折釣り糸の浮のようにヒクついている。次に、左右に纏めた長い紅の髪の毛が。次に、その身に纏ったフード付きのキャソックのような衣服。
 本当に、小さな男の子だった。身の丈だけで判断するならば、保育園のお世話になる年齢だろうか?
「出来たのねー」
 不意に男の子が、コントローラーを握った手を万歳に広げて、こちらへ振り返った。
「ダカチホみたいに、綺麗に消せたのよ」
 満面の笑みでそう言った男の子は、本当に綺麗な瞳をしていた。綺麗な瞳ではあるものの、造形としては犬とか猫とか、そういう小動物の瞳に近いような気がする。中性的な顔立ちをしており、梔子高の事前情報が無ければ、男の子なのか女の子なのか判別に困る所である。
《参ったな》
 そう言った梔子高の目は、男の子にではなく、これまた威風堂々と設置された四十二インチのプラズマテレビの画面に向けられていた。倣い、画面を見る。
 何と言うことはない。パズルゲームだった。粘液で構成された色違いの生物を、上手い具合に四つずつ並べて消化していく、テレビゲームを齧った者ならば七割がその名称を知っているであろう代表的なパズルゲームである。
《君が来る少し前に、初めてプレイさせたんだけれどもね。ほんの十数分ほどだったと思うんだけれど……もう、私じゃあ敵いそうにないかな》
 驚くことが多かった今日という日の中で、特に驚かされた一場面である。
──十二連鎖。
 画面には、そう表記されていた。



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 そして振り出しへ戻る、である。
 梔子高が用意した玉露を啜りながら、ポポロカに目をやった。心地良い氷の摩擦音を響かせながらオレンジジュースを啜っている。
 こんな所に、居た。
 ポポロカ少年である。
 ハユマは今、どこで、ポポロカ少年の探索を続けているのだろうか? よもや知らない人の家の養子もどきとなって、パズルゲームに勤しんでいたとは思いもよるまい。
「君を、探している人がいたよ」
「ハユマ様なのね。ミヤコに残ってるリオラの残滓ですぐに解ったのよ。そんな風に盛大にリオラをかき乱すカスカを使うのは、ハユマ様くらいのものなの」
 くすぐったかったのか、梔子高に良い様に玩ばれたとんがり耳をヒクつかせながら帽子を整え、ポポロカがまたしても意味不明な言動を口走る。
「ハユマ様も後先考えないの、困った困ったなのね。こんなにリオラの濃度が薄い場所で神経作用のカスカなんか使ったら、最悪の場合植物人間くらいにはなる筈なのよ」
 ストローから排水溝の断末魔のような音を響かせて、リコーダーのような溜息をついた。
「教えてもらえないかな。そのカスカってのは、一体何なんだい?」
「多分それは、ダカチホから聞いた方が良いのね」
 梔子高を見る。相も変わらず斜に構えた微笑で、チャイを啜っていた。
「ダカチホに同じ事を聞かれた時、伝えるのにとても苦労したの。コミニカが違うし、私の場所とダカチホの場所では、それぞれの物質に与えられた名称が微妙に違っていたから、説明の為の説明が必要だったのよ。だからミヤコは、ダカチホから説明を受けた方が早く理解出来ると思うの。ダカチホは頭が良いのね、そんな条件下でも最終的にはちゃんと理解してくれたのよ。カスケードアカデミーに欲しいくらいなのね」
 ぴょこんと立ち上がって、僧の座禅のように正しい姿勢で正座する梔子高の膝元に腰掛けると、再びオレンジジュースを貪る事に集中し始めた。
「頼めるかな、梔子高?」
《いいよ。ただし、正確な理解は出来ないかもしれない。私が私の言葉に変換したものだから、そこにはどうしても差異は出る筈だからね》
 一向に構わなかった。カスカに関する論文を学会に提出し博士号でも取ってやろうなどと画策しているわけではないので、大まかな理解であればいい。
 
 
《簡単に言うと、ポポロカ達の言っているカスカというものは、私達で言う『術』という言葉に変換出来るね》
「術って、魔術とか妖術とか、そういう術?」
《そういう術。帽子の中から鳩を出したりとか、トランプの絵柄を当てたりとか、そういう、何て言うのかな……ちょっとした仕掛けがあるものとは一線を画した、本格的な魔術って言ってもいいと思う。何も無い場所から火を出したり、自分以外の、意思を持った生態を、自分の思い通りに操ったりとかね》
 俄かには頷けないし、物騒な話だった。現にそのカスカによって、冷静になったり混乱したりと良い様に翻弄された僕にとっては、決して笑い飛ばせる内容ではない。
《そして、そのカスカを使用するに当たって必要になるのが、リオラってわけさ。そうだね、MP(マジックポイント)とでも言った方が解り易いのかな? と言っても、実は私もリオラに関しては、未だ正確に理解出来ているわけじゃないんだよね。ポポロカ曰く、リオラは大気中にも人体内にも、極論を言えばこの世に存在するすべての物質に存在する、構成物質のようなものらしいんだ。だからといって、素粒子とも元素とも違うようだし。どちらかと言えば、エーテルとかダークエネルギーといった、超科学や量子学に近いのかもしれないね》
「これなのよ」
 不意に、梔子高の膝の上で氷を噛み砕いていたポポロカが、テレビ画面を指差した。
 テレビ画面には、先ほどまでポポロカが熱心にプレイしていたパズルゲームのプレイデモが表示されている。
「この、色んな色のコレが、リオラなのね」
《これがかい?》
「なのなのよ。カスカを使う時は、こんな風に大気中や人体に散らばってるコレを上手く組み合わせて、どかして、繋げて、色んなものに変えたり消したりする必要があるのね。大気に色々やらせたい時には大気中のリオラを、他人に何かをしたりさせたい時にはその人の中のリオラを、ちゃんと法則に則って並べ替えたり切ったり繋げたりする必要があるの」
《それじゃあ、リオラの濃度が薄いっていうのは、コレが少ないってことなのかい?》
「やっぱりダカチホは頭が良いのねー、その通りなのよ。ポポロカ達の場所ではリオラの濃度は十分に濃いから、ちょっとやそっとのカスカじゃ何も起こらないけど、ここのリオラの濃度はものすっごい薄いのね。だから大掛かりなカスカが使えないし、ちょっとしたカスカでもリオラが足りなくなって、人体や大気に色々な副作用が起こるの」
《成る程。だからポポロカが初めて私にカスカを使った時、その副作用として私は立ち眩みを起こしてしまった、ってわけだね》
「リオラの濃度が薄いのは気付いていたから、最低限必要だと思ったコミニカの強制変換だけで済ましたけど、予想してたよりもずっとずっと薄かったのね。ダカチホには大変なことをしちゃったの……すみませんすみませんなのよ」
《いいさ。ああでもしなければ、どうにもならなかったからね》
 責められたと思ったのか、グラスを両手で抱えてしゅんと俯いたポポロカの頭を、しかし梔子高は、櫛で髪を梳かすように優しく撫でた。そういえば、前々から兄弟が欲しいと言っていた覚えがある。弟のような存在が出来て嬉しいのかもしれない。
《ポポロカの話で思い出したよ。それでもう一つ、コミニカっていうのがあるだろう? それはつまり、私達で言う『言葉』って意味だろうね》
 ふと思った。
「ポポロカは、どうして僕達の言葉が理解出来るし話せるんだい? どこらへんで区切ればいいのかな……日本? 日本に来るのは、初めてなんだろう?」
 流暢であるあまり、気付きすらしなかった。そういえばハユマやポポロカには、僕達の言葉は、理解は出来るかもしれないが話すことは出来ない筈である。現にハユマは、僕達の言葉を使用することが出来なかったから、僕の脳内に不法侵入して来たのだ。
「ポポロカとハユマ様には、ポポロカが事前にコミニカを強制変換させるカスカをかけたのよ。だから、相手がどんなコミニカを使っても、ポポロカとハユマ様には理解出来るの」
《そして、ポポロカが話せる理由は、昨日私が教えたからだね》
……。
「昨日の、今日だろう?」
《さっきのポポロカのプレイを見ていただろう?》
 見ていた。それはそれは見事な連消しだった。熟練者でも、あんな風に華麗に消化出来るかと問われれば、十回やって一、二回あるか無いかなのではないだろうか。
……初めてプレイして十分そこそこで、である。
《ポポロカの理解力の高さは尋常じゃない。天才っていうのは、こういう子の事を言うのかもしれないね》
「ポポロカはカスケードアカデミー代表なのよ。これくらい理解出来なかったら、おじじ様にゲンコされちゃうのね。ゲンコは痛い痛いだから嫌い嫌いなのよ」
……確か、日本語って各国の言語の中でも特に習得が難しい言葉ではなかっただろうか?
「しかし何て言うか……妙なアレンジを加えて覚えさせたもんだな」
《可愛いだろう?》
 涼しい顔をして、梔子高がそうのたまった。しかしごもっともであることに、ポポロカがこういう口調で話すと、妙に保護欲をそそられる。僕の深層心理にもまた、そういうニーズがあるということだろうか。
《さて、ここからが本題だ》
 保護欲をそそられる即席弟の頭に手を乗せて、梔子高がそう言った。
 
 
《ポポロカ達は、どこから、何をしに来たのか?》



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 聞くだけ無駄だったなと、微糖缶コーヒーを啜りながら嘯いた。
 といっても、その話そのものに価値が無かったわけではない。ただ、僕にその話を理解するだけの知恵が備わっていなかっただけである。
 梔子高とポポロカは、ポポロカやハユマが何故この場所に来たのかを、何をしに来たのかを、親切丁寧に僕に語って聞かせてくれた。
 ただその内容たるや、宛らマウンテンゴリラに釈迦の説法を説くのと同程度に、僕にとっては意味が解らないやら言葉が理解出来ないやらで、甘酸っぱく卑猥な展開を期待していた数時間前の僕に目覚まし代わりのヘッドバッドの一つでもくれてやっていたら、まだ少しくらいは理解出来ていたのではないかなと、今の僕は後悔の念に身を焦がされながら帰路についている次第である。
 反芻、しよう。それで僕の言っていることが尤もであるか、はたまた「え、何でこれが理解出来ないの?」なのか、判断を仰ぎたい。



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《シュレーディンガーの猫を知っているかい? 例えば君の目の前に、一匹の猫がいたとする。この猫を箱の中に入れて、一ヶ月間放置したとしよう。……そんな目をするなよ、これは例え話さ、実際にそうするわけじゃない。続けるよ……そして一ヵ月後、その箱を開けてみる。果たしてその猫は、生きているのだろうか? それとも哀れ、その生を絶ってしまっているだろうか?》
《答えはその両方。生きている猫も存在するし、死んでいる猫も存在する。でも、それはおかしいよね? 猫は一匹しか居ない以上、生きている猫と死んでいる猫が同時に存在することなど有り得ない、君はそう解釈する筈さ。それは、君がコペンハーゲン解釈に則って物事を観測しているからだ》
《ならば、観測しなければどうなるだろう? 君が猫を箱の中に入れて、そのまま一ヶ月だろうが一年だろうが、或いはその猫の入った箱の存在を忘れてしまうまで放置し、最終的にそれを観測しなければ、猫はどうなるだろうか?》
《その時点で君は、その猫が死んでいるのか生きているのかを観測出来ない。予想は出来るだろうね、ただ観測は出来ない。よって猫は、生きてもいるし死んでもいる》
《ただし、それは『生きている猫』と『死んでいる猫』が同時に存在するわけではなく、『生きている猫がいる世界』と『死んでいる猫がいる世界』が同時に存在するってことなのさ。波動関数の概念を捨て去った結果、世界は分岐したまま広がって行き、新しい分岐を作る》
《そうして生まれる概念が『パラレルワールド』。つまり平行世界ってわけさ。実際問題として、君が猫を観測しようがしまいが、世界は分岐するだろうね。極論を言えば、そもそも猫を箱に入れる必要すら無いだろう。何故なら重要なのは『猫の生死とその分岐』であって、それを観測する方法は無数に存在するからだ。……君は、そんな顔も出来たんだね。とりあえずお茶でも飲んで落ち着いてくれないかな? 具体的な話はこれからするからさ》
《さて、私達はポポロカから『コミニカ』という単語を聞いたよね? このコミニカっていうのは、私達の世界で言う『言葉』と同一の意味を持つと考えても差し支えの無いものだ。ところが、私達がこれまで生活を続けて来た上で、ポポロカのように『コミニカ』という単語を使ったことは無い筈だ。仮に使っていたとしても、それはポポロカ達の使う『コミニカ』とは、概念と差す意味が違う》
《つまり、過去に世界は分岐を迎えていたのさ。この概念に『言葉』と名付けるか『コミニカ』と名付けるか、とね。尤もこれは、無数に存在するであろう選択肢の中の一例に過ぎないんだけれども。言ってみれば、それは親枝だよ。トーナメントの試合表や家計図やなんかを逆から読み説いた図、と言ったら解り易いかな? その天辺の部分だね。勿論、まだまだ上は存在するんだろうけれども、今はそこを親枝と思ってくれて大丈夫だと思う》
《ポポロカは、その概念に『コミニカ』と名付けた側の世界の存在だろう》
《多分その時点ではまだ、ポポロカ達が住む世界は、私達の住む世界と何ら遜色の無いものだったのかもしれない。そういった選択を何度も何度も繰り返し、リオラの存在に気付き、カスカという文化が生まれ、ポポロカ達の世界は誕生したんだろう。もしかしたら私達の世界とポポロカ達の世界は、それほど枝分かれした先にあるわけではないのかもしれないよ? 使用している言語が違う時点で、相当前に枝分かれした世界なのは予想出来るけれども、言語の相違という問題を解決すれば、こんなに明確な形で意思の疎通、コミュニケーションが図れているんだ。これはポポロカ達が、私達の世界と比較的類似する選択をして来た世界に生きている証拠にも成り得る》
《ルービックキューブがあるだろう? ルービックキューブの一つのピースを一つの世界と仮定して、それがいくつもいくつも、放射状に広がったのが、パラレルワールドの実体だと考えて欲しい。世界は無数にある、選択肢が無数にあるようにね。観測対象が一であれば、その選択肢は最低でも二以上存在し、その選択肢そのものを観測対象とするならば、その二以上の観測対象に対する選択肢もまた、最低でも二以上存在する。そうして世界は天文単位レベルにまで膨らんでいるのさ、今、この瞬間にもね》
《ポポロカは、『生きている猫がいる世界』と『死んでいる猫がいる世界』を同時に観測出来る、数少ない存在らしい。それは本人の口から聞いたから確かさ、本人が嘘をついていない限りはね。尤も、出来るのは観測のみであって、存在そのものは御多分に漏れず分岐するらしいのだけれども》
《そしてポポロカ達の世界には、更にとんでもない人がいるらしい。その人が今回、こんな事態を引き起こした張本人とも言えるだろうね》
《選択結果の改変、と言えばいいのかな? その世界に存在する筈の無いものを存在させたり、或いはその逆だったりと、因果律を完全に無視した、世界そのものの『改変』が可能な人物らしい》
《ポポロカ達はその人のことを、何と言ったかな……〈ンル=シド〉と呼んでいるようだ》

「〈ンル=シド〉は、ポポロカ達のように生まれ育ってそこに存在するわけじゃなくて、世界の分岐摩擦で生まれた塵の集合体が、既存の存在に融合して誕生するものなの。ダカチホやミヤコが、ある日突然〈ンル=シド〉になるようなものなのよ。〈ンル=シド〉は、一杯いっぱいある世界の中に、たった一人しか存在しないの」
「ポポロカは、そうして誕生した〈ンル=シド〉への、接触及び対応の役目を担っているのよ。だからポポロカは人よりも沢山たくさん頭が良いし、人よりも沢山たくさんカスカを操ることが出来るの。そしてどの世界に於いても、ポポロカのように〈ンル=シド〉の誕生に備えられた存在は在るのよ。それは、ポポロカじゃないポポロカなのね。自分達の世界とは、別の世界に存在する自分。ポポロカやおじじ様は『異空間同位体』って呼んでるの」
「でもでも、ポポロカじゃ〈ンル=シド〉に干渉することは出来ないのね。接触は出来るけど、干渉は出来ないの。誰が決めたのかは解らない。だけど、それは決まっていることなのよ。だからハユマ様が居るのね」
「ハユマ様は、〈ンル=シド〉の定義に干渉することが出来る唯一の存在、〈エティエンナ〉なの。〈エティエンナ〉もまた、〈ンル=シド〉同様に、単一の存在なのよ。一杯いっぱいある世界に、たった一人の存在なの。〈エティエンナ〉は、摩擦そのものの摩擦によって誕生する存在。つまり、〈ソル=シド〉が誕生することで誕生する、〈ソル=シド〉とは対になった存在なのね」
「ハユマ様とポポロカは、〈ンル=シド〉を討伐しようとしたの。おじじ様は、〈ンル=シド〉を処分する選択肢を取ったのね。だからハユマ様は〈エティエンナ〉として、〈ンル=シド〉を斬った」
「……浅かったのね。そのままポポロカ達は、〈ンル=シド〉の力で違う世界に飛ばされちゃったの。ハユマ様とポポロカが、丁度同じ世界の同じ時間に飛ばされていたのは、物凄い奇跡なのよ。良かった良かったなのなの」

《斯くして二人この場に参上仕った、ってわけだね。……何て顔をしているんだい、せっかくのイイ男が台無しだよ?》
《まぁ、尤も私とて最初は半信半疑だったよ。半信半疑というより、面白い子だなぁとしか思わなかったって言うのが正直なところだね。でも、今朝君が話してくれたことを聞いて、果たしてそれは本当に蔑ろにしていいものかと疑問に思い始めてね》
《完全に信じたわけではないさ。ただ、考慮する必要はあるのかもしれない。図らずも、こうして私と君、仲良く騒動に巻き込まれたわけだしね。それに、せっかくこうしてポポロカを我が家に招くことが出来たわけだし、しばらくはお姉さん気分を味わっていたいっていうのも本音の一環ではあるかな》

「ダカチホがそう言ってくれて、良かった良かったなのよ。ポポロカには、こっちの世界のことがよく解らないのね。それに、ハユマ様の捜索や安否の確認もしないといけないから、拠点が必要だったのよ。少しの間、お世話になりますなの」

《……さてと。とりあえず、ざっとではあるけど、説明はこれで終わりだね》


《「解ってくれたかな(のね)?──」》



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「解るか!」
 と怒鳴りながら退行しなかっただけでも上出来である。理解の有無を判定する前に、僕の暗記力に賛美の言葉の一つや二つ与えても罰など当たらないと思われるが、いかがだろうか?
 当然。
 理解など、出来る訳が無い。ルービックキューブがどうたらこうたらの話をしている時点で、宛ら危うい宗教の勧誘文句を延々と聞いているような気分だった。
 だがしかし、解らないものを解らないまま放置してしまえるほど知的欲求に乏しいのかと言えば、存外そうではない。
 この後、何度も何度も梔子高やポポロカに同じ台詞を反芻してもらいながら、僕は僕なりに今回の事象をまとめたのだ。当然というのもなんだが、梔子高や、ましてポポロカほど理解らしい理解をしたのかと問われれば、決してそんなことは無いのだが、それでも要点の一つや二つはまとめたつもりである。
 つまり、だ。
 ポポロカやハユマは、僕達の世界とは違う世界の存在である。
 同二名は、〈ンル=シド〉と呼ばれている奴を倒すなり何なりすることが目的である。
 その〈ンル=シド〉とやらは、世界を好き勝手弄ったりすることが出来る。
 同二名がこの世界に来たのは、〈ンル=シド〉に元の世界からこっちの世界にぶっ飛ばされたからである。
 こんな感じ、だろうか。
 難解さの一点で言えばヘーゲル哲学と肩を並べるであろう超論文を、僕なりに解読したものであるため、正しい情報と比べれば齟齬の一つや二つは発生するだろうが、そんなものは知ったことではない。
 何故ならば、だ。

 そんなものが、信じられるか?

 パラレルワールド?
〈ンル=シド〉に〈エティエンナ〉?
 こっちの世界に飛ばされた?

「馬鹿馬鹿しい」と、その問題に対して感想を述べることすら馬鹿馬鹿しい。作家志望の中学二年生だって、もう少し練りの利いたシナリオを書けるのではないか?
 結局、天照町とは違う町からやって来たとか、或いは日本ではない場所からやって来たとか、そんなレベルの話ではなかった。違う世界と来たもんだ。世界の区切りってどこらへんでつければいいのだ? アンドロメダ星雲辺りだろうか?
「そんなものは嘘っぱちだ」と、タカを括った。梔子高も梔子高で、きっと心底信じてはいない筈だ。本当だろうが嘘だろうが、何となく面白そうだからとりあえず傍観していよう、くらいのことは考えているのかもしれない。
 そう、傍観だ。
 今回の件に関して、僕らは何の関係もないし、どうしたって関係しようがない。
 仮に、梔子高やポポロカの言っていたことが一言一句すべて真実に基づいたものであったとしても、それは飽くまでポポロカ達の世界の問題であり、そこに僕達こちら側の世界の人間が介入する余地も無ければ、介入の仕方すら解らない。ポポロカの口ぶりからして、おそらくこの世界に飛ばされたのも、何かしらの理由があったからではなく、本当に偶然の産物なのだろう。
 だから僕は「馬鹿馬鹿しい」で一蹴出来るし、梔子高はいつものように斜に構えた微笑を崩さずにいられる。尤も梔子高に関しては、ポポロカ少年に衣食住の一切を提供する事になっているわけだが、それはそれで本人にとっても「なんちゃってお姉さん」という役得があるらしいので、ギブアンドテイクの範疇に収まるのだろう。
 どうあれ、起承転結のどのシーケンスに於いても、僕や梔子高がその騒動に首を突っ込む事になることは無いだろうし、仮に関与したとしても、それは宛ら「ここは○○村です」の一言に存在意義のすべてを詰め込んだ村人F程度のものだろう。もしかしたら梔子高の位置付けであれば、旅先の宿くらいの需要はあるのかもしれないが、結局それも同様に、事態に深入りする役どころではないと思われる。
 なら、せいぜい楽しませてもらおう。
 一種の観客参加型の辻演劇なのだと思い込めば、幾らかは割り切ろうという気にもなる。当人の了承無しに好き勝手に巻き込むのもご勘弁願いたかったのだが、不意打ちの如く乱入させてくれやがった以上は、元をふんだくる勢いで楽しませていただきたいものだ。梔子高は既にそのスタンスを確立させているようだし。
 そしてもし、仮にだ。
 万が一……否、億が一。それが、本当だったとしたら?
 パラレルワールドだか〈ンル=シド〉だかの、そういう筋書きの一切合切が、嘘偽り無い信実だったとしたら?
 決まっている。
 何ら変更は無い。傍観一筋だ。



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 例え鮫からパラントロプスに進化した世界があろうとも、またその世界がどうにかこうにかなろうとも、僕達が生きる世界は基本的に軽度の格差社会であり、その副産物として誕生した学歴ヒエラルキーの少しでも上位に立つべく日々勉学に勤しむ「フリ」をしている僕は、ごく一般的な私立高校生なのだ。
 学生である以上は、登校をしなければならない。例え若干体調が悪くても、少しばかり自分の人生に疑問を持ったとしても、自称遣〈ンル=シド〉使の少年と出会っても、だ。
 正直、「勝手にして下さい」という気分である。
《そうだね》
 至極残念なことに、購買施設を舞台としたバトルロワイヤルで生き残ることが出来ず、残念賞である無味無臭コッペパン齧りついている僕の言葉に、梔子高は簡潔に肯定した。
《ポポロカには悪いけれど、私の希望としては傍観に徹したいところかな。飛躍した要素が多過ぎる。知人にこの話をしようものなら、ポポロカ達は勿論、下手を打てばそれに拘わっている私達も異端扱いを受けそうだよ》
「受けるだろうさ。僕が聞き手だったら、今後の付き合い方すら考えそうだ」
 コッペパンを千切っては口に放り込みながら、僕もまた肯定した。くそ、焼きそばがある無いただそれだけの違いがこれほどまでとは。味が欲しい。濃い味が好まないが、無ければ無いほど良いってわけじゃないんだぞ。
「どう思う?」
《デジャビュかな? 以前もその問いに対してこう言った気がするよ。問題定義がはっきりしないものに対して『どう思う?』と問われてもね》
「信じているわけじゃないだろう?」
 仮に信じていたとしたら、僕は今後の梔子高との距離や友人関係を考慮せねばならない。
《問うまでもないと思うけどな。信じる要素があるのかい?》
 例の大型の弁当箱から、ソフトボールと見紛うようなサイズの握り飯を取り出し、それにちみちみと齧り付き始める。僕に見落としが無ければ、これは四つ目だ。
《もっと言ってしまえば、信じるとか信じないとかそういうことを言うようなことですらないと思う。それは、お化け屋敷の中でお化けの存在の有無を語るようなものだよ》
 作り物という前提条件がある物に対して本物か偽物かを語るようなもの、か。
《一種のアトラクションと割り切って楽しむが吉、という意味も含めてね。あらかじめそういう目で見ていれば、存外楽しいものなのかもしれないよ?》
「その割には、随分と熱心にポポロカの説明に耳を傾けてたよね」
 挙句の果てに、ある意味ポポロカよりも正確に情報を把握しているのではないかと疑ってしまうような説明を僕にしてくれやがったりもしていたことだし。
《情報を把握していた方が楽しめるからね。それに、ポポロカの話は興味深い。今まで持っていた、価値観やなんかの幅が広がった気分だ》
「価値観、ね」
 元々少食な事に加え、全く味の無いコッペパンに飽きてしまい、僕はすっかり食事の手を止めて、その言葉を反芻した。
 自分達が住む世界とは違う、もう一つの世界。
 そんなものが本当にあったとしたら、確かに面白い。
 考えもしなかったことだ。地球以外の星にも生物はいるのか、程度のことは考えたことはあるが、違う世界と言われれば、そんな概念は欠片も持った事がない。それどころか、世界は無限に近い数ほど存在するというのだから、これはもうフィクションとかノンフィクションどころの話ではなく、一種のSFである。
 そもそも、違う世界ってどういうことだろう? 遠いとか近いとか、そういう概念で計測してもいいのだろうか?
《距離という概念って意味で言っているのなら、違うだろうね。距離とも、高さとも、時間とも違う。遠い宇宙の果てとか、はたまた未来からタイムスリップとか、そういう概念ではないだろう》
 梅ふりかけをふんだんに塗したソフトボールに齧り付く。五つ目。お前の胃袋は宇宙か?
《立方体を想像してごらん。立方体には、縦、横、高さの概念があるだろう? この縦、横、高さの概念がつまり、距離、高さ、時間というわけだ。そして私達の世界は、この立方体で構成されていると考えて欲しい》
「……地球は、丸いんだろう?」
 お世辞にも頭脳明晰とは言えない僕でも、流石にそれくらいは知っている。世界の果てには大きな象の足があるとか、底の見えない滝があるとか、そんな考えを持っているつもりはない。
《地球じゃなくて、世界だってば。地球も、冥王星も、シューメーカーレヴィ第九彗星も含めた、『空間』とも言えるもの。それは、立方体で構成されているのさ。と言っても、本当に立方体なわけじゃなくて、概念が立方体なんだ。世界がどんな形をしているかなんて、私には想像もつかないからね。有形物ではあるだろう、私達が有形である以上は。……起きてるかい?》
「起きてるよ。難しい話をしたらすぐに寝ると思って、馬鹿にするなよな」
 危うかったが。
《ただでさえ睡魔の活動が活発化する時間帯だからね、無理も無いだろう。簡単に結論だけを物申そうか》
 だから起きていると言っているのに。危うかっただけだ。
《私達が生きる世界を立方体A上に存在するものだと仮定して、ポポロカ達は立方体B上に存在する世界の住民だ、ってことさ。だから、距離でも時間でも観測することは出来ない。同じ空間上に存在するものでは無いのだから》
「……それで、何でポポロカ達は、僕達の世界にやってきたんだろう?」
《さぁてね》
 美味しそうな焦げ目のついた玉子焼きを箸で突付きながら、梔子高は首を傾げる。
《〈ンル=シド〉とやらにも、何か思うところがあったんじゃないのかい? その理由はきっと、これから発覚するんだろうさ。伏線ってやつだよ、ミヤコ。情報を前半で全て公開したら、何の面白味も無いだろう? そこをああでもないこうでもないと推理するのが、私達傍観者の義務であるとも言える》
「……ふぅん」
 低脂肪粉乳に突き刺さったストローを齧りながら、溜息のような生返事を返した。
 
 
《食が進まないようだね。私の話は、そんなにつまらなかっただろうか?》
「聞く人が聞いたら面白いんだろうけどね。それに、流石にコッペパンを単品で食べるのは味気ない」
 言いながら、手元のそれを振った。まだ半分近く残っているし空腹ではあるものの、胃に詰め込む気にはなれない。
 突然、目の前におはぎのようなものが突きつけられた。
《君に進呈しよう》
「……何、これ?」
《そういう言い草は無いだろう? 私としては、一目でミートボールだと気付いて欲しかったんだけどな》
 そうは言うものの、梔子高がミートボールだと主張するそれは、どう見てもこなすのに片手では持て余すサイズのおはぎにしか見えない。こんなミートボール、どこに売ってあるんだ?
《売ってはいないさ。梔子高千穂印のミートボールだよ》
「梔子高が、自分で作ったの?」
《その反応、私以外の女性に対して発するのは止めた方がいいな。受け取り方次第では侮辱とも取られるよ》
 そうは言うものの、やはり軽度の驚愕は禁じ得ない。梔子高の昼食を作るのは板垣さんの仕事ではなかっただろうか?
《今朝方、トテチトテの捜索から帰還してね。寝る間も惜しんで探していたようだし、流石にその後に昼食を作ってくれと言うのも酷だろう?》
「見つかったの?」
《いいや、相も変わらず迷子だね。しかし、あの子は賢い。気が済むまで外をほっつき歩けば、そのうち帰って来るさ》
 ただでさえ常識を凌駕するサイズのミートボールが、更に大きくなった。更に接近したのだ。
《さぁ、口を開けたまえ》
「何のつもりだよ」
《つもりも何も、食べさせようとしているに決まっているじゃないか。前々から言おうとは思っていたのだが、君は少食過ぎる。君自身はそれで良いのだろうし、現にそうして今まで何のトラブルも無く過ごしてきたんだろう。しかし見ている方としては、気が気でないのさ》
 そう言うと、〇円提供は少しばかり惜しい微笑みを振りまきながら、凶悪な肉の塊を僕の口に押し込もうとする。色々とおかしいだろう。わざわざ梔子高にその……「あーん」なるものをされなくても自分で食べられるし、そもそもそれは「あーん」での受け渡しが容認されるサイズの上限を遥かに凌駕している。
 とはいえ、僕は空腹だった。
 それに加え、目の前のキングオブミートボールは、その凶悪な外見とは裏腹に、中々に食欲をそそる香りを立ち上らせている。
《遠慮はいらないよ。さぁ》
 そんなことを言うものだから、齧り付いた。流石に一口は無理だったが。
 咀嚼すれば、良く締まった挽肉が口の中で分解され、分解されるその度に肉汁の香りが鼻腔を刺激した。デミグラスソースが良く合っている。今までに食べたことの無い味だ。多分、ソースも自分で作っている。
 ……畜生、美味い。何でもかんでも無難にこなしやがって。
《私は、希望を持っていいのかな? 今朝方、余計に作った分をポポロカに食べさせたんだけれど、ポポロカは二つほどしか食べてくれなかったものだから、些か自信を失っていたんだ》
 当たり前だと思う。朝っぱらからこんなミートボールの王様かと思うようなものを、あんな小柄の男の子が二つも食べられただけでも上出来だろう。
「料理が出来るのなら、毎日自分で作ればいいじゃないか」
 口の中にミートボールが残っているうちに、コッペパンを齧った。焼きそばパンよりも美味しいかもしれない。
「料理が出来るのなら」という言葉に落ち着けたのは、素直に「美味しい」と感想を言うには、僕と梔子高は少しばかり距離が近過ぎるからである。
 梔子高は何も言わずに、ただ、通常よりも少しだけ嬉しそうな微笑を満面に出しながら、齧り跡のついたミートボールを、再び僕の目の前に差し出す。
 僕がそれを食べて、コッペパンを齧る。
 梔子高が、差し出す。
 僕が、食べる。
 五口目を向かえてようやく、ハンバーグのようなミートボールは僕の胃の中に納まった。
 その後、梔子高が二つ目のミートボールを僕に差し出したのは、僕が物欲しそうな目をしていたからなのかもしれない。我ながら意地汚いと反省せざるを得ない体たらくだ。
 またその際、梔子高の無償スマイルが目に見えて一際明るく見えたのは……さて、理由はよく解らない。きっと、新しく餌付けの趣味にでも目覚めたのだろうさ。


 こんな、ちょっとした程度の事件やイベントで丁度良いのだ。
 世界がどうだかこうだかは知らないが、そういうのはもっと適任がいる。
 僕や梔子高ではなく、ね。

       

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Neetsha