Neetel Inside ニートノベル
表紙

突然ですが、世界を救って下さい。
今の僕に出来るコト-ページ統括版

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「最初に、教えて欲しいことがあります」
 結局、そのまま学校を抜け出した僕と板垣さんは、僕の自宅から比較的近い場所にあるこじんまりとした喫茶店に腰を落ち着けた。制服姿ではあったが、板垣さんを保護者と認識したか、店員の人は特にいぶかしむでもなく禁煙席に案内してくれた。何だか、着実に非行少年の道を歩んでいる気がするが、それはこの際置いておこう。
「ポポロカ達が初めてこの世界にやってきた日。僕の観点で見ると、そこは板垣さんの挙動が空白になっている一日なんです。どこに居て、何をしていたのですか?」
「トテチトテの捜索……と言っても、信じては貰えないのでしょうな」
 当然だ。板垣さんがポポロカのお祖父さんの異空間同位体である以上、捜索するまでもなくトテチトテがあの場所に居ることは知っていた筈である。仮に捜索していたとして、それは一昼夜かけて行うことではない。
「〈ンル=シド〉の居所を探っておりました。屋敷に滞在していれば雑務があります故、誠に手前勝手ではありますが、作業だけに集中すべく屋敷を離れていたのです。千穂お嬢様にはご迷惑をおかけしました」
 一時的とはいえ、板垣さんほどの人材が欠けたのだ。そこには確かに、多大な迷惑が発生したのだろう。だがしかしそれよりも、心配をかけた事に対して謝罪をしなければならないだろうな。
「結果は思わしく御座いません。言い訳になってしまうのでしょうが、世界の数は膨大に御座います。その数を数えるだけでも、ポポロカ様のような幼児のこれからの未来をすべて数える事に費やして尚、到底数え切れますまい」
 つまり、今すぐに首根っこを引っ掴んで引きずり回すことは出来ない、か。
「残されている時間は、どれくらいですか?」
「ゆとりがあるとは申せませんな。私達がこうしている次の瞬間にキッカケが発生しても、何の不思議も御座いません。一度空間歪曲が発生したという事実がある時点で、既にのっぴきならない状況なのですよ」
 空間歪曲。ポポロカ達がこっちの世界に飛ばされた事象のことだろう。
「言うなれば、ゆとりなど最初から無いと言った方が正しい。〈ンル=シド〉を観測したその時から既に、事態は終局を迎えていると言ってもいいでしょう。一分でも一秒でも早く、何かしらの対処を施す必要があるのです」
「でも、今はまだ何も起きていないんでしょう? 僕らはこうしてここにいることが出来るし、ポポロカもハユマも相変わらずこっちに滞在してる」
「既に、三桁に上る数の世界の崩壊を確認しております」
……。
「と言っても、それら崩壊した世界は、既に生命と呼べる生命が絶滅した、これ以上の分岐の期待が出来ない、いわばジャンクの世界でした。実験でしょうな。なるべく崩壊による影響が少ないと予想出来る世界を選択して、そこで能力を暴走させているのでしょう」
 初耳だった。要するにそれは、僕らがポポロカの衣服に関してああでもないこうでもないと言っている間に、既に他世界が順調に崩壊していた、という事に他ならない。
 想像していた以上に、事態は進展していたってことだ。
「実験とは、何の事ですか?」
「能力を、自身でコントロールすることの出来る方法を模索しているのではないか、と予想出来ますな」
 成る程。そう言えばそのはた迷惑な能力は、コントロールするには一個体の情報量では不可能だと聞いた覚えがある。
「実際に〈ンル=シド〉がここ数日崩壊させた世界は、そのほとんどが存在価値に乏しいものです。つまり、能力を抑えたり自身の意図通りに発動させるとまではいかずとも、暴走させる対象の選択は可能になっているのでしょう」
 多数の世界が犠牲になったものの、成果は確実に出ているらしい。
 しかしそうなると、もう一つの疑問が出て来る。
「何故、〈ンル=シド〉はそんなことを? 言い方は悪いかもしれないけど、コントロール出来るようになろうがなるまいが、結局はその……殺されるかどうにか、されるんじゃ?」
 確か、ポポロカはそう言っていた筈だ。仮にコントロール出来ようが出来まいが、操る者はどうしようもなく人間である。人間である以上、気の迷いの上での過ちを否定することは出来ない。
「二つの仮説が御座います」
 板垣さんが、人差し指を立てた。
「一つ目は、能力そのものの抹消。実現の可能性はこの際無視し、何かしらの方法を以って、能力そのものを、始めから無かった事にしようとしているのではないか、という説」
「もう一つは?」
 口髭を指で弄んだ。実は板垣さんのこの仕草は、罰が悪い時にする癖である。二つ目の仮説は、板垣さんとしては、好ましくないと思っているのだろう。
「自分自身の抹消」
「自分の能力で、自分を改変しようとしているってことですか?」
「抹消、です。能力を完全にコントロール出来るようになれば、今は無意識に制御している、自分自身への能力使用も可能になる筈。そうして自分自身に能力を使用することにより、能力を持っている自分ごと存在を抹消しようと考えている、という説」
 穏やかではない話だ。もしそちらの説が正当なものであるならば、〈ンル=シド〉は今、自分自身の存在を消すために、実験を繰り返している事になる。
 疑問点があった。話を聞けば聞くほど、その疑問は色濃くなっている。
「〈ンル=シド〉は、能力をどうにかこうにかする事に協力的なんですか? 何て言うか、馬鹿なことを言ってしまうかもしれないんですけれど、こう……世界を滅茶苦茶にしてやろうと思っているとかは?」
 実際これまで、そういう図式を勝手に頭の中で描いて行動していた。だって、だからこそハユマは、〈エティエンナ〉として〈ンル=シド〉を斬りつけたのではないのか?
「まさか」
 しかし板垣さんは、連鎖したしゃっくりのような笑い声を漏らして、その説を否定する。
「主観では御座いますが、〈ンル=シド〉は、世界を塵芥にしようなどとは欠片も思ってはおりますまい。〈ンル=シド〉となるその日までは、妻子にも恵まれ、順風満帆の日々を過ごしておりました。彼が世界を崩壊させたいと思う理由が御座いません」
 少しばかり、面食らった。
「妻子? 結婚、していたのですか? ご家族の方は今、何をしているのですか?」
 ご家族の方は、さぞかし心労を抱え込んでいるのだろう。子供などは、苛められる原因にならないか、などという、どこか的外れな心配までしてしまう。
「はて?」
 だがしかし板垣さんは、まるでアポイトメントを取っていない来客に対する秘書のような反応を見せる。尤も、本職が秘書のようなものなのだが。
「異な事を。貴方は既に、ポポロカ君やハユマ夫人と面識があるでは御座いませんか」
「はっ?」
 話が見えない。何故ここで、ポポロカやハユマの名前が出て来るのだ?
 そんな僕の反応を目の当たりにして、話が通っていないことを察したのだろう。板垣さんが、苦笑と微笑みの混じった、何と名付ければいいのか考慮してしまうような表情を模る。
「ふむ……。既知の情報であると思っていたのですが、どうやらその限りではないようですな。或いは、意図的に情報の開示を避けたか」


 少しばかり。
 嫌な予感がした。
 それは、僕達の世界の常識で判断するならば、「そんな馬鹿な」と一蹴されて済むような、しかしお説ご尤もであるような馬鹿らしい予感である。
 だがしかし、対象は他世界の住民なのである。僕達の持つ常識の物差しで尺を取る方がむしろ「そんな馬鹿な」なのであり、従ってそのようなものはアテにはならない。
 僕は、ポポロカの年齢を知らない。ポポロカは今、何歳なのだ?
 そして、思い出す。数日前の、梔子高のデート詐欺にまんまと引っかかってレストランに連行された際の会話を。
 ポポロカはあの時、僕のことを、何のようだと言っていた?
「気を使わせてしまうと、お考えになったのでしょうな。幼少ながら、気が付く良い子だと思います。だがしかし、情報は開示しておくべきでしょう。尤も、今の貴方の表情を見るに、薄々は勘付いたのでしょうが」
「……開示を、お願いします」
 眩暈がした。眩暈がしたので、両目を掌で覆う。ここまで来て、まさかの新展開だ。
……そんなの、これっぽっちも求めてないんだけどなぁ。
「ポポロカ君は、〈ンル=シド〉とハユマ夫人との間に生まれた御子息です。つまりハユマ夫人は、〈ンル=シド〉の伴侶という事になりますな」



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「……」
「追加のコーヒーを注文いたしますか?」
「お願い、します」
 無礼だとは思ったが、掌を両目に当てながら肯定した。そんな粗暴な態度にも嫌な顔一つせずに、追加のコーヒーをオーダーしてくれる板垣さんの心の広さが、今は有り難い。


 もう、何と言えば良いのか。
 あーあ、である。
 そりゃ、ポポロカ達の世界の住民の視点で見れば、一子の父と見紛うだろうさ。何てったって、実際に僕と同年代の人間が、父親となり母親となっているのだから。
 気を使わせるだって? 使うに決まっている。使わないでか。要さないでも、〈ンル=シド〉をどうこうするということは、あの愛らしい少年の父親をどうこうするということだ。
「やはり、衝撃でしたか」
「もう、何を言われても驚かない自信が付く程度には」
 ようやっと両目から掌を離して、新たに用意されたコーヒーを咽喉に流し込む。やはり苦い飲み物は良い。いつぞやの暗示紛いのようなものではなく、確実に脳が覚めていくことが自覚出来る。
 はて。さて。
 そうなると、ますます疑問は募る。
「つまりポポロカやハユマは、自分の父親であり夫である人を、その手にかけようとしているわけですよね? 何て言うか……」
「おっしゃりたいことは、よく解ります」
 板垣さんが、紳士らしい小さな頷きを返して来る。
「仕方が無かった、と言うべきでしょうな。予定調和と言う言葉で置き換えることも可能です。元々それはそうあるべくして、現にそうなった。薄情とお考えになるでしょうが、それだけの事に御座います」
「それだけ、って……家族でしょう?」
 板垣さんに言ってもどうしようもないことは解っていたが、それでも言葉を荒げずにはいられなかった。板垣さんにこんな口の利き方をしたのは、間違い無く初めてだ。僕がこの人に、そんな口を利いていい理由など無い。
「逆ですよ、ミヤコ君」
 それでも、老紳士は老紳士たる姿勢を崩しはしない。僕の周りには、芯の強い人間が揃い過ぎていると、何とも無しにそう考えた。
「家族だから、そうあった時に何かをするのではないのです。そうあった時の為に、家族になったのですよ」
「謀略婚、ってやつですか」
 口髭を、弄んだ。
「一概にそうだとは言い兼ねます。ノマウス氏とハユマ夫人が育んだその蜜月は、確かに御二方が自分達の手で育んだものであり、そこに私の異空間同位体含む上層の謀略要素が介入した事実は御座いません。しかしながらそれは、そうあるべくしてそうあった予定調和であることは事実なのです」
 まるで、事後に事の顛末を予め予想していたと言い張るインチキ預言者のような物言いである。
 って、ちょっと待て。
「今、何て言ったんですか? 誰と誰の蜜月だって?」
「ですから」
 板垣さんが、コーヒーに砂糖を馴染ませながら、事も無げに反芻する。
「〈ンル=シド〉であるノマウス氏と、〈エティエンナ〉であるハユマ夫人の蜜月、ですな」
……。
「成る程、解りました」
 もう、一回いっかい新事実に対して驚愕することすら億劫である。この件に関して、新事実が明るみになる度に「ええ!?」などと言っていては、一生分の「ええ!?」を使ってしまいそうだ。
「つまり、〈ンル=シド〉とノマウスは同一人物である、と認識していいんですね?」
「左様で御座います。成る程、それも存じ上げていなかった、と」
 板垣さんが例の名付けることの出来ない表情をしたが、そういう顔をしたいのはこちらの方である。
「提案なのですが、一度情報の整理をされてみては如何でしょう? ミヤコ君の話や反応を見聞きするに、差し出がましいことを申し上げますが、要所要所で情報に齟齬や穴が見受けられるようなので」
 二つ返事を返した。この分だと、まだまだ新事実は埋もれていそうだ。大した情報ではないならいいが、重要な情報を欠落させたまま事を進めて散々な結果を招いてしまえば、そんなのは目も当てられない。
 
 
「まず始めに、ポポロカ君達の世界の成り立ちはご存知でしょうか?」
「ほんの触り程度には。カスカ、ですよね? そういう、手品の親戚みたいなものが繁栄している世界だって認識してます」
「結構で御座います」
 流石にその情報は合致していたようだ。ここですら間違っていたら、到底事態の把握など程遠い。
「カスカとは、手品でも魔法でもなく、一つの技術で御座います。我々が電気を使用して日々の生活に潤いを得ているように、ポポロカ君達の世界では、リオラという一種のプラーナのようなものを使用して、生活の基盤を整えているわけですな。カスカを学ぶということは、電気工学を学ぶようなものです」
「その学ぶ場というのが、カスケードアカデミーですね?」
「左様で御座います。私の異空間同位体は、カスケードアカデミーの理事を務めており、またそれと同時に、カスカ学会の理事でもあります。ポポロカ君は、私の異空間同位体の孫に当たる存在であり、またそれと同時にカスケードアカデミーきっての天才児でもあるのです。若干五歳にしてすべての論学を修了し、今では指導に当たることもあるのですよ。五歳とは、飽くまで向こうの世界の暦で換算した数字であり、我々の世界の時間の流れで算出したならば、今年で四歳になるでしょうか」
 それに関しては、言われずともそんな気はしていた。ポポロカの口から、年齢相応の言葉を聞けた例の方が少ない。とはいえ、四歳か……僕が四歳の頃は、何をしていたろうか? 電気工学も何も、ドライヤーを振り回して遊んでいた時期じゃないか?
「ポポロカ君も然ることながら、ノマウス氏も中々のカスカの技師でした。こちらは完全に努力が実を結んだ例ですな。カスカ学会の権威とも言える父を持ったがためではありますが、日々の努力と研鑽の正当な報酬として、現段階で私の異空間同位体をも凌ぐほどの技術を身につけております。そしてその研鑽の日々の道中で、ハユマ夫人と出会いました」
 ここからは、二人の馴れ初めを聞く羽目になるのだろうか? 結婚式のスピーチじゃあるまいし、出来れば必要な情報を提示してもらいたいのだが。
「ハユマ夫人もまた、カスカ学会上層員の一人娘でした。尤も、私の異空間同位体やノマウス氏の使用しているカスカと比べると、その仕様は同一のものでありながらも、原理が異なるのですが」
「原理が、異なる?」
「私達が常日頃使用している電気。この電気を生み出すには、様々な方法が御座います。ノマウス氏が水力発電だと仮定すれば、ハユマ夫人は火力発電に置き換えることが出来ますな。ノマウス氏の場合は触媒を必要としない完全詠唱の生活型カスカ、ハユマ夫人の場合は触媒を使用した簡易詠唱の狩猟型カスカ、という按配です」
 要するに、ギッコンバッタンして使うのと、油をぶっ掛けて使うのの違いでいいのだろう。
「御二方の婚姻は、カスカ学会にとっても望ましいことでした。御二方が架け橋となって、それぞれの技術を提供しあえば、それが更なるカスカの発展へと繋がることは容易に想像出来ることです。現にそれをキッカケに、カスカは飛躍的に進化しました。御二方の間にもポポロカ君が誕生し、そのポポロカ君も、ご両親の才を引き継いだか、飛ぶ鳥落とす勢いで技術を身に着けてゆきました。本当に、すべてが順風満帆だったのですが……」
「そこで、〈ンル=シド〉騒動ですか」
 板垣さんがコーヒーを口に含み、口元をナプキンで上品に拭った。すべてに於いて音を発生させない、見事な振る舞いである。
「予定調和とはいえ、皮肉なものです。同じ技術を違う原理で使用している二人のカスカの技師が、互いを常に思い合うべき一組の夫婦が、よもやこのような関係になってしまうとは。これはある種、喜劇とも言えるでしょう。これほどに滑稽で数奇な巡り合わせは、そうそう御座いますまい」
 その物言いには、反吐が出そうになった。
 滑稽だろうが数奇だろうが、それが喜劇であってたまるものか。妻が夫を手にかけようとし、その協力者が息子であるなんて、そんな反吐茶番を喜ぶようなゲロカス野郎がいるならば、今すぐにぶっ飛ばしてやる。グーでだ。
「そのような顔をなさらないで下さい。私とて、よもやこれが喜ばしい事態だとは欠片も思ってはおりませぬ。何とかしなければならない。だからこそ、こうして私も、及ばずながら援助の体を示しているのですから」
 不意に、それまで口でしか笑っていなかった板垣さんが、目を細めた。
「本当に、真っ直ぐに成長なさいましたな。ハユマ夫人の異空間同位体がミヤコ君で、本当に良かった」


「……教えて下さい」
 僕は、基本的に悲劇が苦手である。
 例えば、映画を見るにしても、愛憎の果てに誰かが誰かを殺したりとか、報われない夢を描いたものだとか、恨み辛みが本題であるものだとか、そういったものは好まない。
 誰かが悲しい思いをしたり、誰も幸せにならないような選択なんか、見たくないのだ。
 そんなのは、辛過ぎる。みんなが幸せが良い。
「ノマウスを手にかけず、誰一人として欠けることのない、その上で何事も無く元のように戻す事が出来る、その方法を」
 ようやく、僕の目指す結果が見えた。
 元よりそのつもりだったが、誰一人欠けさせてなるものか。それにこの年で……というより、人生途上のどこに於いても、人を殺すなんてイベントは断固御免蒙る。
 全部、元通りにしてやるのだ。
「ミヤコ君で、本当に良かった」
 細めた目が、遂に線になった。明確に、笑ったのだ。



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「とはいえ、これまでの研究や議論を以ってしても、その結果を導くことは困難であるのが現状で御座います」
「今はどうですか? 僕が右往左往して、どうにかこうにかなる可能性は?」
 これまでの研究やら議論とやらには、僕の存在は考慮されていなかった筈だ。僕のような人物が参加したところで劇的に状況が変わるとは思えないが、何かしらの変化は出る筈である。
 しかしそんな考察結果とは裏腹に、板垣さんの表情は晴れない。
「現状ではまだ、有力な方法は発案されておりません。こればかりは、私の異空間同位体含む上層が至らなかった結果でしょうな。〈ンル=シド〉の無力化という結論に落ち着いたため、他の案への意識を疎かにしてしまったようです」
「そう、ですか」
 尤も、考察した所でコレという結論は出せなかっただろう。当事者である僕達ですらも明確な方法を思いついていないのだ。幾ら叡智に溢れる者達の集いとはいえ、卓上の理論では限界がある。
 ふと、叡智という言葉を思い描いた所で思い出した。
「今回の件、梔子高には漏らしてはいけないんですよね? それは一体何故ですか?」

 その瞬間。
 板垣さんの表情が、目に見えて曇った。
 
 初めて見る顔だった。使用人として見ていた頃の板垣さんは、僕と梔子高がどんなことをしようとも、こんな顔はしなかった。
「ミヤコ君には、聞かせねばならないでしょうな」
 当然、予想はついた。
 あの板垣さんでさえ、こんな風に、思うところを隠し切れていないのだ。
 きっと、それほどの事柄が、そこには存在する。
 ならばどうするか?
「聞かせないでいいと、言うとでも思いますか?」
「いいえ」
 聞かねばなるまい。
 それが例え、どんなに痛烈な現実であったとしても、だ。
「〈ンル=シド〉という存在には、異空間同位体は存在しないことはご存知ですか?」
 知っている。確か初めてポポロカに会った日、ポポロカはそう言っていた筈だ。
「それは、紛う事無き事実です。例え世界が天文単位を持ち出さなければならないほど膨大に存在したとしても、〈ンル=シド〉は一人しか存在しない。それは絶対で御座います」
 既知の情報にしろ、板垣さんに太鼓判を押されると安堵する。そんな滅茶苦茶な奴が何千何万といても、困るだけだ。
「しかし、その寄り代となる人物は、その限りではないのです」
「どういうことですか?」
 コーヒーを啜りながら問う。何故なら、少し難しい話になりそうだったからだ。頭を落ち着ける必要がある。
「〈ンル=シド〉には、異空間同位体は存在しません。ただ、ノマウス氏という一つの存在には、異空間同位体は存在するのです。何故なら〈ンル=シド〉になる前は、彼は何の変哲も無い一つの存在に過ぎなかったからです」
 コーヒーを啜った。
「えっと……つまり、〈ンル=シド〉じゃないノマウスなら、異空間同位体が存在するってことですか?」
 多分それは、〈エティエンナ〉は単一の存在であるが、〈エティエンナ〉であるハユマの異空間同位体、つまり僕は存在しているのと同じ理屈なのだろう。
「概ね、その理解で構わないでしょう。そしてそれら異空間同位体は、ノマウス氏が〈ンル=シド〉となった今でも、確かに存在しております」
……コーヒーを、啜った。
 とはいえ、今度ばかりは啜る理由が違う。確かにややこしくはあったが、事柄は理解出来た。
 今度の啜りは、嫌な予感を抑える為の行動だ。
「流石に勘が良い。お気付きになられましたか」
「ええ」
 再び、両目を掌で覆う。
 尤も、本当に勘の良い人なら、最初の時点で気が付いたのかもしれない。
 梔子高に情報を漏らしてはならない理由について、話をしていたのだ。
 それなのに何故、ノマウスの話になる?
 ノマウスの、異空間同位体の話になる?
 もう何を言われても驚かないと、僕は言った。そして現に、今でも驚いてはいない。
 ただ、うんざりした。もう、勘弁して欲しい。何でこう、次から次へと……。


「ノマウス氏の異空間同位体は、千穂お嬢様。梔子高千穂、その人に御座います」



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「……それで」
「はい」
「それが何で、内密にする理由になるんですか?」
 多分、相当ヤバイ顔と態度になっていたと思う。これが就職試験の面接であったとしたならば、合否を出す前に退室勧告がなされる、間違い無く。
「それが本当だとしたならば……いや、多分本当なんでしょう。それなら尚更、何故梔子高に事情を説明しないんですか? 主観ですけど、一番説明すべき人物なんじゃないかと思うんですが」
 言いながらも、最悪のパターンが頭から離れない。多分僕でなくとも、最初にこのパターンを想像する。
 もしも僕が予想していることが合っていたならば、僕の責任は重大だ。
「心配なさらないで下さい」
 板垣さんが胸元からハンケチーフを取り出し、僕の額を拭った。心底心配している顔だ。今の僕は、宛ら締め切り寸前の漫画家のような顔でもしているのかもしれない。
「ミヤコ君が予想されている事は解ります。そして、その予想は否定させていただきましょう。仮にノマウス氏に最悪の事態が起こったとしても、千穂お嬢様がお亡くなりになったり、或いは存在そのものが消えてしまうようなことは、まずありません。保障します」
 顔面で、空中を凪いだ。盛大な溜息を吐く。こんなに安心したのは、高校受験の結果発表を目の当たりにして以来だった。
「本当にミヤコ君は、千穂お嬢様を大切に思われているのですな。出過ぎた真似では御座いますが、私の方からお礼申し上げます」
「……別に、そういうわけじゃないですよ」
 ポポロカ然り板垣さん然り、どうしてこう……。
「ええ、そうでしょう。おそらく貴方様ならば、それが千穂お嬢様でなくとも安堵したでしょうな。貴方様は優しい心をお持ちになっている。だからこそ、千穂お嬢様だけでなく、出来ればミヤコ君にも内密にしておきたかった」
 僕が優しいかどうかは知らないが、とにかく最悪の予想は外れて良かったと思う。そうは言っても、それでも頭を抱えてしまうような理由があるのだろうが。
「一言で言えば、『調節』に御座います」
「調節?」
 似たような言葉を聞いた記憶がある。確か、ポポロカが異空間同位体の同時滞在がどうのという話をしていた時だ。
「例えば、私共の世界やポポロカ君達の世界とも異なる、もっと別の世界での貴方と千穂お嬢様が、何かしらの理由でその存在を抹消されたとします。そしてその世界の異空間同位体が、抹消される前は仲違いをしている関係だった、と仮定しましょう。すると、異空間同位体が抹消された瞬間、彼らの『仲違いをしていた』という情報は行き場を失くして、他世界に流れてゆくのです。結果、この世界含むすべての世界のミヤコ君と千穂お嬢様の間に、大なり小なり仲違いをするような事態が発生するわけです」
「……違う世界の僕達の仲が悪くなるわけですか?」
「左様で御座います。尤も、情報は拡散するので、そっくりそのまま反映されるわけでは御座いませんが。せいぜい、ちょっとした小競り合いが発生するといった度合いが関の山でしょう」
 他世界の僕達の関係性を、これまた他世界の僕達が引き継ぐってことか。
「そして現在、ノマウス氏の存在の定義があやふやになっております。他世界を転々とおられるため、存在しているのか、それとも存在していないのかを明確に出来ないのです。結果、これまでのノマウス氏を取り巻く関係性の情報は、半端に他世界に流れ出ております。おそらくはミヤコ君も、そういったものの残滓を、千穂お嬢様から感じ取られたのでは?」
 そう言われてみれば、心当たりは、
……あり過ぎる、な。
「どうやら、察知はされていたご様子で」
「ええ」
〈ンル=シド〉騒動が始まってから梔子高と僕の間に起こった様々なことを反芻した僕は、どんな顔をしていただろうか? 少なくとも、そういった前兆があったということを、表情だけで理解させる程度にはアレな表情をしているようだが。
 成る程ね。ようやく理解出来たぞ、畜生め。
 つまり、これまでの梔子高の僕に対する行動の数々は、ノマウスの知識やその……夫の妻に対する愛情やら何やらを、梔子高が引き継いだからだってことだ。だから梔子高は、今回の件に対して妙に理解が早かったり、僕に対してあんなことやこんな……ええいクソ、思い出すまい、茹でダコになってしまう!
「もし万が一」
 板垣さんが、良い按配で僕の意識を取り戻してくれた。
「万が一、ノマウス氏の身に、最悪の事態が起こったとします。そうすると、これまで半端に漏れ出ていただけだったノマウス氏の情報は本格的に拡散し、他世界の異空間同位体に影響を及ぼすでしょう」
 ゾッとしたし、ボッともした。ちなみに「ボッ」とは、顔面に火が点く音だ。
 半端な、それも拡散した情報の影響であれだぞ? おしどり夫婦にも程があるが、今はそれを冷やかすような真似はしまい。それは部外者に許された特権だ。
 それが本格的に拡散などしたら、梔子高はどうなる?
「千穂お嬢様が、千穂お嬢様ではなくなりますな」
 僕に降りかかる梔子高の情熱的な誘惑などどうでもいい……とは言わないが、それは大した問題ではない。
「情報拡散の被害を蒙った対象は、自分が情報拡散の被害を蒙ったことを自覚出来ません。ですので、これは千穂お嬢様に申告しなければ、千穂お嬢様本人の意識としては、何が起こったのか、或いは何かが起こったことすら自覚出来ないでしょう」
「でも、変わるんですね?」
「左様で御座います。或いは、これまでの千穂お嬢様の人柄など霧散してしまう可能性も御座いますな」
 成る程、と思った。確かに、梔子高には聞かせられないし、聞かせてもいいが推奨は出来ない。
 本人としては、気が付かなければ何も起こらなかったものと変わらないのだ。知らない方が良いこととも言える。知らない方が良いならば、好んで知らせはしないに決まっている。
 でも、変わってしまう。
 あの無難な微笑みも、長い年月をかけてようやく見つけた癖も、理屈っぽい喋り方も、やたらと僕の舌に合う料理も。
 全部、変わってしまう。
 高らかに宣言しよう。

「嫌ですね。断固拒否です」

 瞬間。
 板垣さんが、老紳士らしからぬ、高らかな笑い声を揚げた。
「ハッハッハ! いや失敬、流石はミヤコ君と申し上げますか……ハッハッハ!」
 僕は、憮然たる面持ちでコーヒーを啜った。ええ、ええ。笑いたければ笑えばいいでしょうよ。
 理屈屋でも何でもなくて、毎日毎日愛情の篭った弁当の一つや二つでも作ってきて、ことあるごとに僕を悩殺しようとする梔子高。
 本心から、そんな梔子高は、気色が悪いのだ。強がりでも、照れ隠しでも、何でもない。
 何だかんだで僕は、今の……厳密に言えば、少し前までの梔子高が気に入っていた。
 理屈屋で、馬鹿みたいにご飯を食べて、常に無難な微笑みを浮かべていて、理解出来るような出来ないようなトンチンカンなことばかり述べて、そのクセ肝心なこととなると煙に巻く、ある意味では頭痛の種ですらある幼馴染。
 そんな梔子高が、良いのだ。
 それより何より、梔子高の変化は、梔子高本人の手で行うべきだ。そんな他世界の尻拭いみたいなことで、コロコロと変えていいものじゃない。
 こんなワケ解らん事に、梔子高をどうこうさせてたまるか。
 
 
 一頻り笑った後、板垣さんがハンケチーフで目元を拭う。楽しそうで何よりだ。非常に腹立たしい。
「出来るのかもしれませんな」
 出来るさ。出来なくてもやってやる。
「そのようなことを曇り無き目で言える貴方様ならば。ミヤコ君ならば。見つけられるのかもしれませぬ。カスカ学会や私のような老いぼれでは思い浮かばないような、予想外の方法を」
 すっかり冷め切ったコーヒーを、一気に飲み干した。

       

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