Neetel Inside ニートノベル
表紙

突然ですが、世界を救って下さい。
道化に五秒の戸惑いを-ページ統括版

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 斯く各企業の敏腕営業戦士達が、各駅停車両の中で束の間の休息を貪っているにも関わらず、本日は日曜日である。
 日曜日とは、一般社会に於いては国民は休息を取る日だと定義されている。にも関わらずこのように、止む無き事情或いは少しばかり仕事に熱心過ぎる上司達に振り回され休む暇無く働かされる、スーツのテカりが目に眩しいおじさん一同には同情の念を抱かずにはいられないのだが、そんな企業戦士達の疲労に満ちた姿を尻目に、僕は自宅から鉄道を使用する程度に離れた繁華街に向かうべく、つり革を握りながら窓の風景を眺めたりしている。
 梔子高が、今朝のように突然アポ無しで《少しばかり暇をくれないかな?》と申し出て来ることは、珍しいことだった。
 普段から、二人でどこかに出かけるという行為を行うこと自体が稀なことであり、その稀な過去の事象に於いても、このように前日の綿密な予定取りも無しに突発的外出を行った例が一切存在しないため、つり革を握る掌が少しばかり汗ばんだり、普段は欠片程度にしか気を使っていない髪形や鼻毛なんかを、エキゾチック原子核を扱うかの如く丁寧に窓越しに確認している僕の行動は、それほど不自然かつ理にそぐわないわけではない。勿論主観の範疇は抜けないのだが。


 今日という日を寝て過ごそうと画策していた僕を、そうはさせるかとばかりに叩き起こしたのは、携帯電話の着信音だった。
 と言っても、君が起きるまで私は鳴るのを止めないとばかりに旬を過ぎたJポップを熱唱していたかといえば、決してそのようなことはなく、僕の胡乱な意識を夢世界から現実世界に引きずり戻した時点で、そのコールはプツリと切れてしまった。
「誰だ、こんな時間に……」
 真夜中に言えば正当性を認められるのだろうが、休日の、それも朝から昼に変わろうとしているその時間帯に言っても欠片も正当性を感じない台詞を呟きながら、僕は携帯電話の着信履歴を表示する。
「……梔子高?」
 そこには、見知った名前が表示されていた。
 成る程と納得する。四、五コール程度でプツリと受信の催促を止めてしまうのが、いかにも梔子高らしい。あの娘なら、相手が出るまで鬼コールを続けるなどという無粋な真似はしまい。
 とはいえそれは、夢世界に後ろ髪引かれていた僕をきっちり現実世界へ引き戻すくらいの、ちょっとしたイベントだった。
 梔子高が、電話をかけるという行動を起こすこと。
 それは僕の中では、有り得ない部類に入るものだった。
 日常会話に於いても、あのようにTTSに頼っている梔子高が、肉声でのコミュニケーションを余儀なくされる通話という意思伝達方法を取ることは、有り得ないのだ。
 それはまぁ、無理をすれば電話越しにTTSで発声することも、不可能ではない。不可能ではないが、些か面倒であることは否めないであろう。それにそのような面倒なことをせずとも、二十一世紀ともなれば、携帯電話というツールにはメール送受信機能の一つや二つ搭載されているのがデフォルトなのである。
 にも関わらず。
 梔子高が、メールではなく、通話という確実かつ即時性に優れた伝達手段を選んだということ。
「急用、か」
 思い浮かぶ心当たりは、それくらいしか無い。休みの日にまでモーニングコールを要求するほど規則正しい生活を心がけているわけでもなければ、怒鳴り散らしてやらねばこの恨み晴れぬと言わしめるほど梔子高を憤慨させた記憶も無い。
 特に、深くは考えなかった。かけ直せば解ることである。もしも下らないことだったら、嫌味の一つや二つはネチネチと言ってやりたいところだ。
──。
《やぁ。取り込み中だったろうか?》
 第一声がそれだった。その声は、僕の耳に良く馴染んだTTSのそれである。今、電話の向こうでは、さぞかし億劫な事になっているのだろう。
「いや。休みらしい休みを満喫してるよ」
《声が嗄れているね、寝ていたのかな? だとしたら申し訳無いことをしてしまった。このまま切った方がいいかな?》
 そう言われて、自分の体に残った疲労の残滓が思っていたよりも多い事に気付く。特に睡眠が浅かったわけではなく、睡眠時間としては十分過ぎるほどの時間も当てている筈なのだが。
 しかし、無視出来るだろう。せっかくの休日を寝て過ごすのも惜しい気がする。そう思える程度には僕はまだ若いつもりだ。
「まさか。このまま二度寝しちゃうのも時間の無駄遣いな気もするし、構わないよ。急用なんじゃないの?」
《うん、急用ではあるね。ただ、その急用と呼ばれている案件が、君にとってそれほど重要なのかと問われれば、とても微妙なところなんだ》
「随分はっきりしないじゃないか」とは思わなかったし、口にもしなかった。梔子高は、元よりこういう回りくどい話し方をする娘である。
「でも、梔子高にとっては急用なんだろう?」
《うん》
「なら気にする事は無いよ。どうせ放っておけば寝て曜日になってたところなんだし、そうするくらいだったら、少しくらい知人の急用とやらに付き合っていた方が健康的な気もする」
 数秒のブランクがあった。その数秒のブランクの後、
《有難う、ミヤコ》
「……どういたしまして」
 何の感情の起伏も無い、機械音声である。反省の念が入れ混じっているわけでも、まして恥じらいの色気が混じっているわけでもない。
 ただ、それが梔子高が発している情報だということが、まるで魔法のように、その有り触れた言葉を穏やかなものにしている気がした。
「して、その急用ってのは何なのさ?」
《ならば、遠慮なく言わせて貰うけれどもね》
 気にするなと言えば、本当に気にしないのが梔子高だ。
 だからその言葉は、本当に。本当にさらりと。
 まるで、学校の休み時間に、友人を厠に誘うような気軽さで吐き出された。


《私と一つ、デートでもしてみないか?》



************************



「ミヤコは沢山たくさん食べるの。きっとお腹ぺこぺこだったのね」
「朝から何も食べてなくてさ。梔子高の奢りらしいし、食べられるだけ食べとこうと思って」
 お子様ランチをスプーンで突付いているポポロカにそう指摘されて、口の中のハンバーグをメロンソーダで胃に流し込みながら返答した。……「梔子高の奢り」という部分を強調して、だ。
《私としても、そんな風に美味しそうに沢山食べてもらえるなら、財布を開ける甲斐があるってものさ。何なら、メニューに記載されている食べ物全部を食べてくれても構わないよ》
 ペースを乱すことなく、本日三枚目となるハンバーグをベルトコンベア式に口の中にを運ぶ作業に没頭している僕をいつもの微笑で見つめ、手元のドリアをスプーンで突きながら、梔子高がそうのたまった。
「そういうのは、美味しそうに沢山食べてもらえるものが手料理である時の台詞だろう」
 笑いながら僕がそう指摘すると、《これは手厳しいね》と、やはり梔子高は微笑んだ。……ちなみに、梔子高はその限りではないが、僕のこの笑顔の奥には、般若の如く顔を怒らせて、今はハンバーグに突き刺さっているフォークとナイフを、隙あらば梔子高のその若干広めの眉間に突き立てんばかりの憤怒を必死に押し殺す故のヒクつきがある。
 たったこれだけの描写だが、伝わっただろうか? 伝わっただろう。


 騙された。


 今、この場ですぐにでも、陳腐な模様の壷の一つや二つ出現しても不思議ではない、これは立派なデート詐欺である。
 デートというものは、だ。

「あ……花子さん」
「太郎君……ご、ごめんね、待った……?」
「う、ううん、今来たところ……」
「……」
「……」
「「あのっ」」
「あ、ゴ、ゴメン……太郎君から、どうぞ……」
「あ、いや、その……ごめんね、急にこんな風に誘っちゃって……。迷惑、だったかな?」
「そ、そんなことない! 今日は、誘ってくれて、有難う……嬉しかった……」
「そ、そう……」
「うん……」
「……い、行こうか」
「……うん」

 これだ。
 こんな風に、三点リーダが所狭しと入れ混じる初々しい会話こそが、デートの会話なのである。この後、花子さんが興味を示していた映画やなんかを、予め花子さん近辺の友人からリサーチして把握しておいた太郎君は、花子さんと共に映画館に赴くのだ。そして花子さんがうたた寝、或いは泣き出して、太郎君が肩を貸す、或いはハンカチを差し出すというちょっとしたイベントなどが発生したりするのである。その後昼食を取るためにファストフードショップへ立ち寄って、そこで映画の出来やオチの評価を熱く語り合っちゃったりするのもアリだ。そして気が付いたら日が暮れていて、花子さんの門限の都合上渋々デートが終了するのである。しかし、ここではまだ、太郎君は花子さんに、その淡い気持ちを伝える事は出来ないのだ。勇気も関係の深度も、まだ今一歩なのである。ただしかし、次のデートの約束だけは取り付けて、「一歩前進、かな」などと嘯きながら、太郎君はガッツポーズを取るのだ。
 これが、デートなのだ。この件に関して、僕は人の意見を聞くつもりは無い。
 断じて。

「あ、ミヤコなのね。ミヤコー!」
「ポポロカ? どうしたんだい、こんなところで?」
《やぁ、ミヤコ。すまないね、せっかくお休みのところ》
「……梔子高?」
《おや? ヘアワックスなんかつけちゃって、どうしたんだい? そんな風に身だしなみに気を使えるなら、いつもその心掛けをしておくべきだと思うな。きっと、女性受けも幾ばくか良くなる筈さ》
「え……え?」
《さて。合流も出来たことだし、行こうか》
「い、行くって……どこへ?」
《流石に何時までも、ポポロカに黒魔術士のような格好をさせておくわけにもいかないだろう? だから今日は、ポポロカの衣服を購入しに来たってわけさ》
「……僕は、何で?」
《男性要員が欲しかったんだ。ポポロカは男の子だろう?》
「……あ、そう」

 こんな会話が展開されていい筈は無いのだ。これではまるで、ありがちなラブコメ漫画のオチの一つのようではないか。僕の頬辺りに「し」の一つでも描きこめば完璧である。
 平たい話が。
 要するに、荷物持ち要員として駆り出された、ってわけだ。ポポロカの衣服を審査する上での男性要員なんてものは、聞こえが良いだけの肩書きに過ぎない。
 我ながら、見事なピエロっぷりだった。


 斯くして僕は、本日四枚目のハンバーグを貪り食って少しでも会計の数字を増やしてやろうという、せめて倒れるなら前のめりにと言わんばかりの、あまりにもせこ過ぎる報復に集中しているわけである。
「ミヤコは、パパみたいなのね。パパもミヤコみたいに、沢山たくさん食べるのよ」
 それは結構なことである。僕が胃の痙攣を抑えてまで決行している決死の一人フードバトルが、ポポロカのお父さんの常食と同等のものであるのならば、ポポロカのお父さんのメタボリック症候群発症の可能性を懸念して止まない。ついでに言わせてもらうならば、僕は父親と見間違えられるよりは兄と見間違われたい。一子の父と見受けられる程の老けた顔を所持しているつもりは無いのだ。……老けてないよな?
《昨日の話の続きなんだけれどもね》
 食後のダージリンで品良く咽喉内のチーズ油を洗い落としていた梔子高が、思い出したかのように僕に話しかけてきた。氷の隙間に残るメロンソーダを啜る音で返答する。わざわざ声に出して応答の確認をしてやる義理なんか無いね。
《私なりに、考えてみたんだよ》
「何を?」と返答する代わりに、ズゴゴッ、と音を出した。
《今回の事象に於いての、私達の役割。延いては、その立ち回りの振り付け》
 キンキンと心地良い音を立てて、ダージリンに砂糖を馴染ませる。
《結論。特に無し。各々が好きにすればいいし、何なら何もしなくてもいい》


「ちょっと、淡白過ぎやしない?」
 意外な結論に、思わずそう反論してしまった。前例を見ないという点だけを見れば、僕や梔子高の興味や関心を一身に受けても不思議ではない今回の事象に於いて、梔子高は本格的な傍観を決め込もうとしている。
「確かに直接何かをしようなんてのは考えないけどさ。迷惑になるだけだろうし、事情もよく解らないし。それでも、手伝いの一つや二つはしてあげられるんじゃないの?」
 僕とて、進んで事態にのめり込もうとしているわけではない。先だっての血塗れ甲冑娘との遭遇から推測するに、それは少々物騒な脚本のようであり、そんな物騒なものに首を突っ込んで、自分自身を物騒な目に合わせるのは、当然御免被りたい次第である。
 しかしだからといって、完全に傍観を決め込むっていうのも、何だか惜しい気がしないでもないのだ。傍観するなら傍観するで、ほんの先端部分だけでも携わりたいっていうのが、冒険心溢るる高校二年生青少年の自然な考えだと思うのだが。
《君ならそう言うだろうと思っていたよ。だから、もう少し丁寧に話そうか》
 そう言うだろうと思っていたのなら、最初からそれを想定した上で丁寧に話せばいいのだ。
《今回の事象に於いての私達の役割は、『何もしないこと』。決して、深く関わってはならないんだ。言うなれば、仕事をしないことが仕事ってところだね》
「何故?」
「世界がオーバーフローを起こしてしまうからなのね」
 聞き慣れない単語だった。確か、情報処理の授業で聞いたことがある気がする。
「一つの世界が受け入れられる情報量は、予め決まってるの。一つの世界が瞬き一回分の間に放出する情報量は、十の四十乗×観測対象物数。勿論、世界によってはもっともっと一杯いっぱいの情報量を放出する世界もあるけど、そういう判例外の世界も、アーカイビングを施したり情報を整理したりして、上手く容量内に収めているのね。そして一つの世界は、常にどんな状態でも、それら情報を保存出来るだけの容量を持っているの。でもそれは、一つの世界が一つの世界として情報を管理している場合での話なのよ」
《そこで問題だ。ならば、一つの世界に、二つの世界分の情報を注ぎ込んだ場合、その情報は溢れずにその世界の容量に収まり切るんだろうか?》
「無理むりよ、収まり切らないの。世界に収まり切らなかった情報はオーバーフローを起こして、隣接する違う世界に影響を及ぼすのね」
《だから、私達は極力、他世界の問題に関与してはいけないわけさ。その行動が膨大な情報を発生させて、世界がオーバーフローを起こさないとも限らないからね。解ったかい?》
「解らん」
 梔子高が、聞き分けの無い我が子に困り果てた母親のような苦笑を浮かべるものの、困っているのはこちらの方である。
 御多分に漏れず、さっぱり解らない。
 情報量がどうだって? 十の何乗だと? 観測対象数って、要するにこの世に存在するすべてのものってことだろう? そんな数で積を割り出せば、その答えをノートに書き記し終えるのが先か、腱鞘炎を起こすのが先か、どちらだ?
《ここに、水の入ったコップがあるだろう?》
 梔子高が、ドリンクとは別途用意された三人分のお冷を、テーブルの中心に持ってきた。
《今このコップには、その総体積の六割程度を満たすくらいの水が注ぎ込まれている。コップが世界で、水が情報だ。ポポロカの話によると、世界と情報の比率は、このコップと水の量に類似するらしいからね。この空いたスペースがつまり、世界のゆとり。だから大きな情報爆発が……情報爆発っていうのは、新たな発見や発明なんかが確認されることだね。その情報爆発が起こって膨れ上がったデータは、ここに蓄積されるってわけさ》
「でも、発見や発明は、これまでの歴史の中で何度も何度もあったことだろう? それまでの情報爆発を含めても、まだこれだけゆとりがあるってことなの?」
《違うようだ。飽くまで世界は、何億年前も、また何億年後も、この六割という情報量を保ち続けているらしい》
「辻褄が合わないじゃないか。情報が増えているのに、この先もずっとこの量を保つだって?」
 そんな話が有る訳が無い。ダイエット食の宣伝じゃあるまいし、摂取量が増えても総量が変わらないなんて、そんなのは数学論的におかしい筈だ。
《それがつまり、アーカイビングってわけだよ。情報を圧縮するんだね。そして圧縮された情報は、既存の情報に溶け込ませて、そうして情報は元の量を保ち続ける》
 言いながら梔子高は、ポーションの塩をコップの中に振りかけてスプーンでかき混ぜて、塩水を作り出した。量は……多分、変わっていないと思う。
《世界はこれまで、沢山の情報を仕入れ、アーカイビングして、上手く容量調節をしてきたらしい。今のこのお冷のようにね》
 今度は砂糖を入れてかき混ぜ、今度は胡椒を入れてかき混ぜ、もはや梔子高がそのスプーンでかき混ぜている水は、果たして何水と名付けていいものなのやら。
《しかし、予期せぬ情報爆発が起きた。予期せぬというよりは、予期はしていたものの好ましくはないという感じなのかもしれない》
 不意にかき混ぜる手を止めて、二個目のお冷に手を伸ばすと、徐にその水を、名付けられない液体になってしまったものの中に注ぎ込み始めた。
《注ぎ込まれた情報はどんどん蓄積される。何てったって、情報として観測された対象は世界そのものなんだ、アーカイビングしようが無い。そしてどうすることも出来ずに膨れ上がった情報は、みるみるうちに世界の容量を満たし始めて……》
 表面張力の限界まで水を注ぐと、最後に一滴だけぽちょんと、表面張力の働いた水面上に落とした。
 水は、溢れた。溢れた水が、コップの外面をなぞって滑り落ちていく。
《これが、オーバーフロー》
「ポポロカ達の目的を、ミヤコは覚えてるのね?」
 うろ覚えだけれども、完全に忘却の彼方ってわけではない。何だったか、あの発音にちょっとしたテクニックを要しそうな輩……そうだ、〈ンル=シド〉だ。その〈ンル=シド〉をシメ上げるなりボコすなりを目的にしているのだったろうか。
《ならば何故、ポポロカ達は〈ンル=シド〉を討伐する必要があるのだろう?》
 そこまでは知らない。そんなのが居たら困るからじゃないのか?
《そう、困る。因果律を無視するということは、情報の容量を無視するということだ。許容された情報量や情報の内容を考慮せずに、存在する筈の無い情報をデタラメに注ぎ込む事にも繋がる。ということは、どういうことだい?》
「……成る程」
 目から鱗が落ちた気分だった。
 つまり〈ンル=シド〉は、そのオーバーフローとやらを自由自在に起こすことが出来る、ってわけだ。
《現にこうしてポポロカ達は違う世界、つまり私達の世界に存在を移し変えられてしまった。これによる情報容量への弊害は、そうだね……》
 名も無き液体を、真水が目新しい三つ目のコップに注ぎ込み始める。そうして水の容量が八割程度になった時点で、注ぎ込むことを停止した。
《これくらいだと思う。どうかな、ポポロカ?》
「まだ少なくても良かったのね。存在そのものがそこにあるだけなら、それほど情報負荷は与えない筈なの。でも、ポポロカがダカチホと出会って、話をして、同じようにミヤコがハユマ様と出会って、話をして、互いの存在を認知した事によって」
 ポポロカがコップを受け取ると、再び水を注ぎ込み始める。
 ぎりぎりのラインだった。ぼちぼち表面張力が出張る頃合いである。
「これが、こっち側の世界の現状なのね」
「溢れかけじゃないか。僕達が出会うだけで、そんなにも増えるものなの?」
 言うなれば、人間というカテゴリに限定しても、その数は億を上回るのだ。そして世界は、人間に留まらず、すべての存在の情報を収納して尚、六割程度にしか満たっていないというのが、ポポロカや梔子高の主張である。
 それなのに、たった一人二人の出会いや交流が、それほどまでに膨大な情報と成り得るのだろうか?
《物理的な概念ではなく、論理的な概念なんだろうね。一個体そのものの体積や重量ではなく、その個体が持つ情報や文化、延いてはその存在が元々その世界のものではないということが、膨大な情報となる原因なんだと思う》
「なのなのよー。ポポロカの存在は、ポポロカ達の世界という土台があって初めて成り立つものなのね。そんなポポロカの存在が、まるで違う土台の上に存在させたら、情報の矛盾が発生するの。原始時代に、ダカチホの持ってる『ぱそこん』を持って行くようなものなのね。世界はその矛盾を解消するために、色々な情報を展開しては模索するの。その際に発生する情報爆発は、通常の情報爆発の比じゃないくらいの規模に上る筈なのよ」
 その結果、世界の容量とやらはひたひたになるまで溜まってしまった、ってわけらしい。まったく、情報の出汁でチャーシューでも作るつもりなのかね。
「そういう意味で言えば、ポポロカとハユマ様が同じ世界の同じ時間に飛ばされたのは、めでたしめでたしでもあるし、がっかりしょんぼりでもあるのね。情報の爆発が集中して起こってるから、予想以上の処理速度で情報が蓄積されてるのよ」
《解っただろう?》
 最後の一口分になったダージリンを、それでも上品に飲み干すと、梔子高は僕に言った。
《私達がこの案件に関して何かをするそれだけで、世界が溢れ出かねないんだ。こんな風になった以上は全く知らぬ存ぜぬと言うのは無理だけど、それならそれで関与は最低限に抑えるべきだ、抑えられるギリギリまで》
「……溢れたら、どうなるんだろう?」
《覆水盆に返らず、だね》
 そういうと、梔子高は二杯目のダージリンを求めて席を立つ。
 梔子高の最後の一言は、よく意味が解らなかった。だけど、何が言いたいのかは何となく解る気がする。
……取り返しのつかない事になる、ってことだろう。
 しかし、である。
「でも、だからとっちめるってのも早計じゃないかな? もっとこう、話し合いをするとか、使わないように説得するとか、方法はあるんじゃない?」
 要するに、悪いのは〈ンル=シド〉その人ではなく、〈ンル=シド〉が使う、空間をごちゃ混ぜにするような力なのだろう。ならば、それを使わないようにすればいいのではないのだろうか?
「駄目駄目なのね。制限や約束じゃ不完全なの」
「どうして?」
 それまで、盆上に残っていたグリーンピースを弄んでいたスプーンがゆっくりと止まり、ぽつぽつとポポロカは語る。
「コントロール出来るものじゃないのね。その能力は、自分の思うように発現させたり停止させたり出来るものじゃないの。一観測対象に過ぎない本人では、情報量が足りないのよ」
「だったら尚更じゃないか。どうせ自分の意思では使えないんだから、わざわざその……殺そうとまですることは無いんじゃ……」
「自分でコントロール出来ないから、危険なのよ」
 ポポロカという少年と出会ってから今まで、ぽつぽつと思うことがある。
 この少年は一体、何歳なんだろう?
 本日この場の話でもそうだ。この少年は、その愛くるしい姿形からは想像もつかないようなことを、次々と口走る。年齢相応の表情に、年齢相応の仕草を交えて、だ。
「自分の意思で発現させることが出来ないってことは、自分の意思無しに発現させることが可能である、ってことなの。例えその時〈ンル=シド〉が、是が非でも使いたくないって思っていたとしても、だから発現しないとは言い切れないのね。仮に自分の意思で自由自在に操れるとしても、」
 そう言うと、コトリとスプーンを置き、その幼い顔には不釣合いの、叡智の象徴のような目を僕に向けて来た。
「ミヤコ。今からミヤコは、一生スプーンを使ってはいけないの」
「スプーン?」
「約束、出来るの? 指切りげんまんして、約束を破ったら針千本をぱくぱく出来るのね?」
 今日一日だけなら、まだ約束出来るだろう。造作も無いことだと思う。
 だが一生となると……それは、難しいのかもしれない。カレーが食べたくなる時もあるだろうし、ちょっとした怪我でスプーンを使わざるを得ない状況に置かれる時もあるのかもしれない。
「そういうことなの。例え〈ンル=シド〉が能力を使わないと約束してくれたとして、その公約が一生涯守られる保障は無いし、むしろそんな約束果たせっこないのよ。〈ンル=シド〉だって、その能力を得たのはある日突然のことで、それまでは普通に暮らしていた一観測対象でしかなかったの。だから理性のコントロールが聞かなくなることもあれば、自分の意識とは全く連動しない行動を取ったりもすることもある。その時物の弾みで能力が発現したりしたら、それこそ目も当てられないのね」
 それはそうだろう、何てったって事が事だ。「ごめん、やっちゃった」で済まされるものではない筈だ。
「ポポロカやハユマ様も、何も最初から討伐の選択を取ったわけじゃないのね。ポポロカ達だけじゃなくて、〈ンル=シド〉の存在を知る人達みんなが、何とかして排除という選択をしないように、色々な研究をしたの」
 にも関わらず、結局ハユマがその甲冑を血糊で染め上げる結果になってしまったということは、
──つまり、そういうことなのだろう。


 何だか、重苦しい空気になってしまった。とりあえず空気を紛らわせる為に何かを食そうにも、既にテーブルに用意された食物はあらかた無くなってしまっているし、いい加減胃もこれでもかと言うくらい挽肉を詰め込まれて悲鳴を上げ始めている。
《それで、ポポロカの衣服のことなんだけれども》
 だからこんな風に、良いタイミングで梔子高が戻ってきてくれた時には、僕がここに来る事になったいきさつを忘れて感謝してしまうほどに有難かった。
 梔子高は、「この話はこれでお終い」と言わんばかりに露骨に話題を変換して、その後に何の躊躇いも無しに言い放った。
《金銭に糸目はつけない。考えうる限りで、ポポロカに似合う衣装を選んでくれたまえよ。何なら、オーダーメイドだって構わない》
 少しばかり、愛らしい弟を甘やかす姉という構図に入り込み過ぎの感は否めない。
 
 
 
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 その後は、何の変哲も無いショッピングだった。
 高名なブランドの直営店にしけこんで(本当に、何の躊躇いも無く入店してくれやがったものだ)、僕が普段出入りしているショップで見受ける値札の数字に丸を一つ二つばかり追加したような有り得ん値段の衣服を山のように抱えた梔子高は、一も二も無く僕とポポロカを試着室に押し込んだ。コーディネイトは僕の役割らしいのだが、生まれてこの方一度も他人の衣服を選んだことなど無かった僕は、当然何度も何度も梔子高に駄目出しを喰らう事になる。……三時間も、だ。店員さんの視線の、それはそれは痛いことと言ったら無かった。しばらくあの店には自主的に出入り禁止令を発令したい。尤も、元々あんな高級ブランド店にお世話になる機会など無いのだが。
 その後、真新しい衣服に身を包んで耳をぴこぴこ跳ねさせるポポロカと、僕の親父の給料の三分の二くらいの金額になったその会計をカードで済ませたにも関わらずほくほく顔でポポロカを見つめる梔子高と、相も変わらず冴えない格好の僕は……いや、自分的には相当に頑張ったつもりなのだが。とにかく一向は、そのまま何をするでもなく、ブラブラとショッピングモールで冷やかしや何かをして過ごした。
 正直に申し上げよう。楽しかったさ。
 もしかしたら、梔子高のお誘いがそのまま実現するよりも、よっぽど気を使わずに純粋に楽しめていたのかもしれない。
──否。
 もう、この話は持ち出すまい。
 
 
 
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……持ち出すまい、と言っているのに。


《騙した自覚はあるつもりさ》
 不意に梔子高が、僕にそう自首して来たのは、帰りの電車の中である。
 ポポロカは、梔子高の膝の上で、この世の罪悪など何一つ知らないと言わんばかりの罪の無い寝顔を作っている。ちなみに枕代わりは、僕の左腕上腕部だ。
「何の話だよ」
 すっとぼけた。
 忘れた振りをしておけば、これっきり話は終わるだろうと踏んだからだ。いちいちそんな過ちの傷を自分で抉るような真似はしない。それは僕が部屋に帰って、ベッドの上で羞恥の念に駈られながら悶え打っていれば済む話だ。
 にも関わらず、梔子高は無言で僕の瞳を覗き込んでくる。いつものように《いいや。何でもないよ》と無難な微笑みを浮かべて話を切れば良いものを、やけに食い下がって来るもんだ。
 ポポロカが、僕の上腕に寄りかかって、罪の無い寝息を立てている。
《怒っているかい?》
 梔子高が、僕にそう問い掛けて来た。
「怒る理由が無いね」
《ごめん》
……。
「謝られても困る。謝られることをされた記憶なんか無い」
──悟られるものか。
《私は、怒って欲しいな》
「だから、怒る理由が無いってば」
──絶対に、悟られてなるものか。
 決して、「デートだと言われて来てみれば、ちっともデートじゃなかったから腹立たかった」などと、悟られるわけにはいかない。
……そんなの、期待してたのがバレバレじゃないか。
《ごめんよ、ミヤコ》
 そっぽを向いた。これ以上梔子高と会話を続ければ、「謝って済むことじゃないぞ!」などと墓穴を掘ってしまいそうだったからだ。
 腹立たしかった。梔子高が、だ。
 楽しんでいるに決まっているのだ。こういう事に対する免疫力が乏しい僕をからかって、楽しんでいるのだ、この娘は。
 だったら、僕にだって相応の態度というものがある。徹底して対応を拒否するのだ。徹底抗戦である。非暴力不服従の姿勢だ。
 だって、それで怒ったら、そんなに格好悪いことなんか無い。
 ならば、シラを切り通すまでだ。「別にデートじゃなかったならデートじゃなかったで、一向に気にしてないよ。ちっとも残念じゃなかったし、最初から期待なんかしてないよ」と、シラを切り通す。
「ミヤコ」
「~~っ!?」
 だがしかし梔子高は、そんな僕の細やかな抵抗すら、許してはくれなかった。
「ごめんね、ミヤコ」
 そう呟く梔子高の顔は、いつのまにかポポロカの頭の真上にあった。
 つまりその位置は、僕の耳元である。
 絶対に振り向くまいと思った。振り向けば終わりだ。それは僕に残された最後の抵抗手段である不服従すらも奪い取ろうとする、梔子高の駄目押しなのだ。
「ねぇ、ミヤコ……」
 耳元で囁く音として、相応しい音量。
 吐息と交じり合った、掻き消えそうな声。
 普段なら絶対こんな態度を取らない梔子高の、甘ったれた甘露の声。
 久しぶりに聞いたその声は、僕が記憶している梔子高の声より数倍も優しくて、艶やかで、甘ったるくて、耳に心地良くて。
 悪魔だ、梔子高は。
──こんなの、抵抗出来る筈が無い。
「怒って欲しい。騙されたって、私を怒って欲しい。ね……?」
「……何で、あんな風に誘ったのさ。『ポポロカの服を見たい』って言えば良かったんだ」
 返事だけを返した。
 僕が縋っている、姑の涙汁程度にしかない意地なんて、陥落するのは時間の問題だ。だがしかし、だからと言って抵抗も無しに陥落するつもりは無い。一矢報いらねばならない。
「知ってるクセに」
 尚も距離を維持して、梔子高は僕の耳元で甘く囁く。
 今日ほど、普段使用している電車がローカル線である事に感謝した日は無い。夕暮れという比較的鉄道全般が混むこの時間帯でも、このローカル電車の乗客は、少なくともこの車両では、僕と梔子高とポポロカのみだった。
「私はね、様子を見るんだよ。何をするにしても、様子見をしながら進める。失敗だけは避けたい事に関しては、特に……ね」
「知っている」と、声にして返答はしなかった。声を出す為に息を吸えば、先ほどから梔子高が放っている、透き通った色の、しかしこの上無く濃厚な艶の香りを吸い込む羽目になるからだ。そんなのは、自殺行為でしかない。
 様子見、ね。実に有効的なモノの進め方だよ、賞賛してもいい。ああ、さぞかし手応えはあったんだろうさ、「否」なんて言わせないぞ。でなくちゃ、こんな風に仕掛けてなんか来ないだろう?
……手応えがあったのは、他ならぬ僕が一番よく知っているんだ。
「何も言わないね。口の意識が疎かになっているのかな?」
 膝にポポロカを乗せたまま、器用に、梔子高が顔を僕の眼前に持ってきた。琥珀色の瞳に、ポーカーフェイスを必死に装う形相の僕が映っている。……それ、ポーカーフェイスって言えるのだろうか?
「使わないのかい、その口? なら……」
 瞳の中の僕がみるみるうちに大きくなる。おいよせ、乗客が僕達だけしか居ないとは言っても、ここは公共の場なんだぞ?
「私が……貰ってしまおう」
 直視していられなかった。直視していられなかったから、目を閉じた。奇しくもそれは、作法に則ったものであり、
 作法に則った以上、それは恙無く行われた。
 梔子高らしからぬ不勉強な、しかしそれ故この上無く梔子高らしい、簡素なものだった。
 ただくっ付けて、互いの柔らかさを確認するだけの、透明な、決して濃厚ではない、静かなもの。


 五秒。


 柔らかいものが離れる。ほぅ、と、生温い空気が僕の鎖骨を撫でた。
「……どうしちゃったのさ、梔子高」
 聞いてはいけないことのような気もするが、聞かずにこの場を終わらすことが出来るほど、僕はハードボイルド的要素に特化しているつもりは無い。それに、最初に触れてはいけない場所に触れてきたのは梔子高の方だ。僕にそれを躊躇う義理は無い。
「この間からおかしいよ。ヤケに嬉しそうにしたり、今日みたいな変な誘い方をしてきたり、その……今みたいなことも。何があったんだよ?」
「さぁて」
 答えになってない返答を返すと、僕の肩に頭を預けた。二人分の頭部の重さが伝わって来る。ポポロカは起きなかったろうか? ポポロカのこれからを考えると、今のようなシーンを見せ付けるのは、些かではなく大いに教育上良くない。
「重いよ」
「我慢したまえ」
 どうせその要望を拒否しても、頭の重量を預けることを止めるつもりは無いのだろう。無言を以って要求を受け入れた。
「何があったんだ、か」
 亜麻色の髪から、眩暈がするほど良い香りが伝わって来る。このまま嗅ぎ続けていれば意識が飛んでしまいそうなのだが、鼻腔がいつまでも離したがらない。
「何が、あったんだろうね」
「僕に聞くなよ」
 梔子高に解らないことが、僕に解る道理は無い。


 それが、僕と梔子高が車両内で交わした、最後の会話である。
 その後はただ、何をするでもなく、何も話すでもなく、電車の振動に身を躍らせながら、窓越しに見える夕日を眺めていた。尤も、眺めていたのは僕だけであり、梔子高は終始、僕の肩に頭を乗せて、目を瞑り、しかし寝ているわけでもなく、肩越しに僕の呼吸音に耳を澄ませているようだった。
 結局、一矢報いるどころか、ますます泥沼に沈み込んでしまったのだろう。これまでが首下まで浸かっているものだと仮定すれば、今は頭髪の毛先が見えれば御の字だ。
 悔しかった。
 肩の重みに心地良さを感じている自分が、「たまには鈍行も良いかな」と思っている自分が、悔しかった。
 それより何より悔しいのは。


 緩やかな歓喜もまた感じている、自分自身だったりするのさ。

       

表紙

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Neetsha